俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第66章 家名のない人々、そして彼らが見る下北沢黒弦

第66章 家名を持たない人々、そして彼らの目に映る下北沢の黒弦

 

九州から戻ってきてから、夏休みはようやく、少しだけ夏休みらしい段階に入った。

 

あくまで「少しだけ」だけど。

 

私は引き続き自動車学校に通っていた。

 

初めて路上教習に出たとき、緊張しすぎて手のひらが汗でびっしょりになった。

 

教官が言った。

 

「白川さん、まずは少し遠くを見るようにしましょう」

 

私は少し遠くを見た。

 

その結果、左側を見るのを忘れた。

 

教官がまた言った。

 

「遠くも近くも、両方見ましょう」

 

私は小さな声で言った。

 

「はい」

 

意識の奥で、ソレンセンが言った。

 

「道を見ることまで他人に教わるのか」

 

私はハンドルを握ったまま、心の中で答えた。

 

「黙って」

 

「前方に自転車」

 

「見えてる」

 

「右側に歩行者」

 

「それも見えてる」

 

「なら、なぜそんなに硬直している」

 

「路上教習だから」

 

「弱いな」

 

今回は反論しなかった。

 

だって、実際かなり硬直していたから。

 

けれど、車はエンストしなかった。

 

車線も踏まなかった。

 

教官に補助ブレーキを踏まれた回数も、それほど多くなかった。

 

私にとっては、それだけでも十分な進歩だった。

 

路上教習が終わると、私は小さなアパートに戻って実習のまとめを整理した。

 

午後はAfterToneの練習。

 

夜は学科問題。

 

生活はまた、いくつかの色のあいだを行き来するようになった。

 

青色は大学。

 

緑色は研究会。

 

ピンク色はAfterTone。

 

黄色は自動車学校。

 

灰色は特調室。

 

最近、灰色は少しだけ少なくなっていた。

 

九州任務のあと、眼鏡の女性は、少なくとも一週間は私に協力要請を入れないと言った。

 

その言葉は、今のところ本当だった。

 

私はそれをとても大事にしていた。

 

けれど、灰色が消えたわけではないことも知っていた。

 

ただ、カレンダーの端へ退いただけだ。

 

私が現場にいないあいだも、退魔の世界は当然のように動いている。

 

すべての異常が私を必要としているわけではない。

 

すべての問題を下北沢の黒弦に持ち込むべきでもない。

 

実際、日本の裏側の日常的な秩序を本当に支えているのは、私みたいな特殊な例外ではない。

 

大量の普通の術師たちだ。

 

その中には、強い人もいる。

 

とても強い人もいる。

 

ただ、彼らには有名な家名がない。

 

古い血筋もない。

 

京都の大きな屋敷もない。

 

御影家のような家系ネットワークもない。

 

天城グループのようなシステム資源もない。

 

彼らが頼りにしているのは、経験、技術、直感、傷跡、長い時間をかけて積み重ねた現場判断、そして危険の中から何度も生き残ってきた能力だった。

 

退魔界では、そういう人たちを「無門の達人」と呼ぶ。

 

門閥を持たない。

 

家紋を持たない。

 

けれど、腕はある。

 

彼らは伝説の中心にはいない。

 

フォーラムで大きく語られることも少ない。

 

なぜなら、彼らが毎日しているのは、全国を震わせるような大事件ではないからだ。

 

彼らが処理するのは、地下鉄の終電に混じる低い囁き。

 

地方病院の古い病室から聞こえる足音。

 

高速道路の事故現場に繰り返し現れる白い影。

 

廃れたショッピングモールに残った感情。

 

学校の古い倉庫で間違って祀られたもの。

 

深夜の港に漂い戻ってくる空船。

 

そして、普通の人々が永遠に知らないままの、小さな裂け目。

 

けれど誰も処理しなければ、ゆっくりと悪化していく裂け目。

 

彼らの日常は忙しい。

 

そして、とても疲れる。

 

時には、私の任務よりも疲れるかもしれない。

 

なぜなら、彼らには黒弦がないからだ。

 

ひと撥きで、すべての間違った接続を切断することはできない。

 

彼らは少しずつ調べるしかない。

 

少しずつ解体するしかない。

 

少しずつ封じるしかない。

 

間違えたら補修する。

 

補修したら再訪問する。

 

再訪問したら報告書を書く。

 

多くの場合、異常の処理には三時間しかかからなくても、報告書と地方機関への説明には三日かかる。

 

それこそが、退魔界の本当の日常だった。

 

真壁仁は、そういう人だった。

 

四十二歳。

 

家系はない。

 

東京出身。

 

大学を中退したあと、数年間は建築作業員をしていた。

 

その後、ある工事現場の古井戸の異常事件に巻き込まれ、裏側へ足を踏み入れた。

 

彼には、どこかの家に引き取られるほどの天賦の才はなかった。

 

何かの大師に見いだされたわけでもなかった。

 

ただ、生き残った。

 

そして、少しずつ学んだ。

 

符線。

 

地脈。

 

残留気。

 

器物封存。

 

現場からの撤離。

 

事故偽装報告。

 

普通人の慰撫。

 

彼はどれも少しずつ知っていた。

 

華やかではない。

 

けれど、十分に使える。

 

今では、彼は東京特調室の外部契約術師の中でも、もっとも安定した一群に入っている。

 

低強度から中強度の現場の多くは、最終的に彼のところへ回ってくる。

 

午前三時。

 

真壁仁は、古いアパートの鏡面残留を処理し終えたばかりだった。

 

それは大事件ではなかった。

 

ただ、ある入居者が浴室の鏡の中で、「自分より半拍遅れて動く自分」を何度も見てしまうというものだった。

 

新人なら、鏡をそのまま叩き割ったかもしれない。

 

真壁は割らなかった。

 

まず大家に浴室の照明を切らせ、それから鏡枠を外した。

 

そして鏡の裏に、十年前の前の入居者が残した願い紙が貼られているのを見つけた。

 

願い紙には、こう書かれていた。

 

本当の私を見てくれる人がいますように。

 

紙は湿気でふやけ、カビが生えていた。

 

そこへ、後から入居した人々が鏡を見るたびに抱いた自己嫌悪の感情が長いあいだ染み込み、遅延映像を形成していた。

 

真壁はそれを力任せに封じなかった。

 

願い紙を取り出し、低温浄化を行った。

 

鏡は残した。

 

入居者には新しい鏡への交換を勧めた。

 

大家は「設備修繕報告」を記入した。

 

すべてが終わる頃には、空が白み始めていた。

 

真壁はコンビニの前に座り、缶コーヒーを飲んだ。

 

隣にいた若い協助員が尋ねた。

 

「真壁さん、下北沢の黒弦が来たら、どれくらいで解決できると思いますか?」

 

真壁は彼を一瞥した。

 

「三秒」

 

若い協助員は目を見開いた。

 

「本当ですか?」

 

「たぶん、それ以下だ」

 

「じゃあ、俺たちが一晩かけたのって……」

 

真壁はコーヒー缶を握り潰した。

 

「だから、お前は浴室の鏡を処理するために、彼女を呼びたいのか?」

 

若い協助員はすぐに口を閉じた。

 

真壁は立ち上がった。

 

声は少しかすれていた。

 

「覚えておけ。彼女が三秒で解決できることと、そういうことに彼女を呼んでいいかどうかは別だ」

 

「みんなが、彼女なら速いからという理由で面倒事を投げるようになったら、俺たちは術師じゃない。ただの役立たずだ」

 

若い協助員は頭を下げた。

 

「わかりました」

 

真壁は遠くの空を見た。

 

彼は私を一度見たことがあった。

 

正式に会ったわけではない。

 

東京湾データタワー事件後の外周清理のときだった。

 

彼は遠くから、うつむいて顔色を悪くした少女が特調室に連れられていくのを見ただけだった。

 

その日、誰もが「彼女が天城を切断した」と話していた。

 

けれど真壁が覚えていたのは、彼女が歩くのもやっとに見えたことだった。

 

それ以来、誰かが「黒弦を呼べばいいじゃないか」と言うたびに、真壁は怒鳴りつけたくなる。

 

彼の目には、下北沢の黒弦は万能の道具ではない。

 

最後の手段だった。

 

最後の手段を、机拭きに使ってはいけない。

 

大阪にも、有名な無門術師が一人いる。

 

名前は菅原涼。

 

三十五歳。

 

女性。

 

短髪。

 

古いスニーカーを好んで履く。

 

家族的背景はない。

 

以前は救急看護師だったが、病院の夜間異常事件をきっかけに退魔界へ入った。

 

彼女の得意分野は、人の感情と場所に残った傷の処理だった。

 

大阪の古い商店街で起きる小規模異常、ライブハウス裏の残響、病院の旧病棟、夜の高架下、そういった現場に強い。

 

彼女は術式の見た目がとても地味だった。

 

小さな鈴。

 

白い糸。

 

薄い塩水。

 

使い古した救急はさみ。

 

それだけで、多くの残留を静かにほどいてしまう。

 

ある夜、菅原涼は心斎橋近くの地下練習スタジオにいた。

 

そこでは最近、深夜二時を過ぎると、誰も弾いていないギターの音が鳴るという話があった。

 

若いバンドマンたちは最初、怖がっていた。

 

そのうち、一部の人が面白がって録音しようとし始めた。

 

それがよくなかった。

 

音は録音されるたびに少しずつ濁った。

 

そして、ある夜、ドラム担当の少年がイヤホン越しに知らない声を聞いた。

 

「お前の音はいらない」

 

少年は翌日、スタジオに来られなくなった。

 

菅原涼は現場に入り、まず全員に楽器を片づけさせた。

 

それから地下スタジオの壁に耳を当てた。

 

音は壁の奥から来ていた。

 

二十年前、そのスタジオで解散した高校生バンドの残留だった。

 

最後の練習で、メンバーの一人が言われた言葉。

 

「お前の音はいらない」

 

その言葉だけが地下の防音壁に残り、何年も湿気と孤独と失敗感を吸い込み続けていた。

 

菅原涼は壁を壊さなかった。

 

彼女は録音機材をすべて外し、スタジオの中で古い鈴を鳴らした。

 

一回。

 

二回。

 

三回。

 

そして、白い糸を防音壁の継ぎ目に沿わせた。

 

音がゆっくりと滲み出した。

 

濁ったギターの音。

 

途切れたドラム。

 

泣きそうなベース。

 

それから、小さな声。

 

お前の音はいらない。

 

菅原涼は静かに言った。

 

「もう、ここは別の子たちが使ってる」

 

「その言葉は、あなたのものだけど、あの子たちのものじゃない」

 

音はしばらく震えた。

 

そして消えた。

 

処理が終わったあと、スタジオのオーナーが言った。

 

「もし下北沢の黒弦なら、もっと早かったんでしょうか」

 

菅原涼は救急はさみをしまいながら言った。

 

「早かったでしょうね」

 

オーナーは苦笑した。

 

「じゃあ、うちは遅い方法を選んだわけですね」

 

菅原涼は彼を見た。

 

「いいえ」

 

彼女は言った。

 

「ここには遅い方法が必要でした」

 

「切れば終わるものもあります。でも、ほどくことでしか終わらないものもあります」

 

オーナーは黙った。

 

菅原涼は地下スタジオを出る前に、壁を一度振り返った。

 

彼女も、私のことを遠くから知っていた。

 

九州旧港戦の報告を読んだことがある。

 

京都旧音庫の断片情報も見た。

 

そして、最近増えている黒弦模倣事件のせいで、彼女の仕事も少し増えていた。

 

黒い糸。

 

黒い符。

 

下北沢の名を勝手に呼ぶ安っぽい連中。

 

その多くは弱かった。

 

けれど、弱くても害は出る。

 

弱い呪いほど、普通の場所へ紛れ込む。

 

菅原涼はそれをよく知っていた。

 

だから、彼女は模倣事件を見るたびに、すぐに処理した。

 

そして報告書の最後に、必ず一文を入れる。

 

当該案件は地方術師にて処理済み。下北沢黒弦への接触不要。

 

彼女にとって、それは同業者への敬意だった。

 

北海道にも、無門の老術師がいた。

 

名前は遠野修司。

 

六十八歳。

 

昔は猟師だった。

 

山中で行方不明者を探しているうちに、普通ではない足跡を追うようになった。

 

今では北海道各地の山林、廃村、湖畔、雪道の異常を見ている。

 

彼は口数が少ない。

 

電話にもほとんど出ない。

 

報告書も短い。

 

しかし現場判断は非常に正確だった。

 

ある冬前の点検で、遠野修司は廃スキー場のリフト下に奇妙な黒い紐が結ばれているのを見つけた。

 

紐は安物だった。

 

けれど、結び目には誰かが下北沢の黒弦を模倣しようとした痕跡があった。

 

ただの遊びではない。

 

山に残る迷子の声を引き寄せようとしていた。

 

目的はおそらく、黒弦に似た「呼び糸」を作ること。

 

技術は粗雑。

 

だが場所が悪かった。

 

雪山で迷子の声を集めれば、本物の遭難者を誘導してしまう可能性がある。

 

遠野修司は黒い紐を切らなかった。

 

まず風向きを確認した。

 

それから雪面の足跡を読み、紐を結んだ者がどこから来て、どこへ戻ったかを追った。

 

三時間後、彼は廃管理棟の中で震えている若い模倣術師二人を見つけた。

 

二人は本気で何かを召喚するつもりだったわけではない。

 

ただ、ネットで見た噂を真似しただけだった。

 

「黒弦の名を呼べば、力が借りられる」と。

 

遠野修司は二人を殴らなかった。

 

ただ、雪の中へ連れ出し、リフト下に立たせた。

 

そして言った。

 

「ここで本当に子どもが一人迷ったら、お前たちは見つけられるのか」

 

二人は黙った。

 

遠野は続けた。

 

「見つけられないなら、呼ぶな」

 

「山で呼ぶ声を遊ぶな」

 

その後、彼は紐を一本ずつほどいた。

 

切るのではなく、ほどいた。

 

結び目の意味を消すには、結ばれた順番を逆にたどる必要があったからだ。

 

寒風の中、指先の感覚が鈍くなるまで作業した。

 

処理が終わったのは夕方だった。

 

若い同行者が聞いた。

 

「遠野さん、黒弦なら一瞬で切れたんですかね」

 

遠野修司は手袋についた雪を払った。

 

「切れるだろうな」

 

「じゃあ、頼んだほうが……」

 

遠野は彼を見た。

 

その目は山の冬みたいに冷たかった。

 

「雪山の紐一本を切るために、東京の娘を呼ぶな」

 

同行者はすぐに黙った。

 

遠野は廃スキー場を見上げた。

 

リフトは止まっている。

 

山は静かだった。

 

静かであることを、誰かが維持しなければならない。

 

その誰かは、必ずしも伝説である必要はない。

 

こういう無門の達人たちは、日本各地にいた。

 

多くは名前を知られていない。

 

知られなくてもよかった。

 

彼らは、自分の担当する地域、自分の知っている場所、自分の手の届く範囲を守っていた。

 

それは目立たない。

 

でも強い。

 

特調室は、九州任務後の一週間、意識的に私を現場から外していた。

 

その穴を埋めたのは、彼らだった。

 

東京では真壁仁が、黒弦模倣符を使った小規模詐欺団体を三件処理した。

 

大阪では菅原涼が、地下音楽空間に紛れた模倣残響を封じた。

 

北海道では遠野修司が、山中の呼び糸を解いた。

 

名古屋では、無門の兄弟術師が工場跡地の黒符遊びを止めた。

 

広島では、港の若い術師が「黒い糸で船霊を縛る」という馬鹿げた儀式を解体した。

 

仙台では、地方大学出身の術師が、学生サークルに流れた危険な噂を回収した。

 

どれも全国ニュースにはならない。

 

フォーラムでも大きな話題にはならない。

 

けれど、確かに処理されていた。

 

もし誰も処理しなければ、それらは少しずつ積もっていく。

 

やがて、また誰かが私の大学や、AfterToneや、小さなアパートの近くまで持ち込むかもしれない。

 

だから彼らは処理した。

 

私に知らせず。

 

私に連絡せず。

 

私に頼らず。

 

そのことを、私はあとから知ることになる。

 

最初に教えてくれたのは、眼鏡の女性ではなかった。

 

AfterToneの練習帰り、澪がいつものように飯団をくれたあと、何気なく言った。

 

「最近、黒い糸の噂、減った」

 

私は固まった。

 

「え?」

 

澪は首をかしげた。

 

「ネットの怖い話。前より少ない」

 

陽菜も言った。

 

「そういえば、前は変な投稿が多かったよね。黒い糸とか、呼ぶとか」

 

日和が眉をひそめた。

 

「そういうの、あまり見ないほうがいいよ」

 

陽菜はすぐにうなずいた。

 

「うん、もう見てない。ちょっと流れてきただけ」

 

私は手の中の飯団を見下ろした。

 

心臓が少し速くなった。

 

彼女たちは、もちろん真相を知らない。

 

でも、噂が減ったことは感じ取っていた。

 

噂が減った。

 

誰かが処理している。

 

誰かが消している。

 

誰かが、私の知らないところで、火の粉を払っている。

 

小さなアパートに戻ったあと、私は特調室に連絡しようか迷った。

 

でも、やめた。

 

聞けば灰色に近づく。

 

だからその日は聞かなかった。

 

次の日、大学の図書館で文化施設運営資料を調べているとき、地域音楽研究会の濑川会長が言った。

 

「最近、都市伝説系の危ない投稿、削除が早くなった気がする」

 

私はページをめくる手を止めた。

 

「危ない投稿、ですか」

 

「うん。音や糸に関するやつ。真似すると危険そうなもの」

 

濑川会長はまじめな顔で言った。

 

「研究会でも、学生がそういうものを面白半分で扱わないよう注意したほうがいいと思ってる」

 

私は小さくうなずいた。

 

「そうですね」

 

「白川さんも、もし変な投稿を見たら、開かないほうがいいよ」

 

「はい」

 

彼女は私を普通の後輩として心配してくれていた。

 

それが少し痛かった。

 

でも、ありがたかった。

 

その夜、眼鏡の女性から定期確認のメッセージが来た。

 

実習後の疲労状態に問題はありますか。

 

私は少し迷ってから、返信した。

 

最近、黒弦模倣事件は減っていますか。

 

しばらく既読がつかなかった。

 

十分後、返信が来た。

 

増加傾向は抑制されています。各地の術師が対応中です。

 

私は画面を見つめた。

 

各地の術師。

 

やっぱり。

 

私がさらに打とうとすると、眼鏡の女性から続けてメッセージが来た。

 

あなたに協力要請を出す必要はありません。現場判断ですでに処理可能な範囲です。

 

私は少し息を吐いた。

 

それから打った。

 

誰が処理しているんですか。

 

今回は少し早く返信が来た。

 

複数名。詳細はあなたが背負う必要がありません。

 

私はスマホを握った。

 

背負う必要がない。

 

その言い方は正しい。

 

でも、知らなくていいと言われると、少し落ち着かない。

 

ソレンセンが意識の奥で笑った。

 

「お前は、他人が虫を潰すのまで心配するのか」

 

「虫じゃない」

 

「では何だ」

 

「人」

 

「模倣者も?」

 

「そうじゃなくて、処理している人たち」

 

ソレンセンは少し黙った。

 

それから言った。

 

「弱くはない」

 

私は目を瞬いた。

 

「知ってるの?」

 

「いくつかの拙い模倣が断裂したのは感じる」

 

「多い?」

 

「十分多い」

 

私は黙った。

 

本当に誰かが処理しているのだ。

 

私の知らないところで。

 

東京で。

 

大阪で。

 

北海道で。

 

そして、もっとたくさんの場所で。

 

私が行っていない現場は、誰も管理していないわけではなかった。

 

ただ、別の誰かが処理してくれていただけだ。

 

私は小さな声で言った。

 

「怪我しないといいな」

 

ソレンセンは冷淡に言った。

 

「その程度のゴミを片づけられる者は、そう弱くない」

 

「それでも怪我するかもしれない」

 

「お前は本当に、多くの虫を心配する」

 

「彼らは虫じゃない」

 

それ以上、ソレンセンは言い争わなかった。

 

翌日、眼鏡の女性から短いメッセージが届いた。

 

近期の黒弦模倣事件は各地術師により安定処理中。あなたの参加は不要です。夏休みの予定を続けてください。

 

私はそれを長いあいだ見つめた。

 

そして返信した。

 

彼らに、ありがとうと伝えてください。

 

少しして、眼鏡の女性が返した。

 

伝えます。

 

その「ありがとう」には、具体的な名前がなかった。

 

私は真壁仁を知らない。

 

菅原涼を知らない。

 

遠野修司を知らない。

 

他の普通の達人たちのことも知らない。

 

でも、彼らは確かに、私の見えないところで、私の夏休みの空白を守ってくれていた。

 

この感謝は関係に変えてはいけない。

 

借りに変えてはいけない。

 

けれど、存在していてもいい。

 

私はスマホを置き、学科問題の続きを始めた。

 

午後はAfterToneの練習に行く。

 

夜は、あまり柔らかくなりすぎないうどんを作ってみるかもしれない。

 

それが今日だ。

 

大事件はない。

 

全国を揺るがすような出来事もない。

 

ただ、誰かが私の代わりに防いでくれた小さな裂け目がいくつかあって。

 

そして、私自身がゆっくり歩いている普通の道があるだけだった。

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