俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第130章 なぜ東京は迷わないのか
大阪中央塔の最上階は静まり返っていた。
時刻は、もうすぐ午前五時。
空はまだ明るくなっていない。
それでも大阪には、今も明かりがついていた。
高架道路の照明。
遠くの港湾地区に立つ塔の明かり。
深夜営業のコンビニ。
夜間物流線。
まるで、都市全体が疲れることを知らないようだった。
画面の反対側では、
東京が今も薄暗い。
屋上の菜園箱には、低出力の照明がついている。
給水所の前には、まだまばらに人影が残っていた。
A大学の実験棟で明かりがついている窓は、ごくわずかだった。
二つの都市が、並んで映っている。
まるで、二つの未来のように。
ニャーサが先ほど口にした言葉が、まだ広間へ残っていた。
「この状態が続けば」
「いつか」
「東京の人間自身が疑い始める」
「今のような暮らしを、本当に普通の生活と呼べるのかと」
広間は再び静まり返った。
数人の責任者は、誰も話そうとしなかった。
これが脅迫ではないと知っているからだ。
今、実際に起きている現実だった。
私はようやく、ゆっくりと口を開いた。
「そうはならない」
広間がわずかに静まった。
ニャーサが私を見る。
尻尾が軽く揺れた。
「そうなの?」
私は画面に映る東京を見つめた。
「東京は迷わない」
広間の空気が重くなった。
「少なくとも」
「東京を守る人が残っている限り」
「自分たちが、どうして耐えているのかを知る人が残っている限り」
「東京が意味を失うことはない」
広間は完全に静まり返った。
私は初めて、この数日間に東京で見てきたものを、あらためて言葉にした。
「あなたはずっと、東京がますます疲れていると言ってる」
「それは事実」
「東京がますます苦しくなっているのも」
「事実」
「でも、一つ見落としてる」
私はゆっくりと顔を上げた。
「今の東京は、快適だから耐えてるわけじゃない」
「互助会の人たちは、地方のほうが明るいと知ってる」
「北海道の港が復旧したことも知ってる」
「大阪が、普通の世界みたいに見えることも知ってる」
「それでも東京へ戻る」
「どうしてだと思う?」
広間では、誰も話さなかった。
「わかってるから」
「東京までなくなれば」
「これからは、すべての人が一つの方法でしか生きられなくなる」
空気が一気に重くなった。
数人の責任者も理解している。
今の東京が耐えている理由は、
もう生存だけではない。
人間が、システムの外にある生き方を残せるのか。
そのためでもある。
私は続けた。
「東京が、ますます孤島に近づいているのは事実」
「でも、孤島の意味は」
「最初から、強いことにあるわけじゃない」
「まだ」
私は大阪の夜景を見た。
「世界は一つの形にしかなれないわけじゃないと、すべての人へ伝え続けていることにある」
広間は完全に静まり返った。
「あなたはずっと」
「地方は秩序を取り戻したと言ってる」
「明かりを取り戻した」
「生活も取り戻した」
「それは全部、私も見た」
「でも今の東京には」
「あなたが持っていないものがある」
ニャーサが初めて、わずかに目を細めた。
「何を?」
「自分から苦しい道を選ぶ人たち」
「東京の人たちは知ってる」
「この状態が続けば、ますます疲れる」
「電力も不足する」
「食糧も不足する」
「ますます包囲された都市に近づく」
「負けるかもしれない」
「それでも残ってる」
「互助会を守ってる」
「供給線を守ってる」
「子どもたちを学校へ通わせてる」
「屋上で野菜を育ててる」
「港湾地区を巡回してる」
私はゆっくりとニャーサを見た。
「今の東京が、本当に守っているものは」
「もう都市そのものじゃない」
「人間が」
「あなたの作ったシステムの外でも生きられるのか」
「その可能性」
広間の空気は、固まったように重かった。
教育責任者が初めて、完全に黙り込んだ。
突然気づいたからだ。
今の東京が持つ意味は、
「自由地域」
へ近づきつつある。
たとえ、その自由地域がますます苦しくなっていても。
私は続けた。
「あなたはずっと」
「東京は最後には疲れ切って、頭を下げると思ってる」
「でも、一つ間違ってる」
「東京が苦しくなればなるほど」
「選択する権利を渡してはいけない理由に気づく人も増える」
「すべての人がシステムへ依存しなければ生きられなくなれば」
「人間は最後に、一つのものを失うから」
「何を?」
ニャーサが低い声で尋ねた。
私はニャーサを見つめた。
「自分の生き方を、自分で決める能力」
ニャーサの背後には、大阪の夜景が広がっている。
安定した光の海のようだった。
画面に映る東京は、薄暗く、電力が足りず、疲れ切っている。
けれど、その瞬間、
私は初めて本当の意味で理解した。
なぜ東京は、今も崩壊していないのか。
東京はもう、単なる都市ではない。
最後に残された選択権。
そのような存在へ変わり始めている。
私は低い声で言った。
「私がいる限り」
「特調室が残っている限り」
「互助会が残っている限り」
「東京に、あなたのシステムへ入っていない人々を守ろうとする人がいる限り」
「東京が意味を失うことはない」
広間は死のように静まり返った。
私は続けた。
「今、東京が存在していること自体が」
「すべての人へ伝えてる」
「人間は、一つの形でしか生きられないわけじゃないって」
空気は恐ろしいほど重かった。
数人の責任者が、複雑な表情を見せている。
彼らも突然気づいたからだ。
東京と猫目の戦争は、
どちらの資源が多いかを争うものではない。
どちらの術師が強いかを争うものでもない。
未来の人間が、どのように存在すべきなのか。
それをめぐる戦いになっている。
そのとき、
ニャーサが突然笑った。
嘲笑ではない。
敵意さえ感じられなかった。
私を静かに見つめる目が、真剣なものへ変わっている。
「いいね」
ニャーサは低い声で言った。
「白川一音」
「君はようやく、本当の意味で理解した」
「どうして東京が、ますます危険になっているのかを」
私は眉をひそめた。
ニャーサは軽く顔を動かし、
画面に映る東京を見た。
「これから東京は」
「単なる抵抗勢力ではなくなる」
「少しずつ」
尻尾が軽く揺れた。
「もう一つの未来へ変わっていく」
窓の外から聞こえる高架道路の音さえ、遠く感じられた。
東京と大阪の映像は、今も画面へ並んでいる。
一方は薄暗い。
一方は明るい。
けれど今、
それを単純に、
貧しさと豊かさ
として見る者はいなくなった。
先ほどの言葉によって、全員が気づいたからだ。
今の東京が本当に危険なのは、
意味を持ち始めていること。
意味は、
食糧よりも破壊しにくい。
北海道責任者が最初に低い声で言った。
「東京が、この状態を続けた場合……」
彼は一度、言葉を止めた。
「地方の若者たちは、将来、東京を何だと思うでしょう?」
広間は静かだった。
教育責任者が、ゆっくりと答えた。
「旧時代に残された、最後の自由地域……」
空気が一気に重くなった。
金融責任者の表情も変わった。
東京が、
精神的な価値
を持ち始めていると気づいたからだ。
「地方住民の認識へ影響します」
彼女は低い声で言った。
「特に若者へ」
「すでに彼らは尋ね始めています」
「東京はあれほど苦しいのに、なぜシステムへ入ろうとしないのかと」
「この疑問が広がり続ければ……」
彼女は最後まで言わなかった。
けれど、広間にいる全員が理解していた。
最後に東京が、
貧しくても、
電力が足りなくても、
孤立していても、
統一システムへ入ることを拒み続ける象徴
になれば、
猫目が相手にするものは、もう抵抗組織ではない。
理念。
そして理念は、
都市よりも完全には消しにくい。
ニャーサは突然笑った。
とても軽い笑みだった。
「ようやく気づいた?」
広間は再び静まり返った。
ニャーサはグラスを軽く揺らした。
「どうして大阪に明かりがついていると思う?」
「どうして北海道の港を復旧させたと思う?」
「どうして地方の学校で、雪祭りを再開させたと思う?」
ニャーサは全員を見た。
「単に地方を復旧させたかったからじゃない」
「東京を」
テーブルを軽く叩く。
「ますます『異質な場所』へ変えるためだ」
空気が重くなった。
「地方が普通に近づくほど」
「東京は特殊地域に見える」
「地方住民が安定した生活へ慣れるほど」
「東京の暮らしは、ますます奇妙に見える」
私は初めて本当の意味で気づいた。
ニャーサは、「普通」という概念を、ここまで深く利用している。
東京を破壊しようとしているのではない。
東京を少しずつ、
「普通ではない場所」
へ変えようとしている。
教育責任者が、ようやく低い声で言った。
「ですが、今の問題は……」
彼女は顔を上げた。
「東京が、その『普通ではなさ』そのものへ価値を見いだし始めていることです」
それは、
東京が「普通」を逆に定義し始めたことを意味している。
「普通の生活を取り戻すために、システムへ完全に入らなければならないのなら」
「普通でなくても構わない」
東京の人々が、そう考え始める可能性がある。
それこそが、
猫目上層部が本当の意味で厄介だと感じ始めた部分だった。
私は初めて、彼らの表情へ、
本物の圧力
が現れるのを見た。
東京はもはや、「解決すべき問題」には見えなくなりつつある。
形成されつつある精神的中心。
そのように見え始めていた。
けれど、ニャーサは低く笑った。
「だから、僕はずっと東京を壊すことを急がなかった」
広間が静まった。
ニャーサは、ゆっくりと私を見た。
「今の東京にある最大の価値は」
「資源でもない」
「人材でもない」
「システムの外側にいる者たちを、すべて吸収できることだ」
「互助会」
「敗北した財団」
「亡命者」
「猫目を拒否する者」
「システムへ疑問を抱く者」
「彼らは、みんな東京へ集まっていく」
「今の東京が何に似ているかわかる?」
ニャーサは大阪の夜景を見た。
「自由意志の残滓を吸収し続ける島だ」
私は気づいた。
今の東京は、
最後の避難場所
のような存在にもなり始めている。
ニャーサは低い声で続けた。
「だから、東京が苦しくなるほど」
「そこには何かが残っていると、考える人も増える」
「そういうものは」
尻尾が軽く揺れる。
「少しずつ信仰へ変わる」
広間は完全に沈黙した。
金融責任者が低い声で尋ねた。
「主」
「では今後、東京をどうするのですか?」
ニャーサは、本当に少し考えた。
「しばらくは、このまま存在させる」
広間が静まった。
「なぜですか?」
北海道責任者が尋ねた。
ニャーサはグラスを軽く揺らした。
「今の大阪が、どうして僕たちへ反抗しないと思う?」
「東京が、地方にいた『システムへ入りたくない人間』の大部分を引き受けているからだ」
「東京が突然消えれば」
「彼らは日本全体へ戻っていく」
「地方では、再び反抗が始まる」
「それでは効率が悪い」
その瞬間、
私は完全に理解した。
東京が今も耐えられている、もう一つの理由。
システムの外側にいる人々が集まる場所になっているからだ。
ニャーサが本当に望んでいるのは、
東京を、
ますます孤立させること。
ますます疲れさせること。
ますます特殊な場所にすること。
そして、いつか、
東京自身に疑わせること。
このまま存在し続けることに、本当に意味があるのか。
そうすれば東京は、自分から降伏する。
同時に、反抗の意思が地方へ再び拡散することもない。
私はニャーサへ言った。
「東京の人たちは、自分たちの苦しみがあなたたちによって作られたものだと知ってる」
「だから、私たちは降伏しない」
「これからも耐え続ける」
ニャーサは本当に、数秒間沈黙した。
そして、
軽く笑った。
軽蔑ではない。
嘲笑でもない。
何かをようやく確認できたような笑みだった。
「いいね」
ニャーサは低い声で言った。
「白川一音」
「君はようやく、本当の意味で」
画面に映る東京を見た。
「東京の核心の一つになり始めた」
その場にいた全員が理解した。
今夜の晩餐会は、
もう単なる「東京と猫目」の交渉ではない。
人間の未来についての議論。
そのようなものへ変わっている。
ニャーサは巨大な窓のそばに立っていた。
背後には、大阪の夜景が光の海のように広がっている。
画面に映る東京を、長いあいだ静かに見つめていた。
そして、ようやくゆっくりと口を開いた。
「白川一音」
「……」
「知ってる?」
ニャーサは軽く笑った。
「僕はだんだん、東京が『間違っている』とは思わなくなってきた」
広間がわずかに静まった。
数人の責任者も、無意識に顔を上げた。
ニャーサがそのような言葉を口にするのは、初めてだったからだ。
「東京は苦しい」
「疲れている」
「ますます包囲された都市へ近づいている」
「でも今の東京には、確かに独自の意味が生まれ始めている」
画面に映る東京を見る。
「そして意味は」
「エネルギーよりも安定することがある」
私は何も言わなかった。
ただ、ニャーサを見ていた。
ニャーサは低い声で続けた。
「だから今の問題は」
「どちらが正しいか、どちらが間違っているかではない」
「東京は」
暗く沈む都市を指した。
「一つの未来を象徴している」
「資源が足りなくても」
「ますます苦しくなっても」
「普通の世界から遠ざかっても」
「システムの外にある空間を残す」
「選択する権利を残す」
「統一構造へ入らなくても存在できる可能性を残す」
そして、
ニャーサはゆっくりと前足を上げ、大阪を指した。
「地方は」
「別の未来を象徴している」
「統一」
「服従」
「システム化」
「高効率」
「普通の生活の回復」
「大多数の人間へ、もう一度日常を与えること」
背後では、大阪の夜景が明るく輝いている。
本当に復興した世界のようだった。
「東京と地方は」
ニャーサが言った。
「もう、まったく異なる二つの道へ変わった」
教育責任者が低い声で言った。
「未来の人々が今を振り返れば……」
彼女は一度、言葉を止めた。
「東京と地方を、二つの社会実験として見るかもしれません」
広間の空気が重くなった。
ニャーサは軽く笑った。
「そうだね」
「東京が実験しているのは」
「長期的な欠乏と圧力の中でも、人間は自由と選択する権利を守れるのか」
「僕が実験しているのは」
大阪へ目を向ける。
「人間は最後には、必ず服従と配給を選ぶのか」
私は本物の寒気を覚えた。
ニャーサは世界を破壊しようとしているのではない。
世界を、
新たに定義しようとしている。
そのとき、
金融責任者が低い声で尋ねた。
「主」
「では、最後に勝つのはどちらなのですか?」
広間は完全に静まり返った。
大阪の明かり。
東京の暗い影。
二つの未来が、画面の中で互いを見つめている。
ニャーサは、ゆっくりと顔を動かした。
私を見る。
「最後に勝敗を決めるのは」
ニャーサが言った。
「食糧じゃない」
「エネルギーでもない」
「人口でもない」
「地方の復興速度ですらない」
「決めるのは」
ニャーサは前足を上げ、
自分自身を指した。
「僕」
そして、
画面に映る東京を指す。
「そして、君だ」
責任者たちは理解した。
ニャーサは、この戦争を、
二つの「未来の核心」による対立
として定義した。
ニャーサが象徴するのは、
統一されたシステム。
絶対的な服従。
高効率の文明。
私が象徴するのは、
システムの外側。
自由意志。
選択する権利。
そして、
東京。
ニャーサは言った。
「東京が今も耐えられているのは」
「君がまだいるからだ」
「互助会が、どうして今も供給線を守ろうとすると思う?」
「東京の普通の人々が、どうしてまだ完全に絶望していないと思う?」
「特調室が、どうしてまだ耐えていると思う?」
「東京が、どうして今も孤島であり続けようとすると思う?」
ニャーサは私を見た。
「彼らは信じているからだ」
「君が、まだ負けていないと」
私は気づいた。
なぜ東京が、ますます「象徴」へ近づいているのか。
東京はすでに、
「下北沢の黒弦は、まだここにいる」
という事実を、精神的な支柱の一つへ変えている。
ニャーサは低い声で続けた。
「同じように」
「地方が、どうしてますます従順になっていると思う?」
「彼らも信じているからだ」
「僕なら、世界を動かし続けられると」
ニャーサの背後では、大阪の明かりが輝いている。
永遠に消えないように。
「だから」
ニャーサは言った。
「最後に未来の方向を決めるのは」
「東京でも、地方でもない」
ニャーサは、ゆっくりと私を見つめた。
「君と僕のどちらが」
「自分の道こそ、人類の未来に近いと証明できるのか」
その一点だった。