俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ   作:arctichare

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第9章 御影家の茶室、そして商品扱いされる下北沢黒弦

 

第九章 御影家の茶室、そして商品扱いされる下北沢黒弦

 

青藍文化芸術財団の契約書は、小さなライトノベル一冊分くらいの厚さだった。

 

いや、ライトノベルなら少なくとも挿絵がついている。

 

この契約書には、ぎっしり詰まった文字しかない。

 

私はAfterToneの楽屋に座り、両手で書類を抱えたまま、視線が焦点を失いかけていた。

 

「レコーディング補助条項……映像制作協力条項……宣伝素材使用範囲……秘密保持義務……協力終了条件……」

 

小声で読み進めているうちに、魂が体から抜け出しそうになった。

 

この書類は霊災より怖い。

 

少なくとも霊災は直接攻撃してくる。

 

契約書はしてこない。

 

契約書はただ、文字でじわじわと理解力を殺してくる。

 

朝倉日和が隣に座り、蛍光ペンで一文ずつ確認していた。彼女は本当に真剣だった。本当に真剣だった。その真剣さが、もし日和が特調室に入ったら、西装のおじさんたちより恐ろしい存在になるかもしれないと思わせた。

 

桜庭陽菜がテーブルの反対側に突っ伏して、好奇心たっぷりに聞いた。

 

「じゃあ、この財団が私たちのMVを撮ってくれるの?」

 

日和はすぐに答えなかった。

 

「契約書を見る限り、一部補助を出してくれるだけで、直接創作に干渉はしないし、楽曲の著作権も取らないみたい」

 

黒瀬澪がソファに寄りかかりながら言った。

 

「じゃあいい人じゃん」

 

日和が振り返った。

 

「澪、すぐ結論出すのはやめよう」

 

「金出して、著作権奪わず、飯をおごれとも言わない。いい人っぽい」

 

「最後の条件は自分で追加したでしょ?」

 

私は顔を伏せ、口を閉ざしていた。

 

彼女たちは知らない。

 

この契約の裏側は、単なる音楽財団ではない。

 

特調室の外殻機関だ。

 

それはあたかも贈り物のように見える。

 

実際には縄かもしれない。

 

あるいは、神代鈴音が言っていたように、錨。

 

私を普通の世界に固定するための錨。

 

あるいは、必要になったときに引き止めるための縄かもしれない。

 

ソレンセンが意識の奥で低く笑った。

 

「彼女たちは喜んでいるな」

 

私はページをめくる手を止めた。

 

「見てみろ、白川一音」

 

「外殻機関一つ」

 

「契約書一枚」

 

「少し綺麗な資金」

 

「それだけで彼女たちは前に進める」

 

心の中で私は言った。

 

「黙って」

 

「なぜ黙れと言う? これは事実だ」

 

その声は黒い水のように、少しずつ私の意識に染み込んでくる。

 

「彼女たちは金がどこから来たのか知らない」

 

「この契約書が本当に誰に仕えているのか知らない」

 

「彼女たちの夢が、君を安定させるために使われていることを知らない」

 

「彼女たちはただ喜ぶだけだ」

 

私は唇を噛んだ。

 

日和がふと顔を上げた。

 

「小音、この契約、受けたくない?」

 

私はびくりと体を震わせた。

 

「え?」

 

「さっきからずっと不安そうにしてる」

 

日和が私を見ていた。

 

その目はとても綺麗で、綺麗すぎて私は目を合わせられなかった。

 

私は顔を伏せた。

 

「ただ……条件が良すぎて、少し怖いんです」

 

これは本当だった。

 

少なくとも一部は本当だった。

 

日和は静かに頷いた。

 

「私もそう思う」

 

陽菜が少しがっかりした様子で言った。

 

「じゃあ、断るの?」

 

日和はすぐに答えなかった。

 

もう一度契約書を見直した。

 

「すぐには断らない。いくつか修正を求めようと思う。たとえば宣伝素材の使用範囲、撮影中の安全責任、補助金の透明性、それに成片に納得いかなかった場合、公開を拒否できるかどうか」

 

澪が手を上げた。

 

「飯の提供も追加で」

 

「澪!」

 

澪は真面目だった。

 

「撮影は体力使うから」

 

日和がため息をついた。

 

「それは現場飲食補助として書けるかも」

 

澪が頷いた。

 

「これで財団もいい人っぽくなった」

 

私は思わず笑いそうになった。

 

ただ、笑うことはできなかった。

 

ポケットの中でスマホが震えたから。

 

特調室からのメッセージだった。

 

---

 

御影家との会談が確定した。

 

本日十九時、場所:白妙神社外苑茶室。

 

白妙神社と特調室の人員が同席する。

 

あなたの表面上の身元は相手に明かさない。

 

---

 

私は画面を見つめ、心臓がゆっくりと沈んでいくのを感じた。

 

御影家。

 

旧東京霊脈守護家系の一つ。

 

「下北沢黒弦」に会いたがっている人たち。

 

日和が私の表情に気づいた。

 

「また説明会?」

 

私は頷いた。

 

「うん」

 

私は最近、「説明会」が多すぎる。

 

まるで存在しない部活に所属しているかのようだ。

 

陽菜が少し心配そうに聞いた。

 

「小音、今日も行くの?」

 

「うん……でも、そんなに遅くならないと思う」

 

この言葉を口にしたとき、自分でも信じていなかった。

 

日和は私を止めなかった。

 

ただ契約書を閉じた。

 

「じゃあ、この契約は一旦保留。あなたが帰ってきてから一緒に考えよう」

 

私は頷いた。

 

「うん」

 

澪が最後の飯団を食べ終えた。

 

「飯は忘れるなよ」

 

私は小さく言った。

 

「うん」

 

でも私はわかっていた。

 

今夜は、おそらく何も食べられないだろう。

 

白妙神社外苑の茶室は、本殿の裏手にあった。

 

以前白妙神社に来たときは、ただ静かだと感じていた。

 

今もう一度来てみると、もっと多くのものが感じ取れた。

 

参道の両側の石灯籠の間に細い霊線が走っている。

 

鳥居の下に結界のノードがある。

 

木陰には見えない人が巡回している。

 

普通の参拝者は、ここが環境の良い場所だとしか思わない。

 

これらのことは知らない。

 

普通の人は知らない。

 

日和たちも知らない。

 

これは私が最近、何度も繰り返している呪文になっていた。

 

彼女たちが知らなければ、彼女たちは安全だ。

 

普通の世界が知らなければ、東京はまだ元のままを保てる。

 

神代鈴音が茶室の入口で私を待っていた。

 

今日は濃い青色の和服を着て、御幣は持っていなかった。

 

普段より少しだけ戦闘的な雰囲気が減っていた。

 

しかし表情は依然として真剣だった。

 

「白川さん」

 

「こ、こんばんは」

 

私はお辞儀をした。

 

彼女は私を一瞥した。

 

「緊張してる?」

 

「うん」

 

私は早口で答えてしまった。

 

神代鈴音はわずかに笑ったようだった。

 

とても淡い笑みだった。

 

「御影家はここで乱暴なことはしない。少なくとも、粗暴な方法は使わないだろう」

 

私は「粗暴な方法」という四文字を聞いて、まったく安心できなかった。

 

「つまり、粗暴じゃない方法はあるってことですか?」

 

「ある」

 

彼女はとても率直に答えた。

 

「彼らは交渉が得意だ」

 

私はますます家に帰りたくなった。

 

交渉は怪物を倒すより怖い。

 

怪物を倒すときは、少なくとも敵が目の前にいる。

 

交渉のときは、敵が座布団の上に座って茶を注いでくれるかもしれない。

 

ソレンセンが口を開いた。

 

「なら、テーブルをひっくり返せ」

 

「だめです」

 

「人間の交渉の本質は、誰がより裂かれやすいかを探すことだ」

 

「だからこそ、あなたに話させてはいけない」

 

私は茶室の入口で深呼吸をした。

 

それから神代鈴音について中に入った。

 

茶室の中にはすでに三人が座っていた。

 

白髪の老人。

 

黒い和服を着た中年女性。

 

そして二十歳前後に見える青年。

 

老人は主座に座り、背筋をぴんと伸ばし、目が古井戸のように静かだった。

 

中年女性は隣に座り、茶碗を手に持ち、視線が鋭かった。

 

青年はにこやかに私を見ていた。

 

その笑みは穏やかだった。

 

しかし私はまったく穏やかだとは思えなかった。

 

彼が私を見る目は、人を見る目ではなかった。

 

まるで倉庫から取り出したばかりの、値付けが必要な骨董品を見る目だった。

 

眼鏡の女性もいた。

 

彼女は反対側に座り、特調室を代表していた。

 

神代鈴音が私の横に座った。

 

私は指定された位置に座り、両手を膝の上に置いた。

 

背中が木の板のように硬くなっていた。

 

白髪の老人が口を開いた。

 

「初めまして。御影家、御影宗玄です」

 

私はすぐに頭を下げた。

 

「は、初めまして」

 

中年女性が言った。

 

「御影千鶴です」

 

青年が笑いながら言った。

 

「御影秋人です。よろしくお願いします、黒弦さん」

 

私はその場で縮こまりそうになった。

 

その呼び名は使わないでください。

 

本当に、当たり前に使わないでください。

 

ソレンセンが闇の中で愉快そうに笑った。

 

「彼らはお前を観察している」

 

わかっていた。

 

「あの老人は、お前が制御可能かどうかを判断しようとしている」

 

わかっていた。

 

「あの女は、お前を殺すのにどれだけの代償がかかるかを判断しようとしている」

 

私の指が震えた。

 

「あの若者は、お前を買おうとしている」

 

私は胃が冷たく縮むのを感じた。

 

ソレンセンが低く笑った。

 

「面白いな。お前は彼らの目には人間ではない」

 

「資源だ」

 

私は顔を伏せ、呼吸を整えようとした。

 

御影宗玄が私を見た。

 

「白川さん、まず安心してほしい。我々はあなたの普通の身元を調べようとはしていないし、あなたの日常の関係者に接触するつもりもない」

 

この言葉は保証のように聞こえた。

 

しかし同時に、私にこう言っているようにも聞こえた。

 

彼らは私が普通の身元を持っていることを知っている。

 

そしてそれが私の弱点であることも知っている。

 

眼鏡の女性が冷静に言った。

 

「御影家は会談前に不接触協定に署名しています」

 

御影千鶴が淡々と続けた。

 

「我々はルールを守ります」

 

青年の御影秋人がにこやかに言った。

 

「何しろ、臨海の認知漏洩を遮断できる高危協力者に刺激を与えたくはないですからね」

 

私は顔を伏せた。

 

そんな評価はされたくない。

 

本当にされたくない。

 

御影宗玄が茶碗を置いた。

 

「我々はあなたと協力したい」

 

私は一瞬、固まった。

 

「こ、協力?」

 

「御影家は銀座地下街東側の旧霊脈ノードを掌握している。最近、そのノードに汚染の兆候が見られる。我々はあなたに調査への参加を望んでいる」

 

また調査か。

 

また地下か。

 

また汚染か。

 

私はこれらの単語に条件反射的に胃痛を覚えそうになった。

 

眼鏡の女性が口を開いた。

 

「特調室はまだこの行動を承認していない。今回の会談は意向を聞くだけだ」

 

神代鈴音も言った。

 

「白川さんは拒否することもできます」

 

拒否できる。

 

またこの言葉だ。

 

今、私はこの四文字を聞くと、選択の縄を自分に投げてくるように感じた。

 

御影秋人が一枚の書類を取り出し、私の前に静かに押し出した。

 

「報酬については、御影家は協力者に損をさせない。基礎協力費五百万日元。汚染源の確認と抑圧に成功した場合、追加で一千万。もし核心の封印を依頼する場合は、特別補償を別途用意する」

 

私は数字を聞いた瞬間、頭の中が完全に停止した。

 

五百万。

 

一千万。

 

特別補償。

 

これはもうバンドの活動費の域ではなかった。

 

これは普通の高校生の生活構造を変えるのに十分な金額だった。

 

レコーディング。

 

MV。

 

宣伝。

 

機材。

 

演出会場。

 

いや。

 

それだけではない。

 

もっと良い練習スペースを借りられる。

 

余響楽団が一年分の活動計画を立てられる。

 

日和が毎回予算で頭を悩ませなくて済む。

 

陽菜がやりたい企画を現実のものにできる。

 

澪が……たくさん飯を食べられる。

 

いや。

 

いやいやいや。

 

白川一音、そんな風に考えてはいけない。

 

そんな風に考えれば考えるほど、それが餌であることを証明している。

 

ソレンセンの声が意識の奥で響いた。

 

「随分と太っ腹だな」

 

私は歯を食いしばった。

 

「黙って」

 

「政府より直接的だ」

 

「黙って」

 

「欲しくなったろう?」

 

私は答えなかった。

 

なぜなら、確かに心が揺れたからだった。

 

御影千鶴が私を見た。

 

「あなたが協力報酬の一部を楽隊活動に充てていると聞いた」

 

私の体が一瞬で固まった。

 

神代鈴音の表情が冷たくなった。

 

「御影家、あなたたちは越権している」

 

眼鏡の女性も視線を上げた。

 

「御影家は白川さんの普通の関係を調査してはならない」

 

御影千鶴は表情を変えなかった。

 

「我々は具体的な対象を調査したわけではない。ただ、資金の流れと公開されている演奏資料から推測しただけだ」

 

それに何の違いがあるというのか?

 

彼らにとっては、違いがあるのかもしれない。

 

名前を調べていない。

 

接触していない。

 

脅迫していない。

 

ただ「推測した」だけ。

 

まるでソレンセンがいつも契約の隙間を縫うように。

 

御影家も規則の端を歩いている。

 

私は顔を伏せ、指先が冷たくなるのを感じた。

 

御影秋人が穏やかに言った。

 

「誤解しないでほしい。我々はあなたの楽隊に干渉するつもりはない。むしろ、より綺麗な支援ルートを提供することもできる。たとえば匿名でのスポンサー、演奏リソース、レコーディングスペースなど」

 

「もう十分です」

 

私が言った。

 

声はとても小さかった。

 

しかし茶室の中が静かになった。

 

私自身も固まった。

 

私は彼らの話を遮った。

 

これはあまりに恐ろしいことだった。

 

以前の私なら、その場で三十回謝っていただろう。

 

しかし今、私は顔を伏せたまま、続けた。

 

「私の楽隊のことは出さないでください」

 

御影秋人が私を見た。

 

「我々はただ善意の条件を提示しただけだ」

 

私は顔を上げた。

 

心臓が激しく鳴っていた。

 

それでも、私は彼を見た。

 

「出さないで」

 

茶室の空気が変わった。

 

ソレンセンが闇の中で低く笑った。

 

「いいぞ」

 

「黙って」

 

「怒っているな」

 

「黙って」

 

御影宗玄がようやく口を開いた。

 

「秋人」

 

青年は笑みを収め、わずかに頭を下げた。

 

「失礼しました」

 

彼が本当に謝っているのか、私はわからなかった。

 

おそらく、違う。

 

御影宗玄が私を見た。

 

「白川さん、あなたの境界線は理解した」

 

私は彼が理解したとはまったく思えなかった。

 

しかし少なくとも、彼は一旦後退した。

 

「銀座ノードの問題は、御影家だけの私事ではない」

 

老人は続けた。

 

「銀座地下街は旧江戸の商脈、現代の地下交通、そして数本の細い霊脈と繋がっている。そこには毎日大量の普通の人間が通行する。一度汚染が拡散すれば、普通の人間が異常を目撃するリスクは臨海地下共同溝よりはるかに高い」

 

普通の人間。

 

彼は言葉を選ぶのが上手い。

 

彼は私が何を気にしているかを知っている。

 

ソレンセンが静かに言った。

 

「彼もお前の縄を見つけたな」

 

私は拳を握りしめた。

 

御影宗玄は続けた。

 

「我々はすぐに承諾せよとは言わない。ただ、もしあなたが拒否した場合、御影家はそれでも対処するが、成功率は下がるということを理解してほしい」

 

本当に卑劣だった。

 

脅迫ではない。

 

強制でもない。

 

ただ、拒否した場合のリスクを私の前に置いただけ。

 

もし私が拒否して、何か起きたらどうなるのか?

 

もし銀座地下街で普通の人間が巻き込まれたらどうなるのか?

 

もし異常が撮影されてネットに上げられたらどうなるのか?

 

もし東京暗面の秘密がまた裂けたらどうなるのか?

 

彼らはそういう人たちだ。

 

特調室もそうだった。

 

御影家もそうだった。

 

誰もが「拒否できる」と言う。

 

しかし彼らが出してくるものには、簡単に拒否できるものが一つもなかった。

 

ソレンセンが闇の中で笑った。

 

「人間は本当に面白い」

 

「彼らは鎖すら必要としない」

 

「ただ責任をお前の手に置くだけで、お前は自ら檻の中に入っていく」

 

私の呼吸が少し速くなった。

 

神代鈴音がそれに気づいた。

 

「白川さん、今すぐ答える必要はありません」

 

眼鏡の女性も言った。

 

「特調室が再度銀座ノードのリスクを評価します」

 

私は頷いた。

 

「私……考える時間が必要です」

 

御影宗玄が頷いた。

 

「もちろん」

 

御影秋人が再び笑みを浮かべた。

 

「黒弦さん、返答を楽しみにしています」

 

私は顔を伏せ、その呼び名には答えなかった。

 

会談が終わった後、私はほとんど逃げるように茶室を出た。

 

外の夜風が顔に当たって、初めて自分の背中が冷や汗でびしょ濡れになっていることに気づいた。

 

神代鈴音が後についてきた。

 

「大丈夫か?」

 

「だ、大丈夫です」

 

もちろん嘘だった。

 

神代鈴音が私を見た。

 

「御影家は信用できない」

 

私は頷いた。

 

「わかっています」

 

「でも、彼らの言うことが全部間違っているわけでもない」

 

私は沈黙した。

 

これが一番面倒なところだった。

 

もし彼らが完全に悪い人間なら、私は素直に拒否できた。

 

しかし彼らが言うリスクは本当だった。

 

銀座地下街には本当に普通の人間がいる。

 

汚染が拡散する危険も本当にある。

 

「白川さん」

 

神代鈴音が言った。

 

「あなた一人で全ての責任を背負う必要はない」

 

私は顔を伏せた。

 

「でも、もし私がやれるなら……」

 

言葉の途中で、私は口を閉ざした。

 

この言葉はあまりに危険だった。

 

もし私がやれるなら。

 

だから私がやるべきなのか?

 

もし私がソレンセンの力を借りられるなら。

 

だから私は力を借り続けなければならないのか?

 

もし私が普通の人を守れるなら。

 

だから私は暗面勢力の道具になるべきなのか?

 

私はわからなかった。

 

神代鈴音は何か言いたそうだった。

 

しかし結局、彼女はこうだけ言った。

 

「少なくとも、あなたの楽隊を条件にさせないでください」

 

私は頷いた。

 

「うん」

 

これだけはわかっていた。

 

どんなことがあっても、余響楽隊は巻き込まれてはいけない。

 

日和たちは知ってはいけない。

 

利用されてはいけない。

 

誰かの取引材料になってはいけない。

 

下北沢に戻ったとき、すでに夜の十時近くになっていた。

 

AfterToneはまだ明かりがついていた。

 

私はみんながもう帰ったと思っていた。

 

しかしドアを開けると、日和、澪、陽菜がまだ楽屋にいた。

 

テーブルには契約書、予算表、そしてMVの構想スケッチがいくつか置かれていた。

 

陽菜が私を見て、すぐに顔を上げた。

 

「小音、帰ってきた!」

 

日和が立ち上がった。

 

「ご苦労様。ご飯は食べた?」

 

私は首を振った。

 

澪がまだ包装が開いていない飯団を私の方に押し出した。

 

「取っておいた」

 

私はその飯団を見て、急に泣きたくなった。

 

飯団のせいではない。

 

ここがあまりに普通だったから。

 

普通すぎて、必死に守りたくなるほど。

 

私は座り、小声で言った。

 

「ありがとう」

 

日和が私を見た。

 

「説明会、疲れた?」

 

私は頷いた。

 

「うん」

 

彼女はそれ以上追及しなかった。

 

ただ契約書を一ページめくった。

 

「私たちで青藍財団の契約を少し話し合ってみた。続けてもいいと思うけど、かなり制限を加えようと思ってる。たとえば撮影現場は自分たちで確認する、変な閉鎖された場所を指定されない、すべての素材使用は同意を得る、など」

 

私は一瞬、固まった。

 

これらの制限は、私が考えていたことにかなり近かった。

 

日和は続けた。

 

「あと、補助金額は高すぎない方がいい。高すぎると逆に気味が悪い」

 

私は契約書を見下ろした。

 

心のどこかが、ふっと緩んだ気がした。

 

あまりに条件が良すぎるのは怖い、と感じているのは、私だけではなかった。

 

日和もそう思っていた。

 

陽菜が少し申し訳なさそうに言った。

 

「私もMVは撮りたいけど、条件が変なら、無理に受けたくない」

 

澪が頷いた。

 

「飯は安くてもいいけど、毒は困る」

 

この例えは意外と的確だった。

 

私は小さく言った。

 

「うん」

 

ソレンセンが意識の中で冷たく言った。

 

「彼女たちは無知のまま縄を避けている」

 

私は反論しなかった。

 

なぜなら今回は、少し嬉しかったから。

 

無知は弱さではない。

 

普通の人にも、自分の感覚と判断がある。

 

彼女たちは暗面を知らない。

 

特調室を知らない。

 

御影家を知らない。

 

ソレンセンを知らない。

 

しかし彼女たちは、何が気持ち悪いのかを知っている。

 

あまりに条件が良すぎるものは受け入れるべきではないことを知っている。

 

楽隊は一人で背負うべきではないことを知っている。

 

それで十分だった。

 

日和がふと聞いた。

 

「小音はどう思う?」

 

私は契約書を見た。

 

そして御影家の茶室で見た書類を思い浮かべた。

 

五百万。

 

一千万。

 

特別補償。

 

もう一度、青藍財団の契約書を見る。

 

補助金額は、ずっと現実的だった。

 

少なくとも日和が修正した後には、普通の音楽活動としてあるべき協力に近づく。

 

私は小さく言った。

 

「日和が言ったように修正して、相手が受け入れなければ断る、でいいと思います」

 

日和が笑った。

 

「わかった」

 

陽菜も笑った。

 

「じゃあ一緒に頑張って交渉しよう!」

 

澪が言った。

 

「無毒の飯のために」

 

「飯のためじゃないから!」

 

私はようやく、少し笑った。

 

小さく。

 

しかし本当の笑みだった。

 

ソレンセンが意識の中でしばらく黙っていた。

 

それから口を開いた。

 

「こうして守れると思っているのか?」

 

私は心の中で答えた。

 

「わからない」

 

「彼らはまだ来る」

 

「わかっている」

 

「もっと大きな組織、より高い金額、より危険な脅迫だ」

 

「わかっている」

 

「遅かれ早かれ、お前は理解するだろう。普通の判断では暗面の欲望は止められない、と」

 

私は机に置かれた契約書を見下ろした。

 

そして日和が蛍光ペンで修正案を書き込んだ部分を見た。

 

「全部は止められないかもしれない」

 

私は心の中で言った。

 

「でも、最初の波くらいは止められるかもしれない」

 

ソレンセンが笑った。

 

「本当に弱いな」

 

「うん」

 

私は認めた。

 

「でもギターも一本一本の弦を練習して弾けるようになる」

 

闇の中で、ソレンセンが一瞬、静かになった。

 

それから冷たく笑った。

 

「ならば、練習を続けろ」

 

「吾は見ている」

 

「その細い弦が、いつ切れるのかを」

 

その夜、私は御影家にすぐには返事をしなかった。

 

彼らの依頼も受けなかった。

 

ただ特調室と神代鈴音に、同じ内容のメッセージを送った。

 

銀座ノードの任務については、もっと資料が必要です。いかなる条件も私の楽隊、学校、家族、普通の身元に関わらないものにしてください。それができない場合、拒否します。

 

送信した後、私はスマホを机に置いた。

 

日和たちはまだMVの話を続けていた。

 

陽菜は夜の街を撮りたいと言い、澪は現場に飯を出すべきだと主張し、日和は予算を整理しながら現実的な話に戻そうとしていた。

 

私は彼女たちの横に座り、指でギターバッグをそっと触れた。

 

外の下北沢は賑やかだった。

 

誰かが路上で笑い、誰かが楽器を背負って歩き、誰かがコンビニの前で飯団を食べていた。

 

普通。

 

混沌。

 

温かい。

 

脆い。

 

私は自分がどれだけ守れるかわからなかった。

 

しかし少なくとも今夜、ソレンセンはまだ黒海の王座に鎖で繋がれていた。

 

御影家の手はまだここまで届いていなかった。

 

青藍財団の契約書はまだ私たちの机の上にあり、一条一条修正されていた。

 

余響楽団はまだただの余響楽団だった。

 

そして私も、まだ白川一音だった。

 

商品でもなければ、兵器でもなく、誰かの所有物でもない。

 

少なくとも今は。

 

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