俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第30章 誰かが私のために閉めてくれたドア、そして売られてはいけない名前

第30章 誰かが私のために閉めてくれたドア、そして売られてはいけない名前

 

コンビニでの出来事の後、私はある恐ろしいことに気づき始めた。

 

私の周囲に「隙間」ができつつあった。

 

物理的な隙間ではない。

 

人と人との間に生まれる、微妙な距離感だった。

 

以前は下北沢の街を歩いていても、普通の人々は私にほとんど注意を向けなかった。

 

私は顔を伏せ、ギターバッグを背負い、ただ動く影のように歩いていた。

 

それは私にとって都合が良かった。

 

注目されないことは、安全に等しかったからだ。

 

しかし最近は違っていた。

 

ある人々は私に気づくと、すぐに視線を逸らすようになった。

 

これは直接見つめられるよりも、ずっと恐ろしかった。

 

たとえば、夜にいつも出ている駅前の占い師。

 

以前は私が通ると、彼女は私の靴を一瞬見るだけで、またすぐにスマホを操作し続けていた。

 

今は私が近づくと、まず顔を上げ、それからすぐに視線を移し、恋愛運・学業運・事業運と書かれた小さな木の看板を少し内側に引き寄せる。

 

まるで私の道を塞がないようにしているかのようだった。

 

もう一つは、AfterTone近くの旧書店。

 

以前は音楽雑誌を見に行くたび、店主はただ普通に「いらっしゃいませ」と言っていた。

 

最近は、私が近づくと、店主が通路に積み重なっていた本の箱をさりげなくどかしてくれる。

 

私が近づくと、まるで急に在庫整理を思い出したかのように奥に下がり、カウンターを空けてくれる。

 

邪魔をしない。

 

質問もしない。

 

媚びもしない。

 

ただ道を開ける。

 

この「道を開ける」という行為はとても静かで、

 

そしてとても重かった。

 

ソレンセンが意識の奥で言った。

 

「彼らは災厄に通路を開けている」

 

私は顔を伏せ、鞄の肩紐を強く握った。

 

「違う」

 

「では何だ?」

 

「ただ……礼儀正しいだけかもしれない」

 

ソレンセンが笑った。

 

「自分自身で信じられるか?」

 

私は答えなかった。

 

信じられなかったからだ。

 

今の下北沢は、私の周囲に名前のない小さな保護圏ができつつあった。

 

それは特調室のものではない。

 

天城グループのものではない。

 

藤堂清成のものではない。

 

どの正式な組織にも属していない。

 

ただ、少しだけ知っている人々によって作られていた。

 

旧書店の店主。

 

コンビニの客。

 

小型退魔事務所の外勤者。

 

LiveHouseの関係者。

 

地下雑誌の編集者。

 

道具店の店主。

 

彼らは私に近づかない。

 

邪魔をしない。

 

できるだけ、私に自分が気づいていることを悟らせないようにしている。

 

それでも、彼らは確かに自分の行動を調整していた。

 

奇妙な視線を少しだけ遮ってくれ、

 

開けてはいけないドアをそっと閉めてくれ、

 

ある種のトラブルを少し遠ざけてくれていた。

 

本来なら、これは安心できるはずだった。

 

しかし私はむしろ不安だった。

 

この保護自体が、

 

私がもう「自然に街を歩ける普通の女子高生」ではなくなっていることを証明しているからだった。

 

下北沢の旧書店の店主は相馬という名前だった。

 

六十歳を超え、白髪交じりの髪で、古いセーターを好んで着ていた。

 

若い頃は退魔者ではなかった。

 

しかし家系が小さな神社と繋がりがあったため、少しだけ「見える」体質だった。

 

とても明確なものではない。

 

古い本に残る感情を少し感じ取れたり、

 

どの古本を普通の客に売ってはいけないかを判断できたりする程度だった。

 

彼はこの店を三十年経営し、さまざまな奇妙な人間を見てきた。

 

劇団の役者。

 

地下バンドのメンバー。

 

不眠の脚本家。

 

サボり学生。

 

ギターバッグを背負った若者。

 

そして時折通りかかる退魔者たち。

 

最初、彼はギターバッグを背負った女子高生に特別な注意を払っていなかった。

 

彼女はいつも顔を伏せ、本を買うときの声は紙と紙が擦れる音のように小さかった。

 

人見知りしているように見えた。

 

音楽雑誌のコーナーに長く立っていることもあった。

 

古い楽譜をめくることもあった。

 

会計のときに「袋はいりますか?」と余計な一言を言うと、

 

お釣りを落としそうになるほど緊張する子だった。

 

このような人間は、下北沢には少なくなかった。

 

ある夜、店にあった古い写真集が突然、自分でページをめくり始めた。

 

その本には問題があった。

 

表紙は昭和時代の廃れた劇場で、

 

中に何枚か、かつて影像汚染に触れた写真が挟まっていた。

 

相馬は翌日、知り合いに連絡して処分するつもりだった。

 

しかし本が先に目を覚ました。

 

ページの間に白い目がゆっくりと開いていった。

 

そのとき、ちょうどあの女生徒が店に入ってきた。

 

彼女はただ、古いギターマガジンを買いに来ただけだった。

 

顔を伏せていて、その写真集の方は見ていなかった。

 

しかし彼女が本棚の前を通りかかった瞬間、

 

写真集の中にあった白い目が、突然閉じた。

 

消されたわけでも、封印されたわけでもない。

 

まるで天敵を見たかのように、自分から閉じた。

 

相馬はカウンターの後ろで、手のひらに汗をかいていた。

 

女生徒は雑誌を持って会計に来た。

 

小さな声で聞いた。

 

「これ……いくらですか?」

 

相馬は彼女を見た。

 

彼女は自分が何を起こしたのか、まったく気づいていない様子だった。

 

そのとき相馬は、最近地下で広がりつつある重い名前を思い出した。

 

下北沢黒弦。

 

彼は口にしなかった。

 

ただ普通の値段で会計を済ませた。

 

女生徒はお金を払い、小さく礼を言って店を出ていった。

 

ドアが閉まったあと、相馬はその古い写真集を三重の符紙で包み、夜中に知り合いのところへ届けた。

 

あの日から、彼は一つのことを心に刻んだ。

 

彼女自身は、誰かの伝説になりたくないのかもしれない。

 

だから、彼女がすでに伝説になっていることを、できるだけ気づかせない方がいい。

 

私は相馬店主のこうした考えを、もちろん知らなかった。

 

ただ最近、旧書店で本を買うのがとてもスムーズになった。

 

スムーズすぎて不自然だった。

 

探している雑誌が、いつも取りやすい位置に置いてある。

 

通路がちょうど空いている。

 

会計のときに店主が余計なことを聞かない。

 

藤堂清成のようにお辞儀をすることもない。

 

天城怜司のように危険なことを言うこともない。

 

ただ普通に言うだけだった。

 

「ありがとうございました」

 

これが私に、少しだけ安心感を与えていた。

 

もし「道を開ける」ことが避けられないなら、

 

少なくともこの形の道の開け方は、普通に最も近いものだった。

 

その日、私は中古の楽理の本を一冊買った。

 

表紙は少し古びていて、

 

値段はとても安かった。

 

私はその本を持ってAfterToneへ向かった。

 

陽菜はそれを見て驚いた。

 

「小音が自分から楽理の本を買うなんて!」

 

私は顔を伏せた。

 

「き、基礎を少し補いたくて……」

 

日和はとても喜んでくれた。

 

「いいね。あとで編曲するときに役立つよ」

 

澪が言った。

 

「楽理で飯が美味しくなるのか?」

 

日和が言った。

 

「ならない」

 

澪は明らかに興味を失った。

 

私は本を鞄に入れ、心の中で少しだけ軽くなった。

 

この本には異常がなかった。

 

符紙もなかった。

 

財団の意味もなかった。

 

システムの監視もなかった。

 

ただの普通の中古の本だった。

 

私は今、こうした「ただの普通であること」を、

 

とても大切に思うようになっていた。

 

しかし、すべてを普通のままにしておきたくない人もいた。

 

東京の東側、「灰町事務所」という小さな退魔組織の中で、

 

一人の若い男が地下フォーラムを見ていた。

 

彼の名前は宮野。

 

二十七歳。

 

民間協力者から正式メンバーになって間もない。

 

灰町事務所は小さく、主に商業施設の小規模怪談や、

 

オフィスの軽い怨気、夜間の騒音調査などを請け負っていた。

 

仕事はきつい。

 

報酬は高くない。

 

知名度も低い。

 

宮野は不満だった。

 

自分はいつまでも低級な事件ばかり扱っているべきではないと思っていた。

 

もっと大きなものに触れたい。

 

灰町事務所が力を持っていることを、誰かに知ってほしい。

 

自分自身が退魔界でただの「使い走り新人」ではなくなりたい。

 

だから下北沢黒弦に関する噂を見たとき、

 

彼の頭の中に危険な考えが浮かんだ。

 

もし彼女の本当の力を確認できたら。

 

もし少しでも証拠を撮れたら。

 

もし自分があの噂の高危協力者に接触したことを証明できたら。

 

たとえ悪意ある勢力に売らなくても、内部情報として扱えば、

 

自分の地位を上げられるかもしれない。

 

所長が彼が関連スレッドを見ているのを見つけたとき、すぐに眉を寄せた。

 

「触るな」

 

宮野は知らんぷりをした。

 

「ただ見てるだけです」

 

所長は湯飲み茶碗を置いた。

 

「見るのもほどほどにしろ。フォーラムが今、あんなに早くスレを隠す理由、わかってるか?」

 

「特調室が厳しくしてるから?」

 

「誰かがすでにこの件で損をしたからだ」

 

宮野は納得していなかった。

 

「俺は彼女を害するつもりはない。ただ遠くから確認するだけだ」

 

所長が彼を見て、声が冷たくなった。

 

「その考え方こそが一番危険なんだ」

 

「なぜですか?」

 

「自分が悪意がないと思っているからだ」

 

所長は言った。

 

「悪意がない人間ほど、『ただ確認するだけ』という言い訳で境界を越えやすい」

 

宮野は黙った。

 

しかし本心では納得していなかった。

 

その夜、彼はそれでも下北沢へ行った。

 

持っていったのは攻撃的な道具ではない。

 

ただ一枚の低級反応符だった。

 

この符紙は強い異常の残留を感知できる。

 

強力な霊圧や呪いに近づくと、色が変わる。

 

彼は自分に言い聞かせた。

 

ただ確認するだけだ。

 

接触はしない。

 

写真も撮らない。

 

彼女の友人には近づかない。

 

ただ一目見るだけ。

 

これは悪意ではない。

 

その夜、私はAfterToneから出たとき、すでに十時近くになっていた。

 

リハーサルが予定より少し長引いた。

 

日和が一緒に駅まで歩くか聞いたが、

 

彼女にはまだ帳簿の整理があり、陽菜はマイクスタンドを片付け、澪は自分の上着の置き場所を探していた。

 

私は先に飲み物を買いに行くことにした。

 

下北沢の夜の街は見慣れていた。

 

看板。

 

通行人。

 

電線。

 

遠くから聞こえる笑い声。

 

そしてLiveHouseの入り口に貼られたポスター。

 

私は自動販売機の前に立った。

 

今回は真剣だった。

 

ホットココア。

 

必ずホットココアを押す。

 

硬貨を入れて、指をボタンに当てた。

 

まさに押そうとしたその瞬間、ソレンセンが口を開いた。

 

「左後方」

 

私の手が止まった。

 

「何?」

 

「誰かが小さな紙片を持って君を見ている」

 

私は背中が冷たくなった。

 

またか。

 

誰かが私を観察している。

 

私は振り返らなかった。

 

ただホットココアのボタンを押した。

 

缶が落ちてきた。

 

ゴン、という音。

 

私は腰を曲げて取ろうとした。

 

自動販売機のガラスの反射を使って、左後方の人物を見た。

 

若い男。

 

普通のコート。

 

手に折りたたんだ小さな反応符を握っていた。

 

彼はそれほど近くにはいなかった。

 

表情は緊張していた。

 

プロの敵というより、

 

自分が来るべきではなかったとわかっていながら、それでも来てしまった人に見えた。

 

ソレンセンが低く笑った。

 

「切るか?」

 

「いや」

 

「彼は君を試している」

 

「まだ何もしていない」

 

「何かしてからでは遅い」

 

私はホットココアを握り、心臓の音が少し速くなっているのを感じた。

 

私は事件に巻き込まれたくなかった。

 

街中で退魔界の人間を相手にしたくなかった。

 

AfterToneの近くを、また暗面の接触地点にしたくなかった。

 

だから私は最もシンプルな方法を選んだ。

 

振り返り、

 

顔を伏せ、

 

早足でその場を離れる。

 

接触しない。

 

話しかけない。

 

相手に機会を与えない。

 

これで大丈夫のはずだった。

 

しかし宮野は慌てていたようだった。

 

彼は私が歩き去るのを見て、自分が気づかれたと思い、機会を逃しつつあると感じた。

 

無意識に反応符を展開してしまった。

 

ただ展開しただけだった。

 

攻撃ではなかった。

 

しかし反応符が私に向けられた。

 

その瞬間、私は背後の暗闇に小さな懐中電灯を照らされたような感覚を覚えた。

 

とても弱い。

 

とても小さい。

 

ほとんど脅威にはならなかった。

 

しかし方向が間違っていた。

 

それは照らしてはいけない場所を照らした。

 

黒い海の底で、ソレンセンがゆっくりと目を開いた。

 

空気が一瞬、冷えた。

 

私の手の中のホットココアの缶が、わずかに変形する音を立てた。

 

「やめろ」

 

私は心の中で即座に言った。

 

ソレンセンの声は低かった。

 

「虫が覗いている」

 

「動くな」

 

「光を吾の牢に照らした」

 

「彼は知らない」

 

「無知は理由にならない」

 

「私にとってはなる」

 

私はその場に立ち止まり、指が震えていた。

 

宮野の持っていた反応符は、すでに端から黒く変色し始めていた。

 

ただの変色ではなかった。

 

端から少しずつ腐っていくように。

 

彼の顔色が一瞬で真っ白になった。

 

なぜなら彼はようやく気づいた。

 

自分が感知したのは、ただの強力な霊圧などではなく、

 

底の見えない黒い海だったことを。

 

彼は符紙をしまおうとした。

 

しかし符紙はすでに、その反応によって逆方向に食いつかれていた。

 

まるで細い鉤が、ソレンセンの気配の端に引っかかったかのようだった。

 

ソレンセンにとってはもちろん大したことではない。

 

しかし宮野にとっては、精神が崩壊するかもしれないレベルだった。

 

「条件」

 

私は心の中で急いで言った。

 

ソレンセンが冷たく笑った。

 

「こんな虫のために?」

 

「第一、私の体を乗っ取ることは禁止」

 

「できる」

 

「第二、彼を傷つけない」

 

「つまらない」

 

「約束して」

 

「できる」

 

「第三、反応符と君の気配の間の接続だけを切断し、反噬せず、追跡せず、汚染を残さない」

 

「君はどんどん細かい仕事をするようになってきたな」

 

「約束して」

 

金色の鎖が軽く震えた。

 

契約が成立した。

 

私はピックを取り出さなかった。

 

ただ爪でホットココアの缶を軽く叩いた。

 

チン。

 

とても小さな音だった。

 

黒い線が地面に沿って滑っていった。

 

宮野の持っていた反応符が、パチンと真っ二つに折れた。

 

彼は数歩後ろに下がり、その場に座り込んでしまった。

 

怪我はしていなかった。

 

ただ顔色が紙のように白かった。

 

私は顔を伏せ、早足で彼の前に歩み寄った。

 

これはとても難しかった。

 

見知らぬ人間の方から進んでいくことは、反応符を切断するよりも私にとっては難しかった。

 

それでも私は近づいた。

 

彼は顔を上げ、私を見て、恐怖で目を見開いていた。

 

「ご、ごめん……」

 

彼は言った。

 

「俺はただ……」

 

私は小さな声で彼の言葉を遮った。

 

「もうこんなことはしないで」

 

声はとても小さかった。

 

それでも彼はびくりと体を震わせた。

 

私は慌てて付け加えた。

 

「危ないから」

 

これは本心だった。

 

脅しではなかった。

 

しかし彼には脅しのように聞こえたようだった。

 

彼は必死に頷いた。

 

「は、はい! わかりました!」

 

私はますます逃げ出したくなった。

 

「あなた……大丈夫ですか?」

 

「大丈夫です!」

 

彼の返事は早すぎた。

 

まるで遅く答えると切断されるのを恐れているかのようだった。

 

私はどうしていいかわからなかった。

 

結局、手に持っていたホットココアを近くの階段に置いた。

 

「これ……あげます」

 

言い終わってすぐに後悔した。

 

なぜホットココアを彼に渡したのか。

 

あれはようやく正しく買えた飲み物だったのに。

 

でも置いてしまったものは仕方ない。

 

今更取り返す方がもっと変だった。

 

宮野は呆然とホットココアを見つめていた。

 

私は顔を伏せた。

 

「少し落ち着いてから帰って」

 

そして私は振り返り、AfterToneへ逃げ帰った。

 

今回は本気で逃げた。

 

宮野は階段に座ったまま、長い間立ち上がれなかった。

 

手の中の反応符は真っ二つに折れていた。

 

断面はきれいで、ただ引き裂かれたというより、

 

世界との何らかのつながりがそっと切られたように見えた。

 

彼はわかっていた。

 

もし先ほどの黒い線が少しでもずれていたら、

 

折れていたのは符紙ではなく、彼の精神防衛線だったかもしれない。

 

もっと恐ろしかったのは、

 

下北沢黒弦が彼を傷つけなかったことだった。

 

それどころか、ホットココアまで残していったことだった。

 

これが恐怖をより複雑なものにした。

 

もし彼女が冷たく脅していたら、彼は相手を怪物として扱うことができた。

 

もし彼女が傲慢に警告していたら、彼は自分がただ強い者に抑えられたと言うことができた。

 

しかし彼女は顔を伏せ、小さな声で「危ないから」と言った。

 

そしてホットココアを置いていった。

 

これが宮野を地に足がつかない気持ちにさせた。

 

なぜなら彼は突然、自分の「ただ確認するだけ」という行為が、

 

彼女にとっては一種の邪魔であり、

 

場合によっては一種の傷つけでもあったことを理解したからだった。

 

彼はスマホを取り出し、所長にメッセージを送った。

 

すみません、下北沢に行きました。

 

所長はすぐに返信してきた。

 

生きてるか?

 

宮野はその四文字を見て、ますます複雑な気持ちになった。

 

生きてる。傷つけられなかった。ホットココアをもらった。

 

向こうが長い間沈黙したあと、返信が来た。

 

帰ってこい。反省文を書け。そして、ホットココアを飲め。

 

宮野は少し冷めたホットココアを手に取った。

 

手がまだ震えていた。

 

彼は缶を開け、一口飲んだ。

 

とても甘かった。

 

甘すぎて、泣きたくなった。

 

その日から、灰町事務所の内部に一つの規則が追加された。

 

下北沢黒弦をいかなる形でも試してはならない。

 

その下に、所長が自ら書き加えた一行があった。

 

彼女の自制は、君が試すことのできる理由ではない。

 

私はAfterToneに駆け戻ったとき、陽菜がちょうど楽屋から出てきたところだった。

 

「小音? どうしてそんなに急いでるの?」

 

私は息を切らしながら答えた。

 

「な、何でもない」

 

日和が中から顔を出した。

 

「飲み物は?」

 

私は固まった。

 

飲み物。

 

私のホットココア。

 

私はそれを宮野に渡してしまった。

 

私は顔を伏せた。

 

「わ、渡しちゃいました」

 

楽屋が一秒ほど静かになった。

 

澪が顔を上げた。

 

「気前がいいな」

 

陽菜の目が輝いた。

 

「小音が自分から誰かに飲み物をあげるなんて! どんな人?」

 

「その……少し落ち着いた方がいい人」

 

この答えはあまりにも正直だった。

 

正直すぎて、日和が私を見て、何か聞き返そうとした。

 

しかし結局、彼女はただこう言っただけだった。

 

「じゃあ飲みたいなら、私がお茶持ってるよ」

 

私は頷いた。

 

「ありがとう」

 

彼女は私に温かいお茶のペットボトルを渡してくれた。

 

私はそれを受け取った。

 

普通の温かいお茶。

 

異常もなければ、符紙もなく、

 

退魔界の意味を一切与えられていないもの。

 

私はソファに座り、ゆっくりと一口飲んだ。

 

ソレンセンが暗がりの中で口を開いた。

 

「戦利品を試探者にやったな」

 

「戦利品じゃない」

 

「あれは君がようやく正しく押せたホットココアだ」

 

「もういい」

 

「惜しい?」

 

「うん」

 

ソレンセンが笑った。

 

今回は本当に面白がっているように聞こえた。

 

「試探者は許せるのに、ホットココアは惜しいのか」

 

私は顔を伏せた。

 

「ホットココアは無実だから」

 

ソレンセンは一瞬、沈黙した。

 

それから低く、長く笑った。

 

私はそれが何を意味しているのか、よくわからなかった。

 

しかし少なくとも、彼はもう怒ってはいなかった。

 

それで十分だった。

 

翌日、中小勢力の界隈にまた新しい噂が広がった。

 

今回は百目影倉についてでも、

 

天穹システムについてでもなかった。

 

内容はこうだった。

 

誰かが低級反応符で下北沢黒弦を試した。

 

符紙が折れた。

 

本人は生きている。

 

しかもホットココアを一つもらった。

 

この噂は、多くの真面目な報告よりも速く広がった。

 

ある者はその試探者を愚かだと笑った。

 

ある者は下北沢黒弦がやはり恐ろしく、低級の探知すら即座に切り返したと言った。

 

またある者は、長い沈黙のあとでこう言った。

 

彼女は人を傷つけなかった。

 

結局、旧道具店の榊老女がこの話を聞いたとき、

 

店の入り口に貼ってあった紙の下に、もう一行を追加で貼った。

 

他人の愚かさを証明するために、試探などするな。

 

灰町事務所の宮野がその後、符紙を買いに行ったとき、

 

この言葉を見て、黙って頭を下げた。

 

老女が彼を見た。

 

「ホットココアは美味かったか?」

 

宮野は耳まで真っ赤になった。

 

「……美味かったです」

 

老女が鼻を鳴らした。

 

「なら、その味を覚えておけ」

 

私はこれらの噂を知らなかった。

 

ただ、次の数日で下北沢の街が少し静かになったことに気づいた。

 

暗面の端にいる人々が私を見かけると、以前より距離を取るようになった。

 

旧書店の店主は相変わらず普通に「ありがとうございました」と言ってくれた。

 

コンビニの店員は相変わらず普通にスキャンしてくれた。

 

楽器店の店主は、もう贈り物を押しつけようとはしなくなった。

 

まるで皆が暗黙の了解で、一歩後ろに下がったかのようだった。

 

これで私は少しだけ楽になった。

 

この楽さは新しい噂の上に成り立っていたが、

 

少なくとも、もう反応符を私に向ける者はいなくなった。

 

その日の午後、私はまた自動販売機で飲み物を買った。

 

今回はもう一度、ホットココアを押した。

 

缶が落ちてきた。

 

私はそれを取り、握った。

 

成功した。

 

誰にも渡さなかった。

 

異常もなかった。

 

試探もなかった。

 

私は自動販売機の前に立ち、小さく息を吐いた。

 

ソレンセンが口を開いた。

 

「今回は守りきったな」

 

私は顔を伏せた。

 

「うん」

 

「祝う価値はあるか?」

 

「そこまでは」

 

「でも嬉しそうだ」

 

私は否定しなかった。

 

私はホットココアを持ってAfterToneへ戻った。

 

街角で、誰かが遠くから私を見て、自然に方向転換して去っていった。

 

邪魔をせず、

 

近づかず、

 

試すこともなく。

 

今回は、私はそれほど不快ではなかった。

 

なぜなら、彼らが距離を取るのは、

 

ただ恐れているからだけではなく、

 

ようやく誰かが理解し始めたからだと思えたからだった。

 

私の自制は、試すことのできるものではないということを。

 

私にとっては、それだけで十分な進歩だった。

 

とても小さかった。

 

しかしとても重要だった。

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