俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第6章 普通の人間が知らない東京、そして霞が関の地下会議室

第6章 普通の人間が知らない東京、そして霞が関の地下会議室

 

2047年11月11日

 

余響楽団の他の三人は、真相を知らない。

 

朝倉日和は知らない。

 

黒瀬澪は知らない。

 

桜庭陽菜は知らない。

 

彼女たちはただ、俺が最近「政府関連の臨時協力業務」を始めたとしか思っていない。

 

公式の説明はこうだ。

 

「特殊施設における音響事故および心理的ストレス調査協力」

 

論文のタイトルみたいな名前だった。

 

専門的で、なおかつ退屈で、普通の人を騙すにはちょうどいい響きだった。

 

日和は最初、当然のように心配してくれた。

 

「小音、本当に危ない仕事じゃないよね?」

 

そのとき俺は顔を伏せ、服の端をぎゅっと握りしめながら、細い声で答えた。

 

「た、多分大丈夫だと思います……」

 

このセリフを口にした瞬間、壁に頭をぶつけたくなった。

 

「多分大丈夫」という言葉は、ほぼ「危険な可能性があります」と言っているのと同じだった。

 

日和は俺の顔をしばらく見つめ、最後に小さく息を吐いた。

 

「やりたくないなら、無理しなくていいよ。バンドのお金は少しずつでも大丈夫だから」

 

俺は強く頷いた。

 

陽菜は純粋に信じてくれていた。

 

「小音は政府の音響問題を調査してるの? すごい! なんかプロのミュージシャンみたい!」

 

違う。

 

全く違う。

 

俺は音響問題を調査しているわけではない。

 

黒い弦で邪術式神を封じたり、東京の地下に潜む奇妙な組織と関わったりしている。

 

そんなことは、一言も言えなかった。

 

澪は俺をしばらく見てから、淡々とこう言った。

 

「一音、最近隠しダンジョンやってるみたい」

 

俺は水を吹き出しそうになった。

 

「ち、違います!」

 

「報酬が高い」

 

「そ、それは……ちょっと特殊だからです」

 

「隠しダンジョン」

 

「違います!」

 

澪はそれ以上追及してこなかった。ただ静かに頷いただけだった。

 

「金は忘れずに返してね」

 

日和がすぐに澪の頭を叩いた。

 

「澪!」

 

俺は彼女たちを見て、心が少し軽くなり、同時に重くなるのを感じていた。

 

軽いのは、彼女たちがまだここにいてくれること。

 

重いのは、俺がこれからも彼女たちに嘘をつき続けなければならないことだった。

 

俺は彼女たちを信用していないわけではない。

 

むしろ信用しているからこそ、言えなかった。

 

普通の人間は、東京の暗面の存在を知らない。

 

特調室が何度も強調していたルールだった。

 

普通の人間が弱いからではない。

 

「認知」そのものが、異常を拡散させる媒体になるからだ。

 

一人が都市伝説が本当だと知れば、恐怖を抱きやすくなる。

 

恐怖は、怪異に捕食されやすい。

 

十人が知れば、噂になる。

 

一万人が知れば、信仰になる。

 

もし東京全体が、ある怪談が本当だと信じたら、その怪談は本当に影の中から這い出してくるかもしれない。

 

だから、普通の日本人は知らない。

 

テレビは報道しない。

 

ニュースは「ガス漏れ」「設備点検」「心理的ストレス」「ネットのデマ」「地下通路の一時停止」としか言わない。

 

学校は教えない。

 

警察は公表しない。

 

病院は診断書に書かない。

 

普通の人間は、普通の東京で生きている。

 

学校に行き、仕事に行き、恋愛をし、ライブを見て、終電に飛び乗り、コンビニでおにぎりを買う。

 

だが俺は、今、もう一つの東京を知ってしまった。

 

神社結界や政府の密室、廃駅や都市伝説の裏側に隠された東京を。

 

もっと恐ろしいのは、どうやらその東京に、俺の存在が記憶され始めているということだった。

 

彼らは俺をこう呼ぶ。

 

下北沢黒弦。

 

この名前が呼ばれるたびに、俺は世界から消えたいと思った。

 

霞が関の会議通知が来たのは、AfterToneの楽屋でギターの弦を交換しているときだった。

 

日和は前で次のライブの予約をまとめ、陽菜は新曲のサビを練習し、澪はソファに寄りかかって、生きる目標を失ったベース魚のような顔をしていた。

 

スマホが震えた。

 

特調室からのメッセージだった。

 

---

 

白川一音協力者、

 

本日20時、霞が関第三合同庁舎地下に到着されたし。

 

関東区域特異災害合同評価会を開催する。

 

交通・時間手当は別途支給。

 

---

 

俺は画面を凝視した。

 

霞が関。

 

合同評価会。

 

関東区域。

 

これらの言葉が並んだ瞬間、期末試験や公開スピーチ、クラスでの自己紹介よりも恐ろしく感じられた。

 

俺はただの高校生だ。

 

なぜこんな、国家レベルの会議のようなものに参加しなければならないのか?

 

ソレンセンが、意識の奥でゆっくりと口を開いた。

 

「彼らはお前を恐れているからだ」

 

俺の手が震え、弦が指先に刺さりかけた。

 

「彼らはわたしを恐れているわけじゃない」

 

「恐れているのは、お前の『裏人格』だ」

 

その声には嘲りが混じっていた。

 

「つまり、彼らの理解の範囲内における『俺』というわけだ」

 

俺は唇を噛んだ。

 

「得意にならないで」

 

「なぜ得意になってはいけない?」

 

「彼らはあなたが誰かも知らない」

 

「どうでもいい」

 

ソレンセンが低く笑った。

 

「恐怖に、真名は必要ない」

 

俺は答えなかった。

 

この言葉は、どうやら正しいようだった。

 

そして、それはとても都合が悪かった。

 

日和が前から入ってきた。

 

「小音、どうしたの?」

 

俺は慌ててスマホを胸に押し当てた。

 

「な、何でもないです!」

 

あまりに怪しかった。

 

日和が目を瞬かせた。

 

「またあの協力業務?」

 

俺は頷いた。

 

「うん……会議だって」

 

「こんな夜に?」

 

「た、多分急なやつで……」

 

日和が眉を寄せた。

 

「わたしもついていこうか?」

 

「いりません!」

 

声が大きくなりすぎた。

 

陽菜が外から顔を覗かせた。

 

「小音?」

 

俺はすぐに縮こまった。

 

「い、いりません……専用車で迎えに来てくれるし、安全です」

 

安全。

 

この言葉を口にしたとき、崖から拾い上げたばかりのような感覚がした。

 

日和は俺の顔をじっと見たが、それ以上追及はしてこなかった。ただ近づいてきて、ずれてしまったギターケースを直してくれた。

 

「じゃあ、早く帰ってきてね。何かあったら絶対に連絡して」

 

俺は頷いた。

 

「うん」

 

澪がソファで手を上げた。

 

「会議にお弁当は出るの?」

 

俺は固まった。

 

「た、多分ないと思います……」

 

「政府、ケチだな」

 

なぜそこでそこにこだわるのか。

 

俺は思わず笑いそうになった。

 

でも、笑うことはできなかった。

 

胸の奥に、重いものが残っていたから。

 

俺はギターをケースにしまい、上着に着替えた。

 

出る前に、日和が後ろから声をかけた。

 

「小音」

 

俺は立ち止まった。

 

彼女は微笑んだ。

 

「一人で頑張りすぎないでね」

 

俺は顔を伏せた。

 

「うん」

 

でも、俺はわかっていた。

 

また一人で行かなければならない。

 

一部のことだけは、彼女たちを巻き込むわけにはいかなかった。

 

絶対に。

 

霞が関の夜は、下北沢とは全く違っていた。

 

下北沢の夜にはネオンやバンド、酒場、若者たちの笑い声、そして雑然としているのにどこか温かい空気がある。

 

霞が関の夜は静かだった。

 

静かすぎた。

 

高層の庁舎が無表情な巨人のように立ち並び、ガラス窓に整然とした明かりが灯っていた。

 

特調室の車が、俺を一見すると何の変哲もない政府庁舎の前に降ろした。

 

外から見れば、ここには何の特別さもない。

 

普通の入館管理。

 

普通の警備員。

 

普通のエレベーター。

 

普通すぎて、間違った場所に来てしまったのではないかと疑いたくなるほどだった。

 

エレベーターが地下五階まで降りたとき、ようやく普通の庁舎とは違うことがわかった。

 

ドアが開くと、そこには普通のオフィスビルにはありえない廊下があった。

 

白い壁。

 

黒い床。

 

窓はない。

 

壁の角には数メートルおきに見慣れないお札が貼られ、天井には監視カメラと、神社の鈴のような小さな金属器具が設置されていた。

 

科学と神秘が混ざり合い、高校生が来るべきではない雰囲気を醸し出していた。

 

眼鏡の女性がエレベーターの前で待っていた。

 

今日も黒いスーツ姿で、表情は落ち着いている。

 

「白川さん、こんばんは」

 

「こ、こんばんは」

 

「こちらへどうぞ」

 

俺は彼女の後ろについて歩いた。

 

廊下の両側にはたくさんの扉があり、プレートにはこう書かれていた。

 

異常情報分析室

 

都市伝説汚染監視室

 

結界設備管理室

 

記憶処理調整グループ

 

記憶処理。

 

俺は思わずその扉を何度も見てしまった。

 

眼鏡の女性が気づいた。

 

「普通の人間が異常と接触した場合、状況に応じて記憶の模糊化処理を行います」

 

「き、記憶を消すんですか?」

 

「削除ではありません。当事者に『ただの悪夢だった』『ストレスによるものだった』『勘違いだった』『普通の事故だった』と思わせる処理に近いです」

 

俺の胸が少し冷たくなった。

 

「もし、わたしの周りの人が……」

 

女性は足を止め、俺を見た。

 

「彼女たちが何も知らなければ、処理の必要はありません」

 

俺は顔を伏せた。

 

「わかりました」

 

だから、余計に言えなかった。

 

日和たちに知られてはいけない。

 

彼女たちを巻き込んではいけない。

 

いつか、誰かが彼女たちの前に立って、「すべてはただの悪夢だった」と言わなければならないような事態だけは、絶対に避けなければならなかった。

 

ソレンセンが冷たく笑った。

 

「秩序、か」

 

その言葉を味わうような声だった。

 

「実に傲慢な考えだな」

 

俺は反論しなかった。

 

今は、自分でもそれが正しいのかどうかわからなかったからだ。

 

会議室は広かった。

 

長テーブルを囲んで、すでに多くの人間が座っていた。

 

俺が入った瞬間、全員の視線が俺に集中した。

 

すぐに引き返したくなった。

 

本当は。

 

もし床に穴があれば、その場で潜り込みたかった。

 

もし壁に隙間があれば、紙のように体を潰して詰め込みたかった。

 

しかし、そんなものはなかった。

 

眼鏡の女性が言った。

 

「白川一音協力者、到着しました」

 

長テーブルの端に座る白髪の男性が、軽く頷いた。

 

「座れ」

 

俺は操り人形のように硬く動き、端の席に座った。

 

そして、周囲を観察し始めた。

 

もちろん、顔を伏せたまま、こっそりと。

 

会議室には特調室の人間がいた。

 

肩章の形が少し変な警察制服を着た人間がいた。

 

様々な神社の神職者がいた。

 

僧衣を着た中年僧侶もいた。

 

旧家系の人間らしい気配を漂わせる者も数人いた。

 

神代鈴音もいた。

 

白妙神社の席に座っており、俺を見つけると小さく頷いてくれた。

 

俺は少しだけ安心した。

 

少なくとも、ここに一人、知っている人間がいた。

 

とはいえ、彼女が知っているのは「危険な裏人格を持つ白川一音」であって、普通の俺ではなかった。

 

会議が始まった。

 

白髪の男性が自己紹介をした。

 

「内閣府特異災害調査室、関東区域統括官、久我山です」

 

統括官。

 

かなり偉い肩書きらしい。

 

俺はますます緊張した。

 

久我山統括官がスクリーンを起動させた。

 

そこに東京の地図が映し出された。

 

新宿、渋谷、池袋、上野、浅草、品川、臨海副都心。

 

いくつかの場所に赤い点が打たれていた。

 

「過去二週間、東京都内の異常発生件数が37%上昇しています。渋谷の鏡面異常、世田谷の音怨事件、白妙神社の襲撃事件、いずれも逆柱会と関連が確認されています」

 

逆柱会。

 

俺は指を縮めた。神代鈴音が以前教えてくれたことを思い出した。

 

逆さの鳥居の面を被った者たち。

 

白妙神社を戦場にしかけかけた者たち。

 

スクリーンが切り替わり、黒いマークが表示された。

 

逆さになった鳥居のマークだった。

 

久我山統括官が続けた。

 

「逆柱会は高濃度の負の感情を集め、東京地下の霊脈に干渉しようとしています。目的はまだ不明です」

 

警察制服の男性が口を開いた。

 

「彼らの活動は最近、渋谷、新宿、港区、江東臨海エリアに集中しています。もはや単独の神社で対応できるレベルではありません」

 

別の神社の代表が冷たく言った。

 

「白妙神社が襲撃される以前から、結界巡回の拡大を求めていました。特調室の対応が遅すぎます」

 

警察制服の男性が眉を寄せた。

 

「一般区域を大規模に封鎖することはできません。東京はあなたたちの神域ではありません」

 

僧衣の男性が合掌した。

 

「議論は無意味です。問題は、なぜ彼らがこの白川さんを狙っているのか、ということです」

 

再び、全員の視線が俺に向けられた。

 

俺はその場で固まった。

 

見ないでください。

 

こんな政府の地下会議室で、俺を見ないでください。

 

俺はただ、下北沢でギターを弾きたかっただけだ。

 

神代鈴音が口を開いた。

 

「逆柱会は彼女を『下北沢黒弦』と呼び、捕獲を試みています。理由はおそらく、白川さんの体内に高位の裏人格が存在すると判断しているからでしょう」

 

高位の裏人格。

 

その言葉を聞いて、胃が痛くなった。

 

久我山統括官が俺を見た。

 

「白川さん、あなたは自分の能力について、新たに何か理解できましたか?」

 

俺は顔を伏せた。

 

「な、何も……」

 

これは完全な嘘ではなかった。

 

俺自身も、よく理解できていなかったからだ。

 

ただわかっているのは、ソレンセンが危険で、邪悪で、強く、そして徐々に俺を説得して力を使わせようとしているということだけだった。

 

ソレンセンがのんびりと言った。

 

「彼らに教えてやれ。俺は全員を塵に還らせる存在だと」

 

俺は表情を変えずに心の中で答えた。

 

無理です。

 

「跪くだろう」

 

もっと無理です。

 

「本当に面白くないな」

 

ありがとうございます。

 

俺はこれからも、ずっと面白くなくあり続けたいと思っていた。

 

久我山統括官はそれ以上俺を追及しなかった。

 

彼はスクリーンを切り替えた。

 

今度は東京の地下構造図が表示された。

 

地下鉄線、共同溝、地下排水路、旧軍用通路、廃駅、そして金色の線で描かれたいくつかのもの。

 

「これは東京霊脈網の簡略図です」

 

俺にはよくわからなかった。

 

ただ、下北沢付近から渋谷へ繋がり、さらに東へ皇居外苑、霞が関、銀座、東京湾方面へと伸びている細い線が見えた。

 

久我山統括官が言った。

 

「逆柱会の最近の行動は、無差別に異常を発生させているわけではないようです。彼らは霊脈のノードを試している」

 

神社の代表の顔が引き締まった。

 

「もし東京の霊脈が汚染されたら、普通の結界では隠しきれません」

 

警察制服の男性が聞いた。

 

「最悪の場合?」

 

会議室が一瞬静かになった。

 

久我山統括官が答えた。

 

「普通の人間が大規模に異常を目撃するようになる」

 

俺は背中が冷たくなるのを感じた。

 

普通の人間が知る。

 

普通の人間が怖がる。

 

恐怖が拡散する。

 

都市伝説が実体化する。

 

怪異が増える。

 

もっと多くの人間が知る。

 

もっと多くの人間が怖がる。

 

まるで壊れた循環のように。

 

俺はようやく、彼らがなぜここまで緊張しているのかを理解した。

 

秘密そのものを守るためではない。

 

秘密が一度破れたら、東京が怪異を育てる巨大な容器になってしまうからだ。

 

ソレンセンが低く笑った。

 

「面白い」

 

「何が面白いんですか?」

 

「この街は、表面から見るよりずっと崩壊しやすい」

 

俺は拳を握りしめた。

 

奴は、それを楽しみにしているようだった。

 

それが、俺にはとても不快だった。

 

久我山統括官が続けた。

 

「明日の夜、江東区臨海地下共同溝で結界維持作業を行います。逆柱会がこの機会を利用する可能性が高いと判断しています」

 

スクリーンに臨海エリアの地図が映し出された。

 

豊洲、有明、台場、旧地下施設、海底トンネル接続点。

 

「今回の作戦は、特調室、警視庁異事対策班、東京神社合同祓魔会が共同で実行します」

 

これらの名前を聞いたとき、俺は少しだけ安堵した。

 

こんなに多くの専門家がいるなら、俺は必要ないかもしれない。

 

次の瞬間、久我山統括官が俺を見た。

 

「白川さん、予備抑圧戦力として参加してほしい」

 

俺は死にたくなった。

 

やっぱり。

 

この会議に俺を呼んだのは、ただ座らせておくためではなかった。

 

「よ、予備?」

 

「第一線に出ることはありません。待機が任務です。精神汚染型または恐怖増幅型の異常が発生した場合にのみ、介入してもらいます」

 

直接前線に出るよりは、少しだけマシだった。

 

それでも、少しだけだった。

 

神代鈴音が補足した。

 

「私も参加します。白妙神社は西側結界を担当します」

 

俺は彼女を見た。

 

その表情は真剣で、その真剣さが「いやです」と即答させなかった。

 

会議室の人間が、俺の返事を待っていた。

 

俺は顔を伏せ、手のひらに汗が滲むのを感じた。

 

拒否することは、可能だった。

 

書類にも、未成年は拒否できると書いてあった。

 

それでも、もし拒否して、明日の作戦で何か起きたらどうなるのか。

 

もし普通の人間が異常を見てしまったらどうなるのか。

 

もし下北沢まで巻き込まれたらどうなるのか。

 

もし余響楽団のライブに影響が出たらどうなるのか。

 

ソレンセンがゆっくりと言った。

 

「自分に理由をつけているな」

 

俺は歯を食いしばった。

 

「黙って」

 

「本当は、もう行きたいと思っている」

 

「違います」

 

「そうか?」

 

それは俺の意識に近づいてきた。

 

「そこには危険がある」

 

「報酬がある」

 

「必要としてくれる人間がいる」

 

「俺の力が流れる機会もある」

 

俺の指先が冷たくなった。

 

一番恐ろしいのは、奴の言葉が間違っていないかもしれないということだった。

 

久我山統括官は俺を急かさなかった。

 

ただ、こう言っただけだった。

 

「白川さん、拒否することは可能です」

 

また同じ言葉だった。

 

拒否することは可能。

 

しかし、その選択肢をこちらに投げてくることが、どんどん重い石のように感じられた。

 

俺は顔を上げ、小さく言った。

 

「わたし……予備として参加します」

 

会議室に拍手はなかった。

 

感動もなかった。

 

ただ、数人が静かにメモを取る音がした。

 

それが、逆に俺には安心材料になった。

 

少なくとも、彼らは俺を英雄扱いしていなかった。

 

英雄などというものは、重すぎた。

 

俺はただ、暫定的に予備として了承しただけだった。

 

それだけだった。

 

それでいいはずだった。

 

会議が終わった後、神代鈴音が廊下で俺を呼び止めた。

 

「白川さん」

 

俺は立ち止まった。

 

「は、はい」

 

彼女は少しだけ柔らかい口調で言った。

 

「明日は、無理をしないでください。もし裏人格が不安定になりそうになったら、すぐに教えてください」

 

俺は頷いた。

 

「うん」

 

彼女は少し間を置いてから、続けた。

 

「あなたのバンドメンバーは、このことを知らないのですね?」

 

俺の体が硬直した。

 

「知りません」

 

「それが一番いい」

 

神代鈴音は廊下の先を見つめた。

 

「普通の人間が異常を知りすぎると、逆に異常から注目されやすくなります。特に、あなたと親しい人間は」

 

俺の心が少しずつ沈んでいった。

 

「つまり……」

 

「あなたが暗面で名前を売れば売るほど、表の生活を守らなければならなくなる」

 

彼女は言った。

 

「下北沢黒弦という名前は、退魔界に知られても構わない」

 

「しかし、白川一音の普通の生活は、決して巻き込んではならない」

 

俺は顔を伏せた。

 

この言葉は、俺を守っているようにも聞こえた。

 

同時に、俺の人生を二つに切り分けなければならないと言われているようにも聞こえた。

 

片方は、余響楽団のギタリストである白川一音。

 

もう片方は、東京退魔界の下北沢黒弦。

 

混ぜてはいけない。

 

日和たちに知られてはいけない。

 

普通の人間に知られてはいけない。

 

ソレンセンを、誰にも知られてはいけない。

 

俺は突然、とても疲れた。

 

神代鈴音が静かに言った。

 

「ごめんなさい」

 

俺は固まった。

 

「どうして謝るんですか?」

 

「私たちは、あなたを利用しているからです」

 

彼女はとても率直に言った。

 

率直すぎて、俺は返す言葉がなかった。

 

「あなたは未成年で、本来こんなことに巻き込まれるべきではない。ですが、あなたの力は、私たちでは処理しきれないものを抑えられる」

 

俺は自分の手を見つめた。

 

「わたしの力じゃありません……」

 

声はほとんど聞こえないほど小さかった。

 

神代鈴音は聞き取れなかったようだった。

 

「え?」

 

俺はすぐに首を振った。

 

「なんでもありません」

 

彼女は俺を見た。

 

「とにかく、一つだけ覚えておいてください。絶対に、あの裏人格に判断を委ねてはいけません」

 

俺は頷いた。

 

「わかっています」

 

ソレンセンが闇の中で笑った。

 

「彼女の言う通りだ」

 

俺の胸が締めつけられた。

 

ソレンセンは続けた。

 

「俺に判断を委ねるな」

 

「自分で選べ」

 

「自分で俺の力を借りることを選べ」

 

「自分で敵に恐怖を与えることを選べ」

 

「自分で報酬をバンドに持ち帰ることを選べ」

 

一言ごとに、胸の奥が沈んでいった。

 

あまりにも狡猾だった。

 

奴はもう、ただ体を奪おうとはしていない。

 

俺が自分から闇へと足を踏み入れるように、仕向け始めていた。

 

地上に戻ったとき、霞が関の夜風が少し冷たかった。

 

特調室の車が道路脇で待っていた。

 

俺は後部席に乗り、スマホを取り出した。

 

日和からメッセージが来ていた。

 

『小音、会議終わった?』

 

俺は画面をしばらく見つめた。

 

結局、どう返事すればいいのかわからなかった。

 

「関東特異災害合同評価会に出席してきました」とは言えない。

 

「明日は臨海地下共同溝で予備抑圧戦力として参加します」とも言えない。

 

「東京の霊脈が邪術組織に狙われているかもしれない」とも言えない。

 

結局、俺は短い返事だけを送った。

 

終わった。ただの普通の説明会だったよ。

 

送信した。

 

嘘は羽のように軽かった。

 

それでも、息が詰まるほど重く感じられた。

 

日和はすぐに返信をくれた。

 

『そっか、お疲れ。明日も練習あるから、早めに休んでね』

 

「新曲の練習」という言葉を見て、胸の奥の暗さが少しだけ引いた。

 

そう。

 

明日も練習がある。

 

俺には、まだ表の生活があった。

 

AfterToneもあった。

 

余響楽団もあった。

 

まだ異常で汚染されていないステージもあった。

 

ソレンセンが突然言った。

 

「もし someday、二つのうちどちらかしか選べなくなったら?」

 

俺は答えなかった。

 

奴は、俺の沈黙を気に入ったようだった。

 

車窓の向こうで、東京の夜景が繋がっていた。

 

普通の人間は、普通の夜を眠っていた。

 

彼らは地下五階で何があったのかを知らない。

 

神社結界の下で邪術師が襲撃を企てていたことを知らない。

 

臨海地下の霊脈が、明日の夜に汚染されるかもしれないことを知らない。

 

白川一音という高校生の体の中に、絶対に出してはならない暗黒の王が住み着いていることを知らない。

 

それでいい。

 

彼らは知らない。

 

日和たちも知らない。

 

それが、一番いい。

 

俺は額を車窓に寄せ、静かに目を閉じた。

 

しかし、意識の奥では、ソレンセンの王座がまだ黒い海の上に立っていた。

 

金色の鎖に釘付けにされたまま。

 

出ることもできず、乗っ取ることもできず、俺の拒否を破ることもできない。

 

それでも、奴は笑っていた。

 

いつか俺が自らそちらへ向かう日を、すでに目にしているかのように。

 

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