俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第95章 東京の普通の人の一日
佐野美紀は朝七時二十分に目を覚ました。
目覚ましに起こされたわけではない。
上の階の洗濯機の音で起こされたのだ。
彼女は東京の、ごく普通のワンルームマンションに住んでいる。
駅までは歩いて十二分。
家賃は安くない。
通勤も短くはない。
窓の外には、別のマンションの壁が見える。
天気がよければ、朝、床にとても細い陽射しが一本落ちる。
今日は陽射しがあった。
だから目を覚ましたあと、彼女はその光を五秒ほどぼんやり眺めた。
それからようやく、まだ鳴っていない目覚ましに手を伸ばして止めた。
「今日も仕事かあ」
彼女は小さく言った。
誰も答えない。
部屋の中には、冷蔵庫が静かに動く音だけがあった。
佐野美紀は二十七歳で、東京のあるイベント制作会社で、事務と現場調整をしている。
会社は大きくない。
主に学校行事、小型音楽会、商店街の宣伝、地方物産展、文化施設の講座などを受けている。
以前の彼女は、この業界を特別だとは思っていなかった。
会場へ連絡する。
見積もりを確認する。
書類を催促する。
予算表を作る。
保険を見る。
スタッフを手配する。
突発事態を処理する。
面倒だ。
でも、まあ何とかやれる。
ところがこの一年、彼女はこの業界がどんどん奇妙になっていると感じ始めていた。
どの案件にも、ある名前が出てくる。
猫目。
猫目保険。
猫目安全。
猫目物流。
猫目文化支援。
猫目地方活動プラットフォーム。
猫目青年舞台計画。
初めて猫目を聞いたとき、彼女はただ効率のいい会社なのだと思った。
その後、だんだんおかしいと感じ始めた。
あまりにも頻繁に出てくるからだ。
空気のように多い。
けれど東京では、多くの案件に今でもはっきり書かれている。
猫目関連サービスの使用禁止。
彼女には、なぜなのかよくわからなかった。
会社の先輩は、ただこう言った。
「東京は今、猫目に敏感だから。触らないこと」
だから彼女は覚えた。
触らない。
でも、触らないことは簡単ではない。
なぜなら、顧客はよく尋ねてくるからだ。
「どうして猫目を使わないんですか? 見積もりが安いのに」
「猫目なら一括で全部できますよ」
「他の地方はみんな猫目を使っているのに、東京はどうしてこんなに面倒なんですか?」
佐野美紀は毎回、笑顔で説明するしかない。
「本案件には指定サプライチェーン要件がございます」
つまり、使えないということだ。
なぜ使えないのかについては、彼女も知らない。
そして、あまり知りたくもない。
東京生活は、もう十分に疲れる。
知りすぎれば、もっと疲れるだけだ。
彼女は起きて、顔を洗い、コーヒーを淹れ、コンビニのおにぎりを温めた。
朝食は鮭おにぎりとヨーグルト。
スマホのニュース通知に、こんな見出しがあった。
東京都、非猫目公共活動支援体系を継続推進。一部中小活動主催者からコスト上昇の声。
佐野美紀は、少しだけ開いて読んだ。
記事には、東京は単一大型プラットフォームへの依存を避けるため、独立保険、物流、活動安全、青年文化プロジェクトへ補助を進めていると書かれていた。
下にはコメントがたくさんあった。
支持する人がいる。
一つの会社にすべての活動と保険を握らせてはいけない。
怒っている人もいる。
猫目はあんなに使いやすいのに、東京はただの官僚主義だ。
猫目を使わないせいで、活動コストが本当に上がっていると言う人もいる。
それに反論する人もいる。
安いことは、代価がないという意味ではない。
佐野美紀はニュースを閉じた。
朝から口論を読む気にはなれなかった。
けれど心の中では、コメントのどの意見にも少しずつ道理があるとわかっていた。
猫目は確かに安い。
東京の非猫目プロセスは確かに面倒だ。
でも、すべての活動が猫目に頼るのも、やはり違う気がする。
彼女はただの普通の人だ。
大勢力も、退魔界も、猫目核心も、東京防線もわからない。
わかるのは、自分の手元の予算表がどんどん作りづらくなっていることだけだった。
八時二十五分、彼女は満員電車に乗った。
車内はぎゅうぎゅうだった。
東京の朝ラッシュは、猫目だの、政治だの、地方陥落だの、防線だののせいで、少しも優しくはなっていない。
皆、相変わらず押し込まれている。
相変わらず沈黙している。
相変わらずスマホを見下ろしている。
イヤホンをしている人がいる。
化粧直しをしている人がいる。
目を閉じて眠っている人がいる。
楽器ケースを背負っている人がいる。
佐野美紀は吊り革につかまり、会社のグループチャットを見た。
先輩が送ってきた。
今日午後三時、城東文化センター案件のサプライヤー確認会。猫目関連排除表をもう一度確認しておいて。
佐野は返信した。
承知しました。
別の同僚が送ってきた。
A大学の小型講座イベント、音響サプライヤーは安全確認済み。保険もOK。
A大学。
佐野はその文字を見て、少し前から社内で流れている噂を思い出した。
A大学周辺の案件は、審査が特に厳しいらしい。
特に、学生音楽、文化空間、青少年活動関連。
理由は誰も明言しない。
以前、安全事件があったのではないかと噂する人もいる。
その近くに重要人物がいるのではないかと噂する人もいる。
誰かが冗談で言った。
「東京防線の中心って、実は大学食堂なんじゃない?」
皆、少し笑った。
でも、それ以上は誰も言わなかった。
東京の人間は、「あまり聞かないほうがいい」場所で立ち止まるのが上手い。
会社に着くと、彼女はまずメールを確認した。
一通目は、ある商店街イベントの見積もり調整だった。
独立警備会社は、猫目の同類サービスより二十八パーセント高い。
二通目は、保険会社からの追加資料要求。
三通目は顧客からの催促だった。
猫目プラットフォームの一体化方案を採用できない理由をご説明ください。猫目はより低価格で、現場巡回サービスも提供可能です。
佐野はため息をついた。
またこの問題だ。
彼女はテンプレートを開き、会社の標準返信をコピーした。
本案件は、東京都公共文化活動サプライチェーン多元化原則に基づき、単一プラットフォーム依存型ではないサービスを優先的に採用いたします。活動データ、保険、人員管理および退出メカニズムの独立性を確保するため、今回は猫目関連一体化方案を採用いたしません。
この文章は、もう暗記している。
きれいに書かれている。
けれど、顧客が納得するとは限らない。
彼女自身でさえ、回りくどいと感じることがあった。
つまりは、
猫目に全部任せてはいけない。
ということだ。
でも、なぜ猫目に全部任せてはいけないのかを、普通の顧客が理解するのは難しい。
なぜなら、猫目は本当に使いやすいからだ。
昼休み、佐野は同僚と一緒に下の店でカレーを食べた。
店内のテレビでは、地方ニュースが流れていた。
北海道のある高校軽音部が、猫目支援の外部演奏に参加し、その動画がネットで話題になっているらしい。
画面の中で、数人の学生が緊張した様子で小さな舞台に立っている。
背景の横断幕には、こう書かれていた。
地方青年音楽支援計画。
隅には淡い猫目ロゴがある。
学生たちの演奏は、特別うまいわけではなかった。
でも、とても真剣だった。
客席では老人も、子どもも、商店街の人たちも拍手していた。
司会者が言った。
「猫目文化安全と地方活動センターの協力により、地方の学生により多くの発表機会を提供しています」
佐野の隣にいた同僚が、テレビを見ながら低く言った。
「こういうのも、悪いことなのかな?」
佐野はカレーをかき混ぜた。
「わからない」
「学生が舞台に立てるのって、いいことじゃない?」
「それは、いいことだと思う」
「じゃあ東京は、どうしてそんなに猫目を怖がるんだろう?」
佐野は少し考えた。
「たぶん……これから全部の学生の舞台が猫目を通さないとできなくなったら、よくないからじゃないかな」
同僚は少し固まった。
「でも今は、ほかに舞台をくれるところがないんでしょ?」
佐野は言葉に詰まった。
その言葉も正しいからだ。
彼女はふいに、朝のニュースコメントにあった言葉を思い出した。
安いことは、代価がないという意味ではない。
でも安くなければ、多くの活動はそもそも開けない。
これこそが、普通の人の困惑だった。
彼女は、何かの支配を支持したいわけではない。
学生に舞台がなくなるのも見たくない。
ただ一皿のカレーを食べているだけなのに、問題がとても複雑に思えてくる。
午後三時、サプライヤー確認会が始まった。
参加者は文化センター責任者、イベント制作会社、保険会社、警備会社、音響サプライヤー、東京公共文化支援オフィスの人間だった。
会議内容は非常に細かかった。
机と椅子はどこから来るのか。
音響は誰が担当するのか。
活動保険はどのリスクをカバーするのか。
ボランティア名簿をどう保存するのか。
参加者情報をいつ削除するのか。
もしサプライヤーが急に離脱したら、代替案はどこになるのか。
佐野は会議記録を担当した。
文化センター責任者は不満を漏らした。
「以前なら猫目を使って、一枚のフォームを出せば終わったんです。今は一つ一つ個別に確認しないといけない。遅すぎます」
東京公共文化支援オフィスの職員が、辛抱強く説明した。
「少し遅くなりますが、データと責任を分散させることで、単一プラットフォーム依存を防げます」
「でも、こちらは人手が足りないんです」
「そのため、今回は支援オフィスから臨時調整人員を提供します」
「費用は?」
「一部は東京都が補助します」
文化センター責任者はため息をついた。
「もし来年、その補助がなくなったら?」
その一言が出ると、会議室が少し静かになった。
佐野は下を向いて打ち込んだ。
彼女は、その問題がとても重要だと思った。
今年の補助だけに頼ってはいけない。
もし来年、資金がなくなれば、皆また猫目へ戻ってしまう。
猫目は、そんなに考えなくていいからだ。
猫目は言う。
私たちに任せてください。
東京は今、こう言わなければならない。
すべてを渡してはいけません。
ならば東京は、かつて猫目が引き受けてきた面倒を受け止めなければならない。
そうでなければ、普通の人は聞いてくれない。
会議が終わったあと、佐野は記録を夜七時まで整理した。
退勤するときには、もうかなり疲れていた。
電車の中で、彼女はギターケースを背負った女子学生が、下を向いてスマホを見ているのを見た。
一瞬、会社内で流れているA大学の噂を思い出した。
その重要人物も、学生なのだろうか。
すぐに、彼女は首を横に振った。
そんなことを考えても意味がない。
彼女はただのイベント制作会社の普通の社員だ。
本当に考えるべきことは、明日の午前十時までにサプライヤー会議の議事録を送ることだった。
東京が守れるのか。
猫目が入ってくるのか。
そういうことは、もっと上の人たちが考えるべきだ。
でも不思議なことに。
最近の彼女は、「もっと上の人たちが考えるべきこと」が、自分のExcel表にも落ちてくるのだと感じるようになっていた。
たとえば、ある保険サプライヤーを使えるかどうか。
ある倉庫が猫目関連かどうか。
学生舞台の申請書に退出メカニズムがあるかどうか。
活動データを誰が保存するのか。
こうした小さなことを積み重ねると、それが東京が猫目にならないでいられるかどうかの鍵のように見える。
以前の彼女は、自分の仕事をただの雑務だと思っていた。
今はときどき、自分が一つの都市のドアの隙間を点検しているような気がする。
その考えは大げさだった。
でも少し、本当でもあった。
家に着いたのは八時二十分だった。
彼女はコンビニでおでんとサラダを買った。
マンション下の掲示板には、新しい通知が貼られていた。
本区防災訓練は、単一プラットフォームに依存しない協力方式で実施します。住民の皆様の参加を歓迎します。
下には、小さな字がたくさん書かれている。
物資は区役所が直接提供。
ボランティアは町内会で登録。
データは外部プラットフォームによる一括管理を行わない。
緊急連絡は区公式システムおよび紙媒体の予備名簿を使用。
佐野はその通知を見て、ふいに笑いたくなった。
防災訓練まで、こんなに慎重に書かれている。
東京は本当に疲れている。
でも、たぶん、その疲れがあるからこそ、まだ完全に猫目へ渡していないのだ。
彼女は写真を撮って、友人に送った。
友人が返した。
面倒くさ。
佐野は返信した。
本当に面倒。
少し考えて、さらに一文加えた。
でも、少しくらい面倒なほうがいいのかも。
夜、彼女はおでんを食べながらテレビをつけた。
ニュースでは、東京が猫目の「共同安定化提案」を拒否したことによる後続影響を報じていた。
司会者が言った。
「東京側は、多元的サプライチェーンと独立文化安全支援体系を引き続き推進すると表明しています。猫目側は現時点で強い反応を示していませんが、地方協力プロジェクトはなお拡大中です」
コメンテーターが言った。
「問題は、東京が猫目と同等の効率を持つ代替方案を出せるかどうかです。拒否だけで利用可能な代替がないなら、民間活動や地方協力のコストは上昇し続けるでしょう」
別のコメンテーターが言った。
「しかし、もし猫目の一体化方案を受け入れれば、東京は将来、自主的な調整能力を失う可能性があります。地方の経験は、依存が一度形成されると、逆転が非常に難しいことを示しています」
佐野は大根を箸でつまんだ。
少し考えた。
彼女は、二人のコメンテーターがどちらも正しいと思った。
それがいちばん面倒なのだ。
片方が完全に間違っていて、片方が完全に正しいなら、人はもっと楽になれる。
現実はそうではない。
猫目は役に立つ。
猫目は危険だ。
東京は面倒くさい。
けれど東京の面倒くささも、必要な面倒くささなのかもしれない。
彼女は大根を一口かじった。
少し熱かった。
寝る前に、彼女はパソコンを開き、会議議事録の続きを補った。
最後の段落を書いている途中で、手が止まった。
議事録には、こういう一文があった。
各サプライヤーは代替方案を確認し、単一点依存を形成しないこと。
単一点依存。
彼女はその言葉を、長いあいだ見つめた。
以前は、ただの行政用語だと思っていた。
今はふいに、それはシステムだけの話ではない気がした。
人についても言えるのだ。
一つの地方が、一つの会社だけに依存してはいけない。
一つの活動が、一つのプラットフォームだけに依存してはいけない。
一つの都市が、一人の英雄だけに依存してはいけない。
どうして「英雄」などと思ったのか、彼女にもわからなかった。
たぶん、最近の東京には噂が多いからだ。
猫目が完全に攻め込むのを躊躇させている、ある特殊な人がいるらしい。
東京にはまだ、最後の見えない防線があるらしい。
A大学周辺の案件審査が特に厳しいらしい。
佐野には、それが本当かどうかわからない。
けれど、もし本当にそんな人がいるのなら、その人もかなり可哀想だと思った。
一つの都市が一人にしか頼れないのは、活動が猫目にしか頼れないのと同じくらい危険だ。
彼女は、議事録にそんなことは書かなかった。
ただ、あの一文を太字にした。
単一点依存を形成しないこと。
そして保存した。
夜十一時半、東京は少しずつ静かになっていった。
もちろん、本当に静かになったわけではない。
東京が本当に静かになることは、あまりない。
遠くではまだ電車の音がする。
道路にはまだ車がいる。
上の階では、また洗濯機が鳴り始めた。
隣の部屋で誰かがくしゃみをした。
佐野は電気を消し、ベッドに横になった。
彼女は明日も仕事へ行かなければならない。
顧客メールに返信しなければならない。
サプライヤーが猫目関連かどうか調べなければならない。
予算表を修正しなければならない。
なぜ独立保険のほうが高いのかを、文化センターへ説明しなければならない。
そして顧客にこう伝えなければならない。
少し面倒にしているのは、将来まだ退出できるようにするためです。
その言葉で人を説得できるかどうか、彼女にはわからない。
東京がどれだけ持ちこたえられるのかもわからない。
彼女はただの普通の人だ。
黒弦はない。
術式もない。
財団もない。
官僚権力もない。
彼女にあるのは、会議議事録、予算表、サプライヤー名簿、退出メカニズム、そしてあまり高くない給料だけだった。
けれど、もしかすると東京は、こういう普通の人がたくさんいるから、今のところすべてを差し出さずに済んでいるのかもしれない。
誰かが保険を確認する。
誰かが倉庫を確認する。
誰かが防災訓練を行う。
誰かが猫目一体化方案を拒否する。
誰かが三十分余分にかけて退出メカニズムを書く。
誰かが顧客に文句を言われながら説明する。
「今回は猫目を使えません」
それらは壮烈ではない。
むしろ、かなり面倒だ。
それでも東京はまだある。
もしかすると、そういう面倒な小さなことで支えられているのかもしれない。
佐野美紀は目を閉じた。
明日も早起きしなければならない。
窓の外で、東京の明かりはまだ灯っている。
猫目はまだ外にいる。
でも今夜、彼女の家の扉は閉まっていた。
冷蔵庫は静かに動いている。
机の上には、まだ書き終わっていない予算表が置かれている。
スマホの目覚ましは、七時二十分にセットされている。
これが、東京に住む一人の普通の人の生活だった。