俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第21章 感謝宴、そして私が望まない敬酒
合同演出的安全方案が確定した後、日和はようやく肩の力を抜いた。
彼女は修正された契約書、撮影に関する補足協議、会場安全確認表をすべてファイルにまとめ、大きな戦いを終えたかのように表紙を閉じた。
「これで大丈夫だと思う」
陽菜が机に突っ伏したまま、目を輝かせて言った。
「ということは、MVも続けられるし、合同演出の準備も進められるってこと?」
日和が頷いた。
「ええ。新しい機材トラブルがなければ、予定通り進めるわ」
澪が手を挙げた。
「飯は?」
日和は彼女の方も見ずに答えた。
「現場飲食補助もちゃんと記載されているから」
澪が頷いた。
「勝利だな」
私は隅に座ったまま、ギターバッグを抱えてうつむいていた。
みんなが喜んでいる。
本来なら、私も一緒に喜ぶべきだった。
青藍文化芸術財団が厳しい条件を飲んでくれた。
合同演出的安保も強化された。
MVの補撮影も再び手配される。
表面的には、すべて良い方向に進んでいるように見えた。
しかし私は知っていた。
この「順調」の裏には、ただの正常な交渉以上のものがあることを。
それは恐怖だった。
百目影倉事件の後、日本中の退魔界が「下北沢黒弦」という名前を知るようになった。
世俗界の有力者たちも、知るところとなった。
彼らは術式のことも、結界のことも、影像汚染のこともよくわかっていないかもしれない。
しかしリスクは理解していた。
投資の価値も、災害の規模も、そして「ある種の人には手を出してはならない」ということも。
その結果、かつて高圧的だった人々が、急に丁寧になった。
あまりにも丁寧になりすぎて、私は逆に怖くなった。
その日の夕方、青藍文化芸術財団の名取氏がAfterToneに直接やって来た。
彼は新しい撮影確認書を持参し、前回の機材事故に対する「謝罪」として、かなり高額な補償案を提示してきた。
日和がそれを見終わった瞬間、眉を寄せた。
「この補償額、高すぎませんか?」
名取氏は穏やかに微笑んだ。
「前回の撮影中止で皆様にご迷惑をおかけしましたので、誠意をお示ししたかったのです」
陽菜が不安そうに日和の方を見た。
澪が小声で呟いた。
「誠意、かなり高いな」
日和は笑わなかった。
「実際の損害を大幅に上回る補償は受けられません」
名取氏の笑みは崩れなかったが、その視線が一瞬、私の方を掠めた。
とても短い視線だった。
普通の人なら気づかない程度の短さだった。
しかし私は気づいた。
彼は余響楽団のギタリストを見ていたのではない。
下北沢黒弦を見ていたのだ。
その瞬間、私はすべてを理解した。
これは単なる補償ではない。
これは忖度だった。
余響楽団に対するものではなく、私に対するもの。
もっと正確に言えば、彼らが私の体内にいると思っている「裏の人格」に対する忖度だった。
私は胃が冷たくなるのを感じた。
日和はまだ真剣に彼と話を続けていた。
「機材トラブルによる補撮影費用と交通費の補填は受けられますが、このような追加金額は受け入れられません。双方にとって良くないことです」
名取氏は一瞬黙った後、すぐに恭しく頷いた。
「わかりました。貴方のご意見を尊重いたします」
尊重。
この言葉が彼の口から出たとき、私はまるでガラスのコップをそっとテーブルに置くような慎重さを感じた。
彼は一切、押し通そうとしなかった。
説得もせず、圧力もかけず、不満すら見せなかった。
本来なら、これは喜ばしいことのはずだった。
しかし彼が去る直前、もう一度私に向かって軽く頭を下げたのを見たとき、私はその場に縮こまりたくなった。
やめてほしい。
そんな目で私を見ないでほしい。
私は彼の上司でもなければ、大物でもない。
ましてや畏怖されるような存在でもない。
私はただ、コンビニの温め方も上手く言えない、白川一音というただの高校生でしかないのに。
ソレンセンが意識の奥で低く笑った。
「彼は恐れている」
私は顔を伏せ、指先が冷たくなっていくのを感じた。
「私を恐れているんじゃない」
「下北沢黒弦を恐れている」
「つまり、お前をだ」
「違う」
「いつまで分け続けるつもりだ?」
私は答えなかった。
この問いに答えるのが、日に日に難しくなっていたからだった。
白川一音と下北沢黒弦は、本来まったく別の名前のはずだった。
それなのに、外界の反応が二つの名前を少しずつ縫い合わせようとしていた。
翌日、本当に厄介な招待が届いた。
特調室からでも、神社からでも、御影家からでもなかった。
それは世俗界の財団からのものだった。
青藍財団を通じて、一通の招待状が転送されてきた。
封筒はとても厚く、高級すぎて強く握るのも躊躇われる紙質だった。
招待主は「東都聯合文化資産管理集団」の会長、藤堂清成という人物だった。
私はその名前を聞いたことがなかった。
しかし特調室の添付資料を読んだ瞬間、すぐに封筒を返したくなった。
藤堂清成。表向きは大規模文化不動産・商業施設グループの会長だが、実際には関東各地の結界施設維持に長年資金を提供している。グループは複数の地下商業空間、劇場、展示館、旧文化施設を保有しており、今回の招待の名目は「関西における影像汚染事件の拡大を阻止したことへの感謝」だった。
感謝。
この言葉も、今では怖いものになっていた。
有力者の感謝は、たいてい単なる感謝で終わらないからだ。
私は招待状を机に置き、電話越しの眼鏡の女性に小声で聞いた。
「断ってもいいですか?」
彼女はすぐに答えた。
「はい、可能です」
私は少し安堵した。
しかし彼女は続けた。
「ただ、藤堂グループは東京の複数の演出会場と地下商業施設を掌握しています。最近彼らは、こうした施設の異常安全検査基準を引き上げ、若手音楽家に対してより透明性の高い会場利用補助を提供する意向を示しています」
私は沈黙した。
またか。
強制でも脅迫でもない。
ただ「普通の世界にとって有益な条件」を私の目の前に置いてくる。
「つまり、私が会えば、彼らはもっと協力してくれるということですか?」
「必ずしもそうとは限りません」
彼女は言った。
「しかし、彼は善意を示しているのです」
善意。
あるいは、畏怖で包装された贈り物。
私はAfterToneの舞台を見た。
そこでは合同演出に向けて照明の調整が行われていた。
もし東京のLiveHouseや劇場、地下商業空間がより安全な検査体制を整えれば、白鏡監督のような存在が撮影活動を通じて普通の人々に近づくことは、より難しくなるはずだった。
それは日和たちにとっても良いことだった。
それでも、私は行きたくなかった。
私は高層ビルの最上階に座り、世俗界の金持ちたちに畏怖の対象として扱われることを望んでいなかった。
彼らの忖度を受け入れたくもなかった。
ましてや、恐怖のあまり差し出された贈り物を受け取りたくもなかった。
ソレンセンが口を開いた。
「受けろ」
私は眉を寄せた。
「いやだ」
「彼らの畏怖を受け入れろ」
「いやだ」
「彼らの資源を使って、普通の世界を強化させろ」
「……」
「恐怖は嫌いかもしれないが、お前はその恐怖がもたらす秩序を必要としている」
この言葉はあまりにも耳が痛かった。
なぜなら、またしても正しかったからだった。
結局、私は行くことにした。
理由は以下の通りだった。
ただの会談であること。
特調室が同席すること。
私的な贈り物は受け取らないこと。
いかなる協力も約束しないこと。
相手に余響楽団を接触させないこと。
相手に私の学校や家族の情報を渡さないこと。
これらの条件は私が自分で決めたものだった。
眼鏡の女性は、これらすべてを会談条件に盛り込むと言ってくれた。
藤堂グループは驚くほど早く同意した。
その速さが、かえって私を不安にさせた。
会談の場所は、ある高層ビルの最上階に決められた。
夜の東京が、大きな窓の外に広がっていた。
光が無数の細かい星のように散らばっている。
もし陽菜が見たら「綺麗」と言うだろう。
澪なら「ここの飯、高そう」と言うだろう。
日和なら、まずこの契約に隠し条項がないかを確認するだろう。
私は長テーブルの片端に座り、手を膝の上に置き、背中を硬く伸ばしていた。
眼鏡の女性が私の左側に座り、もう一人の特調室職員が扉の近くに立っていた。
藤堂清成は向かいの席に座っていた。
彼は六十歳前後で、髪をきれいに整え、濃い色のスーツを着ていた。手に目立つ装飾品はつけていない。
真壁玄周のような芸術コレクター特有の不快な雰囲気はなく、御影秋人のような値踏みするような笑みもなかった。
藤堂清成は、ただの普通だが極めて権力のある老人のように見えた。
彼は私を見ると、手を差し出す代わりに立ち上がり、深く頭を下げた。
「白川さん、関西で百目影倉事件の拡大を阻止してくださり、ありがとうございます」
私はその場で固まった。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
それに「百目影倉事件」などという言葉を使わないでほしい。
私は地下倉庫にあった無数の目が、脳裏に浮かんでしまう。
私は顔を伏せ、声を小さくした。
「私は……ただ現場にいただけです」
藤堂清成は否定しなかった。
「現場にいても、できる人は多くありません」
私はどう答えればいいのかわからなかった。
眼鏡の女性が代わりに口を開いた。
「藤堂会長、本日の会談は感謝と安全協力に関する話し合いに限定されており、個人的な依頼は含みません」
藤堂清成が頷いた。
「承知しています」
彼は秘書に資料を渡させた。
「これは藤堂グループが保有する一部の劇場、展示館、地下商業空間における安全強化計画です。私たちは特調室と協力し、影像媒介検査、異常監視の隔離、演出会場のバックステージ封鎖、そして一般観客の認知保護措置を強化する用意があります」
私は真剣に耳を傾けた。
専門用語の多くはよくわからなかったが、大まかな意味は理解できた。
つまり、彼らはお金を出そうとしている。
しかも、かなりの金額を。
自分たちが掌握している会場を、より安全なものに変えようとしている。
もちろん、それは良いことだった。
それでも、私は不安だった。
「なぜですか?」
私は小さく聞いた。
藤堂清成が私を見た。
「なぜ、ですか?」
「なぜ急に、こんなことをしようと思ったんですか?」
会議室が一瞬、静かになった。
秘書は私が直接質問するとは思っていなかったようだった。
眼鏡の女性も、少しだけ私の方を見た。
しかし藤堂清成は怒らなかった。
彼は少し考えた後、静かに言った。
「なぜなら、私たちは恐れているからです」
この答えは、あまりにも率直だった。
率直すぎて、私は思わず顔を上げてしまった。
藤堂清成は私を見て、落ち着いた口調で続けた。
「真壁玄周のような人間は、異常をコレクションや作品として扱っていました。私たちはかつて、ああいう存在は暗面の極端な例に過ぎないと思っていました」
「しかし百目影倉は、十分な資金さえあれば、そうしたものを都市レベルの認知安全を脅かす規模まで積み上げられることを証明しました」
彼は少し間を置いた。
「そしてあなたは、それをわずか数分で破壊した」
私の指がゆっくりと握りしめられた。
「だから私たちを恐れているんですか?」
「そうです」
彼は隠そうとしなかった。
「そして、もう一人目のあなたが現れないことを恐れています」
この言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
藤堂清成は続けた。
「私たちのように、会場や資金、地下空間、文化資産を持つ人間は、本来、安全体系がもたらす利益を享受してきました。過去、私たちは神社に寄付をし、特調室に協力し、情報を封鎖していれば、それで責任を果たせると考えていました」
「しかし白鏡監督や真壁玄周のような人間が、演出や展示、映画祭、地下商業街を標的にした場合、私たちの施設が入口になってしまう」
「次の百目影倉が現れるのを待ってから、また高校生一人に頼ってそれを壊してもらうわけにはいきません」
会議室は静かだった。
私は彼がこんなことを言うとは思っていなかった。
私は、彼が私を懐柔しようとするか、依頼を出すか、あるいは資源と引き換えに関係を築こうとすると思っていた。
しかし今、彼が言っていることは、恐怖の後の自己修正のように聞こえた。
ソレンセンが冷たく言った。
「綺麗事だな」
私は心の中で答えた。
「かもしれない」
「信じるな」
「わかっている」
藤堂清成が私を見た。
「もちろん、私は自分が完全に善意から行動しているとは言いません」
来た。
私は体をわずかに強張らせた。
「藤堂グループには、安全な評判が必要です。特調室の信頼も必要です。そして、次の鏡楽座式事件の温床にならないようにする必要があります」
「私たちが資源を投じるのは、自衛のためでもあります」
「同時に、あなたと東京特調室に対して、態度を示すためでもあります」
彼は遠回しに言わなかった。
それが、かえって少し安心させた。
「純粋な善意」より、自衛と利益計算が混じったこの言い方の方が、現実的だった。
私は小さく聞いた。
「あなたたちは、私から何を得ようとしているんですか?」
藤堂清成が私を見た。
「個人的な要求はありません」
私は信じていなかった。
彼は私の表情からそれを読み取ったのか、もう一言付け加えた。
「少なくとも、今日はありません」
これで、少しだけ信じることができた。
「私たちが望むのは、将来藤堂グループの施設で処理できない影像または認知異常が発生した場合、あなたが特調室を通じて正式に協力要請を評価してくれることだけです」
私は顔を伏せた。
また要請か。
命令ではなく、取引でもなく、ただ未来の責任を先にテーブルに置くだけ。
私はすぐに承諾しなかった。
ただ言った。
「本当に必要になったら、検討します」
藤堂清成が再び軽く頭を下げた。
「それで十分です」
いや。
全然十分ではなかった。
私にとっては、この言葉が重すぎた。
会談は本来、ここで終わるはずだった。
しかし藤堂清成は秘書に小さな箱を持ってくるよう指示した。
眼鏡の女性が即座に眉を寄せた。
「会長、事前の条件で、私的な贈り物は禁止されているはずです」
藤堂清成が頷いた。
「これは贈り物ではありません。ただの市販品です」
箱が開けられた。
中には小さなギターピックが入っていた。
濃い灰色で、見た目にはかなり高級な素材でできているようだった。
横には購入証明書と説明書が添えられていた。
「あなたがピックを媒介として使っていると聞きました」
私は体が硬直した。
ここまで知っているのか?
眼鏡の女性の表情も冷たくなった。
藤堂清成はすぐに言った。
「あなたの私生活を調査したわけではありません。百目影倉での戦闘記録からわかったことです」
彼は箱をテーブルの中央に置き、私の前には押し出さなかった。
「これは普通の工芸品です。術式も、位置情報も、付着物もありません。特調室で検査してもらって構いません」
「もし不適切だと思われるなら、拒否してください」
私はそのピックをじっと見つめた。
とても綺麗だった。
そして、とても危険だった。
物理的な危険ではない。
意味としての危険だった。
これを受け取ることは、ある種の敬意を受け入れることと同じだった。
あるいは忖度を。
あるいは畏怖の象徴を。
私は欲しくなかった。
しかし私の古いピックは、確かに割れていた。
百目影倉の後、あのピックはもう普通に使えなくなっていた。
ソレンセンが口を開いた。
「受け取れ」
「いやだ」
「新しい媒介が必要だ」
「自分で買える」
「こっちの方が品質が良い」
「いつからピックの品質を気にするようになったの?」
「吾は、牢の中の王が使う刃が折れないかどうかを気にしているだけだ」
私は黙った。
藤堂清成は私を急かさなかった。
眼鏡の女性が言った。
「白川さん、拒否しても構いません」
私は小さく聞いた。
「本当にただの普通のピックですか?」
眼鏡の女性は検知器で調べ、特調室の封印紙を近づけて確認した。
反応はなかった。
「現時点では異常は確認されていません」
藤堂清成が言った。
「もし受け取るとしても、それはどんな依頼や人情を受け入れたことを意味しません。ただ、あなたが普通の人々を守ってくれたことへの感謝です」
普通の人々を守る。
この言葉は、拒否しにくいものだった。
彼の言い方が上手いからではない。
私は知っていたからだった。
昨夜回収された視線の残片の多くが、確かに普通の人々に属していたことを。
結局、私は手を伸ばして箱を受け取った。
「ありがとうございます」
声はとても小さかった。
藤堂清成が頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
私は箱をバッグに入れた。
胸の奥が重かった。
これは私が望んでいた場面ではなかった。
金持ちや権力者たちに畏怖され、
彼らに小心翼翼と忖度され、
「安全な贈り物」を差し出され、
敬意を込めた距離を保たれる。
すべてが心地悪かった。
それでも、私は受け取った。
拒否することが、必ずしも正しいとは限らないからだった。
善意の中に畏怖が混じり、利益の中に必要な協力が混じっている世界で、私は生きていた。
これは私をより疲れさせた。
会談が終わった後、藤堂清成は私をエレベーターの前まで見送ってくれた。
これもまた、逃げ出したくなった。
エレベーターの扉が開く直前、彼が忽然と言った。
「白川さん」
私は顔を上げた。
「はい……」
「誤解しないでください。私たちがあなたを畏怖しているのは、ただ百目影倉を破壊できるからだけではありません」
私は一瞬、固まった。
彼は続けた。
「より重要なのは、あなたがそれを破壊する力を持ちながら、あの視線の残片を残すことを選んだということです」
「それは、単に強いということよりも、稀なことです」
エレベーターの扉が開いた。
私はどう返事すればいいのかわからなかった。
ただ顔を伏せて、小声で言った。
「私はそんなにすごい人間じゃありません」
藤堂清成が言った。
「あなた自身がそう思っていないとしても、」
「それが他人にそう思わせないわけではありません」
エレベーターの扉が閉まった。
私は扉に映る自分の姿を見ていた。
普通の制服。
普通のバッグ。
疲れた顔。
そしてバッグの中には、あまりにも多くの意味を背負わされた、ただの普通のピックが入っていた。
ソレンセンが低く言った。
「彼らはお前を敬うようになり始めたな」
私は眉を寄せた。
「敬っているんじゃない」
「畏怖し、忖度し、感謝し、期待している」
それはゆっくりと言った。
「これらはすべて、供物になる」
私は顔を伏せた。
「私は供物なんて欲しくない」
「しかし、お前はすでに受け取った」
私の指がわずかに握りしめられた。
そうだ。
私は受け取った。
金でもなく、依頼でもなく、ただ一枚のピックを。
しかしそれも、ある種の象徴だった。
私は世俗界の上層から来る畏怖と善意を受け入れ始めていた。
不本意でも、
心地悪くても、
利益計算が混じっているとわかっていても。
これが、百目影倉事件の後の現実だった。
私はもう、誰もが下北沢黒弦のことを忘れるようにすることはできない。
誰もが恐れなくなるようにすることもできない。
誰もが忖度しなくなるようにすることもできない。
私にできることは、これらのものにルールを設けることだけだった。
余響楽団に接触させないこと。
普通の身元を干渉させないこと。
私的な支配を受け入れないこと。
感謝を取引に変えないこと。
畏怖を支配に変えないこと。
少なくとも今は、それしかできなかった。
AfterToneに戻ったとき、みんなはすでにリハーサルの準備を始めていた。
陽菜が私を見て手を振った。
「小音! 戻ってきたんだ!」
日和が聞いた。
「説明会はうまくいった?」
私は頷いた。
「うん……まあまあ」
澪が私のバッグを見た。
「飯ある?」
私は首を振った。
「ない」
彼女は明らかにがっかりしていた。
私は少し迷った後、バッグからピックの箱を取り出した。
陽菜が近づいてきた。
「わあ、綺麗なピック!」
日和もちらっと見た。
「新しく買ったの?」
私は少し間を置いてから、言った。
「誰かにもらった」
日和が私を見た。
彼女は何かに気づいたようだったが、追及はしなかった。
澪が評価した。
「高そう」
私は顔を伏せた。
「たぶん……まあまあだと思う」
実際のところ、私は値段を知らなかった。
知りたくもなかった。
陽菜が笑いながら言った。
「じゃあ小音、次の本番でこれ使えばいいじゃん! かっこよさそう!」
私は箱の中のピックを見ていた。
それはただの物だった。
術式もなく、汚染もなく、位置情報もなかった。
しかしそれは、下北沢黒弦を知っている人間から来たものだった。
畏怖から来たもの。
感謝から来たもの。
上層世界からの探りと忖度から来たものだった。
私はこれをAfterToneの中に入れたくなかった。
しかし、それはすでに私の手の中にある。
私は少し考えて、箱を閉じた。
「本番では、やっぱり自分の古いピックを使う」
陽菜が目を瞬かせた。
「新しいの使わないの?」
私は小さく言った。
「これは……予備にしておく」
なぜなら、私はまだ覚悟ができていなかったからだった。
まだ、あの畏怖とともに送られてきたものを、余響楽団の舞台で使う覚悟ができていなかった。
少なくとも今は。
日和が微笑んだ。
「そうね。慣れたものの方が安心するわ」
澪が言った。
「予備の飯も大事だよ」
「澪、全部飯に結びつけないで」
私は小さく笑った。
この瞬間、ようやく少しだけ胸の重さが軽くなった気がした。
藤堂清成でも、世俗界の財団でも、全日本の退魔界でも、
彼らは下北沢黒弦を畏怖してもいい。
私に忖度してもいい。
契約や保護、ピックや安全計画を送ってきてもいい。
しかしAfterToneの中では、どのピックを本番で使うかを決めるのは、私自身だった。
それはとても小さなことだった。
数百億日元や地下結界、文化資産グループと比べれば、ほとんど取るに足らないことだった。
それでも、私にとってはとても重要だった。
ソレンセンが闇の中で静かに言った。
「小さなことで大きな流れに抵抗しているな」
私は古いピックを手に取り、自分の位置に立った。
「うん」
「滑稽だ」
「たぶん」
日和が最初の拍を叩いた。
陽菜が歌い始めた。
澪のベースがリズムの中に沈み込んでいった。
私は顔を伏せて、弦を弾いた。
古いピックの縁には、少しだけ摩耗の跡があった。
手触りは馴染みのあるものだった。
音も、馴染みのあるものだった。
これは、どの財団が送ってきたものでもない。
退魔界のどの勢力が畏れを抱いている象徴でもない。
これは、私自身の音だ。
少なくとも、この瞬間は、そうだった。