俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第十一章 MV撮影の日、そしてレンズの奥に潜む目
青藍文化芸術財団は、最終的に私たちが修正した契約書を受け入れた。
創作への干渉なし。
楽曲の著作権譲渡要求なし。
納得のいかない成片の公開を強制しないこと。
撮影場所は余響楽団とAfterToneが共同で確認すること。
現場スタッフの名簿は事前に公開すること。
撮影期間中に不明なスタッフを追加しないこと。
日和はこれらの条項を、一つずつ補足契約書に書き込んでいった。
私は隣に座り、彼女と名取氏が契約について話し合う様子を見ながら、非常に奇妙な感覚を抱いていた。
これは本当に、普通の高校生のバンドがすることなのだろうか?
普通のバンドなら、衣装や構図、照明や撮影ポーズについて興奮しながら話し合うはずだ。
私たちはまるで、小さな法律戦争の準備をしているようだった。
しかし、これは悪くない。
普通であればあるほど、慎重になるべきだ。
贈り物のように見えるものほど、包装紙を丁寧に剥がして、中に縄が隠されていないかを確認しなければならない。
ソレンセンはこのことについて、こう評価した。
「弱者は文字で安全を確認し、強者は恐怖で境界を確認する」
私は心の中で答えた。
「なら、私は文字を選ぶ」
「遅かれ早かれ、お前は文字では刀を防げないことに気づく」
「少なくとも、契約の罠は防げる」
ソレンセンは少し間を置いてから、冷たく笑った。
「ますます、あの人間の組織に似てきたな」
この言葉は、あまり心地の良いものではなかった。
しかし、私は反論しなかった。
おそらく、これも成長の一部なのだろう。
ただ、私はこの方向で成長したくはなかった。
MVの撮影は日曜日に決まった。
場所は目黒区にある小さな撮影スタジオだった。
名目上は、青藍文化芸術財団が提携している独立系の映像スタジオということになっていた。
特調室からは事前に確認の連絡が来ていた。
撮影場所に異常の履歴はない。現場スタッフはすでに背景チェック済み。当日は普通の音楽活動として扱い、暗面の人間が接触する予定はない。
このメッセージは、一見すると安心できる内容だった。
しかし私は、もう「異常なし」「普通の音楽活動」「接触なし」といった言葉を、以前ほど信じていなかった。
なぜなら、誰かがそう言うたびに、最終的に何か奇妙なことが起きるからだった。
日曜日の朝、私はギターバッグを背負って撮影スタジオの前に着いたとき、朝倉日和はすでに到着していた。
彼女は資料の束を抱え、スタッフと流れを確認していた。
桜庭陽菜は隣に立ち、目が輝くほど興奮していた。
黒瀬澪は機材ケースの上に座り、手に飯団を持っていた。
今回の撮影現場は、本当に普通だった。
白い背景壁。
黒いライトスタンド。
カメラ。
録音機材。
メイク台。
衣装ラック。
床には立ち位置を示すカラーテープが貼ってあった。
スタッフたちが忙しく動き回り、皆がとてもプロフェッショナルに見えた。
符紙もなければ、結界もない。
神社の人間もいなければ、特調室の黒いスーツ姿もいない。
少なくとも、表面上は。
陽菜が駆け寄ってきて、私の手を興奮した様子で掴んだ。
「小音! 見て! 本当にカメラがある! ライトもある! 私たち、本当にMVを撮るんだよ!」
私は硬直したまま、頷いた。
「う、うん……」
彼女は眩しすぎた。
この眩しさを至近距離で浴び続けることは、私の精神にとって持続的なダメージだった。
日和が近づいてきて、進行表を私に手渡した。
「今日は主に三つのパートを撮る。一つ目は演奏カット、二つ目は夜の街の素材、三つ目は個人クローズアップ」
「個、個人クローズアップ?」
この言葉を聞いた瞬間、私の魂が体から抜け出した。
個人。
クローズアップ。
つまり、カメラが私の顔を捉える。
とても近くで。
長時間にわたって。
そして、将来的に何度も繰り返し再生される可能性がある。
私は目の前が暗くなるのを感じた。
「わ、わたしは手だけを撮ってもらえませんか……?」
日和が私を見て、優しい表情で言った。
「手のカットは多めに撮れると思うけど、完全に顔を出さないのは難しいかも」
陽菜が言った。
「小音がギターを弾くところ、すごくカッコいいよ! 絶対に顔も撮った方がいい!」
やめてください。
そんなに真剣な口調で、そんなに恐ろしいことを言わないでください。
澪が飯団を頬張りながら、淡々と提案した。
「一音は髪で顔を隠せばいい」
ありがとうございます。
この提案は、私に非常に適していた。
しかし、監督が同意するかどうかはわからない。
監督は三十代後半の女性で、遠野という名字だった。
彼女はゆったりとした黒いシャツを着て、首にヘッドホンをかけ、話し方はとても率直だった。
彼女は私を一瞥して、言った。
「白川さんはわざと演技しなくていい。緊張すればするほど、味が出るから」
私は固まった。
緊張にも味があるのか?
なら、私はもう十分に味がついているだろう。
ソレンセンが意識の中で冷たく笑った。
「彼らはお前の恐怖を撮ろうとしている」
「ち、違います」
「何が違う?」
私は顔を伏せた。
どう答えればいいのか、わからなかった。
もしかすると、完全に違うわけではないのかもしれない。
音楽も、映像も、舞台も。
これらは本来、身体の奥に隠している何かを、他人に見せる行為なのだ。
ただ、私はまだそれに慣れていない。
いや、正確には、永遠に慣れることはないだろう。
撮影が始まってから、私はMVの現場が、ライブよりさらに恐ろしいことに気づいた。
ライブのときは、少なくとも照明が観客の一部を遮ってくれる。
私は床を見たり、エフェクターを見たり、ギターの弦を見たりして、できるだけ客席に誰もいないふりをすることができた。
しかしカメラは違う。
カメラは瞬きをしない。
それは静かで、冷静で、忍耐強い。
まるで一つの黒い目のように。
私がどこに隠れようと、カメラはこちらを向いてくる。
「白川さん、少し顔を上げて」
私は一ミリだけ顔を上げた。
「もう少し」
私はさらに一ミリ上げた。
「カメラを見て」
だめです。
絶対にだめです。
私はカメラの方を見た瞬間、呼吸が止まりかけた。
レンズの中に、自分の影が映っていた。
ピンクの髪。
硬直した肩。
過度に緊張した目。
そして、意識の奥に潜む、もう一つの黒い影。
私は慌てて視線を逸らした。
遠野監督は責めず、ただ言った。
「いいよ。この『目を逸らす』感じも使える」
私は喜んでいいのか、わからなかった。
ソレンセンが意識の中で言った。
「そのものはお前を見ている」
私は心臓が一瞬、止まるのを感じた。
「カメラですか?」
「違う」
その声がゆっくりと沈んでいった。
「カメラの奥だ」
私の指が冷たくなった。
表面上、カメラの後ろにはカメラマンとアシスタントしかいなかった。
普通の人。
普通すぎるほど普通の人。
しかしソレンセンが無意味に警告するはずがない。
私はわざとギターの調整をするふりをして、目で盗み見た。
カメラの横に、新しく入った照明アシスタントが反射板を調整していた。
若い男性。
マスクをしていて、黒いキャップを深く被っていた。
スタッフ名簿に名前があったはずだ。
「瀬戸」という名前だった。
私は朝、名簿を確認していた。
しかし今、彼を見たとき、胸の奥が理由もなくざわついた。
彼が怪物に似ているからではない。
むしろ逆だった。
彼はあまりに普通だった。
普通すぎて、まるで何も書かれていない白紙のようだった。
ソレンセンが静かに言った。
「空だ」
「何が?」
「その身体の中には、別の何かが潜んでいる」
私はほとんど音を間違えそうになった。
いけない。
今は撮影中だ。
日和たちもいる。
普通のスタッフもいる。
ここで霊災が起これば、すべての人が目撃してしまう。
絶対にだめだ。
私は顔を伏せ、指を動かし続けた。
一回目の撮影が終わった。
遠野監督がストップをかけた。
陽菜が興奮して、モニターを見に行った。
澪もついて行き、「飯が映ってるかもしれないから」と理由をつけていた。
日和は次のカットの確認でスタッフと話していた。
私はトイレに行くふりをして、廊下の角まで行った。
周囲に誰もいないことを確認してから、すぐにスマホを取り出し、特調室にメッセージを送った。
現場に異常の疑い。照明アシスタントの瀬戸、状態がおかしい。確認を。普通の人が多いので、公開処理は避けてほしい。
送信して十秒も経たないうちに、返信が来た。
了解。人員名簿を照合中。まずは普通に撮影を続け、対象を刺激しないで。支援要員は十五分後に到着する。
十五分。
短い時間だった。
しかし、撮影スタジオの中に何かが潜んでいることを知っている状態では、非常に長く感じられた。
ソレンセンが笑った。
「十五分あれば、十分にここを狩り場に変えられる」
「黙って」
「お前は先に手を出すべきだ」
「だめです。普通の人がいる」
「だからこそ、早くすべきだ」
その声が柔らかくなった。
「吾に力を少しだけ貸せ。あの空の殻に目を閉じさせれば、静かに済む。誰にも気づかれない」
私は壁に寄りかかり、深呼吸をした。
「だめです」
「まだ、それが何をしようとしているかもわかっていない」
「だからこそ、勝手に動いてはいけない」
「優柔不断だ」
「そうかもしれません」
私はスマホをしまった。
それから撮影スタジオに戻った。
二番目の撮影は、バンドの演奏カットだった。
照明を暗くし、背景を黒い幕に変えた。
いくつかのサイドライトが後ろから当たり、それぞれの輪郭を浮かび上がらせた。
この画面はとてもカッコよかった。
本当に、カッコよかった。
もし私が現場に何かが潜んでいることを知らなければ、少しだけ興奮していたかもしれない。
遠野監督が言った。
「このカットは圧迫感を出して。白川さん、カメラを見なくていいから、集中して弾いて」
集中して弾く。
この言葉が、私を救ってくれた。
私は自分の位置に立ち、ギターを抱いた。
日和がドラムの後ろで、私に向かって頷いた。
陽菜がマイクを握り、明るく笑っていた。
澪がベースを調整しながら、いつもの表情だった。
彼女たちは何も知らない。
カメラの後ろに怪物が潜んでいることを知らない。
特調室が向かっていることを知らない。
私の頭の中に暗黒王がいて、笑っていることを知らない。
彼女たちはただ、MVを撮ろうとしている。
普通に、真剣に、楽しそうに。
だから私は、このことを普通のままにしなければならなかった。
音楽が始まった。
ドラムの音が落ちた。
ベースが入った。
陽菜が歌い始めた。
私はギターの弦を弾いた。
その瞬間、私は一瞬、異常の存在を忘れかけた。
なぜなら、音が本当に私をここに引き戻してくれたからだった。
たとえ数秒でも。
しかし三十七秒目、照明が一瞬、点滅した。
とても軽く。
普通のスタッフなら、ただ電圧の変動だと思う程度だった。
しかし私は見た。
カメラのレンズのガラスの中に、一つの目が現れた。
カメラマンの目ではない。
私の映り込みでもない。
レンズの奥に嵌め込まれた、灰色の目だった。
それは陽菜の方を見ていた。
カメラが陽菜を捉えたとき、その目はゆっくりと瞬きをした。
陽菜の歌声が一瞬、途切れた。
彼女の笑顔が少し空白になった。
日和がすぐに異変に気づいた。
「陽菜?」
遠野監督が眉を寄せた。
「一旦ストップ」
音楽が止まった。
陽菜が目を瞬かせ、まるで夢から覚めたかのように言った。
「え? ごめん、さっき急に歌詞を忘れちゃって」
日和が近づいた。
「大丈夫?」
「大丈夫大丈夫! 多分緊張しすぎたんだと思う」
彼女は笑いながら手を振った。
しかし私はわかっていた。
違う。
あの目は、彼女に触れた。
ソレンセンが低く言った。
「それは表情を盗んでいる」
「表情を盗む?」
「撮影されている者がレンズの前で最も強く出した感情を、抜き取っている。喜び、緊張、渇望、羞恥」
少し間を置いてから、続けた。
「かなり低級な小物だ」
私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「彼女を傷つけるんですか?」
「今すぐには、ないだろう」
「その後は?」
「撮影が続けば、彼女の感情の影像を、底片のような媒介に刻み込む。普通の人間は感覚が鈍くなり、空虚になる。魂の表面を削り取られたような状態になる」
私の指が震え始めた。
「だめです」
「なら、切れ」
私はカメラを見た。
照明アシスタントの「瀬戸」が、横に立っていた。
彼は顔を伏せていて、何事もなかったふりをしていた。
カメラマンは機材を確認しながら、眉を寄せて言った。
「さっきまた、ピントがずれたみたいだ」
遠野監督が聞いた。
「続けられる?」
「たぶん、大丈夫だと思う」
続けられない。
続けば、あのものが逃げてしまうかもしれない。
私は続けなければならなかった。
しかし、私はカメラに怪物がいるなどと直接言うことはできない。
普通の人は知らない。
バンドにも知られてはいけない。
もし私があまりに異常な行動を取れば、逆に全員の注意を引いてしまう。
私は静かに、それを処理しなければならなかった。
誰にも気づかれないように。
特調室の支援が来るまで、あと十分。
しかし陽菜はすでに一度、触れられていた。
私は待てなかった。
私はポケットから拨片を取り出した。
動作は自然に。
ただ次の撮影の準備をしているように見せなければならなかった。
「条件」
ソレンセンの声がすぐに返ってきた。
「言え」
「第一、体を乗っ取ることは禁止です」
「できる」
「第二、現場の普通の人間を傷つけることは禁止です」
「できる」
「第三、日和、澪、陽菜に知られてはならない」
「もちろん」
「第四、カメラの中の異常と、あの照明アシスタントに付着しているものだけを切断する。実機を説明のつかないほど破壊してはならない」
ソレンセンが笑った。
「機材の賠償まで考えるのか?」
「黙って。約束してください」
「できる」
「第五、あの照明アシスタント本人がまだ生きているなら、彼を傷つけないでください」
ソレンセンが少し間を置いた。
「その殻の中の人間は、意識がかなり奥に押し込められている」
「なら、引きずり出してください」
「面倒だ」
「約束してください」
金色の鎖が意識の奥で軽く震えた。
契約成立。
私は拨片を指の間に挟んだ。
黒紫色の気が、非常に細く細く絡みついてきた。
目立ってはいけない。
だからそれは黒い弦にはならなかった。
外に放出することもできなかった。
ただ、音の中に隠すしかなかった。
遠野監督が言った。
「もう一度。みんな準備」
日和がドラムの後ろに戻った。
陽菜が深呼吸をして、笑顔で言った。
「今度は絶対に大丈夫!」
澪が彼女を見て、言った。
「歌詞を忘れても、編集で切れるから」
「澪、言わないで!」
みんなが少し笑った。
私も無理に笑った。
しかし、心の中ではまったく笑えなかった。
音楽が再び始まった。
私は顔を伏せて弾いた。
今回は、ソレンセンの力をギターの音の中に押し込んだ。
目立つ暗さではない。
普通の人間には気づかれない程度の異常。
ただ、オーディオの中に隠された一本の細い線。
三十七秒目。
カメラのレンズの中の目が、再び開いた。
今度は日和の方を見ていた。
日和のドラムが一拍遅れた。
その目が瞬きをしようとした瞬間、私は余分なハーモニクスを一つ弾いた。
とても軽く。
ギターの音に混ざって、普通の人間にはただの演奏のニュアンスにしか聞こえないはずだった。
しかしその音線は、直接カメラのレンズに突き刺さった。
カチリ。
カメラがとても軽い異音を発した。
レンズの中の灰色の目が、固まった。
ソレンセンが低く笑った。
「捕まえた」
私は歯を食いしばった。
「切断して。吞むのは禁止」
「わかっている」
黒い音線がレンズの中で収縮した。
灰色の目が激しく暴れた。
レンズの表面に、一瞬だけ霧がかかった。
カメラマンが驚いたように言った。
「またピントが……?」
遠野監督が眉を寄せた。
「ストップ」
ストップしてはいけない。
ストップすれば、あのものが逃げてしまうかもしれない。
私は弾き続けた。
完全な旋律ではなく、指が不意に弦を滑らせるように。
二番目の音線が飛び出した。
照明アシスタント「瀬戸」の影に向かって。
彼の体が激しく震えた。
帽子のつばの下から覗く口元が、歪に引きつった。
人間のものではない笑みだった。
「気づいたか」
声はとても小さかった。
私にしか聞こえなかった。
あるいは、直接私の脳に届いたのかもしれない。
「下北沢黒弦」
私はほとんど手元を滑らせそうになった。
なぜまたこの名前なのか?
なぜこんなものまで、私のことを知っているのか?
ソレンセンの声が冷たくなった。
「普通の怪異ではない。誰かが放り込んだものだ」
「誰が?」
「わからない」
「処理できるか?」
「当然だ」
その声には殺意が混じっていた。
「吾に潰させてみろ」
「人間を傷つけないでください」
「中にあるものだけを潰す」
私は深呼吸をした。
「付着体だけを切断して、宿主を傷つけないでください」
ソレンセンが冷たく鼻で笑った。
「制限が多すぎて、戦いが泥の中を這うようだ」
「それでも這います」
私は弦を弾いた。
三番目の音線が地面を滑り、「瀬戸」の影に絡みついた。
彼の体が固まった。
しかし彼は突然、反射板を持ち上げ、陽菜の方に向けた。
反射板の表面にも、一つの灰色の目が開いていた。
カメラだけではなかった。
すべての反射面が、その入口になり得る。
陽菜がちょうど振り返った。
いけない。
私は考える暇もなく、駆け出した。
「小音?」
陽菜が固まった。
私は彼女と反射板の間に割って入った。
灰色の目が、私の方を向いた。
一瞬、私は自分が無数のカメラの前に立たされているように感じた。
誰もが私を見ている。
コメント。
再生回数。
スクリーンショット。
拡大。
分析。
嘲笑。
好み。
期待。
嫌悪。
すべての視線が、まるで波のように押し寄せてくる。
私はほとんど窒息しそうになった。
このものは、単なる感情を盗んでいるわけではなかった。
「見られている」という行為そのものを、増幅させていた。
私にとって、これはほとんど天敵だった。
ソレンセンが笑った。
「それは間違った相手を選んだな」
「なぜです?」
「なぜなら、お前の恐怖は多すぎて、食べきれないからだ」
私はまったく嬉しくなかった。
灰色の目が震え始めた。
どうやら、私の過剰な恐怖に本当にむせているようだった。
これは何だ?
社交不安がレンズ系の怪異に特攻?
少しもカッコよくない。
しかし、効果はあった。
目が動きを止めた隙に、私は声を低くして言った。
「今だ」
ソレンセンの力が、私の指先から飛び出した。
黒い線が反射板の縁を滑った。
灰色の目が真っ二つに裂かれた。
血は出なかった。
ただ、フィルムの埃のような小さな塊が、反射板の中から落ちてきた。
同時に、「瀬戸」がうめき声を上げて、膝をついた。
現場が一瞬、騒然とした。
陽菜が驚いて叫んだ。
「スタッフさん!」
日和がすぐに駆け寄った。
「どうしたの?」
遠野監督が救護を呼ぶよう指示した。
カメラマンは機材をチェックした。
普通のスタッフたちは、ただ誰かが体調を崩したのと、機材の故障だと思っていた。
彼らは知らない。
さっき、何かがレンズを通じて彼女たちの感情を盗もうとしていたことを。
これでよかった。
普通の説明が多ければ多いほど、真実は安全だった。
私は陽菜の前に立ち、指がまだ震えていた。
陽菜が心配そうに私を見た。
「小音、あなたも顔色が悪いよ!」
私は口を開いた。
「わ、わたしはただ……急にめまいが……」
これは完全に嘘ではなかった。
なぜなら、私は本当にめまいがしていたからだった。
日和が私の横に来て、肩を支えた。
「一旦座って」
私は頷いた。
そのとき、入口の方から足音が聞こえた。
二人のかつての服装をした人間が入ってきた。
彼らは何か身分証のようなものを提示した。
普通のスタッフに対しては、撮影スタジオの機材事故の報告を受けて来た安全点検の人だと説明した。
しかし私は、彼らの袖口の内側に小さく刻まれた徽章を認識した。
特調室だった。
支援が到着した。
良かった。
少し遅かったが。
少なくとも、到着した。
彼らは素早く現場を掌握した。
「瀬戸」を隣の休憩室に連れて行き、カメラをチェックし、反射板を封印し、スタッフに自然な聞き取りを行った。
一連の流れは、まるで普通の事故処理のように滑らかだった。
遠野監督さえも、ただ眉を寄せて言っただけだった。
「今日は本当に、機材のトラブルが多いな」
結局、撮影は中断を余儀なくされた。
理由は機材の故障と、照明アシスタントの体調不良だった。
陽菜はとてもがっかりしていた。
「せっかくノリが出てきたのに……」
日和が慰めた。
「大丈夫、安全第一だよ。また撮ろう」
澪が言った。
「次はもっと良い弁当が出るかも」
陽菜が頰を膨らませた。
「澪!」
私は隅に座り、両手で紙コップを握りしめたまま、何も言わなかった。
今回は、余響楽団のメンバーは何も知らなかった。
彼女たちはただ、撮影で機材トラブルが起きたこと。
スタッフが倒れたこと。
撮影が延期になったこと。
普通で、不運なことだと思っていた。
しかし私は知っていた。
何かが、彼女たちに手を伸ばし始めていた。
たとえ契約をどれだけ丁寧に修正しても。
たとえ特調室が現場を確認しても。
たとえ神代鈴音が警告してくれても。
暗面のものは、隙間を見つける。
そしてその隙間は、「白川一音」と「下北沢黒弦」の間にあった。
特調室の人間が撮影スタジオの裏口で私を呼び止めた。
日和たちは前で機材を片付けていて、気づいていなかった。
眼鏡の女性はいなかった。
来たのは若い男性の調査員だった。
彼が言った。
「白川さん、暫定的な確認ですが、照明アシスタントの瀬戸本人に異常な背景はありません。今日の朝、撮影スタジオに来る途中で短時間付着され、約二十分間の記憶が欠落しています」
私は聞いた。
「彼に付着していたものは何ですか?」
「映像系の低階位怪異ですが、人為的に改造されたものです。彼はあなたの代名詞を知っていました。目標はおそらくあなたです」
私の指が強くなった。
「誰が放ったんですか?」
調査員は首を振った。
「調査中です。逆柱会の常用手法ではありませんし、御影家のものでもないようです」
逆柱会でもない。
御影家でもない。
つまり、新しい勢力か?
私はもう、これ以上新しい勢力と関わりたくなかった。
調査員は続けた。
「また、カメラの中に異常な影像が残っていました」
彼はタブレットを取り出した。
画面には、一フレームの破損した映像が映っていた。
その中に、白いコートを着た人物が立っていた。
顔ははっきり見えなかった。
ただ、手に古い映画用のカメラを持っているのがわかった。
画面の下部に、赤い日本語で一行書かれていた。
これからもレンズの前に立っていてください。
私は背中が冷たくなるのを感じた。
ソレンセンがしばらく沈黙した後、静かに笑った。
「どうやら、誰かにお前の演技を見られたがっているようだ」
「見られたくありません」
「それは重要ではない」
その声に、悪意に満ちた愉悦が混じっていた。
「お前が隠せば隠すほど、彼らは掘り出したくなる」
「お前が普通を守れば守るほど、彼らはその普通を舞台に上げたがる」
私は顔を伏せ、自分の手を見つめた。
今日は、みんなに知られずに済んだ。
普通のスタッフに目撃されずに済んだ。
陽菜の感情を盗まれずに済んだ。
しかしこれは、一度きりのことだった。
次はどうなるのか?
相手が撮影やライブ、バンド活動を狙い続けた場合、私はずっと隠し通せるのだろうか?
調査員が静かに言った。
「白川さん、特調室は当面、公開活動を減らすことを推奨しています」
私は顔を上げた。
「公開活動?」
「MV撮影や、比較的大規模なライブ、公開宣伝などを含みます」
私の胸の奥が、何かに塞がれるように感じた。
「でも……」
でも、それは余響楽団がようやく掴みかけたチャンスだった。
正式なレコーディング。
MV。
合同ライブ。
宣伝。
私たちはようやく一歩を踏み出したばかりだった。
今、暗面に狙われたからといって、みんなに止まれと言うのか?
調査員も、これが言いづらいことはわかっていた。
彼の声が少し低くなった。
「あくまで推奨です。判断はあなたに委ねます」
また判断か。
また、私の手に委ねられる。
ソレンセンが口を開いた。
「見てみろ」
「彼らはお前の普通を守れない」
「ただ、お前の普通を止めることしかできない」
私は顔を伏せ、言葉を発することができなかった。
調査員が去った後、私は撮影スタジオに戻った。
日和たちはすでに荷物をまとめていた。
陽菜が私を見て、すぐに手を振った。
「小音、また今度撮ろう!」
彼女は明らかにがっかりしているのに、それでも私に笑いかけた。
日和が聞いた。
「さっきは安全点検の人?」
私は頷いた。
「うん、機材を全部チェックするって」
澪が言った。
「次は機材を替えた方がいい。あと飯も」
日和がため息をついた。
「澪、それ重点じゃないから」
私は彼女たちを見た。
特調室は公開活動を減らすよう推奨した。
この言葉が、喉に引っかかっていた。
私は言うことができなかった。
もし私が「最近はMVもライブも宣伝もやめよう」と言うなら、彼女たちは理由を聞くだろう。
私は答えられない。
もし何も言わなければ、次はもっと危険になるかもしれない。
私はどうすればいいのか?
ソレンセンが意識の中で静かに言った。
「恐怖こそが、最も優れた境界だ」
「その観客を、お前に恐怖させろ」
「君の楽隊に触れようとするすべてのものを、代償を思い起こさせろ」
「だめです」
「他に方法があるのか?」
私は答えなかった。
なぜなら、今のところ、私には方法がなかったからだった。
その日の夜、撮影が中止になった後、余響楽団はAfterToneに戻った。
当初、みんなは少し落ち込んでいた。
しかし日和はすぐに計画を立て直した。
「機材トラブルは私たちのせいじゃない。次回の撮影前に、もっと徹底した機材チェックを要求しよう。契約書にも、突発的な中止後の補填責任を追加で入れる」
陽菜が強く頷いた。
「うん! 次は絶対に上手く撮れる!」
澪が言った。
「次は弁当の補填も要求しよう」
日和が呆れたように彼女を見た。
「それは書けるけど、重点じゃないから」
私は彼女たちの横に座り、ギターバッグをそっと触っていた。
彼女たちは、今日の出来事でくじけていなかった。
普通の人間は、私が思っていたよりずっと強い。
いや、正しくは、余響楽団は、私が思っていたよりずっと強い。
私は暗面に狙われたからといって、勝手に彼女たちの舞台を奪うわけにはいかなかった。
しかし、彼女たちを危険に晒すわけにもいかなかった。
だから私は、第三の道を見つけなければならなかった。
逃げるのでもなく。
ソレンセンにすべてを脅し退けさせるのでもなく。
危険を、彼女たちの見えない場所に押し留める道を。
これは、聞こえはいいが、実際には非常に難しい。
いや。
難しいどころか、ほとんど不可能に近い。
しかし、私はもう他の選択肢を持っていなかった。
私はスマホを取り出し、特調室にメッセージを送った。
楽隊活動を停止するつもりはありません。しかし、撮影や公開ライブの前には暗面の安全チェックを受け入れます。すべてのチェックは、普通の機材点検や会場安全点検などの名目で行い、楽隊メンバーに異常の存在を知られてはなりません。
少し考えてから、もう一文を追加した。
もし誰かが普通の音楽活動を装って私に近づいてくる場合、私は下北沢黒弦として対応します。ただし、楽隊メンバーは普通の人間として保護されなければなりません。
送信した後、私の手はまだ震えていた。
ソレンセンが闇の中で低く笑った。
「ようやく、その名前を使い始めたな」
私は小さく答えた。
「ただ、線を引くためです」
「名前こそが線だ」
「違います」
私はAfterToneの入口から漏れる明かりを見た。
中から、陽菜の笑い声と、澪が「腹減った」と言っている声が聞こえてきた。
日和が、彼女に店の菓子を勝手に食べないよう注意しているようだった。
私は小さく言った。
「名前は壁です」
ソレンセンが笑った。
「壁は倒れる」
「なら、倒れたら直せばいい」
「直しきれなくなったら?」
「そのときは、そのときです」
「本当に愚かだな」
「うん」
私は認めた。
「でも今日は、陽菜の笑顔をあの目に盗まれずに済んだ」
ソレンセンが沈黙した。
少しして、言った。
「それは吾の力のおかげだ」
私は否定しなかった。
「そして、私の規則のおかげでもあります」
黒海の奥で、金色の鎖が軽く震えた。
ソレンセンは、それ以上何も言わなかった。
その夜、特調室から返信が来た。
了解。「表面活動安全保護協定」を策定する。あなたの普通の身元と楽隊メンバーは、引き続き最高レベルの秘密保護対象とする。
次のメッセージは、数秒遅れて来た。
異常影像の出所を追跡中。暫定呼称:白鏡監督。
白鏡監督。
新しい名前。
新しい敵。
新しい面倒事。
私はスマホを閉じた。
AfterToneの明かりは古かった。
陽菜はまだ次回の撮影でより迫力のあるものにしたいと言っていた。
澪はMVの中に弁当を出すべきだと主張していた。
日和は現実的なポイントを一つずつメモにまとめていた。
私は顔を伏せ、接続されていないギターの弦をそっと弾いた。
音はとても小さかった。
私にしか聞こえなかった。
いや。
ソレンセンにも聞こえていた。
彼は闇の中で、静かに笑っていた。
私はわかっていた。
彼は待っている。
私がいつか認めるのを。
普通を守る最も効果的な方法は、すべての敵を恐怖させることだと。
しかし少なくとも今日、私はまだそれを認めていなかった。
今日はただ、こう決めただけだった。
余響楽団の舞台は、続ける。
普通の世界の明かりは、灯し続ける。
そして、レンズの奥に潜む目が、まだ見るべきではないものを見ようとするなら。
私はそれを、一つずつ切断していく。