俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第88章 消された名前、そして猫目は地方支配を完成させた
あの夜、いちばん恐ろしかったことは、私が「ソレンセン」という名前を漏らしてしまったことだと思っていた。
あとになって、私は知った。
本当に恐ろしかったのは――それが自分でその件を処理したことだった。
私と相談したわけではない。
注意してくれたわけでもない。
特調室が聞きに来るのを待ったわけでもない。
それは、直接動いた。
あの日、私が小さなアパートへ戻ったあと、眼鏡の女性はすぐには追及しなかった。
ただ、こう言った。
「先に休んでください。そのあと、私たちは必ず話す必要があります」
そのときの私は、とても疲れていた。
「そのあと、必ず話す」が何を意味するのか、怖がる力もないほど疲れていた。
私はただ手を洗い、お湯を沸かし、澪が言った「回復飯」を食べて、それから床に座ってメモを書いた。
私は書いた。
ソレンセン。
その三文字を書き終えた瞬間、黒海の深部が突然静まり返った。
普通の静けさではない。
水流の音も、鎖の音も、ソレンセンらしい低い笑い声も、すべて一緒に消えた。
私は筆を止めた。
「どうしたの?」
返事はなかった。
次の瞬間、極めて重い威圧が、黒海の深部から押し出されてきた。
黒弦を通じてではない。
私の手を通じてでもない。
契約を通じてでもない。
まるで封印の奥底で眠っていた混沌が、重い金色の鎖の向こうで、片目を開いたようだった。
胸が詰まった。
ペンが手から落ちた。
「ソレンセン?」
それは、ようやく口を開いた。
声は、深淵の底から響いてくるように低かった。
「その名を、彼女のところに残しておくわけにはいかない」
私は瞬時に理解した。
「だめ」
私は言った。
「彼女の記憶に触っちゃだめ」
「もう遅い」
「ソレンセン!」
それは私の制止を無視した。
金色の鎖が黒海の中で激しく震える。
プニの封印に押さえつけられた混沌は、まだ本当に脱出することはできない。
けれど、脱出する必要はなかった。
それはただ、私と特調室のあいだにさっき作られた任務上のつながりを辿り、その名前の残滓に沿って、威圧を投げ込めばよかった。
身体を攻撃するのではない。
精神を破壊するのでもない。
ただ、一つの名前を消す。
そして、その名前に直接関係する記憶を消す。
私はそれを断ち切ろうとした。
黒弦が現れかけた瞬間、金色の鎖に反震された。
ソレンセンが完全に私を抑え込めるほど強くなったわけではない。
ただ、それの動きが速すぎた。
私が気づいたときには、その動作はもう半分まで完了していた。
私は歯を食いしばり、心の中で強引に叫んだ。
「停止!」
契約条件が発動した。
黒海が激しく波立つ。
ソレンセンは、ようやく止まった。
けれど、最も重要な部分はすでに終えていた。
それは冷たく言った。
「安心しろ」
「吾は彼女を壊していない」
「彼女が知るべきではない部分を取り除いただけだ」
指先が冷たくなった。
「何を消したの?」
「その名前」
「ほかには?」
「彼女がお前からその名を聞いた瞬間」
「それが、お前の力に関係する存在だと彼女が推測したこと」
「それから、あとでこの件を問いただそうとしていた意図」
私は、ほとんど立っていられなくなった。
「何の権利があって?」
ソレンセンは低く笑った。
その笑いには、何の温度もなかった。
「彼女が吾の名を知ったからだ」
「この世界には、まだ吾を彼らの報告書に書き込む資格がないからだ」
「そして、お前が口を守れなかったからだ」
その言葉は、刃物のように胸へ突き刺さった。
反論したかった。
けれど、言葉が出なかった。
確かに、漏らしたのは私だったからだ。
でも、それは他人の記憶を消していい理由にはならない。
「彼女は、私を守ってくれている人だよ」
私は低く言った。
「だからこそ、彼女は知ってはならない」
ソレンセンの声は、なお冷たかった。
「彼女が知れば、調べる」
「吾を特調室のファイルに書く」
「他人へ報告する」
「さらに多くの虫どもに、門の奥には名前があると知らせる」
「名前は線になる」
「線は鉤になる」
「鉤は猫に掴まれる」
最後の一言で、私は固まった。
ニャーサ。
ソレンセンは続けた。
「あの猫は、すでに門を知っている」
「だが、まだ吾の名は知らない」
「名前は、より深い座標だ」
「白川一音、吾はお前が吾を恨むことは許す」
「だが、吾の真名を猫の爪へ渡すことは許さない」
私は沈黙した。
その言葉には理があると、わかってしまったからだ。
けれど、理があることと、許せることは違う。
翌日、眼鏡の女性から連絡が来たとき、私はほとんどメッセージを開くのが怖かった。
彼女が送ってきたのは、こうだった。
身体の状態はどうですか? 今日は医療再確認が必要ですか?
ソレンセンには触れていない。
あの名前にも触れていない。
「あとで必ず話す」にも触れていない。
私の指は、長いあいだ画面の上で止まった。
私は返した。
身体は大丈夫です。腕の傷は重くありません。
彼女は返した。
精神状態は?
私はその言葉を見つめた。
精神状態。
彼女は、私が危険な状態に入ったことを覚えている。
私が冷たくなったことを覚えている。
私が二度目に敗れたことを覚えている。
あの状態を禁止しなければならないことも覚えている。
けれど、あの名前を覚えていない。
その名前を聞いたときの衝撃も覚えていない。
私は探るように尋ねた。
昨日の車内で、私は何か変なことを言いましたか?
数分後、彼女から返信が来た。
あなたは自分が危険状態に入り、他者への顧慮が低下したと言いました。それ以外に、今すぐ追及すべき内容はありません。
ない。
本当に、なくなっていた。
ソレンセンは、あの記憶から自分自身を剥ぎ取っていた。
きれいに。
正確に。
明らかな裂け目も残さずに。
彼女は疑っていなかった。
あるいは、少しだけ不連続を感じていたのかもしれない。
けれど、どこが欠けているのかはわからない。
私はスマホを握りしめ、心が冷えていった。
黒海の中で、ソレンセンが言った。
「見ろ。壊れていない」
私は低く言った。
「黙って」
それは笑った。
「怒っている」
「うん」
「いいことだ」
「いいことだと思うの?」
「仁慈が戻った証拠だ」
私は怒りで指が震えた。
「他人の記憶を何だと思ってるの?」
「危険物」
「彼女は物じゃない」
「知っている」
「なら、どうして……」
「必要だからだ」
それは私の言葉を遮った。
「必要なとき、吾はやる」
「それが、吾とお前の違いだ」
私はもう何も言わなかった。
ふいに、はっきり理解してしまったからだ。
たとえ私が一時的に仁慈を剥離したときに恐ろしいものになったとしても、ソレンセンそのものは、その状態よりもはるかに恐ろしい。
私は、短いあいだ冷たくなっただけだ。
それは、もともと混沌だ。
これがソレンセンだ。
私は忘れてはいけない。
特調室側では、第二次再戦に関する報告に、奇妙な空白が生じていた。
眼鏡の女性は、私が異常冷化状態に入ったことを覚えている。
その状態が「体内の何らかの力」に、封印の推進を容易にさせると私が言ったことも覚えている。
その件を最高リスクに分類しなければならないことも覚えている。
けれど、あの名前は覚えていない。
私にわかるのは、彼女がその名前を忘れたということだけだった。
そして私は、彼女が忘れたことを覚えている。
その事実は、棘のように心に刺さった。
同時に、ニャーサは東京と京都以外の地方支配を完全に完成させた。
それ以前にも、猫目はすでに大量の地方経済、倉庫、保険、文化安全、青年活動支援、低級武力を食べていた。
けれど、まだ散発的な抵抗が残っていた。
いくつかの地方鎮守残余。
世俗財団が支配するいくつかの地域サプライチェーン。
猫目システムを使いたがらない少数の地方政府。
まだ独立している数本の特殊物流線。
無門術師が作った小型相互扶助ネットワーク。
それらは砕石のようなものだった。
洪水を止めることはできない。
だが、洪水を遅くすることはできる。
ニャーサは、その砕石を片づけ始めた。
大規模な武力はもう使わなかった。
必要がなくなっていたからだ。
地方はすでに猫目に慣れている。
慣れてしまえば、最後の抵抗者たちのほうが、かえって「場違い」に見える。
ある県の小型退魔連合は、猫目プラットフォームへの接続を拒んだ。
その結果、三か月連続で十分な補給を受けられなくなった。
地元の文化施設は夜間異常処理を彼らに頼まなくなり、直接猫目安全隊を呼ぶようになった。
若い術師たちは離れ始めた。
猫目は給料、保険、装備を出すからだ。
旧連合は、なお伝統、責任、地方守護を語った。
若者たちは尋ねた。
「怪我をしたあと、誰が医療費を払ってくれるんですか?」
旧連合は答えられなかった。
組織は、必ずしも殴り倒されなければ倒れない。
残りたいと思う者がいなくなれば、自分で倒れていく。
猫目は、その一部の人間を受け入れた。
残りは旧神社へ退いた。
地方支配権の移転は完了した。
ある地方の世俗財団は、まだ自分たちの物流区を守ろうとしていた。
それは、さほど大きくない都市だった。
工業港に近い。
その財団は、地元の倉庫、輸送、食品冷蔵チェーンを支配していた。
猫目はこれまで、この場所を完全には食べていなかった。
その財団がかなり硬かったからだ。
資金も少なくない。
人脈も深い。
大量の民間警備員も雇っていた。
彼らは、猫目がせいぜい文化活動と小企業債務を支配する程度で、工業物流まで簡単には食い破れないと思っていた。
ニャーサは、自ら出なかった。
まず、猫目保険にいくつかの旧ルートの更新を拒否させた。
理由は、リスク評価不合格。
次に、地方銀行債権を通じて、いくつかの小型運送会社のキャッシュフローを圧縮した。
同時に、猫目倉庫はより安く、より早く決済できる代替サービスを提供した。
港の中小企業のいくつかが猫目へ移り始めた。
その財団は、転向した企業を武力で脅そうとした。
猫目警備隊が出場した。
公開衝突は起きなかった。
ただ、財団から送られた地下人員数名が、一晩のうちに全員行動不能になっただけだった。
検査結果はやはり、高周波電流麻痺に近いものだった。
証拠はない。
銃声もない。
死人もいない。
翌日、地方企業主たちは選択した。
猫目のほうが安全だ。
猫目のほうが安い。
猫目は港を止めない。
財団は敗れた。
一か月後、猫目は地元の大部分の物流調度を接管した。
地方経済支配は完了した。
無門術師が築いた相互扶助ネットワークも、限界まで圧迫された。
真壁仁たちは多くの努力をした。
紙の在庫。
非猫目医療相互扶助。
旧ルート図。
小さなサプライヤー名簿。
人力連絡。
それらは局所的には有効だった。
けれど、猫目が今握っているのは広範な基礎インフラだ。
それは相互扶助ネットワークを破壊する必要はない。
相互扶助ネットワークが、規模の需要を満たせないようにすればいい。
小さな組織が封存箱を十個必要とするなら、真壁仁は何とかできる。
では、百個必要なら?
地方術師が一人怪我をしたなら、菅原涼は人を探して助けられる。
では、十数人が同時に負傷したら?
遠野修司は一つの旧ルートを維持できる。
では、地域全体の冬季巡回なら?
猫目には倉庫がある。
車両がある。
保険がある。
人員がある。
プラットフォームがある。
地方政府との協力がある。
相互扶助ネットワークは、数個の油灯のようなものだった。
猫目は電力網のようだった。
油灯は貴重だ。
だが、都市全体を照らすことはできない。
真壁仁はチャンネルに書いた。
俺たちは地方を守れない。守れるのは人だけだ。
菅原涼が返した。
なら、人を守ろう。
遠野修司。
撤退できる者は撤退。記録を守れるものは守る。システムと硬くぶつかるな。
それは敗北の承認だった。
同時に、火種を残すことでもあった。
東京と京都の外で、猫目は本当の意味で「デフォルトの選択肢」になった。
地方高校の外部活動は猫目支援に申請する。
商店街の販促は猫目プラットフォームを使う。
小型LiveHouseは猫目保険を買う。
地方祭礼は猫目安全隊を使う。
漁港の夜間巡回は猫目が調度する。
山間の旧道維持は猫目協力会社が担当する。
退魔小組織の任務は猫目プラットフォームで受注される。
地方の負傷術師は猫目協力医療拠点で精算する。
普通の人たちが言い始めた。
「困ったら猫目に頼めばいい」
この言葉が広まったとき、支配は完成した。
支配の最終段階とは、他人があなたを恐れることではない。
問題が起きたとき、真っ先にあなたを思い出すことなのだ。
東京核心と京都内層は、なお抵抗している。
けれど、東京と京都以外の日本地方は、すでに完全に猫目の実質支配時代へ入った。
全員が知っているわけではない。
全員が認めているわけでもない。
だが、事実はもうそうなっていた。
ニャーサは本部で全国地図を見ていた。
東京核心と京都内層を除き、ほかの地方はほとんどすべて淡い金色に染まっている。
完全支配の場所もある。
高度依存の場所もある。
経済支配の場所もある。
武力支配の場所もある。
文化支援支配の場所もある。
物流と保険による支配の場所もある。
色の濃淡は違う。
だが、すべて猫目体系に属していた。
代理人はそばに立ち、報告した。
「地方支配統合率、完了しました」
「残存独立ノードは、区域的抵抗を形成するには不足しています」
「東京核心はなお、特調室、中央官僚、一部世俗財団、大勢力残余が共同で防守しています」
「京都内層は閉鎖中。外輪は引き続き、我々が実質的に制御しています」
ニャーサは地図を見て、軽くうなずいた。
「いいね」
代理人が尋ねた。
「次は東京を推進しますか?」
「急がない」
「京都内層は?」
「それも急がない」
ニャーサは笑った。
「彼らは今、自分たちが最後の二つの城を守ったと思うだろう」
「そう思わせておけばいい」
「孤島には、海水を感じる時間が必要だ」
それは東京の位置を見た。
「A大学は?」
代理人は即座に答えた。
「まだ直接接触していません」
「白川一音周辺は観察継続中」
「特調室の防護は明らかに強化されています」
ニャーサはうなずいた。
「引き続き触るな」
「はい」
「彼女はあの内部危険状態を経験したばかりだ」
「回復が必要だ」
代理人は何も言えなかった。
ニャーサは白川一音を気遣っているように聞こえた。
だが代理人はすでに知っている。
それは人間的な意味での気遣いではない。
門への忍耐。
獲物の状態観察。
「門前の人」としての白川一音の保存だった。
私が「地方は基本的に失守した」ということを、とてもぼんやりした情報から知ったのは、数日後のことだった。
眼鏡の女性は、すべてを教えてはくれなかった。
けれど、これから私がますます多くの猫目関連標識を見ることになる理由は、説明しなければならなかった。
彼女は慎重に言った。
「東京と京都以外では、猫目の影響が普遍的な状況になっています」
私は尋ねた。
「普遍的って、どのくらいですか?」
彼女は沈黙した。
私は理解した。
「基本的に……全部、支配されたんですか?」
彼女は直接肯定しなかった。
だが、否定もしなかった。
私はうつむき、自分の手を見た。
「私が文化祭に参加していたころ?」
「そのころには、すでに深刻でした」
「二度目の再戦のころは?」
「ほぼ完成に近づいていました」
「今は?」
彼女は軽く言った。
「東京核心と京都内層を除き、地方は基本的に猫目体系へ入っています」
部屋は静かだった。
心が少しずつ沈んでいくのを感じた。
驚きではない。
遅れてやってきた重さだった。
外は、もうそんなことになっていたのか。
私は授業を受けていた。
練習していた。
レポートを書いていた。
文化祭に参加していた。
日和たちとご飯を食べていた。
そのあいだに、猫目は地方を食べていた。
黒海の中で、ソレンセンが言った。
「またそれを自分のせいにするつもりか?」
私は答えなかった。
眼鏡の女性は、私がそう考えるとわかっていたようだった。
彼女は言った。
「これは、あなたの責任ではありません」
私は低く尋ねた。
「では、誰の責任ですか?」
彼女は沈黙した。
その問いに、簡単な答えはない。
大勢力の傲慢。
世俗財団の利益。
官僚体系の遅さ。
地方に長いあいだお金も人も足りなかったこと。
猫目の便利さと武力。
ニャーサの忍耐。
そして退魔界が何度も、希望をどこかの「最強者」へ押しつけてきた悪習。
それらが積み重なって、今の状況を作った。
私一人の責任ではない。
それでも、つらかった。
私はニャーサと向き合った。
二度負けた。
二度目は、危うく自分を危険なものへ変えかけた。
それでも、止められなかった。
その夜、私は練習へ行かなかった。
日和は、私が外部のことで落ち込んでいると知っていた。
彼女は追及せず、ただ聞いた。
何か食べられそう?
私は返した。
今は少し食べられない。
彼女は返した。
じゃあ、まず温かいものを飲んで。食べられなくても、空っぽにはしないで。
澪が送ってきた。
スープ。
陽菜も送ってきた。
小音、今日はまず休んで!
そのメッセージを見つめながら、私はゆっくりとお湯を沸かしに行った。
電気ケトルの音は、とても普通だった。
普通すぎて、少し泣きたくなった。
黒海の中で、ソレンセンが言った。
「地方は猫目勢力に食われた」
「うん」
「お前には変えられない」
「今は変えられない」
「まだ変えたいのか?」
私はカップを握った。
「わからない」
それは本音だった。
自分に何ができるのか、わからない。
戦闘では勝てない。
扉は開けられない。
冷化状態は禁止。
特調室も、もう私をむやみに行かせたくはない。
地方は、すでに猫目システムに食べられた。
東京と京都は孤島になった。
この状況は、大きすぎる。
一人の大学生には、理解することすら難しい。
まして解決など、できるはずもない。
私にできるのは、お湯を飲むことだけだった。
明日も授業がある。
それは、とても荒唐無稽に聞こえる。
けれど、今できる唯一のことなのかもしれない。
壊れないことを続ける。
猫目とソレンセンに、二人がかりで深みへ引きずり込まれないことを続ける。
自分がまだ人間でいることを続ける。
夜、私は眼鏡の女性の夢を見た。
夢の中で彼女は撤退車に座り、私を見て言った。
「あなたがさっき言った名前は、何ですか?」
私は答えようとした。
けれどソレンセンの威圧が黒海から押し出され、その名前を喉の奥へ押し戻した。
彼女の目は、少しずつ空白になっていく。
そして、忘れた。
目を覚ましたとき、背中は冷や汗で濡れていた。
まだ夜明け前だった。
私は起き上がり、メモを開いて書いた。
ソレンセンは彼女の関連記憶を消した。
これは越界。
理由が有用でも、越界。
秘密を守ったからといって、信頼できるわけではない。
それはまだ破封を望んでいる。
それはまだ私を利用する。
書き終えてから、私は長いあいだ止まった。
それから、もう一文を書いた。
私も口を滑らせた。今後、二度と言ってはいけない。
この一文を書くのは、とても痛かった。
それは私の責任の一部だからだ。
全部の責任ではない。
けれど確かに、一部は私にある。
私はそれを認めなければならない。
そして、生き続けなければならない。
翌日、私は音声メディア研究に出た。
先生が扱ったのは「音の中の不在」だった。
ある音が消えたあと、その場所にはどんな変化が起こるのか。
聞いているうちに、私はふと、眼鏡の女性が失ったあの記憶を思い出した。
記憶も音に似ている。
消されると、表面上は静かになる。
けれど、静けさそのものが欠落を残す。
彼女にはもう、その名前は聞こえないのかもしれない。
でも、不連続は感じている。
それが、不在の音なのだ。
私はノートに書いた。
消されたものは、ときに空白という形で残り続ける。
相原真紀がちらりと見て、小さな声で言った。
「白川さん、今日書いている文、すごく重いね」
私は少し固まった。
それから低く言った。
「うん。最近、少し疲れていて」
彼女は追及しなかった。
ただ、飴を一つ私のほうへ押し出した。
「糖分補給」
私はその飴を見て、心が少しずつ柔らかくなった。
「ありがとう」
私は包みを剥がし、口に入れた。
甘い。
少し現実味がないほど甘かった。
外では、地方がすでに猫目に支配されている。
特調室の眼鏡の女性は、ソレンセンに関する一部の記憶を失っている。
ニャーサは、東京と京都が孤島の海水を感じるのを待っている。
ソレンセンは、まだ破封には遠いが、私の冷化状態を利用して大きく前へ進んだ。
それらは全部、本当だ。
でも、この飴も本当だった。
私は教室に座っている。
先生が音の中の不在について話すのを聞いている。
口の中には甘さがある。
これも本当だった。
今の私は、まずこうした本当のものを掴むしかない。
自分が、もっと大きな闇に連れていかれないように。
同じころ、ニャーサが地方支配を完成させたあとの第一総令が、猫目の各級システムへ下された。
地方支配段階、終了。
全面接収および政権過渡期へ移行。
東京核心および京都内層への過度な刺激を禁止。
青年文化支援、高校外部活動、地方物流、保険統合を強化。
猫目サービスの常態化を優先。
武力露出頻度を低下。
公益プロジェクトの可視度を向上。
地方に猫目へ慣れさせること。
その命令は、とても単純だった。
そして、とても恐ろしかった。
それは、猫目がもう頻繁に戦う必要はなくなったことを意味していたからだ。
それはすでに、攻撃者から管理者になっていた。
支配はもはや、夜襲、倉庫、戦闘として現れるのではない。
日常として現れる。
地方の人々は、猫目プラットフォームで活動を申請する。
猫目保険を使う。
猫目協力倉庫へ物資を受け取りに行く。
高校生に、猫目支援の舞台へ参加させる。
猫目巡回隊の保護を受けて夜道を歩く。
怪我をしたあと、猫目協力医療拠点へ行く。
ゆっくりと、彼らは他の選択肢があったことを忘れていく。
東京と京都の外で、猫目はもう外から来た猫ではない。
それは、屋内の猫になった。
それどころか、この家はもともと猫のものだったのだと、人に思わせ始めていた。
未来がどうなるのか、私は知らない。
東京はどれくらい守れるのか。
京都内層はどれくらい守れるのか。
特調室はまた私を出場させるのか。
ニャーサはいつ、本当に近づいてくるのか。
ソレンセンはまた、私に自分の一部を手放させる次の方法を探すのか。
何もわからない。
けれど、一つだけわかっていることがある。
私はもう、「強さ」を、より高い出力、より冷たくなること、より顧みないこととして理解してはいけない。
その道は、もう通じないと証明された。
しかも、危険すぎる。
別の方法が必要だ。
それは、学ぶことかもしれない。
規則かもしれない。
人間関係かもしれない。
文化政策の授業で出てくる、遅すぎる代替案かもしれない。
より多くの人に、無料支援に呑まれない方法を知らせることかもしれない。
東京と京都の中で、まだ猫目に食べられていない小さな場所を守ることかもしれない。
あるいは、まず壊れないことだけかもしれない。
それらはどれも爽快ではない。
ニャーサを倒せそうにも見えない。
でも、今の私にできるのは、それだけだった。
授業終了のチャイムが鳴った。
教室には、椅子を動かす音、鞄のファスナーを閉める音、学生たちの話し声が響いた。
それらの音は、まだここにある。
私は立ち上がり、人の流れに従って教室を出た。
東京はまだある。
私の授業もまだある。
私も、まだここにいる。