俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第5章 三十万円、そして廃棄されたレコーディングスタジオの中のもの

 

第5章 三十万円、そして廃棄されたレコーディングスタジオの中のもの

 

俺は初めて、東京の地下にもう一つの意味があることを知った。

 

下北沢の地下ライブハウスとは違う、本当の意味での地下だ。薄暗く、湿っていて、立ち入り禁止の張り紙が貼られていて、入口に結界札を貼るような地下だった。

 

「白川さん」

 

黒いスーツを着た女性が俺の前に立っていた。二十代後半くらいに見え、細いフレームの眼鏡をかけていて、話し方はとても落ち着いていた。

 

「低レベルの霊災処理に協力してほしい」

 

俺はAFTER TONEの楽屋にある折りたたみ椅子に座り、膝の上に両手を置いて、干物のように背筋を伸ばしていた。

 

「そ、その……わたし、ただの高校生ですけど……」

 

「わかっています」

 

「退魔師でもないですし……」

 

「それもわかっています」

 

「じゃあ、なぜわたしを……」

 

女性は眼鏡を押し上げた。

 

「先日の交流ライブで、あなたの『裏人格』が異常に対して極めて高い抑圧力を発揮したからです」

 

裏人格。

 

その言葉を聞いた瞬間、胃が縮むのを感じた。

 

違う。

 

裏人格なんかじゃない。

 

もっと、ずっと厄介なものだ。

 

でも、言えなかった。

 

絶対に言えなかった。

 

頭の中で、ソレンセンが小さく笑った。

 

「裏人格、か」

 

その言葉を味わうような声だった。

 

「こいつらは、自分で自分を欺くのが上手いな」

 

俺は顔を伏せて、聞こえなかったふりをした。

 

女性は続けた。

 

「現場は世田谷区にある廃棄レコーディングスタジオです。対象は音系の怨霊と見られ、建物に入った人間に取り憑き、自傷衝動を誘発するタイプです」

 

俺はびくりと体を震わせた。

 

「じ、自傷……?」

 

「現在、死者は出ていませんが、すでに四名が入院しています」

 

「そ、それなら、専門の人に任せたほうが……」

 

「専門の人間が入っても、影響を受けています」

 

女性の声は依然として落ち着いていた。

 

「ですが、あなたは違います」

 

俺はこれを褒め言葉だとは、まったく思えなかった。

 

「もし断ったら?」

 

「断ることは可能です」

 

女性はフォルダから一枚の紙を取り出した。

 

「協力報酬は三十万円。目標の抑圧に成功した場合、危険手当としてさらに十万円を加算します」

 

三十万円。

 

頭の中に、すぐにエフェクターやレコーディング代、宣伝用の写真、AFTER TONEの機材修理、そして予算を真剣に計算している日和の顔が浮かんだ。

 

いけない。

 

白川一音。

 

お金のために危険な事件に関わってはいけない。あなたはただの普通の高校生だ。

 

普通の高校生は、異常から遠ざかって、家に帰って宿題をして、ネットアカウントを眺めているべきだ。

 

ソレンセンの声が意識の奥に貼りついた。

 

「君たちのバンドは金が足りていない」

 

俺は唇を噛んだ。

 

「黙って」

 

「彼女たちは機材を必要としている」

 

「黙ってください」

 

「君は彼女たちの足を引っ張りたいのか?」

 

俺の指が強く握りしめられた。

 

この怪物は、本当に俺の弱いところを突いてくる。

 

女性が俺を見た。

 

「もちろん、強制はしません。ただ、検討してほしい」

 

俺は本当に断りたかった。

 

本当は。

 

それでも、最終的に口から出た言葉はこれだった。

 

「わたし……抑圧だけを担当します」

 

女性は頷いた。

 

「了解です」

 

「他の人には、わたしのことを知られないようにしてください」

 

「あなたを精神系の異能者として登録します。能力の表れ方は『人格の切り替わり』という形で処理します」

 

人格の切り替わり。

 

俺は顔を伏せた。これでいい。これなら、少なくともソレンセンだとバレることはない。少なくとも、俺の体の中に本物の災厄が住み着いていることは、誰にも知られない。

 

その夜、俺は特調室の人たちと一緒に廃棄レコーディングスタジオへ向かった。外では小雨が降っていた。

 

建物のガラスがいくつか割れており、入口に封鎖テープが張られていた。周囲にはスーツ姿の人間が数人立ち、二人ほどの狩衣を着た退魔師もいた。そのうちの一人が俺を見て、眉を寄せた。

 

「この子か?」

 

「高校生?」

 

「こんな子供を入れるなんて、特調室も人がいなくなったものだな」

 

俺は顔を伏せた。ごめんなさい。俺もそう思う。

 

ソレンセンが冷たく言った。

 

「黙らせてやれ」

 

「だめです」

 

「ただ黙らせるだけだ」

 

「あなたが言う『黙らせる』は、普通の意味の黙らせるじゃないでしょ!」

 

ソレンセンが低く笑った。

 

「お前は、少しずつ俺を理解し始めているな」

 

年配の退魔師が一人、真面目な表情をしていた。

 

もう一人は、俺とあまり年齢が変わらないくらいの少女だった。

 

黒い長髪に白い小袖、赤い緋袴を着て、手に御幣を持っていた。姿勢が正しく、視線が澄んでいて、俺はまともに見つめられなかった。

 

女性が紹介した。

 

「こちらは白妙神社から来られた神代鈴音さんです。今夜は結界維持を担当していただきます」

 

神代鈴音が俺を見た。

 

その視線は真剣で、真剣すぎて電柱の陰に隠れたくなった。

 

「あなたが白川一音さん?」

 

「は、はい……」

 

「体内の別人格は、今、起きていますか?」

 

俺は咳き込みそうになった。

 

別人格。

 

違う。

 

起きています。

 

しかも、今、あなたたち全員を死んだ目で見ています。

 

俺は顔を伏せて言った。

 

「わかりません……」

 

神代鈴音がわずかに眉を寄せた。

 

「もし制御を失いそうになったら、すぐに教えてください。鎮圧を試みます」

 

ソレンセンが一瞬だけ静かになった。

 

それから、笑った。

 

大笑いではなく、ただ小さく一声だけ。

 

それでも、俺の背中から冷や汗が一気に流れ落ちた。

 

「鎮圧、だと?」

 

その声は、深淵の底から響くような低さだった。

 

「試させてみろ」

 

俺は心の中で必死に叫んだ。

 

だめ!

 

絶対に、何もするな!

 

ソレンセンは答えなかった。

 

しかし、その悪意は一時的に引いていった。

 

俺は少しだけ安堵した。

 

少なくとも、まだ鎖で繋がれている。

 

俺が許可しなければ、好き勝手には動けない。

 

女性が小型の通信機を渡してきた。

 

「もし様子がおかしいと思ったら、すぐに撤退してください」

 

俺は頷いた。

 

そして、皆の視線の中を歩いて、廃棄レコーディングスタジオの中へ入っていった。

 

中に入った瞬間、空気が一気に冷たくなった。

 

壁には黄ばんだ吸音材が貼られ、床には切れたケーブルが散らばっていた。一番奥のレコーディングブースの向こう側に、埃をかぶった古いマイクが置かれていた。

 

そのマイクの前に、人影が立っていた。

 

いや、人ではなかった。

 

顔がなかった。

 

ただ、大きく裂けた口だけがあった。

 

その口が、歌を歌っていた。

 

旋律はなく、ただ爪でガラスを引っかくような音だけだった。

 

後ろに付いてきた退魔師の顔色が、大きく変わった。

 

「聴覚を閉じろ!」

 

そう叫んだ直後、声が俺の耳に染み込んできた。

 

一瞬で、たくさんの光景が見えた。

 

俺がステージに立っている。

 

みんなが俺を笑っている。

 

日和が失望して背を向ける。

 

陽菜が困ったように視線を逸らす。

 

澪が言う。

 

「やっぱり、一音はダメだな」

 

俺の呼吸が止まった。

 

嘘だ。

 

これは嘘だ。

 

わかっていた。これは幻だ。

 

それでも、わかっていることと耐えられることは、まったく別だった。

 

足が震えた。

 

指が動かない。

 

無顔の怨霊が、ゆっくりとこちらを向いた。

 

口が、さらに大きく裂けていく。

 

「失敗」

 

それは、たくさんの人の声で言った。

 

「あなたは、いつもみんなの足を引っ張る」

 

俺はほとんど跪きそうになった。

 

そのとき、ソレンセンが口を開いた。

 

「この程度のものに、お前の恐怖を覗かれてやる価値があるのか?」

 

その声には、慰めなどなかった。

 

ただ、冒涜されたことに対する怒りだけがあった。

 

「白川一音」

 

「体を、少しだけ貸せ」

 

俺は歯を食いしばった。

 

「体を乗っ取るのは禁止です」

 

「もちろん」

 

「人を殺すのも禁止です」

 

「元々人間ではない」

 

「後ろにいる人を傷つけるのも禁止です」

 

「できる」

 

「他の誰にも、お前の存在を知られてはならない」

 

「つまらないが、できる」

 

俺は手を上げた。手にギターはない。機材の山から引っ張り出してきた、切れた弦だけだった。

 

ソレンセンが笑った。

 

黒紫色の影が、俺の指に絡みつき、切れた弦に缠みついた。

 

細い金属の弦が、突然生き物のようにピンと張りつめた。

 

怨霊が叫びながら飛びかかってきた。

 

俺は手を振り下ろした。

 

黒い弦が空気を切り裂いた。

 

爆発も、炎もなかった。

 

ただ、軽い音がした。

 

まるで弦が切れたような音だった。

 

怨霊の体が、真ん中から裂けた。

 

すぐに消えることはなかった。

 

無数の黒い線に絡みつかれ、地面へと引きずり込まれていった。

 

その口はまだ叫んでいた。

 

ソレンセンの声が脳内に響いた。

 

「うるさい」

 

次の瞬間、黒い線が締めつけられた。

 

怨霊の声が、少しずつ潰されていった。

 

浄化でもなければ、供養でもない。

 

ただ、飲み込まれていくだけだった。

 

俺の顔が青ざめた。

 

「やめて!」

 

ソレンセンが淡々と言った。

 

「抑圧だと、お前は言ったはずだ」

 

「これが抑圧だ」

 

怨霊は黒い線の中で歪み、最後には捏ね潰された黒い泥の塊になった。そして灰白色の光となって、古いマイクの中に封じ込められた。

 

部屋が静かになった。

 

後ろにいた退魔師たちは、一言も発することができなかった。

 

俺はそこに立ち、指がまだ震えていた。

 

女性が入ってきて、床の跡を見てから、俺を見た。

 

「白川さん」

 

その声には、初めて変化があった。

 

「今のは……」

 

俺は顔を伏せ、自分の声がとても小さく聞こえるのを感じた。

 

「わたしじゃありません」

 

部屋が、さらに静かになった。

 

この言葉で、彼女たちは誤解するだろう。裏人格だと思うだろう。さっき動いたのは別の自分だと思うだろう。

 

それでいい。

 

ソレンセンだと知られるよりは、ずっとマシだ。

 

ソレンセンが脳内で笑った。

 

「いい判断だ」

 

「彼女たちは、お前を恐れ始めた」

 

俺は答えなかった。ただ、黒い泥の塊を見つめながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。

 

これが、力を借りた代償だ。

 

任務が終わった後、特調室は約束通り三十万円を振り込んでくれた。危険手当の十万円も加算され、合計で四十万円になった。

 

口座の数字を見て、指が固まった。

 

四十万円。

 

余響楽団はもっと良いレコーディングスタジオを借りられる。新しい機材も買える。もっとちゃんとした宣伝もできる。日和はきっと喜ぶだろう。

 

それでも、このお金の匂いが、少し吐き気をもよおさせた。

 

ソレンセンが静かに言った。

 

「受け取れ」

 

「これは、お前の恐怖で得たものだ」

 

「そして彼女たちは、その恐怖をお前に貢いだ」

 

俺は顔を伏せ、スマホをポケットにしまった。

 

雨はまだ降っていた。

 

特調室の人たちは、遠くから俺を見ていた。退魔師たちは近づいてこなかった。彼らはソレンセンを知らない。ただ、下北沢の内気なギタリストの体の中に、恐ろしい裏人格がいることを知っているだけだった。

 

その日から、東京の退魔界で一つの名前が広まり始めた。

 

下北沢黒弦。

 

そして俺はただ一つ、知りたかった。

 

この四十万円を、日和に「どこから来たの?」と聞かれずに済ませられるだろうか。

 

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