俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第3章 交流ライブ前夜、俺は初めてあの扉を見た
交流ライブの前夜、俺は眠れなかった。
ベッドに横たわり、天井を見つめていた。部屋は静かだった。自分の心音が聞こえるほど、静かだった。
普段なら、こんなときはスマホを開いてYouTubeでも見るか、電気をつけて少しだけギターを弾いてみる。
だが今日はそれができなかった。
少しでも静かになると、ソレンセンが出てくるからだ。睡眠も休息も呼吸も必要としない。それはただ、俺の魂にのしかかる黒い石のように存在している。黙っているときのほうが、話しているときよりよほど恐ろしい。
「明日は、お前が最も恐れている場だな」
ソレンセンが口を開いた。
俺は布団を顔まで引き上げた。
「話しかけないで」
「俺に命令はできん」
「だったら、お願いだから話しかけないで」
「ますます笑えるな」
俺は目を閉じた。
「あなたは、結局どうしたいの?」
「体だ」
ソレンセンは即答した。
「俺はお前の体が欲しい」
俺の手が布団を強く握りしめた。
「無理です」
「不可能などない。お前は脆い、白川一音。脆いものは、いつか必ず割れる」
「わたしは、絶対に承諾しません」
「するさ」
その声には怒りがなかった。ただ、確信だけがあった。この確信のほうが、脅しよりよほど恐ろしい。
「お前は、人前に出れば崩れる」
「失敗すれば、泣くだろう」
「失望した視線に晒されれば、消えたいと思うはずだ」
「耐えきれなくなったとき、お前は俺を呼ぶ」
反論しようとした。だが喉が塞がったような感覚があった。
ソレンセンが挙げた光景は、どれも俺が何度も想像してきたものだった。脳内で何百回とシミュレーションしてきたものだった。
もし明日、音を間違えたら。
もしみんなに迷惑をかけたら。
もし動画に撮られてネットに上げられたら。
もしコメントで「このギタリスト足を引っ張ってる」と言われたら。
もし日和が失望したら。
もし陽菜が困ったように笑ったら。
もし澪が何も言わなくなったら。
俺は本当に、崩れてしまうかもしれない。
「いや……」
俺は小さく言った。
「わたしは、絶対に……」
ソレンセンが低く笑った。
「ならば、証明してみせろ」
その夜、俺は夢を見た。
夢の中で、俺は巨大なステージに立っていた。客席には誰もいない。ただ、無数の目だけが闇の中に浮かんでいた。瞬きをしながら、俺を見つめている。
俺はギターを抱えていたが、指が動かなかった。スピーカーから耳障りなノイズが流れていた。誰かが笑っている。誰だかわからない。でも、確実に笑っている。
「失敗」
「陰気」
「気持ち悪い」
「なぜそこに立っている?」
逃げようとした。だが、足元のステージが黒い海に変わっていた。海水がゆっくりと足首まで這い上がり、手のように俺を掴もうとする。
遠くで、王座に座るソレンセンが目を細めた。
「白川一音」
その声は、異様に優しかった。
優しすぎて、背筋が凍った。
「扉はここだ」
俺は視線を落とした。
本当に、目の前に一つの扉が現れていた。
黒紫色の扉。金色の鎖が絡みつき、その鎖の隙間に細い裂け目ができていた。
手を伸ばせば。
少しだけ開ければ。
ソレンセンが出てこれる。
「開けろ」
ソレンセンが言った。
「俺がお前の代わりに、すべてを耐えてやる」
俺は扉の前に立ち、手をゆっくりと上げた。
客席の無数の目が、まだ俺を見ている。笑い声がますます大きくなる。
怖かった。本当に怖かった。
もう怖くなくなりたかった。
もう、こんな思いをしたくなかった。
もし、この強大な怪物に代わりに立ってもらえたら……
指が扉に触れた。
その瞬間、太鼓の音が響いた。
ドン。
俺は動きを止めた。
もう一度。
ドン。
それは夢の中の音ではなかった。記憶の中の音だった。
日和のドラムだった。
安定していて、明るくて、まるで闇の中で道を切り開くように響く。
次にベースの音が重なった。
低く、冷静で、隣で「慌てるな」と言っているようだった。
そして陽菜の歌声。
眩しすぎて目を背けたくなるのに、それでも自分がここにいることを教えてくれる声。
俺は扉を見つめながら、指が震え始めるのを感じた。
ソレンセンの声が冷たく変わった。
「開けろ」
俺は首を振った。
「いやです」
「開けろ」
「いやです」
「お前は後悔する」
「わたしは、もう毎日後悔してる!」
なぜか、急に叫んでいた。
「毎日、後悔してる! ちゃんと話せなかったこと、普通に笑えなかったこと、他の人みたいに生きられなかったこと!」
黒い海面が激しく揺れた。俺は泣きながら後ずさった。
「でも……もし体をあなたに渡したら、もっと後悔することになる!」
扉に巻きついた金色の鎖が、急に強く締まった。白い炎が燃え上がり、ソレンセンの姿が再び王座の奥へと引きずり込まれていった。
その目は、俺をじっと見つめていた。
賞賛も、理解もなかった。ただ、純粋な殺意だけがあった。
「白川一音」
ソレンセンは一言ずつ、ゆっくりと言った。
「二度と、隙を見せるな」
夢から目が覚めた。
もう朝になっていた。枕が少し湿っていた。
俺は膝を抱えて、ぼんやりと座っていた。
スマホに、日和からのメッセージが届いていた。
『一音ちゃん、今日も頑張って! 一緒にステージに立とうね!』
その文章を見て、目が少し熱くなった。
頭の中で、ソレンセンは黙っていた。
わかっていた。あいつは消えていない。ただ、一時的に引いただけだ。
今日、俺は交流ライブに行く。人前に立って、ギターを弾く。
そして、俺の体の中にいる怪物は、ずっと俺が失敗するのを待っている。ステージの上で崩れ落ちるのを待っている。自分で扉を開けるのを待っている。
怖かった。ゴミ箱の中に潜り込んで、清掃車に運ばれていってしまいたくなるほど怖かった。
それでも、俺は服を着替えて、ギターを背負った。
玄関で少し立ち止まり、小さく言った。
「体は、渡しません」
ソレンセンはしばらく答えなかった。
やがて、冷たく言った。
「待っている」
俺はドアを開けた。
外の光が、少し眩しかった。
俺は顔を伏せて、下北沢へと歩き出した。