俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第119章 猫目から届いた「旅行への招待」

第119章 猫目から届いた「旅行への招待」

 

招待状がA大学に届いたのは、雨の降る午後だった。

 

メールではない。

 

術式による通信でもない。

 

本物の紙でできた手紙だった。

 

白い封筒。

 

切手はない。

 

差出人の住所もない。

 

ただ、美しい字でこう書かれていた。

 

白川一音様。

 

そのとき、私は図書館にいた。

 

司書が手紙を差し出した瞬間、周囲にいた学生たちは無意識に静かになった。

 

今では、私のもとへ届くものは何であっても人を緊張させる。

 

毒。

 

術式。

 

誘導。

 

猫目。

 

誰にも、中身がわからない。

 

封筒を受け取ったとき、隣にいた人の呼吸が一瞬止まったことさえ感じられた。

 

三分後には、特調室の人員が到着した。

 

封筒は検査箱へ入れられた。

 

術式走査。

 

毒物検査。

 

精神誘導の検知。

 

電流残留の分析。

 

結果はすぐに出た。

 

危険はない。

 

少なくとも、「従来の意味での危険」はなかった。

 

遠坂綾乃が手袋をはめ、封筒から手紙を取り出した。

 

中に入っていたのは、一枚の紙だけだった。

 

文章は短い。

 

字は優雅とさえ言えるものだった。

 

白川一音へ。

 

最近の東京は大変だろう?

 

水、電力、食糧、撤離計画。

 

君はもう長いあいだ、今の日本を自分の目で見ていない。

 

だから、君を旅行に招待したい。

 

戦闘ではない。

 

交渉でもない。

 

ただ、見に来ればいい。

 

東京と京都の外にある地方が、今どうなっているのかを。

 

君の身の安全は保証する。

 

限られた人数なら、護衛を連れてきても構わない。

 

いつでも帰ることができる。

 

猫目へ加わるよう強要するつもりもない。

 

もちろん、

 

拒否しても構わない。

 

ただ、君は自分の目で見るべきだと、僕は思っている。

 

猫目の主より。

 

会議室は、十秒間にわたって静まり返った。

 

そして、小野寺が真っ先に口を開いた。

 

「頭がおかしいんじゃないか?」

 

誰も反論しなかった。

 

全員の第一印象が同じだったからだ。

 

ニャーサが、私を「旅行」に招待している。

 

悪ふざけのように荒唐無稽な話だった。

 

けれど問題は、

 

誰も、ニャーサが冗談を言っているとは思わなかったことだ。

 

久我山が、真っ先に危険な点へ気づいた。

 

「撤離準備を進めていることを、知られている」

 

遠坂綾乃の表情は冷たかった。

 

「それに、一音が最近ほとんど東京を離れていないことも把握しています」

 

「これは招待ではありません」

 

「心理戦です」

 

特調室はすぐに、三つの可能性を分析した。

 

第一。

 

ニャーサは本当に、猫目支配地域を私自身の目で見せようとしている。

 

東京に残された最後の希望を、完全に絶望させるために。

 

第二。

 

ニャーサは「旅行」を利用し、白川一音の裏人格をさらに観察しようとしている。

 

第三。

 

そして、最も危険な可能性。

 

ニャーサは東京を試している。

 

東京には、まだどれほどの統制力が残されているのか。

 

私はすでに、「東京から一歩も出してはならない」ほど重要な存在になっているのか。

 

けれど、会議室の空気を本当に重くしたのは、そのどれでもなかった。

 

最後の一文だった。

 

「拒否しても構わない」

 

この言葉が、多くの場合、

 

拒否しても無事では済まない。

 

という意味であることを、全員が知っていたからだ。

 

翌日、猫目支配地域から発信されるニュースに変化が現れ始めた。

 

脅迫ではない。

 

宣伝だった。

 

北海道の復興市場。

 

東北で運行を再開した鉄道。

 

地方の学校で再開された運動会。

 

穀物倉庫。

 

貯水池。

 

安定した電力が供給されている地域。

 

短い動画まで、いくつか公開された。

 

夜になっても明かりがついている地方の商店街。

 

自動販売機。

 

営業を再開した小さな映画館。

 

地獄には見えなかった。

 

むしろ、東京の一部地域よりも「普通」に見えた。

 

猫目は、

 

「東京はもうすぐ終わる」

 

とは言わなかった。

 

ただ、東京の住民が自分から比較するように仕向けた。

 

A大学では、議論が一気に沸騰した。

 

「これ、本当なの?」

 

「猫目支配地域って、今は本当にこんな感じなのか?」

 

「北海道はもう復旧したんじゃないの?」

 

「東京では毎日電力制限してるのに、地方の商店街はもう営業を再開してるのかよ?」

 

「白川先輩は行くのかな?」

 

「行けるわけないでしょ?」

 

「そのまま捕まるんじゃない?」

 

「でも、猫目は安全を保証するって言ってるんだろ?」

 

議論は、次第に混乱していった。

 

何より厄介なのは、

 

宣伝の一部が事実だということだった。

 

猫目は、一部の地方で本当に秩序を回復させている。

 

少なくとも、表面上は。

 

東京が最も恐れていたことが起きた。

 

人々が、こう言い始めたのだ。

 

「少なくとも、猫目支配地域では普通に暮らせる」

 

その一言は、どんな爆弾よりも危険だった。

 

「東京が抵抗を続ける意味」を、直接揺るがすからだ。

 

そして、私が本当に迷い始めたのは、別の理由だった。

 

私は確かに、長いあいだ東京の外を見ていない。

 

北海道が陥落してから。

 

猫目が地方を支配し始めてから。

 

私が目にしてきた地方の情報は、ほとんどが、

 

戦況報告。

 

地図。

 

死者数。

 

供給線。

 

避難民名簿。

 

互助会の記録。

 

それだけだった。

 

けれど、地方の住民は今、実際にどのような生活をしているのか。

 

地方の学校はどうなっているのか。

 

普通の人々は東京をどう見ているのか。

 

猫目は、いったいどのように地方を統治しているのか。

 

私は、本当は何も知らなかった。

 

私が知っているのは東京だけだ。

 

京都だけだ。

 

防線だけだ。

 

撤離計画だけだ。

 

東京の外にある今の日本がどうなっているのかは、知らない。

 

黒海の中で、ソレンセンが低く笑った。

 

「行きたいのか?」

 

「……わからない」

 

「本当は気になっているんだろう」

 

私は何も言わなかった。

 

図星だったからだ。

 

確かに、私は気になっていた。

 

危険な好奇心だった。

 

けれど、それも本当だった。

 

三日目、二通目の手紙が届いた。

 

今度は、一文しか書かれていなかった。

 

東京が君に見せられるのは、東京だけだ。

 

僕なら、君に日本全体を見せられる。

 

それを読み終えた遠坂綾乃は、その場で悪態をついた。

 

あまりにも的確な言葉だったからだ。

 

今の東京が抱えている問題を、直接突き刺していた。

 

東京は、次第に孤島のようになりつつある。

 

中にいる人々が知っているのは、東京。

 

京都。

 

互助会。

 

給水所。

 

菜園箱。

 

けれど、外の日本が今どのような姿になっているのかは、ますますわからなくなっている。

 

ニャーサは知っている。

 

それどころか、その事実を私に意識させようとしている。

 

さらに厄介なことに、

 

猫目は「強要」を始めた。

 

直接、私を誘拐したわけではない。

 

圧力をかけ始めたのだ。

 

東京外縁に残されていた非猫目系の食糧供給線が、再び数本切断された。

 

互助会のメンバー二人が、外縁部で猫目術師に阻まれた。

 

港区の冷蔵輸送線が、一度わざと通されたあとで、突然封鎖された。

 

すべてが、こう告げているようだった。

 

君が来なくても、僕は東京を苦しめ続けられる。

 

けれど、猫目はまだ全面攻撃を始めていない。

 

まるで、猫が机の上に置かれたグラスを前足で少しずつ押しているようだった。

 

すぐには落とさない。

 

ただ、危険な位置へ動いていく音だけを、延々と聞かせ続ける。

 

東京内部の意見は、大きく割れ始めた。

 

第一派は、

 

絶対に行くべきではない。

 

と主張した。

 

「これは罠だ」

 

「ニャーサは心理戦を楽しんでいるだけだ」

 

「本当に帰すはずがない」

 

第二派は、

 

行くべきだ。

 

と主張した。

 

「少なくとも、地方の情報を得られる」

 

「猫目支配地域の実情も判断できる」

 

「今後、猫目と長期的に対抗するなら、地方について何も知らないままではいられない」

 

第三派は、最も現実的だった。

 

彼らは言った。

 

「重要なのは、行くか行かないかではない」

 

「重要なのは」

 

「白川一音が猫目の招待すら受けられないと知ったとき、東京の住民がどう思うかだ」

 

会議室は、再び沈黙した。

 

あまりにも卑劣な問題だったからだ。

 

猫目は、「行く勇気があるかどうか」まで宣伝戦の材料に変えていた。

 

私は、何日も続けて眠れなくなった。

 

行っても、行かなくても、罠を踏むようにしか思えなかった。

 

行かない。

 

そうすれば、猫目は宣伝を続けるだろう。

 

「東京には、外を見る勇気さえない」

 

行く。

 

その危険性は、まったく予測できない。

 

ソレンセンさえ、初めて本気で警告した。

 

「あれには、あまり近づくな」

 

「ニャーサのこと?」

 

「ああ」

 

ソレンセンは、少し沈黙した。

 

「危険だ」

 

ソレンセンがニャーサをそんな口調で評価したのは、初めてだった。

 

これまでは、いつも傲慢だった。

 

いつも嘲笑していた。

 

けれど、今回は本当に警戒している。

 

「あなたは、ずっとこの世界を見下してたよね?」

 

私は尋ねた。

 

「吾が見下しているのは、この世界だ」

 

それは低い声で言った。

 

「あれではない」

 

黒海が、わずかに波打った。

 

「あれが持つ力の体系は……奇妙だ」

 

「ようやく気づいたの?」

 

「確信が深まっただけだ」

 

ソレンセンの声は冷たかった。

 

「あれは、この世界のものではない」

 

心臓が、わずかに沈んだ。

 

私が初めて、本当の真相へ近づいた瞬間だった。

 

それでも、私はソレンセンがどこから来たのかを知らない。

 

雷電属性も知らない。

 

暗影属性も知らない。

 

混沌属性の相性関係も知らない。

 

私にわかるのは、

 

ニャーサは強い。

 

異常なほど強い。

 

そして、この世界に生まれた戦力には見えない。

 

それだけだった。

 

四日目。

 

猫目は「旅行経路」を直接公表した。

 

北海道。

 

仙台。

 

名古屋外縁部。

 

大阪支配地域。

 

そして最後に東京へ戻る。

 

さらに、一文まで添えられていた。

 

「黒弦さんによる地方復興成果の視察を歓迎します」

 

東京は、完全に大騒ぎになった。

 

もう秘密の招待ではない。

 

公然と行われる心理戦だった。

 

ニュース。

 

掲示板。

 

学生グループ。

 

互助会。

 

一般住民。

 

誰もが話し始めた。

 

「彼女は行くのか?」

 

「行かないなら、東京も本当は地方のほうがよく復興してるって認めてることにならないか?」

 

「行ったら、そのまま降伏するんじゃない?」

 

「猫目は東京をわざと辱めてるのか?」

 

「でも、本当に無事に帰ってこられたら?」

 

青木梨央の写真部でさえ、その話題で持ちきりになった。

 

ある生徒は言った。

 

「私だったら、絶対に行かない」

 

けれど、別の生徒は言った。

 

「でも、外が今どうなってるのか、本人も知りたいんじゃないかな」

 

梨央はうつむいたまま、何も言わなかった。

 

彼女も気づいたからだ。

 

東京はもう長いあいだ、完全な日本を見ていない。

 

京都側の態度は、さらに複雑だった。

 

七条が言ったのは、一言だけだった。

 

「あれに主導権を握らせるな」

 

けれど、彼女も明確には反対しなかった。

 

京都もまた、地方の情報を必要としているからだ。

 

地方は今、黒い布に覆われているようなものだった。

 

東京と京都は、地方が猫目に支配されていることは知っている。

 

けれど、その内部が具体的にどのような姿になったのかは知らない。

 

ニャーサは今、自分から布の端を少しだけめくってみせた。

 

たとえ罠だとわかっていても、

 

人は、そこを覗きたくなってしまう。

 

そして、私の心を本当に揺らしたのは、互助会だった。

 

北海道から逃げてきた老人が、低い声で言った。

 

「もし本当に北海道へ行くなら……」

 

「私の故郷の港が、まだ残っているか見てきてもらえませんか」

 

別の人は言った。

 

「仙台へ行くなら、あの映画館がまだ開いているか見てきてほしい」

 

「行ってはいけない。危険すぎる」

 

そう言う人もいた。

 

けれど、小さな声で言う人もいた。

 

「でも今の東京から、地方へ行ける人なんて他にいない」

 

彼らは、私を危険な目に遭わせたいわけではない。

 

ただ、あまりにも長いあいだ故郷の姿を見ていなかった。

 

猫目は、それを意図的に利用していた。

 

その夜、私は一人でA大学の屋上に座っていた。

 

東京は暗かった。

 

遠くにある港区の灯りが、低く輝いていた。

 

屋上の菜園箱のそばでは、小さな苗が風に揺れていた。

 

鞄の中には、撤離計画の文書が入っている。

 

猫目から届いた招待状も入っている。

 

その二つが同じ場所にあることが、ひどく荒唐無稽に思えた。

 

一方は、どうやって私を日本から脱出させるかを検討している。

 

もう一方は、私を「旅行」に招待している。

 

二本の手が、同時に私を引っ張っているようだった。

 

一方は、私を生かそうとしている。

 

もう一方は、絶望を自分の目で見せようとしている。

 

ソレンセンが低い声で言った。

 

「行くな」

 

「どうして?」

 

「あれがお前を見る目が気に入らない」

 

「あなたには、ニャーサが見えないでしょ」

 

「だが、感じることはできる」

 

黒海が、静かに波打った。

 

「あれは、まだ開けていない箱を見るように、お前を見ている」

 

私は黙った。

 

「それに」

 

ソレンセンの声に、初めてわずかな苛立ちが混じった。

 

「お前があれの領域へ近づくのも気に入らない」

 

その言葉に、心がわずかに動いた。

 

ソレンセンが本気で何かを「心配」することは、ほとんどなかったからだ。

 

東京の風は冷たかった。

 

遠くから、給水車の音が聞こえてくる。

 

私は、二通の手紙を見下ろした。

 

そして、ふいに気づいた。

 

ニャーサのこの一手が最も恐ろしいのは、脅しだからではない。

 

本当に私へ、こう思わせたことだ。

 

東京の外は、今、いったいどのような姿になっているのだろう。

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