俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第8章 二百八十万円の重さ
翌朝、俺はすぐにAfterToneへは行かなかった。
ベッドで目が覚めた瞬間、最初にしたことはスマホの銀行アプリを開くことだった。
口座残高に、非常に現実味のない数字が並んでいた。
2,800,000円。
俺はその画面を、三分間ほどじっと見つめていた。
それから、スマホを伏せた。
十秒ほどして、再び持ち上げた。
数字は変わっていなかった。
夢でも、システムエラーでも、銀行が他人の金を間違えて振り込んだわけでもない。
昨夜の臨海地下共同溝での作戦の報酬だった。
基礎協力金三十万円。
緊急抑圧手当百万円。
認知漏洩遮断特別手当百五十万円。
合計で二百八十万円。
俺は再びスマホを伏せ、ゆっくりと布団の中に滑り込んでいった。
いけない。
この金額は、怖すぎた。
すでに「バンド活動費」の域を完全に超えていた。
まるで天井から落ちてきた巨大な金属板のように、俺の人生に直接のしかかってきた。
もし以前の俺なら、突然こんな大金を得たら、脳内で三百通り以上の使い道を妄想していただろう。
高級エフェクター。
新しいギター。
本格的なレコーディング。
MV撮影。
宣伝。
もっと良い練習スタジオを借りる。
AfterToneの、時々ノイズを出すモニタースピーカーも交換できる。
それでも今、俺は少しも興奮していなかった。
このお金がどこから来たのかを知っているからだった。
臨海地下共同溝から。
普通の人間の世界に、ほぼ漏れかけたあの声から。
逆さの鳥居の呪紋から。
ソレンセンが漏らした低笑から。
ソレンセンが意識の奥で口を開いた。
「不満か?」
俺は顔を枕に埋めた。
「わからない」
「資源を得た」
「うん」
「君たちのバンドは、前進できる」
「うん」
「仲間は喜ぶだろう」
「……うん」
「では、なぜ苦しむ?」
俺は沈黙した。
怖かったからだ。
このお金が、彼女たちを俺から遠ざけるかもしれないと思ったから。
同時に、このお金が、彼女たちを俺に近づけすぎるかもしれないと思ったから。
ソレンセンが低く笑った。
「なぜなら、お前はわかっているからだ。金は彼女たちをお前に依存させる、と」
俺の指が強く握りしめられた。
「違います」
「するさ」
ソレンセンはゆっくりと言った。
「最初は四十万円」
「次は八十万円」
「今回は二百八十万円」
「次は?」
「その次は?」
「白川一音。もしお前の闇が、彼女たちの夢を叶えるためのものになったとき、お前はまだ止められるか?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
それが、一番恐ろしいところだった。
もし「いや、俺は止められる」と、はっきりと胸を張って言えるなら、まだ良かったのかもしれない。
しかし、俺には言えなかった。
すでにこのお金で余響楽団が何ができるのかを、想像し始めていた。
レコーディングや宣伝、ライブ、機材のことを計算し始めていた。
もしかしたら、もう一度依頼を受けてもいいのではないかと思い始めていた。
ただ、もっと厳しい規則を課せば。
ソレンセンを出さなければ。
普通の人間を傷つけなければ。
みんなに知られなければ。
「ほら」
ソレンセンの声は、毒のように優しかった。
「もう、自分に理由をつけ始めている」
俺は目を閉じた。
「黙って」
「どんどん上手くなってきたな」
「黙ってください」
「力の使い方が上手くなったわけではないぞ」
ソレンセンが笑った。
「自分を欺くことが、上手くなったのだ」
俺は慌てて体を起こした。
このまま横になっていたら、奴の声に少しずつ黒い海へと引きずり込まれてしまう。
服を着替えて、ギターを背負い、下北沢へと向かった。
少なくとも、そこには俺の音があった。
AfterToneの楽屋で、朝倉日和が新曲の練習計画をまとめていた。桜庭陽菜は歌詞の紙を持ちながら、静かにメロディを鼻歌で歌っていた。黒瀬澪は古いソファに座り、無表情にコンビニのおにぎりを食べていた。
俺が入ると、陽菜がすぐに顔を上げた。
「小音、おはよう!」
「は、おはよう……」
日和が俺を見て言った。
「顔色、まだあんまり良くないね。昨夜遅かった?」
「うん……説明会が長引いて」
また嘘だった。
今、俺は嘘をつくのがどんどん上手くなっていた。
これは良くないことだ。
澪がおにぎりをかじりながら言った。
「政府の説明会、儲かるんだな」
俺は固まった。
「え?」
彼女は俺を見た。
「さっき、お前のスマホが光ってた」
俺は慌てて画面を確認した。
特調室からの入金通知が、まだロック画面に残っていた。
金額の部分だけが、はっきりと表示されていた。
日和もそれを見てしまった。
楽屋が静かになった。
陽菜が目を瞬かせた。
「に、二百八十万?」
俺の頭の中が真っ白になった。
まずい。
まずいまずいまずい。
これをどう説明すればいい?
普通の高校生が、「音響事故および心理的ストレス調査協力」という名目で二百八十万円を受け取るなど、普通の仕事とは到底思えない。
これはもう「怪しい」ではなく、警察に通報されてもおかしくないレベルだった。
いや、俺にお金を振り込んだのは政府関連の部署だ。
では、誰に通報すればいいのか?
俺はその場に立ち、手足が冷たくなっていくのを感じた。
「そ、その……」
日和はすぐに追及してこなかった。ただ、真剣に俺の顔を見つめた。
「小音、このお金、本当に合法なの?」
俺は必死に頷いた。
「合法です! 合法だと思います! いや、合法です! 書類もあります、契約もあります、税務の説明もあります!」
特調室は、確かに表向きの書類一式を渡してくれていた。
そこにはこう書かれていた。
特殊環境音響および心理的ストレス反応民間協力プロジェクト
青少年音楽感知能力サンプル協力費
危険環境臨場観察手当
秘密保持契約附加補償
名前が長ければ長いほど、本物らしく見える。
あるいは、深く聞かれないようにするためのもののように見える。
日和が眉を寄せた。
「危険環境?」
俺の心臓が跳ねた。
「そ、それは……廃棄施設や地下空間とかです! スタッフが一緒についてくれますし、そんなに危険じゃ……」
昨夜、ほぼ東京の普通の人間に異常を見せかけてしまった。
でも、そんなに危険じゃありません。
うん。
俺はすでに、極めて卑劣な方法で半分本当のことを言う術を身につけ始めていた。
陽菜が心配そうに言った。
「小音、変な大人に利用されてるんじゃないよね?」
俺は顔を伏せた。
この言葉は、あまりに的確だった。
正確すぎて、泣きそうになった。
俺は確かに、利用されている。
特調室に。
祓魔会に。
東京暗面の情勢に。
そしてソレンセンにも。
それでも、もし拒否したら、事態はもっと悪化するのだろうか。
俺にはわからなかった。
日和が俺の前に歩み寄り、静かな声で言った。
「小音、私たちはお金ができたからといって、無理に続けさせようとは思わないよ」
俺の喉が詰まった。
「うん……」
「このお金は、まずは小音が自分で持っていて。バンドが全部もらうのはやめよう」
俺は慌てて顔を上げた。
「でも……」
「でも、はないよ」
日和は珍しく真剣な口調だった。
「私たちは、メンバーとしての小音の助けは受け取れるけど、報酬を当然のようにもらうわけにはいかない」
陽菜も頷いた。
「そうだよ! 小音はもうたくさん助けてくれてる!」
澪も言った。
「借りるのはいいけど、吞むのはだめ」
言い方は変だったが、意味はわかった。
彼女たちは、このお金をバンドのお金として扱わなかった。
それが、俺を少しだけ安心させた。
同時に、もっと苦しくもした。
ソレンセンが意識の奥で冷たく言った。
「愚かだ」
俺は今回は、怒らなかった。
ただ、心の中で小さく返した。
「……そうかも」
それでも、その愚かさが、俺をここに立たせてくれている気がした。
昼、日和が正式に一つのことを発表した。
「独立系のMVディレクターに連絡を取ってみた」
陽菜がすぐに目を輝かせた。
「本当にMVを撮るの?」
「まだ、相談段階だけどね」
日和が資料をテーブルに置いた。
「あと、AfterToneで来月、下北沢合同ライブの企画があるんだ。それまでに一曲でも正式なレコーディングができれば、宣伝効果も大きいと思う」
澪が頷いた。
「金はかかる」
「かかるよ」
日和は俺を見た。
「だからこそ、慎重に考えなきゃいけない」
俺は強く頷いた。
「うん」
陽菜はすでにMVの映像を想像し始めていた。
「夜の街並みとか、ネオンとか、みんなで歩いてる感じがいいな!」
澪が言った。
「焼肉がいい」
「MVに焼肉が出てくる理由は?」
「生存の象徴」
その理由が強すぎて、俺は思わず笑いそうになった。
そのとき、AfterToneのドアベルが鳴った。
灰色のスーツを着た男性が入ってきた。
三十歳くらいに見え、フレームのない眼鏡をかけていて、手に名刺入れを持っていた。笑顔は穏やかだった。
普通の人に見えた。
少なくとも、表面的には。
日和が前に出た。
「いらっしゃいませ。何かご用でしょうか?」
男性が名刺を差し出した。
「初めまして。私は青藍文化芸術財団のプロジェクト担当、名取と申します」
青藍文化芸術財団。
若手ミュージシャンを支援する、まともな団体の名前だった。
名取氏は私たちを見て、穏やかに言った。
「最近、地下の有望なバンドを探していて、小規模なレコーディングとMV制作の支援を行っています。余響楽団のライブ映像がとても魅力的でしたので、協力のお話をさせていただければと思いまして」
陽菜の目が輝いた。
「本当ですか?」
日和も、少し驚いた様子だった。
「すみません、どのように私たちのことを……」
名取氏は微笑んだ。
「下北沢合同ライブの企画側からご紹介いただきました」
自然な答えだった。
しかし、俺の背中がゆっくりと冷えていった。
名刺の右下に、非常に小さな銀色のマークがあった。
普通の人間なら、ただの財団のロゴだと思うだろう。
しかし、俺は特調室の資料で似たようなマークを見たことがあった。
協力機関識別コードだった。
青藍文化芸術財団は、おそらく普通の財団ではない。
少なくとも、それだけではない。
ソレンセンが静かに言った。
「また来たか」
俺はギターケースの肩紐を強く握りしめた。
「何が目的なんですか?」
「視界の届く場所に、お前を留めておきたいのだろう」
その声には嘲りが混じっていた。
「あるいは、お前が大切にしているものを、縛りつけたいのかもしれない」
俺の胸が沈んだ。
財団の支援。
レコーディング。
MV。
バンド活動。
これらは、俺が最も断りにくいものだった。
名取氏は、俺の硬直に気づいていない様子だった。ただ自然に、日和と支援内容について話し始めた。
無料で一度レコーディングスタジオを使用できる。
MV撮影費用の一部を負担する。
ライブ企画との連携を支援する。
著作権の譲渡は求めない。
創作への干渉もない。
条件が良すぎて、罠のように感じられた。
日和はすぐに承諾しなかった。慎重だった。
「少し時間をいただいて、話し合ってもよろしいでしょうか」
名取氏は頷いた。
「もちろん。若いバンドが慎重になるのは良いことです」
彼の視線が、軽く俺を掠めた。
一秒にも満たない時間だった。
それでも、俺にはわかった。
彼は俺を認識していた。
余響楽団のギタリストとしてではなく、下北沢黒弦として。
彼が去った後、陽菜は興奮して飛び跳ねそうになっていた。
「すごい! 財団から声がかかるなんて!」
澪は真剣に考えていた。
「支援があれば、お金が浮く」
日和だけは、すぐに喜んではいなかった。名刺を眺めながら、どこか考え込む様子だった。
「条件が、ちょっと良すぎる気がする」
俺の心臓が跳ねた。
日和は本当に勘が鋭い。
「わ、わたしもそう思います……」
陽菜が聞いた。
「もしかして、詐欺とか?」
澪が言った。
「詐欺師は、普通うちみたいなバンドを選ばないと思う」
「澪!」
日和はスマホを取り出した。
「この財団、調べてみる」
彼女が調べた結果は、当然のように綺麗だった。
公式サイトがあり、支援実績もあり、過去に小劇場やインディーズミュージシャン、学生映像作品を支援した記録があった。
すべての情報が、丁寧に拭かれたガラスのように綺麗だった。
それが、逆に俺を不安にさせた。
特調室が、普通の人間が調べられるような背景を用意するのは、簡単なことのはずだった。
日和は最終的に言った。
「一旦、契約書をしっかり見るまでは返事しないようにしよう」
俺は安堵した。
しかし、ソレンセンの声が再び響いた。
「彼女たちは、承諾するだろう」
「そうとは限りません」
「するさ」
その声は静かだった。
「バンドにとって有利だからだ」
「そしてお前は、暗面から来る贈り物を、彼女たちの代わりに受け取ることになる」
俺は答えなかった。
奴がまた正しいことを言っているかもしれないのが、怖かったから。
午後の練習が終わった後、俺は特調室から暗号化されたメッセージを受け取った。
---
青藍文化芸術財団は、特調室の長期協力用シェル機関です。
あなたの表向きの資金・活動支援ルートとして機能させることが可能です。
受け入れるかどうかは、あなたの判断に委ねます。
---
俺はそのメッセージを、じっと見つめた。
やはり。
名目上は「あなたの判断に委ねます」。
実際には、また選択肢をこちらに投げてきている。
もし受け入れれば、余響楽団はより良いリソースを得られる。
もし拒否すれば、バンドはもっとゆっくりになるかもしれないが、より綺麗な状態でいられる。
しかし、「綺麗」とは、一体何を指すのか。
異常処理で得た報酬でバンドを支えることは、綺麗なのか?
俺はもう、境界線の上に立っていた。
一歩進めば暗面のリソース。
一歩引けば普通のバンド。
そして今、俺はその両方を同時に掴んでいて、指が痛み始めていた。
俺は返信しなかった。
少なくとも、今は。
夕方、AfterToneを出ようとしたとき、神代鈴音から電話がかかってきた。
彼女から電話がかかってきたのは、これが初めてだった。
俺は出た瞬間、声が上ずりかけた。
「か、神代さん?」
電話の向こうから、風の音が聞こえた。彼女は屋外にいるようだった。
「白川さん、突然連絡してすみません。今、お時間よろしいですか?」
「はい」
俺はAfterToneの外の路地に出た。周りに人はいなかった。
「何かあったんですか?」
「逆柱会の臨海作戦が失敗した後、関東以外のいくつかの勢力も東京に注目し始めています」
俺にはよくわからなかった。
「関東以外?」
「京都の旧陰陽師家系、東北の山岳修験系、九州の海神社系、それに神社系統に属さない旧家もいくつか」
俺の胃が痛み始めた。
舞台が、本当に大きくなっていた。
東京だけではなく。
関東だけではなく。
他の地域の人たちまで、動き始めているのか。
神代鈴音は続けた。
「今日の午前中、祓魔会本部に、あなたに関する調査依頼が届きました」
「わたしに?」
「正確には、『下北沢黒弦』に関するものです」
俺はほとんどその場でしゃがみ込みそうになった。
この呼び名、もっと広がらないでください。
「あなたの素性は、まだ明らかになっていません。特調室と白妙神社で、個人情報を抑えています」
俺は少し安堵した。
少なくとも、日和たちにまで調べが及ぶことはない。
神代鈴音の声が、より真剣になった。
「しかし、会いたがっている人がいます」
「誰ですか?」
「御影家です」
その名前を聞いたことがなかった。
しかし、聞いただけで面倒くさそうな響きだった。
「どういう人たちなんですか?」
「旧東京霊脈守護家系の一つです。明治以前から江戸の結界維持に関わっていました。現在は表向きに美術品と不動産を扱っていますが、裏ではいくつかの地下霊脈ノードを掌握しています」
俺は壁に寄りかかり、足が少し震えるのを感じた。
「なぜ、わたしに会いたがっているんですか?」
「あなたを、制御可能な高危戦力だと判断しているからです」
制御可能。
高危。
戦力。
この三つの言葉に、普通の高校生を指すものは一つもなかった。
「会わないことは、できますか?」
「できます」
神代鈴音は答えた。
「しかし、彼らはおそらく別の方法で接触してくるでしょう」
俺は沈黙した。
例えば、青藍文化芸術財団のような方法で?
例えば、バンドを通じて?
ライブを通じて?
レコーディングを通じて?
普通の世界への入り口は、多すぎた。
全部を防ぎきることはできない。
神代鈴音が静かに言った。
「白川さん、あなたの表の生活は、できるだけ普通のままでいてください。普通であればあるほど良いです。暗面の勢力に、あなたのバンドが利用できると思わせないでください」
俺の指がゆっくりと握りしめられた。
「わかっています」
「また、最近、怪しい団体や音楽企画、スポンサーからの誘いがバンドにあった場合は、事前に私か特調室に教えてください」
俺は手の中の名刺を見た。
青藍文化芸術財団。
「もう、ありました」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
「誰からですか?」
俺はその名前を伝えた。
神代鈴音が数秒、沈黙した。
「あそこは特調室の外殻機関です」
「うん、さっき教えてもらいました」
「気をつけてください」
俺は少し意外に思った。
「彼らは、あなたたちの味方じゃないんですか?」
「味方です」
彼女は言った。
「しかし、それは彼らがあなたを利用しないという意味ではありません」
この言葉に、俺は完全に言葉を失った。
神代鈴音は続けた。
「特調室は悪人ばかりではありません。少なくとも大多数は。しかし、組織はリスク管理を優先します。あなたのバンドは、彼らにとってはあなたを安定させる錨でもあり、同時にあなたを制御するための綱にもなり得る」
路地から風が吹いてきた。
俺は突然、寒く感じた。
錨。
綱。
この二つの言葉は、どちらも的確だった。
それでも、一つずつが恐ろしかった。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「ごめんなさい」
また謝られた。
「今、私にできることは少ないです。白妙神社にも、立場がありますから」
「いいえ」
俺は小さく言った。
「教えてくれただけで、十分感謝しています」
電話を切った後、俺は路地に長い時間立っていた。
夕陽がビルの隙間から落ちてきた。
下北沢の街に、明かりが灯り始めていた。
普通の人間が、俺の横を通り過ぎていく。
誰かが談笑し、誰かがスマホを見、誰かが楽器を背負っている。
誰も、俺が今どんな話を聞いたのかを知らない。
この街の暗面が、俺の普通の生活に手を伸ばし始めていることを知らない。
ソレンセンが口を開いた。
「彼らは、みんなお前を利用しようとしている」
俺は反論しなかった。
「政府も」
「神社も」
「旧家も」
「いわゆる財団も」
「さらには、君のバンドすら、知らぬ間に利益を得ることになる」
俺は名刺を強く握りしめた。
「違います」
「どこが違う?」
「彼女たちは、知らない」
「無知は、利益を得た事実を帳消しにはしない」
その言葉が、針のように刺さってきた。
俺は顔を伏せた。
ソレンセンは続けた。
「では、一番簡単な方法は何か?」
俺は答えなかった。
奴が代わりに答えた。
「支配することだ」
「政府を恐れさせる」
「神社を恐れさせる」
「旧家を恐れさせる」
「君のバンドに手を伸ばそうとするすべての人に、下北沢黒弦の名前を最初に思い浮かべさせる」
その声は、どんどん低く、はっきりとしていった。
「恐怖こそが、最も優れた境界だ」
俺は目を閉じた。
あまりにも、魅力的に聞こえた。
本当に。
もし、みんなが俺を恐れてくれたら。
もし、すべての暗面勢力が日和たちに近づくことをためらってくれたら。
もし「下北沢黒弦」という名前が、余響楽団を守る壁になってくれたら。
それは、価値があることなのだろうか?
いや。
違う。
もし俺が恐怖で壁を作り始めたら、ソレンセンはすでに半分勝っている。
俺は奴に、自分の方法を定義させてはいけなかった。
俺には、俺自身の規則が必要だった。
たとえそれが弱くても。
たとえそれが遅くても。
たとえそれが面倒でも。
俺は目を開け、名刺をポケットにしまった。
それから、特調室に一通の返信を送った。
青藍文化芸術財団の協力については、契約書をしっかり確認したい。バンドメンバーは、普通の音楽活動としてのみ参加し、異常関連の内容には一切触れさせない。彼女たちを監視・誘導・利用することは認めない。それができないなら、拒否する。
送信した後、神代鈴音にも一通送った。
御影家が会いたがっているなら、特調室か白妙神社で会うよう手配してほしい。バンドには接触させないでください。
送り終えた後、俺の手はまだ震えていた。
それでも、今回は俺から線を引いた。
ソレンセンが低く笑った。
「線を引いたのか?」
俺は小さく言った。
「はい」
「彼らは越えてくる」
「なら、もう一度引く」
「引き裂かれるぞ」
「なら、遮る」
「何で?」
俺はAfterToneの入口から漏れる明かりを見つめた。
中から、陽菜の笑い声と、澪が「腹減った」と言っている声が聞こえてきた。
日和が、彼女に店の菓子を勝手に食べないよう注意しているようだった。
俺は小さく答えた。
「まだ、扉を開けていないから」
ソレンセンがしばらく沈黙した。
やがて、笑った。
その笑い声は、黒い海に広がり、残酷で、どこか愉悦に満ちていた。
「いいだろう」
「俺は見ているぞ」
「その弱々しい体で、人間の組織と欲望と恐怖の狭間で、どう足掻くのかを」
「どうやってお前の『普通』を守るのかを」
「いつ、結局すべてを守れるのは俺の力だけだと認めるのかを」
俺はAfterToneのドアを押し開けた。
明かりが、俺に降り注いだ。
陽菜が振り返った。
「小音、どうしてそんなに外に立ってたの?」
日和が俺を見て言った。
「大丈夫?」
澪が飯を掲げた。
「食べる?」
俺は彼女たちを見た。
胸の奥の暗さが、少しだけ引いた気がした。
「大丈夫」
と言った。
今回は、まだ嘘かもしれない。
それでも、俺はここに立っていた。
普通の明かりの下に。
黒い王座の前ではなく。