俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第29章 コンビニ、旧書店、そして名前のない保護圏
下北沢黒弦という名前は、最初は大組織の間で重くなっていた。
それが次第に沈み始めた。
中小の退魔事務所の業務グループに、
民間の協力者たちの酒席に、
世俗界の情報屋たちの見積書に、
LiveHouseの主催者たちの注意事項に、
そして最後には、「少しだけ知っている」普通の人々の耳にまで沈んでいった。
彼らは必ずしも退魔界の仕組みを理解しているわけではない。
百目影倉や天穹システム、鏡楽座、白鏡監督といった名前を知っているわけでもない。
ただ一つだけ知っていた。
下北沢の近くに、
「乱暴に手を出すと危ない」人がいる。
見た目は普通の女子高生で、
ギターバッグを背負い、
いつも顔を伏せていて、
話す声がとても小さい。
でも、誰かが彼女の周りにトラブルを持ち込めば、
そのトラブルが先に断たれるかもしれない。
この噂は荒唐無稽だった。
そして危険だった。
なぜなら、荒唐無稽な噂ほど、正確な報告よりも早く広がるからだ。
新宿、ある地下雑誌の編集部。
この雑誌は表向き、アンダーグラウンドカルチャーや小劇場、インディー映画、都市伝説を扱っていた。
裏では、曖昧な領域の情報も集めていた。
本物の退魔組織というわけではない。
暗面のドアの隙間から覗いている普通の人々に近い。
編集長の片桐は四十代半ばで、髪は乱れ、机の上は録音ペンや写真、雑誌、コンビニコーヒーで埋まっていた。
ある日、フリーライターが一つの企画書を机に置いた。
タイトルはこうだった。
「下北沢アンダーグラウンドバンドと都市伝説の少女——黒弦噂調査」
片桐は一目見ただけで、原稿を押し返した。
「これはやらない」
ライターは驚いた。
「なぜですか? 最近この話題、かなり熱いんですよ。謎のギタリスト、演出中のシステム異常、関西の奇妙な噂……確実にバズります」
片桐が顔を上げた。
「この『奇妙な噂』の裏に何があるか、知ってるか?」
「都市伝説?」
「違う」
片桐は煙草を一本取り出しかけたが、オフィスが禁煙だと思い出し、指の間に挟んだままにした。
「これは書いた翌日に誰かがドアを叩きに来るかもしれない類のものだ」
ライターが笑った。
「特調室?」
片桐は彼を見た。
ライターの笑顔が消えた。
片桐が低く言った。
「書ける都市伝説もある。廃駅とか、真夜中のビデオ、勝手に鳴る電話とか」
「でも、ある名前は記事にすべきじゃない」
彼は原稿のタイトルにある「黒弦」の二文字を指で叩いた。
「特にこれだ」
ライターが眉を寄せた。
「本当にそんなに危険なんですか?」
片桐は少し黙った。
「俺は彼女が危険かどうかは知らない」
「ただ、最近三つの異なるソースから同じ忠告をもらった」
「一つは退魔事務所の人」
「もう一つはLiveHouse関係者」
「最後は、ある大財団の安全部外注顧問だ」
ライターの顔色が変わった。
この三つの世界が同時に、同じ人物に対して同じ警告を発するのは、極めて異例だった。
片桐は原稿を折り、シュレッダーに入れた。
「覚えておけ。書ける神秘は、たいてい十分に神秘じゃない」
「本当に触れてはいけないものは、タイトルすらつけるな」
シュレッダーが回った。
「黒弦噂調査」が細かい紙片になった。
池袋、ある小さな退魔道具店。
店主は榊という名字の老女だった。
彼女は符紙や塩の袋、鈴、旧念珠、護身香袋、そして民間協力者向けの低級結界用品を売っていた。
これらの品はどれも強くはない。
しかし実用的だった。
中小事務所や新人の退魔者が、安い消耗品を求めてよく訪れた。
最近、店に奇妙な需要が増えていた。
多くの客がこう聞いてくるようになった。
「黒弦を防ぐお守りはありますか?」
初めて聞いたとき、榊老女は耳が遠いのかと思った。
「何を防ぐ?」
「黒弦です」
「どの黒弦? 呪詛線? 影縛線? 怨糸?」
客が声を低くした。
「下北沢のあの」
榊老女は即座にそろばんを机に叩きつけた。
「売らない」
客が驚いた。
「なぜですか?」
老女が睨んだ。
「そんなものを買って何をするつもりだ? 彼女を防ぐ? 頭でもおかしいのか?」
客がもごもごと言った。
「彼女本人を防ぐわけじゃなくて……念のためです」
榊老女が冷笑した。
「君たち若い者は、フォーラムの噂を少し聞いただけで、自分で対策を立てられると思っている」
「教えてやるが、噂の半分でも本当なら、うちの店にあるものを全部合わせても防げない」
客の顔が青ざめた。
老女は続けた。
「それに、彼女は今まで普通の人を積極的に傷つけたことがあるか?」
「ないだろう?」
「なら、何を防ぐ?」
「自分が手を出して後悔しないように?」
客は肩を落として帰っていった。
その日から、榊老女は店の入り口に一枚の紙を貼った。
**本店は、特定の協力者に対する悪意ある試探用品を販売いたしません。**
その下に小さな文字で一行。
**特に黒弦に関する問い合わせはご遠慮ください。**
この紙はすぐに界隈に広まった。
「怖がりだ」と笑う者もいた。
「見識がある」と言う者もいた。
しかし、多くの新人はそこで一つの暗黙の了解を覚えた。
下北沢黒弦を「対処できる相手」として扱おうとしてはいけない。
本当に経験のある者は、彼女を最初から「対処する対象」として見ていない。
世俗界では、情報はもっと隠密に伝わっていた。
東京のある企業危機コンサルティング会社。
深夜の会議室。
彼らの顧客は普通の会社ではない。
暗面の存在を知りながら、自分たちは退魔システムに属していない企業たちだった。
商業施設、メディア会社、演出プラットフォーム、不動産グループ、イベント主催者。
彼らは霊災を理解したいわけではない。
ただ知りたいだけだった。
どこが危険か。
誰に手を出してはいけないか。
もし何か起きたら、誰に連絡すべきか。
会議のテーブルでは、顧問たちが「東京特殊リスク人物・会場関連簡報」を整理していた。
その中の数ページが空白だった。
ただ一つの代号だけが記されていた。
**H-Kurotsuru**
横に注記があった。
**公開伝播禁止。**
若い顧問が眉を寄せた。
「写真すらないんですか?」
ベテラン顧問が言った。
「ないし、あってはいけない」
「顧客が聞きます」
「ならこう答えろ。もし彼女が会場内に現れた場合、普通の未成年演出者または観客として対応せよ。撮影禁止、質問禁止、特別接触禁止」
若い顧問が理解できなかった。
「これがリスク管理ですか?」
ベテラン顧問がペンを置いた。
「最高レベルのリスク管理とは、リスクに自分が管理していることを気づかせないことだ」
会議室が一瞬、静かになった。
別の顧問が聞いた。
「もし顧客が積極的に接近しようとしたら?」
「思いとどまらせろ」
「高額を提示されたら?」
「倍額で思いとどまらせろ」
「それでも接触を望むなら?」
ベテラン顧問は簡報に目を落とした。
「真壁玄周の結末を先に読ませろ」
誰も言葉を発しなかった。
真壁玄周はすでに警告事例になっていた。
貧しかったからでも、弱かったからでもない。
むしろ逆だった。
彼には金があり、権力があり、術師がいて、倉庫があり、作品があり、野心があった。
それでも、見た目は普通の女子高生の協力者によって、最も核心的な資産を崩された。
世俗界の人々は、この種の威圧を最もよく理解していた。
だからこそ、金が通用しなくなったとき、彼らは術師よりも恐れる。
私はもちろん、これらのことを何も知らなかった。
その日、私はただコンビニで夕飯を買っていた。
おにぎり、ヨーグルト、ホットココア。
今回はようやく間違えずに済んだ。
レジに商品を置くと、店員は二十代前半の男の子で、何度か見たことがある人だった。
彼の動作は普通だった。
スキャン。
袋詰め。
温めるか、と聞く。
私は小声で答えた。
「いりません」
そして支払いを済ませようとしたとき、店のドアが開いて、酔った中年男性が入ってきた。
近くで飲み終わった客のようで、足元が少しふらついていた。
店員が眉を寄せた。
男は冷蔵庫の前でビールを一本取り、会計のときに苛立たしげにカウンターを叩いた。
「早くしろよ」
店員は明らかに緊張していた。
私は無意識に少し横にずれた。
巻き込まれたくなかった。
注目されたくなかった。
見知らぬ酔漢とコンビニで何か関わりを持ちたくなかった。
ところがその男が急に私の方を見た。
「学生? こんな時間に外をうろついて」
私は体が固まった。
店員が即座に言った。
「お客様、先に会計をお願いします」
男は彼の言葉を無視して、何か言いかけようとした。
そのとき、店の奥の雑誌コーナーで雑誌を選んでいた中年女性が顔を上げた。
彼女はただの客に見えた。
しかしソレンセンが低く言った。
「彼女は暗面を知っている」
私は胸が一瞬、冷たくなった。
女性が近づいてきて、静かな口調で言った。
「あなた、私の会計の邪魔をしています」
酔漢が不満そうに言った。
「は?」
女性はスマホを取り出した。
「警察を呼びますか?」
店員もすぐに同調した。
「お客様、このまま他の客に迷惑をかけるなら、警察に通報します」
酔漢が二言三言悪態をついて、ようやく金を払って出ていった。
一連の流れはとても普通だった。
コンビニでよくある小さなトラブル。
私は顔を伏せ、買い物袋を強く握っていた。
「た、ありがとう……」
店員の笑顔が少し硬かった。
「大丈夫です」
その女性も私を一瞬見た。
彼女は「下北沢黒弦」とは言わなかった。
お辞儀もしなかった。
名刺も渡さなかった。
ただ普通の客のように雑誌を持ってレジに向かった。
店を出る直前、彼女は小さく頭を下げた。
とても軽い動作だった。
まるでこう言っているようだった。
安心して。
私はコンビニを出てから、ようやくゆっくりと状況を理解した。
これは偶然ではなかったのかもしれない。
あの女性は小さな退魔組織の人間かもしれない。
あるいは、少しだけ情報を持っている消息筋かもしれない。
彼女は私を認識していた。
そして、近づかず、質問もせず、ただ最も普通の方法で酔漢をかわしてくれた。
この事実は、私の胸を非常に複雑にした。
守られた。
特調室のような公式の保護ではない。
財団のような目的を持った保護でもない。
日和たちが知らない優しさでもない。
ただ、暗面の端にいる誰かが、私を認めた上で「邪魔にならないように少しだけ助ける」ことを選んだ。
この保護はとても小さかった。
しかしとても重かった。
なぜなら、それは下北沢黒弦の噂が、すでにコンビニのような場所にまで影響を及ぼし始めていることを示していたからだ。
ソレンセンが静かに言った。
「見ろ。畏怖も善意に変わることがある」
私は買い物袋を握りしめた。
「それは畏怖じゃない」
「では何だ?」
私は長い間、考えた。
「わからない」
畏怖かもしれない。
同情かもしれない。
業界内の暗黙の了解かもしれない。
あるいは、もし私がコンビニで酔漢に絡まれて精神的に崩れたら、誰にとっても良くないと彼女が判断したのかもしれない。
どれにしても、私ははっきりと言えなかった。
翌日、AfterTone。
私はこの出来事を日和に話した。
もちろん、普通バージョンで。
「昨日の夜、コンビニで酔漢がいて、店員さんと一人のお客さんが助けてくれた」
陽菜がすぐに心配そうに聞いた。
「小音、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫」
日和が眉を寄せた。
「これからは遅くならないようにしよう。一緒にコンビニに行くこともできるよ」
澪が言った。
「酔漢より飯団のほうが大事だ」
この発言は妙だったが、私は同意した。
日和が真剣に言った。
「でも、こういうときはまず自分を守って。無理に我慢しなくていいから」
私は顔を伏せた。
「うん」
彼女たちは、あの女性が私を認識していたかもしれないことや、背後に暗面の暗黙の了解があったかもしれないことまでは知らない。
しかし彼女たちがくれたアドバイスは、それでも正しかった。
自分を守る。
我慢しない。
普通の人が出す普通のアドバイスは、退魔界のどんなリスク評価よりも直接的だった。
私はいつもの位置に座り、ギターを取り出した。
昨日買った新しい弦はすでに張ってあった。
新しいピックも一日使って、少しだけ手になじんできていた。
リハーサルを始める前に、日和が突然言った。
「小音」
「ん?」
「最近、なんかいろいろ考え事してるみたい」
私は体が固まった。
日和が笑った。
「聞くつもりはないよ」
彼女は私を見て、静かに続けた。
「ただ、どんなことを考えていても、少なくともギターを弾いているときは、まずは音だけを聞いていてほしい」
私はその言葉に、胸の奥のどこかが抜けるような感覚を覚えた。
私は頷いた。
「うん」
陽菜が手を挙げた。
「じゃあ今日は思いっきり大きな音でやろう!」
日和が即座に言った。
「会場制限を超えない程度にね」
澪が補足した。
「飯の量は思いっきり」
「澪!」
私は小さく笑った。
リハーサルが始まった。
今回は、外で人々が私をどう噂しているか、旧書店や情報屋や道具店やコンサルティング会社やコンビニの客がどう私を見ているかを、できるだけ考えないようにした。
ただ音を聞く。
ドラム。
ベース。
歌。
ギター。
最初は難しかった。
でも少しずつ、それ以外の雑音が後ろに下がっていくのがわかった。
ソレンセンは暗がりの中で何も言わなかった。
もしかすると聞いていたのかもしれない。
もしくは、次に外の噂が私を苦しめるのを待っていたのかもしれない。
でも少なくともこの瞬間、私はまだ弾くことができた。
夜、東京の地下フォーラムで、誰かが短い投稿をした。
「今日、コンビニで彼女を見た」
すぐに誰かが返信した。
「誰?」
投稿者は答えた。
「名前は言えない。ギターバッグを背負ってた。噂よりずっと普通に見えた」
誰かがさらに聞いた。
「話しかけた?」
投稿者は返した。
「いや。ただ酔漢をかわしてあげただけ。彼女がありがとうって言った声が小さかった」
スレッドが少し静かになった。
それから誰かが書いた。
「じゃあやっぱりただの学生なのか?」
長い沈黙のあと、投稿者が書いた。
「わからない。学生かもしれない。怪物容器かもしれない。百目影倉を切断した人かもしれない」
「でも少なくともコンビニでは、酔漢に絡まれたくない普通の子供だった」
この返信はすぐに管理者に隠された。
理由は:
高危協力者の普通の身元に関する内容。
しかし、目にした人々はすでにその言葉を記憶していた。
こうして、中小勢力と普通の消息筋の間で、また一つの言い方が広まった。
下北沢黒弦は恐ろしい。
でも忘れてはいけない。
彼女はコンビニで小さく「ありがとう」と言う。
この言葉は速くは広がらなかった。
大きくもなかった。
しかし、誇張された噂よりも消しにくい形で、確かに広まっていった。