俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第77章 唯一の希望という言葉、そして私は自分が最高リスク予案に書き込まれたことを知らなかった
新学期第五週、私はようやく三号館から二号館までの道に慣れ始めていた。
音声メディア研究の教室を出る。
階段を下りる。
小広場を抜ける。
図書館のほうへ行ってはいけない。
自動販売機が見えたら左へ曲がる。
それから三階へ上がる。
文化政策入門の教室は、廊下の突き当たりにある。
このルートは、もう何度も歩いた。
一回目は間違えた。
二回目は間違えかけた。
三回目は五分前に着いた。
第五週になるころには、ようやく歩きながら、相原真紀がスマホに送ってくれた研究会資料を見ることができるようになっていた。
私にとっては、大きな進歩だった。
ソレンセンが言った。
「お前はようやく大学迷宮を手懐けたな」
「ただ道を覚えただけ」
「お前にとっては、だいたい同じだ」
私は相手にしなかった。
文化政策レポートのフィードバックを読んでいたからだ。
先生のコメントはこうだった。
問題意識が明確です。民間助成と自主性のあいだにある緊張関係をよく理解できています。今後は、代替資金と退出メカニズムの実際の実現可能性について、さらに議論できるでしょう。
私は「代替資金」と「退出メカニズム」という言葉を見て、少し胸が重くなった。
代替資金。
退出メカニズム。
その言葉たちは最近、授業の課題ではなく、どんどん現実に近くなっている。
それでも、私は外で何が起きているのか知らなかった。
猫目の倉庫が拡張していることも。
世俗財団の抵抗が失敗したことも。
いくつかの大勢力が、猫目に追い詰められて非常に苦しくなっていることも。
まして、東京の特調室が、窓のない会議室で私を最高リスク予案に書き込んでいることなど、知るはずもなかった。
その会議の等級は非常に高かった。
参加者は多くない。
久我山統括官。
眼鏡の女性。
数名の上級分析官。
戦術計画班。
心理保護班。
教育保護班。
それから、医療評価部門の責任者が一名。
会議の主題は、
猫目核心未知戦力への対応方針。
スクリーンには、私の本名は表示されていなかった。
あるのはコードネームだけ。
B-Black String
それは、特調室内部で、できるだけ私の名前を直接使わないための方法だった。
彼らが私を尊重していないからではない。
私の普通の身分と高危険度戦力を、同じページに並べる機会は少なければ少ないほどいいからだ。
スクリーンの反対側には、猫目核心個体の評価が表示されていた。
名前不明。
本体不明。
体系不明。
既知の表現:
一、未知の電流性攻撃によって家族達人を瞬時に撃破可能。
二、影の方向、あるいは追跡不能な経路から攻撃を発動可能。
三、配下に大量の組織化術師を有し、大勢力戦力を足止め可能。
四、資金、物流、世俗界、退魔界への極めて強い浸透能力を有する。
五、白川一音に能動的接触はしていないが、その将来の職業方向と生活生態へ複数回接近。
六、戦力表現は、白川一音が実任務で使用可能な黒弦の力を下回らない。
会議室は静かだった。
久我山統括官は最後の一条を見て言った。
「表現を、もっと明確にしろ」
若い分析官は少し躊躇した。
「どのように変更しますか?」
久我山は言った。
「猫目核心個体は、現時点で確認されている中で、白川一音に同級、あるいはそれ以上の対抗圧力を与え得る唯一の存在である可能性がある」
眼鏡の女性が補足した。
「ただし、彼女が勝てるかどうかは確認できません」
その言葉は、さらに重かった。
過去の多くの事件で、特調室は口では慎重だったが、内心では実際に知っていた。
白川一音が出れば、事態は高い確率で終わる。
百目影倉。
天城システム。
京都旧音庫。
九州潮返洞。
キャンパス襲撃。
彼女は必ずしも楽に勝ったわけではない。
代償がなかったわけでもない。
けれど彼女は、いつも最も重要な線を切断できた。
しかし、猫目は違う。
猫目は一本の線ではない。
網だ。
そして網の中央にいるあの未知個体は、今の黒弦で簡単に切り開けるものではないかもしれない。
戦術計画班の責任者が言った。
「もし将来、猫目核心と正面対抗しなければならない場合、現時点で我々が使える最高単体戦力は、依然として白川一音です」
ついに、その言葉が口にされた。
会議室はさらに静かになった。
白川一音。
大学一年生。
音声メディア研究と文化政策入門を受けている学生。
まだ正式な運転免許を取っていない人間。
青少年文化活動の実習を終えたばかりの人間。
毎週AfterToneへ練習に行く人間。
彼らが何度も「道具として扱ってはいけない」と自分たちに言い聞かせてきた人間。
その人間が今、最高リスク会議の中で、将来猫目核心と対峙するための唯一の希望として書き込まれていた。
誰も、その言葉を好まなかった。
けれど、誰も否定できなかった。
この世界で、実際の戦闘階層において猫目核心の表現へ近づける者は、ほとんどいない。
大勢力の達人は撃破された。
無門術師は現場、後方支援、判断、持続的な清理に優れているが、この階層の正面対抗には向いていない。
特調室にはシステムがあり、資源があり、戦術がある。
しかし、あの未知個体を制圧できる単体戦力はない。
天城の技術は、もはや核心武器として信頼できない。
京都旧結界は防御には向いているが、追撃には向かない。
玄海と四国は地方を安定させることはできるが、猫目を遠隔で制圧することはできない。
最後には、すべての視線が黒弦へ戻る。
私へ戻る。
たとえ彼らが望まなくても。
医療評価責任者が先に口を開いた。
「私は、出力向上を目標とするあらゆる訓練に反対します」
久我山は彼を見た。
「理由は」
「白川一音の力の源は不明です。使用後には疲労、冷感、精神負荷、感知過負荷などの反応が見られます」
「これまでの複数回の高強度任務後、明確な回復時間を必要としています」
「黒弦の出力を上げることが、永久的な損傷をもたらすかどうか、我々にはわかりません」
眼鏡の女性が言った。
「人格境界リスクもあります」
会議室の何人かが、資料へ視線を落とした。
彼らはまだソレンセンを知らない。
本当の名前も知らない。
黒海も知らない。
聖霊プニの圧制も知らない。
いわゆる安全出力も知らない。
けれど、一つだけは知っていた。
私の中には、簡単に増幅してはいけない危険がある。
心理保護班の責任者が言った。
「彼女本人には、力の使用に対する非常に強い境界意識があります」
「それはずっと安定要素でした」
「もし我々が猫目を理由に彼女へ戦力向上を求めれば、この安定要素を壊す可能性があります」
戦術計画班の一人が眉をひそめた。
「しかし、将来本当に猫目核心と戦わなければならないなら、現行出力では足りないかもしれません」
心理保護責任者は彼を見た。
「それでも、彼女をより高い出力へ押し出すことはできません」
「なぜですか?」
「より高い出力が何を意味するのか、我々にはわからないからです」
眼鏡の女性の声は冷たかった。
「彼女が傷つくという意味かもしれません」
「彼女が制御を失うという意味かもしれません」
「あるいは、我々にはまったく理解できないものを解放するという意味かもしれません」
会議室は再び静まり返った。
誰も、それがソレンセンだとは知らない。
けれど、扉の向こうに何かがあることは感じ取っていた。
ただ、その名を知らないだけだった。
戦術計画班は、いくつかの案を提出した。
第一。
体力訓練。
私の持久力、反応、任務後の回復速度を高める。
医療班は可能だと判断したが、普通の大学生向け健康訓練という形式でなければならず、軍事化してはいけないとした。
第二。
戦術訓練。
複雑な場面をシミュレートし、撤退、遅延、牽制回避を学ばせる。
心理班は可能としたが、「猫目に対抗するため」という名目にしてはいけないとした。
第三。
装備補助。
敵方の攻撃経路を特定し、未知の電流性攻撃を遮断し、普通人を守ることを補助する携帯装備を開発する。
技術班は試行可能とした。
ただし、眼鏡の女性は注意した。
「彼女の身体を装備だらけにしないでください」
「彼女は実験台ではありません」
第四。
チーム支援。
もし将来、猫目と対抗せざるを得なくなったとしても、彼女を一人で向き合わせない。
特調室、無門術師、大勢力の防御結界、世俗界避難システムで多層支援を構成する。
この方向には、多数が同意した。
第五。
戦場選択。
学校、LiveHouse、文化活動センター、住居付近で猫目が彼女に接触することを絶対に許さない。
対抗が避けられない場合は、可能な限り戦場を制御可能区域へ誘導する。
第六。
情報優先。
猫目核心個体の攻撃体系を知らないうちは、白川一音に試探的接触をさせない。
この条項は、久我山が直接、硬原則として定めた。
最後に、最も敏感な問題が提出された。
「未知の電流性攻撃に対抗する訓練は可能でしょうか?」
今度は、会議室が長いあいだ沈黙した。
技術班が言った。
「絶縁、防電流干渉、防神経麻痺の装備なら作れます」
医療班が言った。
「基礎防護はできます」
戦術班が言った。
「麻痺する前に攻撃経路を切断する訓練は可能です」
眼鏡の女性は首を振った。
「前提は、彼女がその経路を見えることです」
若い分析官が低い声で言った。
「現在の被害者は誰も見えていません」
誰も話さなかった。
猫目の攻撃は速すぎる。
隠蔽性が高すぎる。
この世界でよく見られる雷術とは違いすぎる。
もし私にも見えないなら、黒弦がどれほど鋭くても、切る前に間に合わないかもしれない。
会議の中盤、久我山統括官はさらに重い言葉を口にした。
「我々は彼女を唯一の希望と見ている」
「しかし、彼女を武器として育成してはならない」
全員が彼を見た。
「この二つの文は、同時に成立しなければならない」
「前の文だけを見れば、我々は彼女を利用する者になる」
「後の文だけを見れば、我々は未来に何の準備もないまま、彼女を死地へ送ることになる」
眼鏡の女性はゆっくりとうなずいた。
「つまり、目標は彼女の力を高めることではない」
「目標は、彼女が生き残り、撤退し、局面を引き延ばし、普通人を守り、同時に未知の境界を越えない能力を高めることです」
心理保護班の責任者が言った。
「つまり、戦力向上は出力向上ではない」
「任務表現の向上ということですね」
この言葉が、会議の核心となった。
特調室は、私の実際の任務表現上の戦力をどう高めればいいのかわからなかった。
少なくとも、「黒弦そのもの」をどう強化すればいいかはわからなかった。
彼らは力の源を理解していない。
上限を知らない。
代価を知らない。
私にさらに深く力を借りるよう強いる勇気もない。
だから、彼らは私以外の部分を中心に準備するしかなかった。
奇襲を受けにくくする。
撤退しやすくする。
支援を受けやすくする。
普通人に牽制されにくくする。
一人で背負う必要を減らす。
出力を上げずに、今使える力をより安全に、より有効に使えるようにする。
爽快な案ではなかった。
むしろ、少し不器用だった。
けれど、それが彼らの思いつける中で、最も私を傷つけにくい案だった。
その日の夕方、眼鏡の女性からメッセージが届いた。
最近の任務安排は引き続き停止します。新学期は、授業への適応を優先してください。
私は食堂でご飯を食べていた。
そのメッセージを見て、ほっとした。
わかりました。
数秒後、彼女はさらに送ってきた。
今後、普通の健康評価と安全研修を一度行う可能性があります。任務ではありません。時間はあなたの授業に合わせます。
私は「普通の健康評価と安全研修」を見て、少し不思議に思った。
どうしてですか?
彼女は返した。
新学期に伴う定例保護調整です。最近は授業、自動車学校、バンドの予定が増えているため、疲労状態を確認する必要があります。
その理由は、合理的に聞こえた。
実際、その通りでもあった。
私は疑わなかった。
大丈夫です。水曜午後は研究会があるので、そこは避けてください。
彼女はすぐに返した。
記録しました。
私はスマホを置いた。
意識の奥で、ソレンセンが言った。
「またお前を検査する気だな」
「健康評価だと思う」
「人間は恐怖に名前をつけ替えるのが好きだ」
「何か問題があると思う?」
「奴らはあの猫を恐れている」
私の指が少し止まった。
「あなたは、まだ猫目が具体的に何か知らないんだよね?」
「知らぬ」
「でも、彼らが怖がっていると思う?」
「このメッセージには匂いがある」
「どんな匂い?」
「お前をもう少し厚く包もうとしている」
変な言い方だった。
でも、意味はわかった。
特調室は保護を強めようとしている。
私は食堂のトレーを見下ろした。
「猫目は、本当に危険なのかもしれない」
ソレンセンは冷笑した。
「とっくに言った」
「あなたも知らないんでしょう?」
「吾は知らぬ。だが、嫌いだ」
それが出せる最高級の警報は、おそらくそれだった。
嫌い。
でも、知らない。
私は、自分がすでに「唯一の希望」の予案に書き込まれていることに気づいていなかった。
ただ、授業を続けていた。
音声メディア研究では、音の観察短報告を作ることが求められ始めた。
私は大学食堂の午後の音を選んだ。
相原真紀は図書館前の足音を選んだ。
私たちは金曜日に一緒に素材を整理する約束をした。
文化政策入門の小レポートは提出した。
先生は、来週いくつかの民間基金事例を扱うと言った。
少し楽しみで、少し緊張もした。
自動車学校では、路上教習がどんどん安定してきている。
教官は、卒業検定の方向へ準備を始めてもよいと言った。
「卒業検定」という言葉を聞いた瞬間、また心臓がきゅっとなった。
AfterToneの新曲も、ほぼ通しで演奏できるようになってきた。
陽菜は、あと数週間したら小さな内部試演ができるかもしれないと言った。
生活はぎっしり詰まっているように見えた。
猫目のことを深く考える余裕がないほどに。
そして、特調室が私を守りながら、同時に未来で私に依存せざるを得ないことを恐れているとも、私は知らなかった。
特調室の後続会議は三日続いた。
彼らは「実際の任務表現を向上させる」具体案を列挙した。
一、非戦闘体力支援。
私を戦士に鍛えるためではない。
長時間任務後の回復を改善するためだ。
呼吸訓練、基礎持久力、睡眠管理、栄養助言を含む。
これらは「健康評価」という形で、普通の支援として包むことができる。
二、撤退訓練。
「安全研修」として設計する。
未知の強敵と遭遇した場合、第一目標は勝つことではない。
支援範囲まで撤退することだ。
これは私にとって重要だった。
私はあまりにも残りやすいから。
三、低露出通信装備。
任務中に「撤退必須」「普通人優先」「未知攻撃」などの簡単な信号を、特調室へ素早く送れるようにする。
長い通話は不要。
一つのボタンでよい。
四、防麻痺防具。
技術班は軽量化インナーの開発を始めた。
見た目は普通の防寒インナーに近い。
実際には、一定の絶縁性と神経刺激保護機能を持つ。
猫目核心攻撃を防げるかどうかはわからない。
それでも、少しでも防げるなら防ぐ。
五、支援隊同期。
もし将来、猫目関連の高危険状況が発生した場合、私を一人で入らせない。
事前に無門術師が外縁を清理し、大勢力が結界隔離を担当し、特調室が普通人の撤離を担当する。
六、心理境界確認。
定期的に私へ確認する。
拒否していい。
撤退していい。
勝つために、境界を超えた力を背負う必要はない。
この条項は、眼鏡の女性が自ら追加した。
彼女は、これこそが最も重要だと、うっすら感じていたからだ。
若い分析官が尋ねた。
「もし彼女に、なぜ撤退を学ぶのか聞かれたら?」
眼鏡の女性は言った。
「安全研修だと伝えます」
「信じるでしょうか?」
「彼女は賢い」
久我山が言った。
「我々がもっと危険な事態に備えていると、気づくかもしれない」
「では、どうしますか?」
「完全に虚偽で騙してはいけない」
眼鏡の女性は少し考えた。
「猫目のリスクが上がっているため、安全研修を強化する必要がある、と伝えることはできます。ただし、我々が彼女を将来正面対抗の唯一の希望と見ていることは伝えません」
若い分析官はうなずいた。
「承知しました」
心理保護班の責任者が補足した。
「絶対に、彼女に『唯一の希望』という言葉を背負わせてはいけません」
その言葉に、全員が同意した。
唯一の希望。
熱血に聞こえる。
実際には、とても残酷だ。
それは、一人の人間を後退できないところまで押しつぶす。
彼らはそうしたくなかった。
少なくとも、今は。
大勢力たちもまた、特調室の判断を待っていた。
天城グループは知りたがっていた。
もし猫目核心個体がまた出手した場合、白川一音を頼る必要があるのか。
御影家内部には、まだこう考える者がいた。
黒弦だけが解決できる、と。
京都、玄海、四国はさらに慎重だった。
彼らは皆、問題を特調室に投げた。
特調室の統一回答は、非常に明確だった。
白川一音に猫目核心個体との能動的接触を求めてはならない。
彼女を猫目戦力試験の手段としてはならない。
猫目関連戦闘任務を、彼女の大学、住居、バンド、研究会、実習方向へ向けてはならない。
すべての猫目対抗は、資金、物流、代替資源、情報の切断を優先する。
この回答は、一部の大勢力を不満にさせた。
彼らは、猫目がもう核心にまで攻め込んでいるのに、特調室はまだ一人の学生を守っていると感じた。
けれど、さらに多くの者は沈黙した。
特調室の言うことが正しいと、彼らもわかっていたからだ。
もし大勢力である自分たちさえ、希望を私に押しつけ始めたなら。
それは退魔界が、自分たちの責任を一人の大学生へ押しつけているということになる。
それは醜い。
そして危険だった。
無門術師チャンネルで、真壁仁は、特調室が白川一音に猫目との能動的接触をさせることを拒んだと聞き、一言だけ送った。
ようやく少しは頭が残っていたか。
菅原涼が返信した。
問題は、未来で本当にどうにもならなくなったとき、彼らはやはり彼女を見るということ。
遠野修司:
だから、その前に切れる線をできるだけ切る。
真壁仁:
最後に彼女を出さずに済ませることこそ、俺たちが努力すべき方向だ。
誰かが尋ねた。
最後に本当に彼女しかいなかったら?
チャンネルはしばらく静かになった。
菅原涼が返信した。
そのときでも、彼女を一人で行かせてはいけない。
遠野:
勝つために、開けてはいけない扉を開かせてもいけない。
彼は実際には、扉が何かを知らない。
ただ、さまざまな噂からその比喩を覚えただけだった。
けれど、その言葉は非常に真実に近かった。
その夜、私は小さなアパートで音声観察の課題をしていた。
題目は、食堂の午後の音。
私はイヤホンをつけ、自分が録った音声を聞いていた。
食器の音。
自動ドア。
遠くの学生たちの笑い声。
椅子を引く音。
誰かが「カレー売り切れだって」と言っている。
誰かが「二限、眠すぎる」と文句を言っている。
それらの音は、とても普通だった。
普通すぎて、安心した。
私は課題に書いた。
食堂の午後の音は、低強度の共同存在感を構成している。個人同士は必ずしも互いを知っているわけではないが、食器、足音、会話、空間の反響によって、自分がまだ機能している日常の場所にいると感じさせられる。
書き終えたあと、私は「まだ機能している日常の場所」という言葉が気に入った。
大学食堂はそうだ。
AfterToneもそうだ。
青少年文化活動センターもそうだ。
私が守りたいものは、たぶん、こうした「まだ機能している日常の場所」なのだ。
大きな世界ではない。
一人の人間が座ってご飯を食べ、歌を練習し、授業を受け、少しずつよくなっていける場所。
意識の奥で、ソレンセンが言った。
「お前はいつも、とても小さなものを重く見る」
「大事だから」
「世界はそれらを踏み潰す」
「だから守る」
「そんな温和な課題でか?」
「ときには課題で」
「ときには規則で」
「ときには黒弦で」
それは少し静かになった。
「では、黒弦が足りなかったら?」
私の指が止まった。
その問いは、突然落ちてきた冷水のようだった。
「何?」
「ただ聞いただけだ」
「何か知ってるの?」
「知らぬ」
その声は低くなった。
「ただ、あの猫は気に食わぬ」
私はしばらく黙った。
「黒弦が足りないなら、無理に戦わない」
それは、最近の私が何度も自分に書いている言葉だった。
「撤退する。支援を呼ぶ。外縁の線を切る。普通人を守る」
ソレンセンは低く笑った。
「お前もようやく、昔のように前へ突っ込むだけではなくなったな」
「昔も、前へ突っ込むだけだったわけじゃない」
「だいたい同じだ」
私は言い争わなかった。
それが普通の問題を聞いているのではないと、わかっていたからだ。
もしある日、黒弦が足りなくなったとしても、私は勝つためにさらに多く借りてはいけない。
猫目を倒すために、あの扉を開けてはいけない。
たとえ私がまだニャーサを知らなくても。
その力を知らなくても。
特調室の予案を知らなくても。
私はすでに、ぼんやりと気づいていた。
ある種の勝利は、ある種の代価と引き換えにしてはいけないのだと。
翌日、眼鏡の女性が手配した健康評価の通知が届いた。
時間は水曜の研究会を避けていた。
AfterToneの練習も避けていた。
場所は普通の医療協力機関。
項目は、
基礎体検。
睡眠状態アンケート。
ストレス評価。
任務後回復状況の面談。
簡単な運動能力テスト。
安全研修説明。
本当に普通に見えた。
私は返信した。
大丈夫です。
眼鏡の女性が返した。
ご協力ありがとうございます。
その言葉を見て、ふいに彼女がいつもより疲れているように感じた。
だから送った。
そちらも休んでください。
彼女は長いあいだ経ってから返した。
ありがとう。
二文字だけだった。
でも、彼女は本当に疲れているのかもしれないと思った。
私は知らなかった。
彼女が、猫目に関するどれだけ多くの会議に出席しているのかを。
彼女が、「唯一の希望」という四文字を私の上に乗せないよう必死にしていることを。
彼女自身も、私の本当の力をどう高めればいいのかわかっていないことを。
彼女にできるのは、健康評価。
安全研修。
撤退方案。
防具。
支援隊。
そうした、少し不器用に見える保護だけだった。
熱血ではないかもしれない。
でも、とても貴重だった。
その夜、私は健康評価をカレンダーに書き込んだ。
灰色。
でも、濃い灰色ではない。
私はそれを薄い灰色にした。
それは任務ではないからだ。
ただの保護。
そうであってほしい。
それから、私は音声メディア研究の課題修正を続けた。
窓の外には東京の夜景がある。
猫目は遠くで拡張を続けている。
大勢力は焦燥の中で方法を探している。
特調室は私を未来の唯一の希望かもしれないと見ていながら、私の本当の力をどう高めればいいのか知らない。
ソレンセンは黒海の中で沈黙している。
私は机の前に座り、食堂の午後の録音を聞いていた。
食器の音は軽い。
誰かが笑っている。
誰かが、カレーが売り切れたと言っている。
その瞬間、私は何も知らなかった。
ただ、この音は残されるべきだと思った。