俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第118章 撤離計画、予備の身分、そして墜落を許されない飛行機
東京が本当の意味で「最終案」の準備を始めたのは、ある雨の夜だった。
東京がすでに陥落したからではない。
全員が理解していたからだ。
陥落してから準備を始めたのでは、もう遅い。
そのため、特調室、東京に残存する大勢力、海外の協力組織、そして今も東京を支援している一部の世俗財団が、初めて正式に共同で立ち上げた。
「黒弦海外存続計画」
ひどく冷たい名前だった。
まるで、何かの資料番号のようだった。
けれど、その内容は本質的には一言しかない。
もし最後に東京を守りきれなくなったなら、必ず白川一音を生きたまま日本から脱出させる。
最初の会議は、十一時間に及んだ。
壁に貼られていたのは、もう東京の地図だけではなかった。
世界全体の地図だった。
フランス。
スイス。
オーストリア。
ノルウェー。
カナダ。
アイスランド。
さらには、主要航路から離れた一部の小国まで含まれていた。
会議が始まると、遠坂綾乃は真っ先に言った。
「まず、認識を統一しておきましょう」
「これは降伏計画ではありません」
「文明の火種を残すための計画です」
誰も反論しなかった。
彼女の言葉は、事実だったからだ。
東京の抵抗勢力から見れば、もしニャーサが本当に日本全土を完全に支配し、さらに私までここで死ねば、未来は完全に断たれてしまう。
少なくとも、彼らはそう考えていた。
撤離計画で最初に検討されたのは、どこへ行くかではなかった。
それについては、以前から用意されていた計画の中で、おおよその候補が決まっていた。
問題は、
どうやって出るか。
ということだった。
ニャーサが、私を簡単に自分の視界から逃がすはずがない。
それは全員がわかっていた。
東京の空港、港区、高速道路、海上航路、民間航空路、さらには外交ルートまで、長いあいだ猫目の情報網に監視されている。
普通の人なら、まだ密かに離れられるかもしれない。
けれど、私には無理だ。
私は、あまりにも目立ちすぎる。
黒弦が動けば、猫目は必ず追ってくる。
特調室は、撤離方法を七種類に分けた。
第一、通常の民間航空便による撤離。
利点は、大勢の乗客の中に紛れられること。
欠点は、危険性が最も高いこと。
猫目に発見されれば、簡単に航空便を封鎖されるか、空港そのものを襲撃される可能性がある。
第二、外交ルート。
今も東京を支援する海外勢力の力を借り、特別な経路を用意する。
利点は、手続きが速いこと。
欠点は、あまりにも露見しやすいこと。
第三、海上撤離。
東京湾、あるいは他の港から出航し、その後で国際航路へ移る。
利点は、経路が複雑なこと。
欠点は、時間がかかり、海上では術式の波動をさらに隠しにくいこと。
第四、専用機、あるいは軍用輸送機による撤離。
最速だった。
同時に、最も目立つ方法でもあった。
第五、段階的撤離。
東京から地方の小規模空港へ移動し、海外の中継地点を経て、最終目的地へ向かう。
第六、偽装撤離。
替え玉、偽の標的、偽造身分を利用し、混乱を作り出す。
そして第七。
「死亡撤離」
会議室で初めてその言葉を聞いたとき、多くの人が眉をひそめた。
説明を担当した男性は、低い声で言った。
「白川一音が死亡したと、対外的に発表します」
「実際には、秘密裏に撤離させます」
空気が一瞬で静まり返った。
全員が気づいたからだ。
この方法は、非常に効果的だ。
そして、非常に残酷でもある。
「死亡撤離」の核心は、猫目に誤認させることだった。
全世界が黒弦は死んだと信じれば、ニャーサの注意は一時的に他へ向くかもしれない。
けれど、問題も明白だった。
一度この方法を実行すれば、私は二度と「白川一音」として公の場に存在できなくなる。
少なくとも、長いあいだは。
A大学。
互助会。
東京。
これまでの身分。
そのすべてを断ち切らなければならない。
東京側の多くの人間にさえ、私が生きていることを知らせてはならない。
そうしなければ、猫目はいずれ手がかりをたどってくる。
初めてこの計画書を見たとき、私は長いあいだ黙っていた。
文書の中では、すでに設計が始まっていた。
死亡地点。
遺体の代替案。
術式による偽装。
目撃証言の管理。
報道発表の時間差。
国際世論の反応。
そして、「白川一音の死」が東京の士気へ与える影響の評価。
まるで、本当に実行するつもりであるかのように詳細だった。
最後のページを開くと、そこには一文が書かれていた。
「黒弦が存続する限り、希望も存続する」
私は突然、その文書を投げ捨てたくなった。
その瞬間、初めて自分が人間ではないように感じたからだ。
包装され、運ばれ、隠され、保存される「戦略資産」。
黒海の中で、ソレンセンが低く笑った。
「ようやく、お前を物として扱い始めたか?」
私は何も言わなかった。
「これが正常だ」
「強者の価値は、もともと普通の人間より高い」
「黙って」
「怒っているのか?」
それはさらに低く笑った。
「だが奴らは、本当にお前だけを生かそうとしている」
「東京は死ぬ」
「京都も死ぬ」
「他の人間も死ぬ」
「それでも、お前だけは生きなければならない」
私は文書を強く握りしめた。
ソレンセンは続けた。
「合理的だ」
「奴らは最初から、普通の人間がニャーサに勝てるとは信じていない」
東京上層部も、この計画が私に何を与えるのかは理解していた。
だから彼らは、撤離計画をできる限り「普通のもの」に見せようとした。
たとえば、
「海外交流プロジェクト」
「臨時研究協力」
「特殊術式観察」
「国際安全協力」
けれど、それが包装にすぎないことは、全員が知っていた。
核心にあるのは、やはり、
逃走経路。
経路の設計は、次第に細かくなっていった。
どの道に監視が最も少ないか。
どの橋なら一時封鎖しやすいか。
地下鉄のどの区間なら素早く路線を切り替えられるか。
どの港湾倉庫なら身を隠せるか。
どの埠頭が夜間の移送に適しているか。
どの冷蔵輸送車列なら目隠しに使えるか。
どの通信方式なら猫目に傍受されにくいか。
A大学から安全地点までの予備経路だけでも、十三通り用意された。
東京は初めて、国家元首の脱出経路を検討するように、私の逃走方法を研究し始めた。
海外も、本格的に介入し始めた。
猫目勢力は、もう日本だけが対処すべき敵ではなくなっていたからだ。
スイスは山岳地帯の避難場所を提供した。
フランスは研究機関に所属する身分を用意した。
オーストリアは、長期間身を隠せる住居の提供を申し出た。
ノルウェーは、国土が広く人口が少ないこと、港が複雑なこと、エネルギー面での自立性が高いことから、長期潜伏に適していると判断された。
アイスランドさえ候補に入った。
地熱エネルギーが安定しており、人口密度も低いからだ。
東京上層部が重視したのは、安全性だけではない。
ニャーサの配下が、短期間では浸透しにくいこと。
問題は、
ニャーサがどこまでできるのか、誰にもわからないことだった。
日本の地方を支配した速度は、すでに全員の予測を超えている。
将来、その勢力が海外へ伸びないと、誰が保証できるのか。
そのため、撤離計画にはもう一つの要素が加えられた。
移動を続ける。
計画上、私は一つの場所に長く滞在しない。
フランスに三か月。
ノルウェーに二か月。
スイスには短期間。
オーストリアは中継地点。
さらに、北欧の山岳地帯、個人所有の島、研究施設の地下区画まで候補に含まれていた。
絶えず運び続けられる火種のようだった。
東京上層部が最も恐れているのは、撤離そのものの失敗ではない。
海外へ逃れた私が、猫目に発見されることだった。
そして、新たな問題が生まれた。
護衛。
誰が私を守るのか。
普通の術師では足りない。
東京に残された高戦力は、もともと少ない。
その人々が私について海外へ出れば、東京の防衛力はさらに弱体化する。
会議では、こんな議論まで行われた。
「黒弦の護送のために、東京防線の戦力を引き抜く価値はあるのか?」
最終的な結論は、
価値はある。
というものだった。
東京はすでに、最悪の事態が起きた場合には、現在よりも未来のほうが重要だと判断していた。
その事実は、多くの人の心をさらに重くした。
都市が「未来の火種を逃がす計画」を本気で用意し始めること自体が、もう最後まで守りきれると完全には信じていない証拠だったからだ。
後になって、互助会もその情報の一部を察した。
すべてを知ったわけではない。
それでも、皆が何かを感じ取っていた。
中には、自分から私へ言う人まで現れた。
「本当にその日が来たら、必ず逃げてください」
私は、その言葉が嫌いだった。
そう言う人のほとんどは、私と一緒には逃げない。
彼らは東京に残る。
ここに残る。
そして、私にだけ生き続けろと言う。
その期待は重かった。
あまりにも重くて、互助会へ行きたくなくなることさえあった。
あるとき、藤沢直人が倉庫記録を届けに来て、突然言った。
「白川さん」
「はい?」
「もし最後に東京を守れなくなったら、逃げますよね?」
私は黙った。
彼は少し笑った。
「逃げてもいいんです」
「少なくとも、東京を覚えている人が残る」
どう答えればいいのかわからなかった。
彼の言い方が、あまりにも穏やかだったからだ。
まるで、すでに何かの結末を受け入れているかのようだった。
A大学の空気も、次第におかしくなっていった。
本当に私を「未来の人」として見る人が現れ始めた。
今の東京に生きる人ではない。
「東京が滅びたあとも、生き続けなければならない人」
そんな視線が、私をますます苦しめた。
ある授業が終わったあと、後輩が突然尋ねた。
「先輩は、将来、海外で勉強を続けるんですか?」
私は少し固まった。
「どうして、そう思うの?」
彼女は小さな声で言った。
「みんなが……先輩は東京では死なないはずだって」
言い終えた本人が、自分の言葉に驚いていた。
すぐに謝ってきた。
けれど、私は彼女を責めなかった。
今の東京は、本当にそう考えているからだ。
同じころ、猫目も何かに気づき始めていた。
代理人が報告書を提出した。
「東京で、高度機密に分類される移送準備の痕跡が確認されました」
「対象は黒弦と推測されます」
ニャーサは地図を見つめ、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、笑った。
「ようやく逃げる準備を始めたんだね?」
代理人は頭を下げた。
「阻止しますか?」
「もちろん」
ニャーサは軽く机を叩いた。
「でも、今じゃない」
「もっと準備させておこう」
「経路が詳しくなるほど、関係者が増えるほど、情報が漏れる場所も増える」
その尻尾が、ゆっくりと揺れた。
「それに」
「僕も興味があるんだ」
「彼らが、彼女をどこへ隠すつもりなのか」
猫目は、意図的に一部の海外ルートへの監視を緩め始めた。
それどころか、水面下で一部の有力者の家族が無事に国外へ出られるよう手助けまでした。
東京は最初、それを猫目の警戒網に生まれた穴だと思った。
けれど、やがて気づいた。
ニャーサが意図的に作り出した錯覚だった。
東京に、
「海外への経路は、まだ使える」
と思わせる。
そうすれば、東京は撤離計画へさらに力を注ぐ。
計画へ深く入り込むほど、将来、猫目はその手がかりをたどりやすくなる。
そのため、東京内部では新たな議論が始まった。
「海外撤離の研究を停止すべきではないか?」
「研究しないなら、黙って死を待つのか?」
「しかし、猫目が経路を餌にしているのは明らかだ」
「それでも、道は必要だ」
最後に、遠坂綾乃が言った。
「私たちは、最も安全な案を選んでいるのではありません」
「全滅する可能性が、最も低い案を選んでいるのです」
会議室は再び沈黙した。
今の東京が下すすべての決断は、本質的には、
どうすれば全員が死なずに済むのか。
そのためのものだったからだ。
後日、私は一度だけ「非公開経路演習」へ参加させられた。
作戦名は知らされなかった。
正式な文書もなかった。
言われたのは、一言だけだった。
「ついてきてください」
午前三時。
私はA大学の裏門から連れ出された。
三度、車を乗り換えた。
地下駐車場へ入り、
そこから保守用通路へ移った。
普通の配送員の服に着替えた。
冷蔵輸送車に乗った。
港区で小型船へ乗り換えた。
そして最後に、看板のない倉庫へ入った。
そのあいだ、誰も私の名前を呼ばなかった。
全員が、代号だけを使っていた。
最後に私は倉庫の中へ立ち、壁に貼られた海外航路図を見た。
責任者が低い声で言った。
「東京はもう、いつか必ずあなたを国外へ送り出さなければならないと想定しています」
その瞬間、私は初めて本当の意味で理解した。
撤離計画は、もう紙の上だけにあるものではない。
すでに動き始めている。
A大学へ戻る途中、東京にはまだ朝が来ていなかった。
街は暗かった。
コンビニには、ちょうど商品を運び込む車が到着していた。
屋上の菜園箱には、水滴がついていた。
朝の給水を待つ人々が並んでいた。
遠くでは、港区の灯りが低く輝いていた。
私は車の後部座席に座り、それらを眺めていた。
そして、ふと思った。
いつか本当に東京を離れたら、
もう二度と、これらを見ることはできないのだろうか。
黒海の中で、ソレンセンが低い声で言った。
「名残惜しいのか?」
私は窓の外を見た。
「……わからない」
それは笑った。
「人間はいつも、滅びかけたものに感情を加えたがる」
車はそのまま走り続けた。
東京の空が、ゆっくりと白み始めていた。
そして、どこかの秘匿フォルダでは、
「白川一音海外存続経路」
と記された文書のページ数が、今も増え続けていた。