俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第4章 下北沢の交流ライブ、暗黒の王は初めて手を伸ばした
AFTER TONEの今日は、思っていた以上に人が多かった。
入口に小型交流ライブの告知が貼ってあり、地下のスペースは見知らぬ人たちや楽器ケース、笑い声、そして俺には耐えがたい青春の空気で埋め尽くされていた。
入った瞬間、俺はすぐに引き返したくなった。
日和が素早く俺の袖を掴んだ。
「一音ちゃん、帰っちゃだめだよ」
見抜かれていた。
俺は硬直したまま頷いた。
「わ、わたしはただ、非常口の位置を確認してただけです……」
「それもだめ」
日和の笑顔は優しかったが、手は緩めなかった。
店内にはすでにいくつかのバンドが来ていた。気泡水高校の軽音部の子たちは柔らかい雰囲気で、ギターを持っている子もいれば、ベースを持っている子もいた。一人の女の子はメニューを真剣に見ていて、今日の本番よりスイーツのほうが大事そうだった。
他にも電蚊香学園の制服を着た子たちが何人かいて、真ん中に立っている黒髪の少女は気品があって、生まれながらにナプキンの折り方が何種類もあることを知っていそうな雰囲気だった。隣の銀髪の男子は真面目な顔つきで、ピンク髪の女子は軽くお菓子を食べながら周りを見回していた。
俺は一瞬見ただけで、すぐに顔を伏せた。
いけない。
陽キャのオーラが強すぎる。
これ以上見ていたら、陰属性が高すぎて勝手に跪いてしまいそうだった。
ソレンセンが口を開いた。
「これらが、お前が恐れている対象か?」
俺は答えなかった。
「弱い」
ソレンセンは評価した。
「全員が、笑えるほど弱い」
「そんな言い方……」
「俺が解き放たれれば、何もしなくても、この世界は踏み潰される。お前が恐れている視線も言葉も評価も、絶対的な力の前では意味をなさない」
俺はギターケースを強く握った。
「だから、あなたは出られないんです」
ソレンセンは沈黙した。俺はこれで奴を怒らせたことを知っていたが、今のところは何もできなかった。
ライブが始まった。
最初にステージに上がったのは、気泡水高校の軽音部だった。彼女たちの音楽は温かかった。午後の教室、温かいお茶、ケーキ、そして放課後にゆっくりとオレンジ色に変わっていく空気のような音だった。圧迫感も、攻撃性もなかった。それでも、みんなが笑っていた。
俺は隅に立って聞いているうちに、少しだけ心が落ち着いてきた。
だがソレンセンは冷たく言った。
「軟弱だ」
俺は小声で言った。
「……いいと思いますけど」
「征服欲もなく、殺意もなく、敵を切り裂く鋭さもない。そんな音に価値はない」
「音楽は、敵を切り裂くためにあるわけじゃないです」
「では、何のためにある?」
俺は答えられなかった。
俺自身も、よくわかっていなかった。ただ、時には音楽が、溝の中に隠れている人間に「まだ外の世界と繋がっていられるかもしれない」と思わせてくれることがある。それだけはわかっていた。
しかし、そんなことをソレンセンに言っても、嘲笑われるだけだろう。
順番が回ってきた。
日和が振り返って俺を見た。
「一音ちゃん、行こう」
足に鉛が詰め込まれたようだった。客席の人々がこちらを見てくる。見知らぬ視線が、大量に。
その視線に悪意があるわけではない。それでも、ただ「見られている」という事実だけで、俺には十分すぎるほど怖かった。
俺は自分の位置に立った。照明が当たる。呼吸が速くなっているのが自分でもわかった。指先が冷たく、ピックが落ちそうになった。
「白川一音」
ソレンセンの声が響いた。
「お前は震えている」
「黙って……」
「失敗する」
「黙って……」
「自分の醜態を見られる」
「黙って……」
「友達が失望する」
呼吸が止まった。
この一言が、急所を突いてきた。
日和が失望する。陽菜が失望する。澪はきっと何も言わないだろうが、俺が失敗したことを知る。
そんなことは、嫌だった。
「だから、体を俺に寄越せ」
ソレンセンの声が、背後から首を抱きしめるように近づいてきた。
「一瞬だけでいい」
「全員を殺すわけではない」
「ただ、恐怖を理解させればいい」
「ただ、お前に跪かせればいい」
目の前に、あの扉が現れた。
黒紫色で、金色の鎖が絡みついている。
扉の隙間から、理解を超えた力が滲み出していた。
少しだけ開ければ。
ほんの少しだけ開ければ。
もう、怖くなくなる。
わかっていた。これは間違っている。
でも、本当に怖かった。
そのとき、日和のドラムスティックが落ちた。
ドン。
現実の音が、俺を引き戻した。
続いて二発目。
ドン。
澪のベースが重なった。
陽菜が息を吸い、歌い始める準備をした。
彼女たちは、もう始めていた。
俺が怖くなくなるのを待ってはくれなかった。ただ、俺が弾くことを信じてくれていた。
俺は自分の手を見た。
まだ震えていた。
それでも、動かすことはできた。
俺は扉を開かなかった。
弦を押さえた。
最初のギターの音が鳴ったとき、俺は自分でも間違えたと思った。
しかし、音は出ていた。
少し粗く、少し張りつめていて、どこか俺らしくない暗い圧迫感を帯びていた。ソレンセンの気配が、確かに俺に影響を与えていた。インクが水に落ちたように、完全に洗い流すことはできなかった。
それでも、弾いているのは俺だった。ソレンセンではなかった。
俺は続けていた。恐怖は消えていない。視線も消えていない。ソレンセンも、まだそこにいた。
それでも、俺は止まらなかった。
サビに入ったとき、突然、頭の奥で引き裂かれるような震動が走った。
ソレンセンが怒っていた。
俺が上手く弾いたからではない。恐怖の中で、俺がソレンセンを選ばなかったからだった。
黒い海が荒れ、王座の鎖が激しく揺れた。
「白川一音!」
その声は、初めて平静さを失っていた。
「そんな軟弱な繋がりに頼るくらいなら、俺の力を受け入れればいいだろうが?」
俺は答えなかった。ギターを弾いている最中だったから、答えられなかった。
するとソレンセンは、あることをした。
それは俺の体を乗っ取るものではなかった。できないからだ。ただ、扉の隙間から、わずかな力を外へ伸ばした。
攻撃ではない。
乗っ取りでもない。
ただの悪意だった。
黒紫色の悪意が、冷たい風のようにステージを掠めていった。
客席の何人かが、突然顔色を悪くした。
電蚊香学園の黒髪の少女が、わずかに眉を寄せた。
気泡水高校の子たちも、小さく話していたのを止めた。
日和のドラムが一瞬遅れた。
陽菜の歌声が、わずかに途切れかけた。
俺にはわかった。
ソレンセンは、恐怖でこの会場を汚染しようとしていた。
俺が体を渡さなくても、周囲の人々に苦痛を与えられることを、俺に理解させようとしていた。
怒りが、初めて恐怖を上回った。
心の中で叫んだ。
「戻れ!」
ソレンセンが冷笑した。
「俺に命令を下すのか?」
「戻れ!」
どこからか湧いてきた力だった。日和のドラムがまだ続いているからかもしれない。陽菜がまだ歌っているからかもしれない。澪のベースが止まっていないからかもしれない。
あるいは、初めてはっきりとわかったからかもしれない。
もし俺が止めなければ、隣にいる人たちが傷つく。
頭の奥で、金色の鎖が強く光った。白い炎が意識の中から燃え上がり、黒紫色の扉の隙間を激しく突き刺した。
ソレンセンの力が、強制的に押し戻されていった。低く唸る声が聞こえた。
その瞬間、指が火傷をしたように痛んだ。
それでも、俺は止めなかった。
すべての恐怖と痛みと怒り、そしてわずかな「負けたくない」という気持ちを、弦に込めた。
ギターの音が、大きく跳ね上がった。
それはソレンセンの音でも、ただの白川一音の音でもなかった。
どこか奇妙な音だった。
暗い部屋の中で、震える手でわずかに隙間を開けたときの、光のような音。
多くはない。
それでも、確かに差し込んできた。
最後の音が落ちた。
AFTER TONEが、数秒だけ静かになった。
そして、拍手が起こった。
俺はステージに立ったまま、頭の中が真っ白だった。歓声の実感も、成功したという喜びもなかった。ただ「まだ生きている」という疲労だけがあった。
日和が駆け寄ってきて、俺を抱きしめた。
「一音ちゃん! 今、すっごくかっこよかった!」
陽菜の目が、驚くほど輝いていた。
「一音ちゃん、最後のところ、本当にカッコよかった!」
澪が俺を見て言った。
「深淵に飲み込まれかけたけど、這い上がってきたみたいだった」
そんなに正確に言わないでください。
俺はもう少しで泣きそうになった。
客席では、電蚊香学園の黒髪の少女が、どこか考え込むような目で俺を見ていた。
気泡水高校の方では、一人の女の子が小さく言っていた。
「さっきの一瞬……なんか、怖かったね」
俺は顔を伏せ、誰とも目を合わせられなかった。
頭の中で、ソレンセンが長い沈黙のあとで笑った。
今回の笑い声は、以前のものより冷たかった。
「なるほどな」
ソレンセンが言った。
「聖霊プニの封印は、お前だけを守っているわけではない」
「それは、お前の意志を借りて俺を抑えつけている」
俺の胸が沈んだ。
ソレンセンは続けた。
「つまり、お前が揺らげば、封印は緩むということだ」
暗闇の奥で、あの目がゆっくりと開いた。
「面白い」
「白川一音」
「俺は今、お前が崩れるところを、もっと見たいと思った」
俺はステージに立ったまま、拍手がまだ完全に止まっていない音を聞いていた。
みんなは、ライブが成功したと思っている。
俺だけが知っていた。
さっきのは、勝利ではなかった。
ただの、最初の引き合いだった。
そして、俺の体の中にいる怪物は、ようやく本気になり始めた。