俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第68章 猫目が混沌を見抜き、そして勝利のために開けてはならない扉
ニャーサが初めて「黒弦」の本質を本当に確認したのは、窓のない地下オフィスだった。
そこは退魔界の事務所ではない。
表向きには、猫目資本傘下の文化安全コンサルティング会社に属している。
壁にはコンプライアンス資格、消防安全協力証明、文化施設リスク管理証書が掛かっていた。
机の上には、普通のパソコン、ファイル、コーヒーカップ。
すべてが現代的に見えた。
清潔で。
合法的で。
けれど、机の中央に置かれたガラスケースの中には、普通の会社にあってはならないものがいくつか入っていた。
黒弦によって切断された低級術具の破片。
キャンパス襲撃現場の外縁から回収された、失効した符紙の灰。
地下練習室の模倣事件から出た金属留め具。
そして、潮返洞の外縁で採取された古い汚染剥離サンプル。
これらは、ニャーサが自ら盗んできたものではなかった。
それの経済ネットワークが、周辺から少しずつ回収したものだった。
私に直接触れていない。
私の学校に接触していない。
AfterToneに接触していない。
私の住まいにも接触していない。
ただ、清理された各現場の端から、ほんの少しの残滓を拾い上げただけ。
普通の術師がこれらの残滓を見れば、こう思うだけだろう。
黒弦は鋭い。
切断は徹底している。
残存構造は極めて不安定。
複製不能。
逆算不能。
けれど、ニャーサが見ていたのはそれではなかった。
それは、もっと深いものを見ていた。
この世界の陰陽術ではない。
怨念ではない。
結界ではない。
神道の旧儀式でもない。
天城システムの汚染でもない。
いわゆる「裏人格術式」でもない。
それは、ニャーサにとって覚えのある匂いだった。
別の世界から来たもの。
もっと混沌としていて、もっと高位で、もっと危険な力の系譜。
混沌。
ニャーサは爪先を伸ばし、ガラスケースの外壁に軽く触れた。
ケースの中の術具片が、すぐに小さく震えた。
応答ではない。
恐怖の残留だった。
それは、かつて黒弦に切断された。
そして黒弦に残っていた力は、この世界のものではなかった。
ニャーサは目を細めた。
「なるほどね」
その声は軽かった。
「本土の術式じゃない」
「人格分裂でもない」
「普通の封印借力でもない」
そばに立っていた代理人は頭を下げたまま、余計なことを聞こうとはしなかった。
それでも、こらえきれずに言った。
「ボス、つまり下北沢の黒弦の力の源は、退魔界のものではないということですか?」
ニャーサはすぐには答えなかった。
ガラスケースを見つめるその目は、皮を剥がれた虫を見ているようだった。
「あれは混沌系の力だよ」
代理人には当然、理解できなかった。
「混沌系?」
ニャーサは少し笑った。
「君が理解する必要はない」
代理人はすぐに頭を下げた。
「はい」
ニャーサはなおも残片を見ていた。
この世界に来てから、それはすでに多くの噂を聞いていた。
下北沢の黒弦。
キャンパス襲撃。
京都旧音庫。
九州潮返洞。
天城グループの権限切断。
ある者は、それを黒弦術式だと言った。
ある者は、裏人格だと言った。
ある者は、少女の体内に封印された異常存在だと言った。
ある者は、「抽出」という誤った概念で、それを呼び出そうとさえした。
どれも粗雑な解釈だった。
けれど、完全に方向違いというわけでもなかった。
扉は、確かに存在する。
ただ、彼らは扉の向こうに何があるのかを知らない。
そして、その扉が本当に開いたとき、この世界が何と向き合うことになるのかも知らない。
ニャーサは低く言った。
「面白い」
「普通の世界の中に、混沌系の高位残存が隠れている」
「しかも、一人の人間の学生に押し込められている」
それは軽く笑い始めた。
「本当にひどい器だね」
代理人は何も言えなかった。
ニャーサは画面を見た。
画面には、いくつかの単語が表示されていた。
白川一音。
A大学。
音楽文化学科。
下北沢の黒弦。
高危険度・未解析切断能力。
その下には、ニャーサ自身が記した判断が一行あった。
混沌系力量。安全出力制限あり。
それはすでに見抜いていた。
あの少女が使える力は、無限ではない。
あるいは、彼女が「安全に」使える力には上限がある。
その上限は高い。
この世界のすべての術師、家系、邪術師、異常を圧倒するには十分なほど高い。
天城グループを停止させ、無明講を跪かせ、キャンパス襲撃者を全滅に等しい形で制圧できるほど高い。
けれど、その上限は本体のすべてではない。
黒弦の外側には、さらに深い黒がある。
そのさらに深い黒は、何かによって押さえつけられている。
ニャーサはまだ「聖霊プニ」の名を知らない。
秩序戦争の全貌も知らない。
けれど、残留構造は読み取れた。
極めて強い聖霊属性の性質による圧制が、混沌の力を「借り出せるが、完全には解放できない」状態に制限している。
それは精巧だった。
そして危険でもあった。
なぜなら、借り出す力がある閾値を超えた瞬間、圧制構造に亀裂が入るからだ。
もし少女が、十分に強大な敵を倒すため、自らより多くの力を求めたなら。
そのとき、彼女は勝利を得るのではないかもしれない。
内側のもののために、扉を開けているだけかもしれない。
ニャーサの尻尾が、軽く揺れた。
「だから、今の彼女では私に勝てない」
その言葉はとても静かだった。
天気を告げるように。
代理人は思わず顔を上げた。
ニャーサが彼を見た。
「彼女が安全に使える混沌出力は、君たちが理解する『強者』を簡単に壊すには十分だ」
「でも、私を倒すにはまるで足りない」
代理人の喉が乾いた。
「では、もし彼女がもっと強い力を使えば……」
「それは彼女が私を倒すということではない」
ニャーサは笑った。
「扉の向こうのものが出てくる、ということだよ」
地下オフィスは、恐ろしいほど静かになった。
ニャーサはガラスケースを軽く叩いた。
「そして扉の向こうのものは、私よりずっと厄介かもしれない」
それはソレンセンを知らない。
その存在が、今まさに少女の体内にいることも知らない。
元の世界で、ソレンセンもまたニャーサの存在を知らなかった。
彼らは本当に出会ったことがない。
ソレンセンは巨大な混沌災厄。
ニャーサは、どちらかといえば影の中の猫だった。
混沌教派を率いていた時代のソレンセンの前では、ニャーサなど玩具にすぎない。
けれど、この世界では状況が違う。
あの混沌存在は封印されている。
圧制されている。
一人の人間少女の意志、恐怖、条件、普通の生活に縛りつけられている。
外へ流れ出せる力は、ごくわずかな一滴にすぎない。
そして、その一滴ではニャーサには勝てない。
勝てるだけの量を得るには、封印を割らなければならない。
それこそ、ニャーサが最も好む局面だった。
敵の勝利条件そのものが、敵の敗北条件になっている。
同じ頃、私は猫目資本の地下オフィスで何が起きているのか、まったく知らなかった。
私は自動車学校で路上教習を受けていた。
今回のルートは、少し複雑な交差点を通る。
教官が言った。
「早めに減速して、信号を確認。右側の自転車にも注意しましょう」
私はうなずいた。
「はい」
ハンドルを握り、肩が固くなりすぎないように意識した。
車がゆっくり進む。
信号が青になる。
左右を確認する。
歩行者を確認する。
自転車を確認する。
対向車を確認する。
それから通過した。
教官が言った。
「今回はよかったですよ」
私は息を吐いた。
ソレンセンが意識の奥で、気怠げに言った。
「ようやく石みたいに曲がらなくなったな」
「ありがとう」
「褒めていない」
「褒め言葉として受け取る」
それ以上、ソレンセンは何も言わなかった。
最近、それはときどき長く静かになる。
何を考えているのか、私にはわからない。
それは、ニャーサがすでにこの世界に来ていることを知らない。
ソレンセンと同じ世界から来た別の強者が、暗がりから退魔界を見ていることも知らない。
ソレンセンにとって、この世界は依然として、封印後に強制的に観察させられている牢獄だった。
外に術師、家系、財団、特調室、模倣者がいることは知っている。
けれど、ニャーサのことは知らない。
元の世界でも、知らなかった。
ニャーサについての記憶など、まったく持っていない。
だから、ニャーサが退魔界の金色の線を弾き始めても、ソレンセンはただ、外の「虫ども」が以前より面倒になったとぼんやり感じるだけだった。
聖霊プニの封印があまりにもよくできているため、ソレンセンは、自分と同じ世界から来た存在がすでにこの世界へ降り立ったことにも気づけなかった。
まして、相手がすでに混沌の匂いを嗅ぎ分けたことなど、知るはずもなかった。
路上教習が終わると、私はAfterToneのグループにメッセージを送った。
今日は交差点をわりと順調に通過できた。
陽菜はすぐに返してきた。
小音、運転上達!
澪:
合格車。
日和:
いいね。でも、急に自信を持ちすぎないように。
私は返信した。
うん。
日和はいつも現実的だ。
それがいい。
今の私に一番必要なのは、過信しないことだから。
運転でも。
退魔でも。
その夜、特調室内部でも、ついに猫目資本が正式な調査対象に指定された。
眼鏡の女性が資料をスクリーンに映した。
「猫目資本は、多層基金およびペーパーカンパニーを通じて、退魔界周辺の供給網へ侵入しています」
「関係先は、符紙工房、術具店、医療保険、装備補助、文化安全事業、青少年音楽活動周辺への寄付」
「現時点で、白川一音へ直接接触した証拠はありません」
「ただし、資金経路は彼女の関心領域へ接近しつつあります」
久我山統括官は資料を見つめ、眉を強く寄せた。
「相手は彼女の職業方向を知っているのか?」
「彼女が音楽空間、青少年活動、大学生活と関係していることだけを把握している可能性があります」
若い分析官が言った。
「それだけでも、かなり危険です」
眼鏡の女性はうなずいた。
「はい」
久我山は言った。
「未確認の推測を、彼女へ知らせることは禁止する」
「彼女は実習と九州任務を終えたばかりだ。自分の未来の方向に沿って誰かが線を敷いていると知れば、自責する」
眼鏡の女性は言った。
「承知しました」
若い分析官が尋ねた。
「では、猫目資本にはどう対応しますか?」
久我山はスクリーンを見た。
「資金、コンプライアンス、保険、装備ルートから切る」
「藪をつつくな」
「こちらが彼女の職業方向を保護し始めたことも悟らせるな」
眼鏡の女性が補足した。
「無門術師側からも、すでに複数の線が提供されています」
久我山はうなずいた。
「彼らを守れ」
「猫目がその無門術師たちを狙い始めた場合、先に防げ」
会議室の空気は重かった。
全員が感じていた。
今回の相手は違う。
邪術師団体ではない。
家系の内紛でもない。
天城のように構造が見えるシステムでもない。
それは見えない猫のように、すでに退魔界の帳簿へ爪を差し込んでいた。
ニャーサにとって、特調室の反応は意外ではなかった。
むしろ、わざと一部を見せていた。
完全に隠せば、かえって彼らを恐慌させる。
適度な露出は、彼らに「自分たちは真相へ近づいている」と思わせることができる。
けれど、本当の真相は、猫目資本の帳簿にはない。
あの低級模倣事件の中にもない。
本当の核心は、こうだ。
ニャーサはすでに確認していた。
この世界で最も危険な力の一つは、自由に使えない。
白川一音は、本当の意味で混沌の力を使うことができない。
彼女は、混沌の欠片でできた刃を、無理やり握らされている学生にすぎない。
彼女には境界がある。
友人がいる。
大学がある。
実習の方向がある。
運転免許の試験がある。
口に出せない秘密がある。
それらは弱点ではない。
けれど、すべて制限だった。
制限があるからこそ、彼女は力を最大まで押し上げようとはしない。
そして、もし最大まで押し上げなければならない状況になったなら、彼女は別の問題に負ける。
ニャーサは、この構造が好きだった。
急いで彼女を倒す必要はない。
ただ、退魔界全体にゆっくり理解させればいい。
下北沢の黒弦は強い。
けれど、無条件に強いわけではない。
彼女は無代償ですべてに勝てるわけではない。
いつか、退魔界がすべての希望を彼女に押しつけたなら、彼女は二つの結果のどちらかを選ばなければならない。
一つ。
負ける。
二つ。
体内に封印された存在を外へ出す。
そして扉が開いたあと、勝者が彼女であるとは限らない。
ニャーサは伸びをした。
「だから、今は彼女に触らない」
「まず、彼らをもっと私に依存させる」
「金、装備、保険、情報、低級武力。そのすべてが、私の線を通るようにする」
「気づいた頃には、彼らはもう簡単には切断できなくなっている」
代理人は頭を下げた。
「はい」
ニャーサはもう一度、スクリーン上の名前を見た。
白川一音。
「君は……」
それは軽く言った。
「そのまま運転免許の勉強でもしていなよ」
「本当に私を見たとき、君は理解する」
「安全出力が、いつも十分だとは限らないってね」
私が初めて「猫目資本」という名前を聞いたのは、数日後のことだった。
特調室からではない。
大学の研究会からだった。
地域音楽研究会の夏休み整理会で、濑川会長が、最近いくつかの文化安全基金が青少年音楽活動を支援していると話した。
そのうちの一つの基金名が、資料に載っていた。
猫目文化安全基金。
その名前を見たとき、私は少し変だと思っただけだった。
猫目。
普通の基金らしくは聞こえない。
でも、特別に異常というほどでもない。
相原真紀が言った。
「この名前、ちょっと可愛いね」
私はうなずいた。
「うん」
けれど、胸の中にかすかな違和感があった。
危険感ではない。
黒弦の反応でもない。
ただ直感的に、その名前が、私を観察する動物のように感じられた。
濑川会長が言った。
「でも、うちの研究会は今のところ外部基金は受けないよ。夏休み資料の整理は学校予算でやるから」
私は少し息を吐いた。
受けない。
よかった。
日和は前に言っていた。
お金も越境する。
今の私は、出どころのわからない資金にかなり敏感になっている。
研究会の話し合いが終わったあと、私はその名前をメモ帳に書き込んだ。
猫目文化安全基金。今のところ受けない。
書き終えてから、自分が少し敏感すぎるのではないかと思った。
けれど、消さなかった。
記録は判断ではない。
ただ、留意するだけだ。
ソレンセンが意識の奥で、ふいに口を開いた。
「猫?」
「うん。基金の名前」
「面倒だな」
「猫、嫌いなの?」
「吾は、静かに近づいているつもりのものをすべて嫌う」
私は一瞬止まった。
「何か感じたの?」
黒海の中が、しばらく静かになった。
「ない」
「本当に?」
「ただ、最近、偽の線の断裂が規則的すぎる」
私は眉をひそめた。
「規則的?」
「誰かが虫どもに餌を与え、それを他人に切らせているようだ」
指先がゆっくりと縮こまった。
「裏に誰かいる?」
「お前たちも、組織的誘導の可能性があると知っているのだろう」
「でも、あなたは前に、誰かが餌を与えているみたいだなんて言わなかった」
ソレンセンは鼻で笑った。
「吾は、お前たちの虫社会を分析してやる係ではない」
私はメモ帳の中の「猫目」という文字を見下ろした。
なぜかわからない。
その二文字は、もうあまり可愛く見えなかった。
その夜、私は眼鏡の女性にメッセージを送った。
最近、研究会の資料で「猫目文化安全基金」という名前を見ました。この名前は注意したほうがいいですか?
少し時間が空いてから、彼女は返信した。
どこで見ましたか?
私は資料の出どころを簡単に説明した。
彼女は返した。
当面、その基金および関連活動には接触しないでください。研究会へ協力依頼が来た場合は、学校教員に通常の手続きで審査するよう伝えてください。
心が沈んだ。
やっぱり、問題がある。
危険ですか?
今度は、さらに長く沈黙が続いた。
最後に返ってきたのは、こうだった。
調査中です。現時点で、あなたを直接対象にしているとは確認されていません。あなたが関与する必要はありません。
あなたが関与する必要はありません。
最近、この言葉が増えている。
私はそれを見つめて、複雑な気持ちになった。
安心する一方で、物事が小さくないこともわかる。
私は返信した。
わかりました。
そして、猫目基金を赤字でマークした。
ソレンセンが低く言った。
「どうやら、猫は本当に見ているらしい」
「あなたは、それが何かわかるの?」
「吾は知らぬ」
その言葉は明確だった。
隠しているのではない。
本当に知らない。
「だが、気に食わぬ」
胸の中が強張った。
ソレンセンに嫌悪と言わせるものは多い。
けれど、知らない相手に対して嫌悪を覚えるということは、相手が普通ではないということだ。
私は尋ねた。
「危険?」
「お前が今使える力にとっては、あるいはな」
私は動きを止めた。
ソレンセンが、こんな言い方をするのは珍しい。
いつもなら敵を弱小だと嘲る。
今回は、それをしなかった。
「もし遭遇したら、私は勝てる?」
黒海は沈黙した。
長く。
そして、それは言った。
「今の条件と安全出力では、必ずしも勝てぬ」
指先が冷たくなった。
「必ずしも?」
「お前はこの世界本土の虫どもを押し潰せる」
「だが、その猫の背後に本当に吾が嫌う匂いがあるなら、お前が今借りている力では足りぬかもしれない」
「じゃあ、もっと借りたら?」
ソレンセンは低く笑った。
「それは、お前がより深い扉を開ける気があるかどうか次第だ」
私は何も言えなかった。
答えははっきりしている。
開けたくない。
開けてはいけない。
何かの敵に勝つためにソレンセンを解放するなら、それは勝利ではない。
もっと大きな災害だ。
ソレンセンは、私の考えを読んだようだった。
その声は低く、愉悦を含んでいた。
「白川一音、覚えておけ」
「お前が安全に借りられる吾の力には上限がある」
「その上限を超えれば、扉はもはや細く開くだけでは済まぬ」
「そのとき、お前は力を借りているのではない」
「吾を外へ出しているのだ」
私はスマホを握りしめた。
「私はしない」
「今は、しないだろうな」
「これからも、しない」
「勝てぬ敵に出会えば、人間はいつも考えを変える」
「私は変えない」
黒海の中で、それは笑った。
「ならば、考えを変えねばならぬ敵に出会わぬことを祈るがいい」
私は答えなかった。
小さなアパートは静かだった。
冷蔵庫には「食べるのを忘れない」と「飯」のメモが貼ってある。
机の上には、運転教材、実習まとめ、研究会資料。
そして私は、初めてはっきり意識した。
もしかしたら、本当にいるのかもしれない。
今の黒弦では勝てない敵が。
勝つためには、絶対に開けてはいけない扉を開けなければならない敵が。
それから数日、私はより慎重になった。
パニックではない。
ただ、慎重になった。
研究会は猫目基金を受けない。
実習先だった活動センターには、今のところ関連する協力はない。
AfterToneに異常はない。
大学にも異常はない。
小さなアパートの周辺にも異常はない。
特調室は私を調査に参加させなかった。
私は引き続き運転の練習をした。
練習にも行った。
実習まとめも整理した。
けれど、心の中には見えない一本の線が増えていた。
猫目。
猫。
混乱した偽線。
規則的に餌を与えられて生まれる模倣事件。
そして、ソレンセンが初めて認めたこと。
安全出力では足りないかもしれない。
路上教習中、教官が言った。
「白川さん、自分で判断しきれない状況に出会ったら、減速してください。無理に突っ込まないこと」
私はうなずいた。
「はい」
減速。
無理に突っ込まない。
その言葉は今、とても重要だった。
もし未来に、本当に対処できない敵と出会ったとしても、私は無理に突っ込んではいけない。
勝つために、黒弦を安全上限の向こうへ押し込んではいけない。
自分の恐怖や怒りや、みんなを守りたい気持ちを、ソレンセンが扉を開ける理由にしてはいけない。
私は心の中で唱えた。
勝つことだけが目的ではない。
扉を開けないことが、底線だ。
勝てないときは、撤退する。
時間を稼ぐ。
協力する。
外側の線を切る。
もっと借りるのではなく。
これは、私が必ず持っていなければならない考えだった。
だって私は、ただ勝つためだけに生きているわけではない。
大学へ戻らなければならない。
AfterToneへ戻らなければならない。
小さなアパートへ戻らなければならない。
自動車学校へ戻らなければならない。
そして、いまだに麺を茹ですぎることのできる普通の生活へ戻らなければならない。
ニャーサは暗がりで観察を続けていた。
猫目基金の一本の線が、A大学の研究会に拒否されるのを見た。
特調室がいくつかの資金を凍結するのを見た。
無門術師たちが供給網を追い始めるのを見た。
白川一音が「猫目」という二文字をメモ帳に記すのを見た。
それは怒らなかった。
むしろ、さらに面白がった。
「気づいた」
それは軽く言った。
「でも、まだ私を見てはいない」
尻尾が机の上を軽く叩いた。
「いいね」
それは都市の夜景を見た。
「次は、退魔界に猫目がもたらす便利さへ慣れさせる」
「そして、便利そのものが檻だと気づかせる」
「黒弦については……」
ニャーサは笑った。
「彼女は来る」
「私が呼ぶからじゃない」
「彼女はいつだって、巻き込んではいけない人たちを守りに行くからだ」
「そういう人間は、最も扉の前へ追い込まれやすい」
その夜、私はAfterToneで練習していた。
陽菜の歌は、先週よりも安定していた。
澪のベースラインはよくなっていた。
日和のドラムは明確だった。
私のギターの前奏は、ようやく半拍遅れずに入れた。
一曲が終わると、陽菜が歓声を上げた。
「小音、さっきすごく安定してた!」
私はうつむいた。
「すごくは……」
澪が言った。
「合格」
日和が笑って私を見た。
「確かによかったよ」
私も笑った。
小さく。
短く。
でも、本当に。
その瞬間、私は彼女たちに猫目資本のことを話さなかった。
ニャーサのことを話さなかった。
ソレンセンが「安全出力では足りないかもしれない」と言ったことも話さなかった。
もしある日、私が何かの敵に勝つために過剰な力を借りたなら、それは扉を開けるのと同じだということも話さなかった。
私はただ、自分の位置に立って、一曲を弾き終えた。
その曲に勝ち負けはなかった。
強弱もなかった。
扉もなかった。
ただ、私たち四人の音だけがあった。
これこそ、私が守らなければならないものだ。
いつか誰かを倒すためではなく。
いつか誰かを倒せなかったとしても、勝利のために自分の手でそれを壊さないために。