俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第87章 剥ぎ取られた仁慈、そして二度目の敗北
再戦の前夜、東京には雨が降っていた。
雨音はとても軽い。
小さなアパートの窓を、誰かが指先で一つ一つ叩いているようだった。
私は机の前に座り、文化政策の教科書を開いていた。
けれど、一文字も頭に入ってこなかった。
明日の午前には授業がある。
明後日には音声メディア研究の小レポートを出さなければならない。
自動車学校の卒業検定前練習も、来週に入っている。
AfterToneの練習は、日和が一度後ろへずらしてくれた。
そうした予定は、まだカレンダーの中に残っている。
けれど今、カレンダーの真ん中にあるその一枠だけが灰色だった。
人工島限定対峙。
猫目核心。
再戦。
私はその枠を見つめていた。
胸の中に、濡れて冷たい布を押し込まれているようだった。
私はもう出場すると答えた。
自分のための原則も書いた。
証明しない。
扉を開けない。
撤退は失敗ではない。
大勢力と財団の恐怖に、私が責任を負わない。
必ず戻る。
けれど、その原則は、私から恐怖を消してくれるわけではなかった。
私は知っている。
私はニャーサに勝てない。
少なくとも、今は勝てない。
前回、それは体術だけで私に撤退ボタンを押させた。
今回、たとえ特調室が合同支援を配置しても。
たとえ大勢力が遠隔結界を提供しても。
たとえ世俗財団が設備と観測を提供しても。
たとえ人工島が制御可能な戦場だとしても。
本当にそれの前に立つのは、やはり私だった。
黒海の中で、ソレンセンはずっと静かだった。
静かすぎて、不安になるほどだった。
私は低く尋ねた。
「何を考えているの?」
それはすぐには答えなかった。
雨音が窓に落ち続ける。
かなり時間が経ってから、ソレンセンは言った。
「一つ方法がある」
私の指が止まった。
「どんな方法?」
「お前を、より吾に近づける」
背筋が一瞬で冷たくなった。
「やめて」
「まだ最後まで聞いていない」
「聞くだけで危険そう」
「当然、危険だ」
その声は平静だった。
「だが、安全出力功率を上げる必要はない」
私は止まった。
その言葉は、私の最も敏感な部分に当たった。
安全出力功率を上げない。
つまり、直接もっと大きな扉を開くわけではない。
私は何も言わなかった。
ソレンセンは続けた。
「お前は今、混沌の力を使うとき、あまりにも無駄が多い」
「お前が気にしすぎるからだ」
「人を傷つけてはいけない」
「波及させてはいけない」
「殺してはいけない」
「他人を怖がらせてはいけない」
「自分が自分でなくなるようなことをしてはいけない」
私はペンを握りしめた。
「それは無駄じゃない」
「戦闘では、無駄だ」
それの声が低く沈んだ。
「同じ一筋の力を使いながら、お前は九割を自分の制約に使っている」
「残りの一割だけで、敵を切ろうとしている」
私は低く言った。
「だから?」
「吾は、お前が吾の力を使うとき、身にまとっている仁慈の心を一時的に剥離できる」
部屋の中が、急にさらに冷えたようだった。
私は顔を上げ、窓に流れる雨筋を見た。
「剥離……仁慈を?」
「一時的に」
ソレンセンは言った。
「状態から抜ければ戻る」
「永久に怪物になるわけではない」
「ただ、戦闘中、他人を気にしなくなるだけだ」
「誰かが傷つくかもしれないからといって手を止めなくなる」
「敵が痛がるからといって躊躇しなくなる」
「無関係な者を守るために、混沌の力を一本の細い線まで押しつぶさなくなる」
喉が乾いた。
「安全出力功率は変わらない?」
「変わらない」
「扉は大きく開かない?」
「出力功率のせいで大きく開くことはない」
それは、とても正確に言った。
正確すぎた。
私はすぐに問題に気づいた。
「じゃあ、何のせいで大きくなるの?」
黒海の中が一瞬沈黙した。
「利用率が上がる」
「混沌属性力量の利用率が大幅に上がる」
「お前はもっと強くなる」
「かなりな」
私は低く尋ねた。
「代価は?」
ソレンセンが笑った。
その笑い声は、黒い水の中に浮かぶ泡のようだった。
「そのあいだ、お前はお前らしくなくなる」
「誰かを傷つける?」
「誰かが道を塞ぐなら、お前は気にしない」
「殺す?」
「戦闘に必要なら、躊躇しない」
私の指が震え始めた。
「無理」
「なら負ける」
それは直接言った。
「お前は明日、またあの猫の前に立つ」
「証明したくない」
「扉を開けたくない」
「出力を上げたくない」
「無関係な者を傷つけたくない」
「他人を失望させたくない」
「何一つ失いたくない」
「では、何を根拠に勝つつもりだ?」
私は答えられなかった。
答えがなかったからだ。
ソレンセンは続けた。
「吾はただ、選択肢を与えている」
「安全出力功率は変わらない」
「だが、余計な顧慮を取り去る」
「同じ力が、本物の混沌になる」
「今のお前のような、優しさで鈍らされた線ではなくなる」
私は低く言った。
「もし使ったら、どうなるの?」
「今よりずっと強くなる」
「ニャーサに勝てる?」
黒海の中が静かになった。
長いあいだ。
そしてソレンセンは言った。
「無理だ」
私は固まった。
「無理?」
「あの猫は、春風が頬を撫でる程度の力しか使わず、真の属性力量を何一つ使わなくても、お前はまだ勝てない」
その答えは、慰めの欠片もないほど残酷だった。
「じゃあ、どうして使わせようとするの?」
「少なくとも、あれにもう少し多くを見せられる」
「観客たちに、お前が撤退するだけではないと見せられる」
「特調室に、安全出力下でもまだ向上の余地があると見せられる」
「大勢力を、しばらく黙らせられる」
「そして最も重要なのは……」
そこで、それは少し止まった。
「お前自身に、自分がより自己中心的になったとしても、それでも負けると理解させられる」
その言葉は刃物のようだった。
私は自分の手を見下ろした。
「私を絶望させたいの?」
「吾はお前に差を理解させたい」
「あなたにも目的があるでしょ?」
黒海は沈黙した。
あるに決まっている。
ソレンセンが理由もなく私を助けることはない。
こんな方法を持ち出す以上、必ず自分の算段がある。
「この状態は、あなたが封印を破るのを簡単にする?」
今度は、ソレンセンはすぐには答えなかった。
それから、笑った。
「賢くなったな」
心が沈んだ。
「そうなの?」
「そうだ」
「どれくらい?」
「お前がその状態に入っているあいだ、吾が封印を解析し、封鎖を摩耗させ、裂け目を探す効率は、大きく上がる」
「どれくらい?」
私は問い詰めた。
ソレンセンは低く言った。
「千倍」
雨音が、突然消えたようだった。
自分の心臓の音が聞こえた。
千倍。
私は、ほとんどペンを握っていられなかった。
「あなた、狂ってる」
「これは取引だ」
「さっき、安全出力功率は変わらないって言った」
「そうだ」
「でも、私の状態を利用して破封できる」
「そうだ」
「最初から、それが目的だったの?」
それは否定しなかった。
「これは最初から吾の陰謀だ」
ソレンセンは淡々と言った。
淡々としすぎて、背中が冷えた。
「白川一音、吾は善良な救助者のふりなどしない」
「吾は自由になりたい」
「お前は、扉を開けない前提で強くなりたい」
「この二つは、この瞬間だけ、わずかに重なっている」
私は歯を食いしばった。
「千倍で、封印は破れるの?」
「破れない」
「本当に?」
「吾は、まだ破封から大きく離れている」
その声には、もう笑いはなかった。
「プニの封印は、お前が想像するような薄紙ではない」
「たとえ千倍でも、吾が少し速く進むだけだ」
「すぐに出られるわけではない」
「私が途中で状態を解除したら?」
「効率は戻る」
「仁慈も戻る?」
「戻る」
「自分が何をしたか、覚えている?」
「覚えている」
覚えていないより、そのほうが怖かった。
もしその状態で誰かを傷つけたら、私は覚えている。
もし大勢を殺してしまったとしても、私は覚えている。
私は低く尋ねた。
「条件は設定できる?」
「できる」
「普通人を傷つけない」
「仁慈を剥離すれば、その条項は弱くなる」
「なら、やらない」
ソレンセンは少し沈黙した。
「最底層禁令は残せる」
「普通人は、軽々しく能動攻撃しない。軽々しく目標に列しない」
「バンドメンバー、学校、研究会、特調室支援人員は、優先目標にしない」
「猫目核心とその直接戦闘単位を、目標にする」
「撤退信号は有効のまま」
「私が状態を危険だと判断した場合、強制解除」
私は一つ一つ言った。
自分に縄を巻きつけるように。
ソレンセンは聞き終えると、低く笑った。
「本当に面倒だな」
「答えるの?」
「答える」
「もう一つ」
「言え」
「あなたがこの状態を利用して破封を拡大したり、私が同意した範囲を超えようとしたら、私は即座にあなたの力の使用を止める」
ソレンセンは、さらに楽しそうに笑った。
「お前にできるのか?」
「試す」
「なら、契約に書け」
黒海の深いところで、金色の鎖が軽く鳴った。
私はわかった。
取引は成立した。
そして、自分がとても危険なことをしているのもわかっていた。
私が勝つから危険なのではない。
勝てないとわかっていながら、自分の一部の優しさを一時的に差し出すことを選んだからだ。
それは、戦闘そのものよりも怖かった。
翌日、人工島の空は曇っていた。
雨は降っていない。
けれど雲は低く垂れていた。
特調室は三層の隔離区を配置していた。
最外層は世俗安全封鎖。
中層は大勢力が提供した遠隔結界。
最内層は対峙場。
東京、京都、天城、御影、玄海残余、四国残余、世俗財団、官僚体系。
それぞれに遠隔観測者がいた。
彼らはすべての細部までは見えない。
けれど、見るべきものは十分に見える。
白川一音が再び出場する。
猫目核心が再び出場する。
それこそが、彼らの欲しい画面だった。
私は内場の端に立ち、普通のピックを握っていた。
眼鏡の女性が私のそばへ歩いてきた。
「最後の確認です」
「目標は勝利ではありません」
私はうなずいた。
「境界です」
彼女は少し固まった。
私は言った。
「境界を確認すること」
彼女は私を見て、何か言いたそうだった。
最後に、こう言った。
「撤退優先です」
「うん」
彼女は緊急信号器を私へ渡した。
「あなたが撤退を押したら、私たちは即座に実行します」
「もし他の人が同意しなかったら?」
彼女の声は冷たかった。
「ここでは特調室に従わせます」
私はうなずいた。
「ありがとう」
彼女は私を見て、ふいに眉をひそめた。
「今日のあなたは、状態が少し違います」
胸が強張った。
「緊張してるから」
「緊張だけではありません」
彼女はとても鋭かった。
でも、ソレンセンの提案を彼女に言うことはできない。
私が一時的に仁慈を剥離する状態へ入るかもしれないとは、言えない。
言えば、彼女は必ず止める。
そして私は、もう決めていた。
私は低く言った。
「もし私が変になったら、計画通りに撤退させてください」
彼女の顔色が変わった。
「白川さん?」
私はそれ以上説明しなかった。
ニャーサが来たからだ。
今回も、ニャーサはあまり多くの人員を連れていなかった。
外縁にいるのは、少数の猫目術師だけだった。
それ自身は、影の中から歩み出てきた。
前回と同じように静かで。
前回と同じように余裕があった。
私を見ると、少し笑った。
「また会ったね」
私は答えなかった。
それは周囲の結界と遠隔観測設備を見た。
「今回は観客が多い」
私はピックを握りしめた。
「見られていることを知ってるんだね」
「もちろん」
「あなたも、見せたいんだね」
「もちろん」
そのあまりにも坦然とした態度が、不快だった。
ニャーサは軽く言った。
「今日は、何を証明したいの?」
私はメモの一条目を思い出した。
証明しない。
だから私は言った。
「証明しない」
ニャーサは目を細めた。
少し意外だったように。
「じゃあ、どうして来たの?」
「彼らに押し出されたから」
その言葉を口にした瞬間、遠隔観測側では、きっと誰かが沈黙したはずだ。
私は気にしなかった。
続けて言った。
「でも、ここでどう立つかは、私が決める」
ニャーサは笑った。
「いいね」
「前よりも、わかっている」
それは一歩前へ出た。
「では、始めよう」
私は目を閉じた。
心の中で言った。
「起動」
黒海の深部で、ソレンセンが笑った。
金色の鎖が軽く鳴る。
何かが、胸の奥からそっと引き抜かれた。
痛みではない。
空白だった。
心の中にずっとあった、柔らかく、熱を持ち、私を立ち止まらせてくれる場所が、一時的に氷で覆われたようだった。
私は目を開けた。
世界が、はっきりした。
はっきりしすぎていた。
猫目術師の位置。
特調室の撤退経路。
遠隔結界ノード。
ニャーサの足元の重心。
風向き。
地面の水跡。
人工島の縁にある手すり。
すべてが線、角度、距離、そして切断可能な構造になった。
そこに支援人員が立っていることはわかる。
けれど、もう気を散らされない。
遠くで誰かが私を見ていることもわかる。
けれど、彼らの期待や恐怖はもう私に影響しない。
黒弦を広げれば、多くの人を怖がらせるかもしれないこともわかる。
けれど、恐怖はもう重要ではない。
私は怒っていなかった。
恨んでもいなかった。
興奮もしていなかった。
あるのは判断だけだった。
ソレンセンが黒海の中で低く言った。
「これで少しは混沌らしい」
同時に、それは作業を始めた。
黒海の深部にある鎖を、それが狂ったように解析しているのが感じられた。
封印表面では、極細の裂け目が一つ一つ探査され、摩耗され、計算されていく。
効率は、普段では想像できないほど高まっていた。
千倍。
それの陰謀が起動している。
けれど、封印はなお遠い。
プニの封鎖は、果てしない金色の星海のように厚く、ソレンセンですらすぐには突破できない。
私は、それが私の状態を借りて前進していると知っていた。
それでも、すぐには解除しなかった。
戦闘は、すでに始まっていたからだ。
黒弦が現れる。
今回は、以前のように細く、慎重で、多くの保護的制限をまとってはいない。
安全出力功率は上がっていない。
けれど、混沌属性力量の利用率がまったく違っていた。
同じ一筋の力が、より鋭く、より冷たく、より直接的に圧縮されている。
黒弦は、誤傷の可能性がある空隙をすべて避けようとはしなかった。
最も有効な経路を、直接占拠した。
一本目は、ニャーサの足元の重心へ切り込む。
二本目は、その退路へ切り込む。
三本目は、もう「止める」ことを目指さず、それが次に動かす関節角度へ切り込む。
四本目は、猫目術師の支援連絡へ回り込む。
五本目は、ニャーサの身側を直接かすめ、後退を強いる。
観測区がざわめいた。
彼らにもわかったからだ。
黒弦が変わった。
大きくなったのではない。
より有効になった。
より冷たくなった。
より、白川一音らしくなくなった。
眼鏡の女性の顔色が一瞬で白くなった。
彼女は低く言った。
「状態がおかしい」
久我山統括官が沈んだ声で言った。
「撤退信号の準備を」
ニャーサにもわかった。
それはわずかに目を細めた。
「へえ?」
それは初めて、少し興味を見せた。
「君は、自分を少し削ったんだね」
私は答えなかった。
黒弦は進み続ける。
今回は、ニャーサも前回のように、一歩だけで全経路を気軽に避けることはできなかった。
私はもう、それが自分へ近づくことに躊躇しないからだ。
それが張りつくなら、自分の周囲の空間ごと切る。
痛みを気にしない。
恐怖を気にしない。
それが重傷を負う可能性も、気にしない。
黒弦が袖口をかすめ、布を裂き、私の腕にも浅い傷を残す。
私は止まらない。
ニャーサが右側から近身距離へ入った。
私は退かなかった。
左手で黒弦を引き、肩の線を封じる。
右手のピックで、手首の行動経路へ切り込む。
膝を向け、衝撃を受ける準備をする。
その爪先が私の肋骨の下へ点じてくる。
私は半寸だけ避けた。
完全に痛みを避けるのではなく、最小限の代価で黒弦を喉側へ迫らせる。
以前の私なら、絶対にできなかった選択だった。
以前なら先に考えていた。
これは危険すぎないか。
相手を傷つけすぎないか。
自分が怪我をしないか。
周りに見られて怖がられないか。
今、それらは重要ではない。
残っているのは戦闘効率だけだった。
ニャーサは軽く笑った。
それは属性力量を使わなかった。
雷電もない。
暗影もない。
真の技能は何一つない。
それでも、やはり体術だけだった。
しかも前回より軽い。
春風が頬を撫でるように。
遠隔観測者には、それがいったいどれほどの力を使っているのか、ほとんど見えないほど軽かった。
それでも、私の黒弦はまた空を切った。
完全な空振りではない。
今回は、何度かニャーサの影の縁をかすめ、ニャーサに二歩余分に動かせさえした。
けれど、それだけだった。
差は、なおそこにあった。
絶望的なほど大きく。
ニャーサは、暴風の中を散歩する猫のようだった。
私はただ、その風を少し冷たくしただけだった。
ソレンセンが黒海の中で低く言った。
「続けろ」
私は続けた。
黒弦密度を、安全出力の限界まで引き上げる。
功率を上げるのではない。
利用率を限界まで絞り切る。
一本一本の黒弦は、もう保護に浪費されない。
すべてがニャーサの行動構造へ向かう。
私は自分が退きやすい快適な経路さえ切り捨て、最も硬い撤退線だけを残した。
そうすれば判断分岐を減らせる。
攻撃効率を上げられる。
観測区では、戦術分析班がほとんど信じられない様子だった。
「同等出力で、戦闘効率が少なくとも数倍上昇」
「どうやっているんだ?」
心理保護班の責任者は顔面蒼白だった。
「良いことではありません」
眼鏡の女性は低く言った。
「彼女は自分を押し込めています」
久我山が尋ねた。
「どういう意味だ?」
「彼女は、自分を止める部分を押し込めています」
眼鏡の女性は場の中央を見つめていた。
「これは訓練で得た冷静さではありません」
「危険状態です」
彼女はすぐに通信機を取った。
「白川さん、状態を確認してください」
私は聞いていた。
けれど答えなかった。
答えられないわけではない。
判断上、答える必要がなかった。
この状態では、眼鏡の女性の心配はただの背景雑音だった。
私はニャーサだけを見ていた。
ニャーサも私を見ていた。
「確かに、このほうがずっと強いね」
それは言った。
「でも、これは無料じゃない」
その目は、私を通り抜け、さらに深い場所を見ているようだった。
「門の中のものは、喜んでいるだろう?」
私の指が止まった。
黒海の中で、ソレンセンが急に静かになった。
ニャーサは続けた。
「他者への関心を剥ぎ取っただけだと思っているの?」
「とても賢い」
「そして、とても愚かだ」
私は答えなかった。
黒弦が再び切り出す。
けれど今度は、ニャーサはすでに私の状態に完全に適応していた。
それは前へ一歩踏み出した。
軽く。
本当に春風のように。
爪先は打撃しない。
ただ、一本の黒弦の力点のそばを軽く押さえただけだった。
その黒弦の方向が半寸ずれた。
半寸で十分だった。
ニャーサは隙間を抜けた。
それは私の急所を攻撃しなかった。
ただ爪の背で、私の手首を軽く払った。
ピックが手から離れる。
私はすぐに別の黒弦でピックを引き戻した。
けれど、そのときにはもう、それは私の側面にいた。
肩を軽く点じられる。
重心が断たれる。
膝の側面を軽く払われる。
身体がバランスを失う。
私は黒弦で地面を固定しようとした。
それは足を上げ、私の次の一歩で唯一有効な支点を踏んだ。
落ち葉を踏むように軽い動きだった。
けれど、私の身体全体が止まった。
次の瞬間、ニャーサの爪先が私の額の前で止まった。
触れてはいない。
あと一寸。
けれど私はわかっていた。
それが望むなら、この一寸は終点になる。
黒弦はすべて空中で止まった。
私は負けた。
また負けた。
しかも今回は、ソレンセンの提案を採用していた。
私は一時的に仁慈を剥離した。
混沌力量の利用率を限界まで引き上げた。
戦闘効率を数倍にした。
観測者たちに、黒弦のより冷たく、より鋭く、より本物の混沌に近い一面を見せた。
それでも負けた。
ニャーサの、春風が頬を撫でるような体術に。
それはやはり、どんな属性力量も使っていなかった。
雷電もない。
暗影もない。
「天極純雷」もない。
本気にさえなっていない。
「ここまで」
ニャーサは言った。
その声は軽い。
けれど、私を貫いた。
私は動かなかった。
怖かったからではない。
判断結果が明確だったからだ。
戦闘継続に意味はない。
出力上昇は原則違反。
開門は禁止。
撤退が最適解。
私は撤退信号を押した。
その動作は、とても安定していた。
恥もない。
怒りもない。
悲しみもない。
仁慈が剥離された状態では、そうした感情さえ遠かった。
特調室は即座に撤退を起動した。
眼鏡の女性の声が届く。
「白川さん、状態を解除してください」
私は聞いた。
今回は、彼女の声が判断システムの中で高優先度に分類された。
この状態を続ければ、ソレンセンの破封効率が千倍のまま維持されるからだ。
私は心の中で言った。
「終了」
黒海の深部で、ソレンセンが低くため息をついた。
不満そうでもあり。
愉快そうでもあった。
金色の鎖が震える。
覆われていた心の部分が、ゆっくりと戻ってきた。
最初の瞬間、私は痛みを感じた。
身体ではない。
心だった。
仁慈が戻った瞬間、私は場の端で緊張に顔を真っ白にしている特調室の人たちを見た。
私の黒弦効率の変化で、遠隔結界にひびが生じているのを見た。
自分の腕に、黒弦で擦れた傷があるのを見た。
眼鏡の女性が、今にも場内へ飛び込みそうな表情をしているのを見た。
ニャーサが、なおそこに無傷で立っているのを見た。
そして、恐怖、後悔、吐き気が一緒にこみ上げた。
私は危うく膝をつきかけた。
さっき冷静にすべてを判断していた人間は、私だ。
でも、私ではないようでもあった。
私は普通人を傷つけなかった。
殺さなかった。
支援人員を誤傷しなかった。
条件は機能した。
けれど、もし条件がもう少し少なかったら。
もし戦場がもっと乱れていたら。
もし誰かが私とニャーサの間に立っていたら。
さっきの私は、本当に止まらなかったかもしれない。
その認識が、吐き気を催させた。
ニャーサは私を見て、軽く言った。
「おかえり」
私は顔を上げて、それを見た。
それは少し笑った。
「今回は前より面白かった」
「でも、君はまだ私に勝てない」
私は歯を食いしばり、何も言わなかった。
「それに、君もわかっているはずだ。中にいるあれは、さっきの君の状態をとても気に入っている」
血が一瞬で冷えた。
ニャーサはそれ以上刺激しなかった。
これ以上言えば、撤退原則が発動すると知っているようだった。
だから、一歩後ろへ下がった。
「次は、他人が君に勝ってほしいと期待するからといって、自分を切り落とさないほうがいい」
そう言って、背を向けた。
猫目術師たちも、それに従って後退した。
それはまた、追撃しなかった。
また、すべての人間に見せた。
それは勝てる。
止まれる。
この戦闘をどこで終わらせるかを決められる。
撤退車の中で、私はようやく震え始めた。
眼鏡の女性が私の向かいに座っていた。
顔色がとても白い。
「さっきの状態は何ですか?」
私はうつむいた。
「全部は言えません」
彼女の声は珍しく厳しかった。
「白川さん」
私は目を閉じた。
「一つの方法を使いました」
「出力を上げた?」
「上げていません」
「でも、あなたは変わっていた」
「うん」
「代価は?」
私は黙った。
彼女は、すぐに答えを迫らなかった。
菅原涼が、私の腕の傷を処置してくれていた。
彼女は低く言った。
「身体の傷は前回より軽い」
「でも、精神反応はより悪い」
私は笑えなかった。
彼女の言う通りだったからだ。
身体の傷は軽い。
精神はもっと悪い。
私は低く言った。
「一時的に、他人を気にしなくなっていました」
車内が静まった。
眼鏡の女性の表情は、何かに打たれたようだった。
私は続けた。
「解除後には戻りました」
「条件も設定しました」
「普通人は傷つけていません」
「支援人員も傷つけていません」
「撤退信号も有効でした」
「でも、あれは良い状態ではありません」
眼鏡の女性は目を閉じた。
「今後は禁止です」
私は反論しなかった。
「うん」
「行動禁令に書き込みます」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「今後、いかなる行動においても、白川一音を当該状態へ誘導することを禁じる」
私は低く言った。
「ソレンセンは、あの状態下で封印を破る効率が上がります」
「ソレンセン?」
彼女がその名前を聞くのは初めてだった。
私は固まった。
しまった。
車内の空気が、一瞬で極めて静かになった。
疲れすぎていた。
後怕が強すぎた。
うっかり、その名前を口にしてしまった。
黒海の中で、ソレンセンが低く笑った。
「漏らしたな」
指先が冷たくなった。
眼鏡の女性は、すぐには追及しなかった。
彼女はとても賢い。
そして、とても抑制されている。
ただ言った。
「今は聞きません」
「まず休んでください」
「ですがその後、私たちは個別に話さなければなりません」
私はうつむいた。
「うん」
特調室の戦後報告は、前回よりさらに重かった。
結論は、次の通りだった。
白川一音は、黒弦出力功率を引き上げない状態で、未知の冷化状態へ入った。
同状態は黒弦運用効率と戦闘圧迫力を著しく向上させた。
同時に、情緒的顧慮と保護的判断を明らかに低下させた。
猫目核心個体は、未知の電流性攻撃を使用せず、疑似属性技能も示さない状態で、なお極低強度の体術によって白川一音を制圧した。
白川一音、二度目の戦敗。
撤退成功。
出力制御喪失は発生せず。
ただし、新たな高リスク内部要因が出現。
最後の一行は、眼鏡の女性が自ら補った。
いかなる外部圧力によっても、彼女に自己削減方式で戦力を高めるよう求めてはならない。
久我山統括官は報告を読み終えると、長いあいだ沈黙した。
大勢力と世俗財団の観測者たちも、この戦闘を見ていた。
彼らは、より冷たい黒弦を見た。
戦闘効率が跳ね上がるのを見た。
猫目核心が、それでもなお軽々と制圧するのを見た。
そして、全員が沈黙した。
今回は、彼らでさえ「彼女をもっと強くしろ」とは軽々しく言えなかった。
彼らにも見えたからだ。
白川一音が強くなる方法は、訓練のようではない。
人間性の一部を失うことに似ていた。
そして、それでも彼女は負けた。
それは普通の戦敗よりも恐ろしかった。
優しい白川一音が猫目に勝てないなら。
冷化した白川一音でも猫目に勝てないなら。
彼らは、これ以上何を求められるというのか。
彼女をもっと人間らしくないものにしろと言うのか。
さらに深いものを開けさせろと言うのか。
誰も公然とは言えなかった。
少なくとも、しばらくは言えなかった。
これこそが、この戦闘の唯一の効果だった。
威慑の再構築ではない。
すべての観客に理解させたことだ。
白川一音を猫目へ押し出し続けることは、彼女をより危険な内部の深淵へ押し出すだけなのだと。
小さなアパートへ戻ったあと、私は電気をつけなかった。
床に座り、膝を抱えた。
身体はそれほど痛くない。
腕の傷も重くない。
けれど、心がとてもつらかった。
あの状態の自分を思い出す。
冷静。
高効率。
他人を気にしない。
自分も気にしない。
勝敗と経路だけを見る。
それは、完全に見知らぬ人間ではなかった。
なぜなら、それも私だったからだ。
それが怖かった。
もしそれが完全に私でなかったなら、ソレンセンの汚染だと思えた。
けれどそれは、私が自分の一部をソレンセンに渡したあとに残った私だった。
私は低く尋ねた。
「満足した?」
黒海の中で、ソレンセンは否定しなかった。
「効率は悪くなかった」
「破封はどれくらい進んだの?」
「普段よりかなり多い」
「でも、まだ遠い?」
「まだ遠い」
私はほっとした。
同時に、その安堵を気持ち悪く感じた。
それがまだ出てこられないから安心している自分がいたからだ。
「最初から私を利用していたんだね」
「そうだ」
「卑怯だと思わないの?」
「吾はソレンセンだ」
それは言った。
「何を期待している?」
私は答えなかった。
しばらくして、それはまた言った。
「だが、お前も答えを得ただろう」
「どんな答え?」
「仁慈を取り除いても、お前はあの猫に勝てない」
私は目を閉じた。
ようやく涙が落ちた。
「知ってる」
「だから、今後はこの方法を使うな」
私は固まった。
「あなたは、効率を上げ続けたいんじゃないの?」
「望んでいる」
それは率直に言った。
「だが、お前がまた使えば、吾にさらに近づく」
「それは、あなたにとっては良いことじゃないの?」
「吾にとっては良い」
「だが、お前は壊れる」
私は沈黙した。
ソレンセンは低く言った。
「吾は自由を望んでいるが、あの猫の前でお前が使い物にならない殻の山へ砕けることを望んでいるわけではない」
これは慰めなのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
歪んでいて。
傲慢で。
けれど、今の私にはそれを判別する余力がなかった。
私はただ、暗闇の中に座って、しばらく泣いた。
スマホが震えた。
日和からのメッセージだった。
安全?
前回と同じだった。
今回は、その言葉を見て、もっと泣いてしまった。
私は返信した。
安全。戻ってきた。
彼女は返した。
怪我は?
重くない。
じゃあ明日は何もしないで。ご飯を食べて、寝て。
その言葉を見ながら、私はゆっくり呼吸した。
ご飯。
睡眠。
戻る。
そうした単純な言葉が、あの冷化状態から少しずつ私を人間の側へ引き戻してくれるようだった。
陽菜からもメッセージが来た。
小音、明日は絶対休んでね!
澪。
回復飯。
私は涙を拭いて、返信した。
うん。
それからメモを開いた。
書いた。
第二次再戦。
ソレンセンの方法を使った。
安全出力は上げていない。
仁慈が一時的に剥離された。
戦闘力は大幅に上がった。
ソレンセンの破封効率は、状態中に千倍へ上がった。
これはそれの陰謀。
それでもニャーサには勝てない。
ニャーサはやはり本当の力を使っていない。
今後、この状態は使用禁止。
私は勝つために、他人を気にしない自分になってはいけない。
最後の一文を書き終え、私は長いあいだ止まった。
それから、もう一行を書いた。
負けても、人間として戻ってくる。
その一文を書き終えたあと、ようやく電気をつけた。
部屋は小さい。
机の上には教科書がある。
壁際にはギターがある。
冷蔵庫にはメモが貼ってある。
記得吃饭。
饭。
私はそれらを見つめ、ゆっくり立ち上がった。
台所へ行き、お湯を沸かした。
私は勝てなかった。
自分を証明することもできなかった。
それどころか、ソレンセンにさらに深く利用されかけた。
それでも、戻ってきた。
仁慈を連れて戻ってきた。
今回は、ただ戻ってくるだけで、もうとても難しかった。