俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第123章 北海道到着(3日目)

第123章 北海道到着(3日目)

 

三日目。

 

白線列車は海を渡った。

 

互助会のメンバーの多くは、ほとんど一睡もしていなかった。

 

北海道。

 

東京の互助会にとって、その言葉はあまりにも長いあいだ「現実感」を失っていた。

 

これまでは、ただの、

 

陥落地域。

 

猫目支配地域。

 

撤離者名簿。

 

死亡者名簿。

 

けれど今、

 

北海道が窓の外へ、ゆっくりと姿を現し始めていた。

 

海は冷たそうだった。

 

港の輪郭が少しずつ浮かび上がる。

 

函館外縁復旧地域の明かりが、一つずつ見え始める。

 

そして、

 

誰かが泣いた。

 

一人ではない。

 

多くの人が泣いていた。

 

港が、本当にまだ残っていたからだ。

 

壊れた倉庫もある。

 

封鎖されている地域もある。

 

明らかに再整備された場所もある。

 

それでも、港は生きていた。

 

北海道出身の老人は窓辺に立ち、ずっと手を震わせていた。

 

低い声で言った。

 

「クレーンの位置が変わっていない……」

 

「あそこは、昔は冷蔵倉庫だった……」

 

「あの道も、まだ残っている……」

 

まるで、夢が本物かどうかを確かめているようだった。

 

列車が駅へ入ったとき、

 

視察団の中で話している者は、ほとんどいなかった。

 

聞こえるのは、

 

絶え間なく鳴るシャッター音だけだった。

 

この日に猫目が用意した内容は、極めて危険だった。

 

最初に「モデル地区」へ連れていくことはしなかった。

 

代わりに認めたのは、

 

「限定的な故郷確認行動」

 

だった。

 

互助会のメンバーは、指定された範囲内で、

 

かつての住居へ戻る。

 

街並みを見る。

 

墓地を確認する。

 

親族の情報を探す。

 

そうした行動を許された。

 

猫目はさらに、

 

地方協力員

 

まで派遣していた。

 

東京側は、一瞬で警戒態勢を強めた。

 

十四日間の旅程の中で、人々の感情が最も崩れやすい一日だったからだ。

 

そして、本当に不安を感じさせたのは、

 

猫目側の地方職員が、互助会のメンバーを本当に拘束しようとしなかったことだった。

 

彼らの態度は、むしろ非常に穏やかだった。

 

猫目側の地方職員の一人が、北海道出身の老人へ言った。

 

「港湾地区の第三冷蔵倉庫は、すでに使用を再開しています」

 

「以前、あちらで働いていたのですか?」

 

老人は固まった。

 

「……ああ」

 

「今なら、中へ入って見ることもできます」

 

その言い方は、普通の港湾管理員そのものだった。

 

敵には見えなかった。

 

それこそが、最も恐ろしかった。

 

三日目の夜。

 

猫目は視察団のために、「地方復興交流会」を用意していた。

 

通知を見た東京側の第一反応は、

 

陰謀。

 

けれど実際に会場へ到着すると、誰もが黙り込んだ。

 

宴会には見えなかった。

 

宣伝会にも見えなかった。

 

むしろ、

 

地方の共同体が復旧したあとに開かれる、ごく普通の集まり。

 

そのように見えた。

 

会場は、函館外縁復旧地域にある古い港湾会館だった。

 

建物は改修されている。

 

けれど、昔からの木造部分が多く残されていた。

 

入口には暖色の明かりがついている。

 

軒先からは、溶けた雪がゆっくりと滴り落ちていた。

 

中は暖かかった。

 

むしろ、少し暖かすぎるほどだった。

 

東京から来た人々が、落ち着かなくなるほどに。

 

今の東京では、多くの公共施設が節電のために室温を低く抑えているからだ。

 

会館の入口に、術師の隊列はなかった。

 

武力の誇示もない。

 

いるのは職員だけだった。

 

地方の老人まで、案内を手伝っていた。

 

「靴は、こちらへ置いてください」

 

「温かい汁物は左側です」

 

「上着は、あちらへ掛けられますよ」

 

まるで地方の祭りのような、ごく普通の口調だった。

 

その普通らしさが、東京の人々を本当の意味で緊張させた。

 

視察団が広間へ入ったとき、

 

北海道出身の互助会メンバーの多くが、その場で立ち尽くした。

 

中には、本当に、

 

地方の住民がいた。

 

役者ではない。

 

同じ服を着せられた人々でもない。

 

宣伝要員でもない。

 

本当に、この場所で暮らしている人々だった。

 

漁師。

 

店主。

 

学校の教師。

 

埠頭の整備員。

 

スーパーの従業員。

 

子どもまでいた。

 

北海道出身の老人は入口に立ち、脚を震わせていた。

 

知っている顔を見つけたからだ。

 

昔、一緒に港で働いていた年老いた作業員だった。

 

相手も最初は固まった。

 

やがて、ゆっくりと近づいてきた。

 

「……生きてたのか」

 

老人の唇が震えた。

 

「お前も」

 

次の瞬間、

 

二人は強く抱き合った。

 

広間全体が、一瞬だけ静まり返った。

 

東京から来た多くの人が、そのとき初めて理解した。

 

猫目支配地域にいるのは、「敵」だけではない。

 

そこには、

 

生き残った人々もいる。

 

そして、猫目が本当に恐ろしいのは、

 

この再会が起きることを許していることだった。

 

会館には、北海道の料理が大量に用意されていた。

 

海鮮鍋。

 

焼き魚。

 

ご飯。

 

温かい酒。

 

東京ではもう長いあいだ見ていないほど、大盛りの野菜まであった。

 

東京から来た学生たちは、料理の並ぶテーブルの前で、ほとんど手を動かせなかった。

 

あまりにも「普通」だったからだ。

 

まるで平和だったころのように。

 

梨央は後に、記録へこう書いていた。

 

「一番怖かったのは、猫目の人たちではなかった」

 

「みんなが普通の人と同じように話し始めたことだった」

 

実際、その通りだった。

 

交流会が始まって三十分もすると、

 

広間の雰囲気は、本当に普通の集まりへ近づいていった。

 

港について話す人。

 

学校について話す人。

 

昔の大雪について話す人。

 

東京では今も電力制限が続いているのかと尋ねる人。

 

子どもまで、駆け寄ってきて尋ねた。

 

「東京って、本当に夜になると明かりが消えるの?」

 

A大学の学生の一人は、長いあいだ固まったあと、ようやくうなずいた。

 

子どもは驚いた。

 

「どうして?」

 

彼は答えられなかった。

 

小学生に、

 

「東京は猫目と戦っているからだ」

 

とは言えなかった。

 

本当の危険は、地方住民の態度にあった。

 

全員が猫目を熱狂的に支持しているわけではない。

 

今も猫目を恐れている人も多い。

 

けれど、

 

彼らは生き残った。

 

生き残ったという事実だけで、多くのものは変わる。

 

北海道の漁師が、視察団の一人へ低い声で言った。

 

「昔は、俺たちも猫目を憎んでた」

 

「今は?」

 

男は少し黙った。

 

「今は、少なくとも港から船を出せる」

 

東京の人々は、どう返せばいいのかわからなかった。

 

その言葉には、熱狂もない。

 

裏切ったという感覚もない。

 

ただ、

 

現実があるだけだった。

 

別の地方出身の女性は言った。

 

「東京のほうは、大変なんでしょう?」

 

その口調には、わずかな同情さえ混じっていた。

 

東京の互助会メンバーは、思わず固まった。

 

彼らはこれまで、

 

東京こそが「最後まで抵抗を続ける側」

 

だと思っていた。

 

けれど今では、地方の人々が東京を「気の毒に思う側」になり始めている。

 

その立場の変化に、多くの人が強い違和感を覚えた。

 

私は、ニャーサの姿を一度も見ていなかった。

 

けれど、わかっていた。

 

必ず、どこかから見ている。

 

私が初めて危険が本当に近づいていると感じたのは、広間の照明を見たときだった。

 

あまりにも安定している。

 

東京のように、ときどきわずかに明滅することもない。

 

予備電源へ切り替わる感覚もない。

 

節電のために暗く抑えられてもいない。

 

ただ、普通に明るい。

 

人は一度、照明が「普通についている」ことへ慣れてしまえば、

 

東京での生活に疲れ始める。

 

ニャーサは、それをあまりにもよく理解していた。

 

交流会の後半。

 

猫目はさらに、

 

地方の学校へ通う生徒と、東京の学生との交流

 

まで用意していた。

 

これはもう、単なる宣伝ではない。

 

正確に狙いを定めた攻撃だった。

 

梨央は、北海道の高校生たちに囲まれていた。

 

「東京って、本当にそんなに大変なの?」

 

「学校では、今も普通に授業を受けられる?」

 

「毎日、水の検査をするって本当?」

 

「夜は、本当に明かりがほとんど見えないの?」

 

梨央は最初、警戒していた。

 

けれど話しているうちに、気づいてしまった。

 

この生徒たちは、敵ではない。

 

本当にただの、

 

普通の高校生だった。

 

東京のアイドルショップはまだ営業しているのかと、こっそり尋ねる者までいた。

 

北海道の生徒たちも尋ね始めた。

 

「東京では、私たちはもう終わったと思われてるの?」

 

梨央は固まった。

 

東京は確かに、ずっと無意識に決めつけていた。

 

地方の陥落地域は、地獄だ。

 

けれど今、

 

目の前にいる人々は笑い、話し、温かい汁物を飲んでいる。

 

彼女は突然、「陥落」とは何なのかわからなくなった。

 

一方で、

 

互助会のメンバーたちは、本当の意味で感情を崩し始めていた。

 

多くの人が気づいたからだ。

 

故郷は、まだ残っている。

 

想像していたよりも、ずっと完全な姿で。

 

仙台出身の女性はスマホを手に、街並みを何度も撮影していた。

 

息子が通っていた学校の建物も残っている。

 

コンビニも残っている。

 

海辺の街灯にも明かりがついている。

 

彼女は突然、泣き始めた。

 

破壊されていたからではない。

 

破壊されていなかったからだ。

 

彼女は私へ、低い声で言った。

 

「私は今まで、ずっと憎しみだけで耐えてきたんです」

 

「でも、今は……」

 

その先を言えなかった。

 

地方が完全な廃墟になっていないのなら、

 

東京と猫目の関係は、複雑になり始める。

 

そこに、ニャーサの本当の恐ろしさがあった。

 

誰にも強要していない。

 

ただ、自分の目で見せる。

 

そして、人々自身に揺らがせる。

 

午後九時。

 

交流会は後半へ入った。

 

雰囲気は、本当の地方の晩餐会へ近づいていた。

 

酒を飲む人がいる。

 

話をする人がいる。

 

昔の北海道の大雪について語り始める人もいる。

 

東京の護衛隊は、ますます緊張していた。

 

視察団の警戒心が、少しずつ緩み始めていたからだ。

 

東京の特調室にある後方監視室では、小野寺が遠坂へ低い声で言った。

 

「このまま続けさせるわけにはいかない」

 

遠坂の表情も険しかった。

 

「でも、人が目にしたものまで消すことはできません」

 

そのとき、

 

会館の照明が一瞬だけ、わずかに暗くなった。

 

停電ではない。

 

ほんのわずかな電圧の変動だった。

 

広間全体が、瞬時に静まり返った。

 

東京の人々は、その感覚をあまりにもよく知っている。

 

最近の東京では、頻繁に起きているからだ。

 

けれど次の瞬間、

 

電力供給はすぐに安定した。

 

地方の住民たちは、ほとんど気にしていなかった。

 

そのまま話を続ける。

 

そのまま食事を続ける。

 

けれど、東京から来た人々だけは、全員が身体をこわばらせていた。

 

気づいてしまったからだ。

 

東京で物資が不足する生活に慣れすぎて、

 

「電力が揺らいだだけで緊張する」

 

ようになっていた。

 

地方の人々は、もう違う。

 

その瞬間、

 

東京から来た多くの人が初めて、本当の意味で感じた。

 

東京はすでに、普通の都市ではなくなり始めている。

 

午後十時半。

 

交流会が終わった。

 

視察団は宿泊施設へ戻った。

 

移動中、誰も話さなかった。

 

全員の頭の中が混乱していたからだ。

 

北海道出身の老人が車内で、突然低い声で言った。

 

「港は、まだ残っていた」

 

誰も答えなかった。

 

老人は、もう一度言った。

 

「東京よりも明るかった」

 

車内は完全に静まり返った。

 

部屋へ戻った梨央は、すぐには写真を整理しなかった。

 

ベッドの端に座り、ただ呆然としていた。

 

自分が「普通のもの」ばかり撮影していたことに気づいたからだ。

 

コンビニ。

 

街灯。

 

温かい汁物。

 

話をする学生たち。

 

港の明かり。

 

笑っている人々。

 

今の東京では、それらが少しずつ珍しいものになり始めている。

 

だから、彼女は何度も撮影した。

 

そして突然、怖くなった。

 

自分が少しずつ、この場所に慣れ始めていると気づいたからだ。

 

私が宿泊施設の窓辺に立ったとき、

 

初めて本当の意味でニャーサを見た。

 

実体を間近で見たわけではない。

 

遠くにある港湾地区の高層建築の上に、黒い影が立っていた。

 

かなり離れていた。

 

それでも、ニャーサだとわかった。

 

そこに立ち、

 

復旧地域全体を見下ろしている。

 

同時に、私たちを見ているようにも思えた。

 

スマホが震えた。

 

新しいメッセージ。

 

今回も、番号は表示されていない。

 

「まだ普通に生きられる場所」へようこそ。

 

私は、その一文を見つめた。

 

初めて、すぐには怒りを覚えなかった。

 

代わりに感じたのは、

 

もっと危険なものだった。

 

迷い。

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