俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第86章 再戦要請、そして私は初めて「お願い」が命令のように聞こえた
文化祭が終わった二週間後、私は生活が少しは静かになると思っていた。
研究会の展示ブースは無事に終わった。
AfterToneの文化祭ステージも問題なく終わった。
文化政策のレポートは提出した。
音声メディア研究の小課題も、悪くない評価をもらった。
自動車学校のほうでは、教官が、もう卒業検定前の最終練習を準備してもいいと言った。
どれも、とても普通のことだった。
普通すぎて、私は自分が猫目とのあの敗北から、少しだけ本当に歩き出せたような気がしていた。
もちろん、完全にではない。
夜になると、今でも埠頭の夢を見ることがある。
あの猫のような影が近づいてくる夢。
黒弦が空を切る夢。
私が撤退ボタンを押す夢。
それでも目が覚めれば、私はまた授業へ行ける。
練習へ行ける。
ご飯も食べられる。
課題も書ける。
それだけでも、もう十分よかった。
少なくとも短いあいだは、特調室が私を再び猫目へ接触させることはないと思っていた。
彼らは言っていた。
もう私を単独で猫目核心に向き合わせない、と。
眼鏡の女性も、何度も注意してくれていた。
猫目関連のことを自分から調べてはいけない。
だから彼女がまた連絡してきて、会いたいと言ったとき、私の最初の反応はこうだった。
何かが起きた。
しかも、小さなことではない。
待ち合わせ場所は、また大学近くの普通の会議室だった。
今回は、眼鏡の女性一人ではなかった。
久我山統括官も来ていた。
それだけで、胸の中が一気に沈んだ。
健康評価や普通の説明なら、久我山が自ら来るはずがない。
彼はテーブルの向こう側に座っていた。
前より少し老けたように見えた。
年齢のせいではない。
疲労だった。
眼鏡の女性は一部の書類を机の上に置いた。
けれど、すぐには私へ押し出さなかった。
先に言った。
「白川さん、今日はあなたに命令しに来たのではありません」
その言葉を聞いた瞬間、私はかえって不安になった。
本当に命令するつもりがないなら、わざわざ最初にそう言う必要はないからだ。
私は何も言わなかった。
彼女は続けた。
「私たちは、あなたにお願いしに来ました」
お願い。
その言葉は軽い。
けれど、その会議室の中では、指を切りそうな紙のように軽かった。
私は尋ねた。
「猫目ですか?」
久我山はうなずいた。
「そうだ」
指がゆっくりと強張っていく。
ソレンセンが意識の奥で冷笑した。
「またか」
私は心の中で言った。
「黙って」
眼鏡の女性は私を見つめ、低い声で言った。
「あなたに、猫目核心への再接触行動に参加してほしいのです」
私は顔を上げた。
「再戦?」
彼女は少し黙った。
「形式上は、対峙です」
「実際には?」
久我山が言った。
「実際には、相手が出手した場合、あなたは応戦する必要があるかもしれない」
会議室は静まり返った。
自分の呼吸音が聞こえた。
遅くて。
安定していなかった。
「あなたたちは前に、もう私を単独で猫目核心に対抗させないと言いました」
眼鏡の女性はすぐに言った。
「今回も単独ではありません」
「なら、どうしてやっぱり私なんですか?」
その問いが口から出たあと、自分でも声が少し震えているのがわかった。
久我山は避けなかった。
「外部圧力が、そこまで迫っているからだ」
「外部圧力?」
眼鏡の女性は書類をこちらへ押し出した。
私は開かなかった。
彼女が説明した。
「京都外輪が失守したあと、東京と京都以外のすべての地方大勢力は、相次いで実質支配能力を失っています」
心が大きく揺れた。
私は、そのことを知らなかった。
彼女は続けた。
「世俗界の大財団も、猫目の拡張を止められていません」
「東京、京都以外の地方経済、物資、倉庫、保険、文化活動支援、そして低級武力調度は、すでに猫目体系へ入っています」
私はゆっくりとうつむき、机の上の書類を見た。
外は、もうそんなことになっていたのか。
私が文化祭に参加しているあいだに。
私がレポートを書いているあいだに。
私がギターを練習しているあいだに。
猫目は、それほど多くの地方を食べていた。
黒海の中で、ソレンセンは沈黙していた。
今回、それは私が知らなかったことを嘲笑しなかった。
それも知らなかったからだ。
久我山は続けた。
「現在、大勢力と世俗財団は特調室に圧力をかけている」
「彼らは、日本にはまだ猫目核心を牽制できる力があると、我々に証明するよう求めている」
私は顔を上げた。
「だから、私なんですね」
誰もすぐには答えなかった。
それが答えだった。
眼鏡の女性がようやく口を開いた。
「一部の大勢力は、前回あなたが撤退したあと、猫目が拡張を加速させたのは、猫目があなたはもう出手しないと確認したからだと考えています」
胸の中を、何かに押さえつけられたようだった。
「彼らは、私のせいだと思っているんですか?」
「違います」
彼女はとても早く言った。
早すぎた。
「少なくとも、私たちはそう考えていません」
私は彼女を見た。
「でも、彼らはそう考えている?」
彼女は沈黙した。
久我山が言った。
「全員ではない」
「だが、そういう声はある」
彼は取り繕わなかった。
そのせいで余計につらくなったが、同時に彼が本当のことを言っているとも思えた。
「大勢力の中には、黒弦がもう前に出ないなら、猫目は東京と京都を完全に圧倒すると考える者がいる」
「世俗財団は、猫目が日本に残った経済と倉庫を呑み込み続ければ、東京核心での自分たちの利益も脅かされると恐れている」
私はゆっくりと理解した。
大勢力は、残された支配権を失うことを恐れている。
世俗財団は、猫目が市場と実行層をさらに食べることを恐れている。
彼らは誰も、自分で猫目を解決できない。
だから圧力を特調室へ押しつける。
そして特調室は、その要請を私の前へ持ってくる。
その線は、とても長い。
けれど最後には、やはり私の上に落ちてきた。
私は低い声で尋ねた。
「もし私が拒否したら?」
眼鏡の女性は私を見た。
「拒否できます」
彼女は、やはりそう言った。
けれど今回は、その言葉がとても重く聞こえた。
拒否に後果がないわけではないと、もうわかっていたからだ。
私が拒否すれば、大勢力は圧力をかけ続ける。
世俗財団は、特調室は無力だと判断する。
もしかすると、誰かが特調室を迂回し、裏でさらに危険な行動を設計するかもしれない。
彼らは私を追い込もうとするかもしれない。
私の名前、学校、バンド、生活の方向を持ち出して、何かを仕掛けるかもしれない。
久我山は、私が何を考えているのかわかったようだった。
「もしあなたが拒否するなら、我々はあなたの決定を守る」
私は尋ねた。
「守りきれますか?」
彼は沈黙した。
眼鏡の女性の指が、ほんの少し動いた。
彼女は嘘をつかなかった。
彼女にもわかっていたのだ。
難しい、と。
今は、特調室が私を守りたいかどうかの問題ではない。
外部構造全体が、私を前へ押し出し始めている。
大勢力には象徴が必要だ。
世俗財団には切り札が必要だ。
官僚体系には、猫目を一時停止させる威嚇が必要だ。
退魔界には、自分たちがまだ完全に負けていないという証明が必要だ。
そして私は、彼らが思い浮かべた名前だった。
黒弦。
私は書類を開いた。
中には、術式の細かな説明はあまりなかった。
多くは情勢説明だった。
地方支配率。
猫目倉庫の拡張。
世俗財団の抵抗失敗。
大勢力残余の防線。
東京核心リスク。
京都内層閉鎖。
そして、私が長いあいだ見つめてしまった一行があった。
猫目核心への威慑を再構築できない場合、東京および京都の抵抗は受動的孤島状態へ移行する。
孤島。
東京と京都が、孤島になる。
私は次のページをめくった。
今回の行動計画は、こうだった。
東京湾外の人工島施設にて、特調科主導による正式対峙を行う。
秘密の埠頭ではない。
偶発的な遭遇でもない。
猫目へ限定条件付き会談を正式に発出する。
条件は次の通り。
一、猫目は大量の術師を場内へ派遣してはならない。
二、特調室、大勢力、世俗財団代表は遠隔観測を行う。
三、白川一音は特調科特別協力者として出場する。
四、目標は威慑の再構築、境界確認、猫目による東京核心への継続的推進の阻止。
五、撃殺を目的としない。
六、都市戦へ拡大させてはならない。
第三項を見たとき、指が止まった。
白川一音は特調室特別協力者として出場する。
黒弦ではない。
私の名前だ。
私は顔を上げた。
「どうして私の名前が書いてあるんですか?」
眼鏡の女性は言った。
「内部版です。外部には出ません」
「でも、ここには書いてあります」
彼女はうつむいた。
「はい」
それは、代号を書くよりもつらかった。
大学生の白川一音と黒弦を、同じページに並べているからだ。
それは、特調室がずっと避けようとしてきたことだった。
けれど今は、外部圧力が彼らにその二つを合併させ始めていた。
ソレンセンが低く言った。
「奴らはお前を武器として書き始めた」
私は心の中で言った。
「わかってる」
久我山は私を見て、ゆっくりと言った。
「白川さん、はっきり言っておかなければならない」
「我々は、あなたに前回の敗北を補う義務があるとは考えていない」
敗北。
その言葉が、ついに口にされた。
心臓が強く縮んだ。
彼は続けた。
「前回の行動で、あなたは撤退目標を達成し、越界せず、制御を失わなかった。それは正しい結果だ」
「だが、外部勢力はそう見ていない」
「彼らは、あなたが猫目核心を制圧しなかったことだけを見ている」
私は書類を見下ろした。
「彼らは、私にもう一度証明してほしいんですね?」
「そうだ」
「黒弦はまだ猫目に警戒させられると?」
「そうだ」
「もし私がまた負けたら?」
誰も答えなかった。
私は彼らの代わりに続きを言った。
「そうすれば、希望はないと証明される」
眼鏡の女性の顔色が白くなった。
「違います」
「違わない」
私は言った。
「彼らは、そう考えているんです」
会議室は静まり返った。
私は突然、とても寒く感じた。
猫目のせいではない。
他人の目に映る自分が、もう初めてはっきり見えたからだ。
私は、怖がり、傷つき、ためらい、課題を書き、文化祭ステージを練習する大学生ではなくなっていた。
彼らの目には、私は最後のカードだった。
このカードで勝てなければ、彼らは敗北したということになる。
けれど、カードが痛いかどうかを聞く人はいない。
カードが二度目の折損に耐えられるかどうかを聞く人もいない。
黒海の中で、ソレンセンが言った。
「拒否しろ」
私はすぐには答えなかった。
それは続けた。
「あの猫には勝てない」
「知ってる」
「安全出力では足りない」
「知ってる」
「お前がさらに求めれば、門が開く」
「知ってる」
「なら、それでも行くつもりか?」
私は書類の端を握りしめた。
行きたくない。
それは本当だった。
私はまったく行きたくなかった。
ニャーサが怖い。
その体術が怖い。
その目が怖い。
それが門を知っていることが怖い。
今度は私を弄ぶだけではないかもしれないことが怖い。
また負けるのが怖い。
そして、全員の注視の中でまた負けることが、もっと怖い。
けれど、もう一つ怖いことがあった。
もし私が拒否したら、外の圧力は私の大学へ向かうのではないか。
AfterToneへ向かうのではないか。
研究会へ向かうのではないか。
文化祭のあと、やっと少し取り戻した普通の生活へ向かうのではないか。
それは猫目が直接することではないかもしれない。
大勢力や世俗財団がやるのかもしれない。
彼らは私を傷つけようとはしないかもしれない。
でも、「保護」「必要」「協力」「安全」の名のもとに、私の生活をもっと小さな檻へ変えるかもしれない。
猫目が支援によって地方を支配するように。
「お願い」も、ときには命令になる。
私は眼鏡の女性を見た。
「あなたたちは、私に行ってほしいんですか?」
彼女は答えなかった。
久我山も答えなかった。
かなり時間が経ってから、眼鏡の女性が言った。
「特調室の人員として、私は今回の行動には必要性があると考えています」
心が沈んだ。
彼女はさらに言った。
「でも、ずっとあなたの保護を担当してきた人間としては、行ってほしくありません」
その言葉に、鼻の奥がつんとした。
あまりにも本当だったからだ。
彼女は二つに裂かれていた。
特調室は私を必要としている。
彼女は、私に行ってほしくない。
そして私自身も、二つに裂かれていた。
私は行きたくない。
けれど、完全に行かないわけにもいかない気がしていた。
私は尋ねた。
「今回の行動で、私は何をすればいいんですか?」
久我山は言った。
「場に立つことだ」
「立っているだけ?」
「主には、立っているだけだ」
それはとても滑稽に聞こえた。
けれど、私は理解した。
彼らが求めているのは、私が猫目核心を殺すことではない。
すべての観測者に見せることだ。
黒弦は、まだ場に出る。
白川一音は、完全に怯えて退場したわけではない。
特調室は、猫目に、自分が完全には無視できない力と正面から向き合わせることができる。
これは戦闘だ。
同時に、政治的な演出でもある。
そして私は、その中央へ置かれる象徴だった。
「もしそれが私を攻撃したら?」
眼鏡の女性は言った。
「撤退優先です」
「もし私が撤退したら、また負けになります」
「生きて帰るほうが重要です」
「でも、彼らはそう見ない」
久我山が言った。
「だから今回の行動は、あなたが単独でそれを撃破する設計ではない」
「我々は、合同結界、遠隔圧制、撤離通路、反電流防護、普通人隔離を配置する」
「猫目があなたを攻撃するなら、それは合同フレーム全体を攻撃することになる」
私は理解した。
今回は、私を単独で戦わせるつもりではない。
私をフレームの中央に置き、もし猫目がもう一度私を打ち倒そうとするなら、特調室、大勢力残余、世俗財団が提供する設備、そして公式観測体系をまとめて貫かなければならないようにするのだ。
彼らは構造で、私が勝てない部分を補おうとしている。
理屈としては合理的に聞こえる。
同時に、とても危険だった。
もし猫目がそれでも簡単に貫いたなら、全員がさらに絶望する。
私は尋ねた。
「本当に、それが役に立つと思っているんですか?」
久我山は長く沈黙した。
「わからない」
その「わからない」は、どんな保証よりも正直だった。
「だが今、外部圧力は臨界点に達している」
「我々が一度、制御可能な対峙を組織しなければ、制御不能な行動が起こる可能性がある」
「誰の行動ですか?」
「大勢力残余」
「世俗財団」
「さらには、一部官僚と地方強硬派」
眼鏡の女性が低く言った。
「彼らは、私たちを迂回してあなたへ接触しようとするか、あなたが出手せざるを得ない局面を作る可能性があります」
指先が冷たくなった。
つまり、今回の「お願い」も、一種の保護なのだ。
特調室は、自分たちで私に頼みに来ることを選んだ。
私が他の誰かに、もっと悪い場面へ追い込まれるよりはましだから。
そのせいで、ますます拒否しづらくなった。
特調室でさえ、私を前へ押し出すしかないと判断したなら、外は本当に制御不能になりかけているということだからだ。
私はうつむき、自分の手を見た。
手首はもう治っている。
文化祭のとき、私はこの手で二曲を最後まで弾いた。
今、他人はまた、この手で黒弦を握れと言っている。
「条件があります」
私は言った。
眼鏡の女性はすぐに顔を上げた。
「言ってください」
「一つ目、学校、LiveHouse、研究会、実習機関、私の住居の近くではやらないこと」
「もちろんです」
「二つ目、私を単独で猫目核心に向き合わせないこと」
「合同支援を配置します」
「三つ目、私が撤退信号を押したら、全員が撤退を実行すること。面子のために私を残らせる人がいてはいけません」
久我山はうなずいた。
「行動原則に書き込む」
「四つ目、私は出力を上げません」
会議室が一瞬静まった。
私は続けた。
「外部勢力が何と言っても、私は勝つために安全境界を超える力は使いません」
眼鏡の女性が低く言った。
「私たちは求めません」
私は久我山を見た。
彼もうなずいた。
「求めない」
「五つ目、大勢力と財団が私の出場を宣伝、威慑、交渉の切り札として使うなら、私の身分は隠してください」
「外部には代号のみを使用する」
「六つ目、行動が失敗した場合、責任を私に押しつけないこと」
この一文を口にしたとき、声が少し震えた。
眼鏡の女性の表情が変わった。
久我山は、とても厳粛に言った。
「押しつけない」
私は彼を見た。
「書いてください」
彼は怒らなかった。
ただ、うなずいた。
「書く」
最後に、私は言った。
「七つ目、もしそれがまた門に関することを言ったら、行動を即時中止してください」
眼鏡の女性がこわばった。
久我山も眉をひそめた。
彼らは門が何なのか知らない。
けれど、それが重要だとはわかった。
久我山が尋ねた。
「門とは、あなたの力の境界を指すのか?」
私は低い声で言った。
「そう理解してもらって構いません」
「わかった」
彼は書類に書き込んだ。
猫目核心個体がB-Black Stringの力の境界を明確に刺激した場合、即時撤退へ移行する。
私はその一文を見て、少しだけ心が安定した。
黒海の中で、ソレンセンが低く言った。
「少しは賢い」
「あなたは、私が行くことに同意するの?」
「吾は同意していない」
「じゃあ、どうして……」
「だが、お前はもう行くと決めている」
私は黙った。
それは冷たく言った。
「行くなら、縄をしっかり結べ」
嫌な言い方だった。
でも、正しい。
私は、自分に十分な数の縄を結ばなければならない。
撤退信号。
出力上限。
身分秘匿。
失敗責任の免除。
生活圏付近では行わないこと。
門関連の刺激があれば即時中止。
それらはすべて縄だ。
私を縛るためではない。
私が落ちないようにするためのものだ。
会議が終わると、眼鏡の女性は私を階下まで送ってくれた。
外はもう暗くなっていた。
大学近くの街灯がともっている。
学生たちが二人三人で通り過ぎていく。
本を持っている人がいる。
コンビニの袋を提げている人がいる。
サークルの話をしている人がいる。
彼らは、私がさっき何を引き受けたのか知らない。
眼鏡の女性は道端に立ち、ふいに言った。
「ごめんなさい」
私は彼女を見た。
彼女は私を見ていなかった。
「本当なら、もうあなたを行かせるべきではありませんでした」
私は首を横に振った。
「外の圧力のせいで来たんですよね」
「でも、来たのは私たちです」
彼女の声は低かった。
「だから、ごめんなさい」
どう答えればいいのかわからなかった。
最後に、ただ言った。
「私は、必ず勝つと答えたわけではありません」
彼女は私を見た。
私は続けた。
「出場すると答えただけです」
彼女はうなずいた。
「それで十分です」
私は低い声で言った。
「十分じゃない。彼らにとっては十分じゃない」
「私にとっては十分です」
彼女は言った。
「あなたが立つことを選んでくれた。それだけで十分です」
鼻の奥が少し熱くなった。
「でも、怖いです」
「怖いのは普通です」
「また負けるのが怖い」
「なら、撤退してください」
「彼らを失望させるのが怖い」
「それは彼らの問題です」
彼女は私を見た。
「あなたの問題ではありません」
この言葉は、何度も聞いたことがある。
けれど今回も、やはり必要だった。
小さなアパートに戻ると、私はすぐには課題を開かなかった。
床に座り、ギターを見ていた。
文化祭の舞台は、まだ昨日のことのようだった。
あのとき私は、前奏が半拍遅れないかだけを心配していた。
今、私はまた猫目核心と向き合おうとしている。
生活が、強引にあの埠頭へ引き戻されるようだった。
スマホが震えた。
日和からのメッセージだった。
今日、身体はどう?
その一文を見た瞬間、胸がひどくつらくなった。
全部は話せない。
私はただ書いた。
少し疲れた。今日は外部の用事があった。
彼女はすぐに返した。
無理しないで。
私は「無理しないで」という四文字を、長いあいだ見つめていた。
それから返した。
できるだけ無理しないようにする。
完璧な答えではない。
けれど、本当だった。
陽菜がグループで週末の練習時間を聞いた。
澪がおにぎりの絵文字を送った。
グループチャットを見ていると、自分が二つの道のあいだに立っているように感じた。
一方には、文化祭後の普通の日常。
もう一方には、特調科からの再戦要請。
その二つの道は、どちらも本物だ。
私は、どちらも捨てるわけにはいかなかった。
黒海の中で、ソレンセンが言った。
「覚えておけ」
「何を?」
「お前は勝ちに行くのではない」
「奴らに追い込まれて門を開くのを防ぎに行く」
私は目を閉じた。
「うん」
それは続けた。
「あの猫は、お前を試す」
「知ってる」
「自分は証明しなければならないと思わせてくる」
「知ってる」
「外の虫どもに、お前が揺らぐところを見せる」
「知ってる」
「だから、証明するな」
私は目を開けた。
その言葉は重要だった。
証明するな。
私は、黒弦がまだ勝てると証明しに行くのではない。
自分が怖がっていないと証明しに行くのでもない。
自分が唯一の希望だと証明しに行くのでもない。
私は、そこに立ち、境界を守るために行く。
必要なら撤退する。
出力は上げない。
門は開かない。
それこそが、私の目的だ。
私はメモを開き、書いた。
再戦原則。
一、証明しない。
二、門を開けない。
三、撤退は失敗ではない。
四、大勢力と財団の恐怖に、私が責任を負わない。
五、猫目に普通の生活から私を引きずり出させない。
六、帰ってくる。
書き終えたあと、さらに書いた。
必ず帰ってくる。
その一文を、長いあいだ見つめた。
それから保存した。
同じころ、猫目本部では、ニャーサがすでに特調室からの会談要請を受け取っていた。
代理人がそばに立ち、頭を下げて報告していた。
「特調室が、人工島での限定対峙を提案しています」
「大勢力残余と世俗財団は遠隔観測」
「白川一音が出場します」
ニャーサは笑った。
「彼女はやっぱり来たんだね」
代理人が尋ねた。
「受け入れますか?」
「もちろん」
「戦闘配備は準備しますか?」
「最低規格で」
代理人は固まった。
「最低規格、ですか?」
「彼女は勝ちに来るわけじゃない」
ニャーサは軽く言った。
「押し出されて来るんだ」
代理人は何も言えなかった。
ニャーサは窓の外を見た。
「特調室は彼女で威慑を再構築したい」
「大勢力は彼女で恐怖を取り戻したい」
「世俗財団は彼女で私に条件交渉を迫りたい」
「官僚は猫目にまだ境界があるか見たい」
「では、彼女自身は?」
ニャーサの笑みは、さらに深くなった。
「彼女はただ、門を開けずに家へ帰りたいだけ」
代理人は心の中が冷えた。
ニャーサは、あまりにもよく見えている。
まるで、すべての人間の心の中に立っているようだった。
「では、どう対応しますか?」
代理人が尋ねた。
ニャーサは爪を上げた。
細かな電光が一瞬跳ね、すぐに消えた。
「天極純雷は使わない」
「あれは門の向こうのもののために準備したものだ」
「本当に彼女を傷つける必要もない」
「今回は、観客を打つ」
代理人は頭を下げた。
「観客、ですか?」
「彼女が私の威脅ではないと、彼らに見せる」
「だが、彼女に門を開けさせてもいけない」
「だから、軽く」
ニャーサの声は、恐ろしいほど静かだった。
「彼女が立っていられるようにする」
「彼女が完全には負けないようにする」
「全員が議論を続けるようにする」
「議論は、最高の時間稼ぎだ」
代理人はすぐに理解した。
ニャーサは、今回私を徹底的に叩き潰すつもりではない。
徹底的に叩き潰せば、特調室とすべての勢力が絶望し、私をさらに深い力へ追い込むかもしれない。
ニャーサが望んでいるのは、曖昧な結果だ。
大勢力に、まだ希望があると思わせる。
特調室に、引き続き私を保護させる。
世俗財団に、交渉を試み続けさせる。
官僚に、監管を議論し続けさせる。
そのあいだに、猫目は日本に残った資源を食べ続ける。
「承知しました」
代理人は低く言った。
ニャーサは軽く笑った。
「人間はいつも、戦闘とは勝敗を決めるためのものだと思っている」
「実際には、勝敗をはっきりさせないための戦闘もあるんだよ」
夜が深くなっても、私はまだ眠れていなかった。
緊急信号器を机の上に置いた。
普通のピックをその横に置いた。
それから、文化政策の教科書を本棚へ戻した。
明日も授業がある。
明後日も授業がある。
再戦は三日後に安排された。
つまり、私はあと二日授業を受けてから、猫目と向き合いに行くのだ。
とても荒唐無稽だった。
けれど、私の生活はずっとこうして荒唐無稽だった。
午前中には先生の民間助成と自主性の話を聞く。
夜には特調室から、日本の地方を支配する猫目に対抗してほしいと頼まれる。
ベッドに横になり、天井を見た。
「ソレンセン」
「なんだ」
「もし今回も負けたら、どうしよう」
黒海の中が、しばらく静かになった。
「なら、また帰ってこい」
「もし帰れなかったら?」
「なら、帰ってくる方法を考えろ」
「それ、答えになってない」
「良い答えがないからだ」
私は目を閉じた。
本当に、良い答えはなかった。
しばらくして、ソレンセンが低く言った。
「お前は、他人を失望させるのを恐れている」
「うん」
「だが、それ以上に、自分の勝利を奴らの切り札にされることを恐れるべきだ」
私は目を開けた。
その言葉は、私に突き刺さった。
そうだ。
もし私が勝ったら、彼らはそれをどう使うのだろう。
大勢力は、黒弦はまだ使えると言うだろう。
世俗財団は、猫目は圧制できると言うだろう。
官僚は、威慑はまだ残っていると言うだろう。
特調室は、また私を出場させるよう迫られるだろう。
勝利も、必ずしも自由ではない。
敗北も、必ずしも終わりではない。
だから今回は、勝ち負けだけで考えてはいけない。
暗闇の中で、私は小さく言った。
「私は切り札じゃない」
ソレンセンが答えた。
「なら、その一手を他人に打たせるな」
「でも、もう出場すると答えた」
「出場は、奴らに使われることではない」
それは言った。
「そこでどう立つかは、お前自身が決めろ」
天井を見つめながら、私はゆっくり呼吸した。
自分で、どう立つかを決める。
それが、今の私にできることだ。
三日後、私は人工島に立つ。
大勢力の最後のカードとしてではない。
世俗財団の交渉道具としてでもない。
特調室報告書の中の唯一の希望としてでもない。
白川一音として。
自分が怖がることを知っていて。
勝てないかもしれないことも知っていて。
門を開けてはいけないことも知っていて。
それでも帰ってこなければならないと知っている大学生として。
それは、あまり強そうには聞こえない。
けれど、猫目と外部圧力に一緒に呑み込まれないために、私が保てる唯一の方法だった。
私は目を閉じた。
今度はようやく眠りに落ちる前、心の中で繰り返していたことだけを覚えている。
証明しない。
門を開けない。
帰ってくる。