俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第1章 空が裂けた後、俺の頭の中に怪物が住み着いた

 

第1章 空が裂けた後、俺の頭の中に怪物が住み着いた

 

俺の名前は白川一音(しらかわ いおと)。十六歳。高校三年生。友達はいない。いや、違う。

 

今は……少しずつ、友達の数が増えてきている。

 

でも、社交能力の方は一向に進化しない。

 

今日もそうだった。

 

二〇四七年十月三十一日。俺はギターを背負い、下北沢に向かう道を歩いていた。

 

道の両側にはコンビニやカフェ、群れをなして歩く高校生たち、そして一言喋っただけで俺の社交値を一瞬でゼロにしてしまいそうな現充たちがいた。俺は顔を伏せ、自分を歩く背景に縮めようとしていた。誰にも見られなければいい。誰にも話しかけられなければいい。無事にAFTER TONEに着ければ、それで勝利だ。そう思っていた。

 

空が裂けた。

 

それは誇張でも、睡眠不足による幻覚でもなかった。青い空が何者かに背後から引き裂かれるように、黒紫色の裂け目が走った。警報も、悲鳴もなかった。道行く人々はまるで何も見えていないようだった。俺だけがその場に立ち止まり、手足に冷たいものが走るのを感じながら、じっとその裂け目を見つめていた。

 

裂け目から落ちてきたのは、隕石ではなかった。

 

一塊の光だった。黒紫色の光。その周囲には金色の鎖が絡みつき、鎖の間から白い炎が燃えていた。その黒い光は、まるで何かに抵抗するように、咆哮するように、そしてどこか不本意そうに、より恐ろしい場所から叩き落とされたかのように、俺に向かって落ちてきた。

 

逃げようと思った。でも体が動かない。怖さのせいではなかった。何か得体の知れない力が、俺を地面に押しつけていた。

 

声が聞こえた。

 

耳からではなく、直接頭の中に叩き込まれるような声だった。

 

「プニ……」

 

その声には、俺がこれまで見たどんな表情よりも濃い憎悪が込められていた。

 

「お前には、俺を封じることなどできん」

 

次の瞬間、黒紫色の光が俺の胸に突き刺さった。

 

世界が消えた。

 

道端に倒れたわけでも、意識を失ったわけでもない。俺はただ、突然黒い海の上に立っていた。海面に波はなく、空に星はない。遠くに砕けた玉座が浮かび、その背後には死んだ銀河のような暗紫色の光帯が広がっていた。そして玉座の中央に、何かが釘付けにされていた。

 

「何か」としか言いようがない。それは人の輪郭をしていたが、人ではなかった。黒と銀白が交錯した体躯は、神像のようでもあり、悪魔のようでもあった。背中には壊れた光の翼があり、体中を金色の鎖が這い、肩と胸、腕、首を貫いて玉座に固定していた。

 

ゆっくりと目を開けた。

 

その瞬間、俺は跪いていた。敬意からではなく、ただ立っていられなかったからだ。

 

「人間か」

 

声が落ちたとき、黒い海面がわずかに揺れた。俺は地面に這いつくばり、泣きそうになった。

 

「ご、ごめん……! 俺、わざとここに来たわけじゃない! ここがどこかも知らない! 今すぐ出ていく! 本当だ! 今すぐに出ていくから!」

 

それは俺を見下ろした。笑いも、怒りもなかった。ただ、虫でも見るような目で。

 

「ここはお前の精神の深部だ」

 

「せ、精神の深部……?」

 

「俺は、お前の体に封じられた」

 

頭の中が数秒、真っ白になった。

 

それから、俺はとても情けない声を上げた。

 

「え?」

 

その目はわずかに細められた。

 

「俺の名はソレンセン」

 

ソレンセン。

 

その名が現れた瞬間、頭が氷のような手に掴まれた。無数の断片のような光景が、勝手に流れ込んできた。暗黒の宇宙。燃え盛る億万の星々。砕かれた戦場。封印から解き放たれた巨大な聖霊の光。そして、見ることもできない白い影が、黒紫色の王を玉座から叩き落とす光景。

 

どれも俺の記憶ではなかった。それでも、直接頭の中に流れ込んできた。

 

俺は頭を抱え、痛みで震えた。

 

「聖霊プニ」

 

ソレンセンが低い声でその名を吐き出した。抑えきれない殺意がこもっていた。

 

「奴は残された聖霊の力で俺を鎮圧し、俺の残された本源をこの世界に、このお前の体に釘付けにした」

 

俺には何も理解できなかった。ただ一つだけ、はっきりわかることがあった。

 

俺の頭の中に、とんでもないものが入ってきた。

 

「そ、その……」

 

俺は恐る恐る顔を上げた。

 

「出ていけるの?」

 

ソレンセンは俺を見下ろした。

 

「できん」

 

「じゃあ、誰か他の体に移れるの?」

 

「できん」

 

「じゃあ、俺の体を操れるの?」

 

わずかな間があった。

 

そのわずかな沈黙の間に、周囲の黒い海が冷たくなるのを感じた。

 

「――お前の許可がなければ、できん」

 

俺は固まった。

 

「つまり……俺が許可しなければ、お前は俺の体を動かせないってこと?」

 

ソレンセンは答えなかった。

 

ただ、体に巻きついた金色の鎖が、一瞬だけ光った。

 

俺にはわかった。

 

認めたくはないのだろう。

 

でも、それは本当だった。

 

東京を握り潰せそうな怪物が、俺の体の中に閉じ込められていて、しかも俺の同意なしには何もできない。

 

普通なら安心するところだろう。

 

でも俺は、余計に怖くなった。

 

強制できないからこそ、俺を納得させようとしてくる。

 

「白川一音」

 

俺が教えていないはずの名前を、ソレンセンが呼んだ。

 

「体を、俺に寄越せ」

 

俺は一歩後ずさった。

 

「い、いやだ」

 

「俺はお前に、望むものを全て与えられる」

 

「俺は、家に帰りたい」

 

「下らない望みだ」

 

「だったら、下らない望みを尊重してくれ!」

 

ソレンセンが、初めて笑った。

 

楽しげな笑いではなく、ただ蟻が木の葉を掲げて火に抵抗しようとするのを見ているような笑みだった。

 

「お前は、他人の視線を恐れている」

 

俺は固まった。

 

「お前は、自分の弱さを嫌っている」

 

耳を塞ぎたくなった。でもここは精神世界だ。ソレンセンの声に耳は必要ない。

 

「お前は認められたいと願いながらも、発見されることを恐れている」

 

「やめて……」

 

「お前は声の陰に隠れ、いつか誰かに褒められることを夢見ながら、人前に立つ勇気すら持っていない」

 

「やめてくれ!」

 

俺は叫んでいた。黒い海面に波紋が広がった。

 

ソレンセンは俺を見下ろし、冷たい悦びに目を細めた。

 

「体を、俺に寄越せ」

 

その声は静かだった。

 

「俺が、お前を見ている全ての者を黙らせてやる」

 

全身に冷たいものが走った。

 

「どうやって……黙らせるんだ?」

 

「恐怖」

 

声は低かった。

 

「跪かせ」

 

「崩壊させ」

 

「死なせてやる」

 

俺は激しく首を振った。

 

「いやだ!」

 

ソレンセンの視線が危険なものに変わった。

 

「お前は、いつでもお前を踏み潰せる下等な生物たちに、慈悲をかけているのか?」

 

「彼らは下等なんかじゃない! ただの普通の人だ!」

 

「普通とは、弱いということだ」

 

「弱いからって、殺されていい理由にはならない!」

 

ソレンセンは俺をじっと見つめた。

 

その瞬間、体に巻きついた金色の鎖が突然燃え上がった。白い光が鎖の間から染み出し、針のようにその体に突き刺さった。表情に初めて歪みが生まれた。痛みによるものではなく、より深い憎悪によるものだった。

 

「プニ……」

 

ソレンセンは歯を食いしばり、その名を噛み砕くように吐き出した。

 

「こんな言葉まで、俺を抑えつけるのか」

 

俺は後ずさった。あの白い光は、どこか温かく感じられた。でも同時に怖かった。

 

これは俺を守る優しい力ではない。

 

災厄を、俺の体の中に無理やり釘付けにしている封印なのだと、俺は理解した。

 

気がつくと、俺はまだ道端に立っていた。

 

空は元通りだった。車が通り、人が笑いながら歩いている。誰も、さっきのことを何も見ていなかった。

 

俺だけが知っている。

 

俺の体の中に、決して出してはいけない怪物が住み着いたことを。

 

スマホが震えた。

 

朝倉日和からメッセージが来ていた。

 

『一音ちゃん、今日も練習だよ!』

 

画面を見つめながら、指先が震えていた。

 

頭の中で、ソレンセンの声が響く。

 

「これがお前の世界か?」

 

俺は唾を飲み込んだ。

 

「……そうだ」

 

「脆く、騒々しく、秩序もない」

 

冷たい声だった。

 

「壊すには、ちょうどいい世界だな」

 

俺はギターケースの肩紐を強く握った。

 

「だめだ」

 

「ならば、よく見ていろ」

 

ソレンセンの声が、暗闇の中に沈んでいった。

 

「白川一音」

 

「いつか、お前は自分で俺に頼むことになる」

 

俺はその場に立ち尽くし、足が震えてほとんど動けなかった。

 

それでも、俺はAFTER TONEに行かなければならなかった。今日は練習がある。朝倉日和が待っている。

 

余響楽団のみんなを心配させたくないから。

 

だから俺は顔を伏せ、再び下北沢へと歩き出した。

 

ただ、その日から俺は、歩くたびに体 の奥底で一対の目が開いているのを感じるようになった。

 

それは俺を見ている。

 

そして、待っている。

 

俺が怖がるのを。

 

俺が崩れ落ちるのを。

 

俺が、自分からあの扉を開けるのを。

 

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