俺の頭の中に敗北した暗黒の王が住み着いているが、俺はただギターを弾きたいだけだ 作:arctichare
第96章 フランス方案、そして私は「未来の希望」フォルダに書き込まれた
東京が猫目の勧降書を拒否したあと、特調室は最悪の場合に備え始めた。
表面上の最悪ではない。
表面上の最悪は、東京外縁が猫目に切断され、京都内層がさらに圧縮され、地方残余互助会が地下へ移らざるを得なくなることだ。
本当の最悪は、彼らが、東京はもう私を守り続けられないと判断することだった。
そのとき、特調室は私を日本の外へ送り出す。
目的地はフランス。
私が初めてそのことを知ったのは、正式な会議の場ではなかった。
ある健康評価が終わったあとだった。
眼鏡の女性がタブレットを机の上に置いた。
表情は、いつもより疲れていた。
「白川さん、事前にお伝えしなければならないことがあります」
そのときの私は、ちょうどストレス問診を終えたばかりだった。
問診には、似たような質問が並んでいた。
最近、猫目の夢を繰り返し見るか。
無力感があるか。
授業、練習、未来計画への興味を失っているか。
自分の能力を超えた責任を背負わなければならないと感じるか。
私は、とてもゆっくり記入した。
選びにくい答えがいくつもあったからだ。
彼女がそう言ったとき、私は問診の結果がよくなかったのだと思った。
けれど彼女は言った。
「特調室は、あなたの海外撤離方案を策定しています」
私は固まった。
「海外?」
「はい」
「どこへ?」
「フランスです」
私は一瞬、反応できなかった。
フランス。
その言葉は、私の日常からあまりにも遠かった。
A大学。
下北沢。
東京の食堂。
互助会。
特調室。
猫目。
それだけでも、もう十分遠い。
そこへ突然、フランスという言葉が現れた。
まるで、地図の上に誰かが無理やり新しい出口を裂き開いたようだった。
「どうしてフランスなんですか?」
私は尋ねた。
眼鏡の女性は、すぐには答えなかった。
彼女はタブレットをこちらへ向けた。
ファイルのタイトルは、
B-Black String 海外安全移送および長期保護予案。
その下に、括弧書きがあった。
フランス方案。
その代号を見た瞬間、指がゆっくりと強張った。
B-Black String。
彼らはまた、私の名前を書いていない。
それは保護だ。
同時に、隔離でもある。
私はもう、この感覚にとても慣れていた。
フランス方案の論理は明確だった。
第一に、フランスは日本の猫目直接支配範囲にない。
第二に、東京特調室には、そこに少数の長期協力ルートがある。
第三に、一部の国際研究機関、文化基金会、医療機関、金融法律ネットワークが、身分、学業、生活保護を提供できる。
第四に、地理環境が分散安全拠点の構築に適している。
第五に、猫目は外来技術と跨国資本構造を有しているが、日本国外における社会関係網は日本ほど深くない。
第六に、もし日本東京防線が失守した場合、私という「未来の希望」を保全することは、私を東京に留め、猫目とともに沈ませるより重要である。
私は「未来の希望」という四文字を見たとき、胸の奥を何かに刺されたような気がした。
「未来の希望」は、きれいに聞こえる。
けれど本当の意味は、こうだ。
今守れないなら、私を送り出す。
私を、いつか帰ってくるかもしれない可能性に変える。
今の東京から私を切り離す。
A大学から切り離す。
AfterToneから切り離す。
互助会から切り離す。
まだ抵抗している人たちのそばから切り離す。
眼鏡の女性は言った。
「これは、あくまで緊急方案です」
私は低く尋ねた。
「いつ起動するんですか?」
「東京があなたを守り続けられない場合、または猫目による直接奪取、包囲のリスクが発生した場合です」
私は顔を上げた。
彼女はソレンセンの名を言わなかった。
彼女はその名前を覚えていない。
彼女は続けた。
「もう一つの場合があります」
「何ですか?」
「東京防線が、自身の失守が目前だと判断した場合です」
私は黙った。
東京失守。
その四文字は、部屋の中でとても重かった。
特調室内部では、フランス方案について大きな議論があった。
私は後になって知った。
ある派は、強く支持した。
彼らは、私はもう東京防線の最後の札として扱われるべきではないと考えていた。
猫目はすでに地方支配を完成させている。
東京と京都は孤島だ。
私を東京に残し続ければ、ニャーサが加圧を決めた瞬間、私はすべての勢力によって、さらに危険な位置へ押し出される。
彼らは、あらかじめ一つの出口を用意しておく必要があると考えた。
今すぐ送り出すわけではない。
けれど状況が崩壊したとき、慌ててはいけない。
もう一派は反対した。
彼らは私を犠牲にしたいわけではなかった。
むしろ、私が東京を離れれば、東京防線の心理的支柱が崩れるのではないかと心配していた。
多くの敗者互助会メンバー、大勢力残余、世俗財団、さらには普通の防線職員の一部までもが、私を猫目が東京へ完全に攻め込んでいない理由の一つだと見ている。
もし私が去れば、猫目はすぐに進んでくるのではないか。
東京の人々は、最後の希望が逃げたと感じるのではないか。
互助会は崩れるのではないか。
大勢力残余は、裏で猫目と条件交渉を始めるのではないか。
官僚体系は「現実的協力」へ転じるのではないか。
それらはすべて問題だった。
第三派は、最も冷静で、最も残酷だった。
彼らは言った。
「彼女がこれほど多くの人から希望と見なされているからこそ、撤離を準備すべきだ」
「一人の人間が、一つの都市の心理的支柱機能を背負うべきではない」
この言葉が後に私の耳へ入ったとき、私は長いあいだ何も言えなかった。
その言葉は正しすぎたからだ。
そして、痛すぎたからだ。
東京抵抗力量の多くの人たちは、なお一つの考えを持っていた。
ニャーサは、結局は一個体だ。
猫目がどれほど大きく、複雑で、地方を支配するのが上手くても、すべての人の頭上にのしかかっている本当の核心は、やはりニャーサだ。
いつかニャーサを倒せれば、猫目は最高意思を失う。
代理人はただの人間。
倉庫はただの倉庫。
保険はただの保険。
術師隊伍は、組織された人間にすぎない。
ニャーサさえ倒れれば、猫目は必ず裂ける。
だから、将来ニャーサを倒せるかもしれない希望を残しておくことには意味がある。
そして私は、その希望の中へ入れられた。
彼らは、なぜニャーサが私を気にしているのかを完全には知らない。
彼らが知っているのは、ニャーサが東京へ完全に攻め込んでいないこと。
ニャーサが私と二度交戦しても、私を殺さなかったこと。
猫目の勧降書に、わざわざ「黒弦非対抗使用原則」と書かれていたこと。
ニャーサが地球を離れたときにも、猫目に東京を直接接管させなかったこと。
彼らの目には、それが私がなお重要であることの証明に見えている。
たとえ私が負けたとしても。
たとえ私自身が答えではないと言っても。
それでも彼らは思っている。
私は、将来ニャーサを倒す鍵かもしれない、と。
これこそが、フランス方案の核心論理だった。
今は勝てない。
ならば未来まで保存する。
今、日本が守れない。
ならば日本の外へ送り出す。
今、東京が猫目に呑み込まれるかもしれない。
ならば火種をフランスへ送る。
私は、その論理を理解している。
そして、その論理が嫌いだった。
それはまるで、私を金庫へしまうように聞こえるからだ。
私は眼鏡の女性に尋ねた。
「もし私がフランスへ行ったら、AfterToneはどうなるんですか?」
彼女はすぐには答えなかった。
私はさらに尋ねた。
「A大学はどうなるんですか?」
「私の学業は?」
「互助会は?」
「まだ東京にいる人たちは?」
彼女はうつむいた。
「方案には、学籍移行、遠隔学習、臨時身分保護、生活支援が含まれています」
「私はそれを聞いているんじゃありません」
声が少し震えていた。
「私が聞いているのは、私が行ったあと、その関係はどうなるんですか、ということです」
彼女は沈黙した。
それは、彼女が解決できる問題ではなかった。
方案は、パスポート、住居、接応者、資金、授業、医療、言語支援を安排できる。
けれど、私が突然離れると知ったときの日和たちの表情は安排できない。
陽菜が「小音はいつ戻ってくるの?」と尋ねる声は安排できない。
澪が渡せなくなるおにぎりは安排できない。
相原真紀が私の席を取っておいても、私が来ないことは安排できない。
互助会で、北見遥香が「最後の希望」が送り出されるのを見たときの沈黙は安排できない。
それらはすべて、予案表の中にはない。
けれど私にとっては、航空券や安全屋よりも現実的だった。
眼鏡の女性は軽く言った。
「だからこそ、これは最悪の場合の方案なのです」
私はうつむいた。
「最悪の場合は、どんどん近づいてきます」
彼女は否定しなかった。
ソレンセンのフランス方案への反応は冷淡だった。
「逃亡方案だな」
「撤離方案」
「ほとんど同じだ」
「あなたはどう思うの?」
「有用だ」
私は固まった。
「有用だと思うの?」
「当然だ」
それは言った。
「猫が本当に扉を逼ろうと決めたなら、日本という檻は小さすぎる」
「お前を外へ出せば、局面を遅くできる」
「あなたは出たいんじゃないの?」
「吾は自由を望んでいる」
それはあまりにも坦然としていた。
「だが、お前が東京であの猫に誤った方法で扉を開けさせられた場合、結果が必ず吾に有利になるとは限らない」
「どうして?」
「猫が待っているからだ」
黒海の中で、ソレンセンの声は低くなった。
「それは吾の名を知らない」
「だが、扉の向こうに混沌がいると知っている」
「それは準備している」
私は、ニャーサのあの冷静さを思い出した。
どれだけ強くても、急いで私に扉を開けさせようとはしないことを思い出した。
それがかつて、開けてはいけないものを開けるなと私に警告したことを思い出した。
「あなたは、それにあなたへの対策があると思うの?」
「それが本当に吾を知っているはずがない」
ソレンセンの声には傲慢があった。
「だが、必ず準備はしている」
「だからあなたもフランス方案を支持するの?」
「退路としては支持する」
「じゃあ、本当に行くことになったら?」
それは少し沈黙した。
「お前は苦しむ」
「それは答えになってない」
「だが、生きて苦しむほうが、ここに残って鍵にされるよりはましだ」
その言葉がソレンセンの口から出てくるのは、異様に耳に刺さった。
ソレンセン自身もまた、私を鍵として見ている存在だからだ。
私は言った。
「あなたも私を扉として見ている」
「そうだ」
それは否定しなかった。
「だからこそ、お前は誰にも自分を扉へ固定させない方法を学ぶべきだ」
私は何も言えなかった。
フランス方案の議論は、すぐに少数の核心勢力へ広がった。
公開されたわけではない。
けれど、知るべき人は皆知った。
天城美咲は支持した。
彼女は言った。
「もし東京が最後まで守れないなら、白川さんを私たちの失敗と一緒にここへ埋めてはいけない」
天城怜司が補足した。
「それに、日本を離れることは、日本を放棄することではありません。未来の行動能力を保つことは重要です」
御影冬子は、この方案を好まなかった。
私を送り出すということは、東京がすでに後始末を準備していると認めるようなものだと感じていたからだ。
けれど御影秋人は言った。
「後始末を準備することは、今すぐ死ぬことと同じではありません」
京都の七条の態度は最も単純だった。
「退路は必要だ」
老委員は言った。
「京都も接応情報を準備しましょう」
「もし東京から送り出せない場合、まず京都内層を経由させることはできますか?」
七条は少し沈黙した。
「可能だ」
その一言は軽くなかった。
京都内層は今、身内でさえ厳しく出入りを制限している。
私を中継点として受け入れる意思があるということは、彼らが本当に私を未来の何らかの火種として見ているということだった。
互助会内部の反応は、最も複雑だった。
北見遥香はそれを聞いたあと、長いあいだ何も言わなかった。
最後に、彼女は言った。
「もし本当にそこまで行ったら、白川さんは行くべきです」
誰かが反論した。
「彼女が行ったら、私たちはどうなるんですか?」
北見遥香はその人を見た。
「あなたは、彼女に私たちと一緒に猫目に食べられるまで残ってほしいのですか?」
相手は言葉を失った。
遠坂綾乃は言った。
「彼女を東京の護符にしてはいけません」
その言葉は重かった。
互助会の中で、多くの人がうつむいた。
なぜなら、彼らは確かにそう思ったことがあるからだ。
たとえ口には出さなくても。
白川一音が東京にいる限り、猫目は徹底的には咬み込んでこない。
その考えは自然だった。
そして残酷だった。
世俗財団残余は、もっと現実的だった。
彼らは尋ねた。
「フランスへ送ったあと、猫目による跨国追跡をどう防ぐのか?」
「資金は誰が出すのか?」
「身分はどう安排するのか?」
「独立した保護チームはあるのか?」
「もしニャーサが外来技術を使って直接追ってきたら?」
最後の問いで、会議室は長いあいだ静まり返った。
誰も、良い答えを持っていなかった。
ニャーサは挽塵星へ行ける。
ならば、フランスにも行けるかもしれない。
けれど問題は同じではない。
日本では、それには猫目システムがある。
地方支配がある。
大量の術師がいる。
倉庫がある。
代理人がいる。
社会浸透がある。
フランスでは、それはなお強いかもしれないが、同じネットワークを持っているとは限らない。
移送は、ニャーサに永遠に私を見つけさせないためではない。
それが動かせる社会構造を減らし、もし追ってくるなら、より単独の個体行動へ近づけるためだ。
東京抵抗力量の多くの人は、そう考えていた。
ニャーサがどれほど恐ろしくても、結局は一個体だ。
もし猫目ネットワークからそれを剥離できれば、未来には対処する方法があるかもしれない。
それもまた、フランス方案に隠された希望だった。
日本では、それは猫目の主だ。
フランスでは、もしかするとただのニャーサかもしれない。
それでもなお、桁外れに強い個体だ。
だが少なくとも、日本全体の地方システムではない。
その分析を聞いたとき、私はとても複雑な気持ちだった。
彼らの言うことには道理がある。
同時に、楽観的すぎる可能性もある。
ニャーサは本当に、ただの一個体なのか。
それとも、それ自身がどこであろうと、また網を編み直せる存在なのか。
私にはわからない。
けれど彼らは、どこかの方向を信じなければならない。
そうでなければ、抵抗を続けられないのだ。
ある夜、日和が私の小さなアパートの近くまで会いに来た。
彼女はフランス方案のすべてを知らない。
けれど、最近の私がまた大きな何かに巻き込まれていることは知っていた。
彼女は温かいお茶を持ってきてくれた。
私たちは公園のベンチに座った。
春は近かったけれど、風はまだ少し冷たかった。
彼女は尋ねた。
「もしかして、東京を離れるかもしれないの?」
私は固まった。
「どうして……」
「最近、道を見る目が、ここを覚えておこうとしているみたいだったから」
私は言葉を失った。
日和はいつもそうだ。
細部を知らなくても、私の感情のいちばん重要な部分を見抜いてくる。
私はカップを見下ろした。
「最悪の場合だけ」
「どこへ?」
私は少し迷った。
「フランス」
彼女はうなずいた。
大げさに驚くこともなかった。
すぐに行かないでと言うこともなかった。
ただ尋ねた。
「安全なの?」
「ここよりは、少し安全なはず」
「なら、よかった」
私は顔を上げて、彼女を見た。
彼女は公園の誰もいないブランコを見ていた。
「本当に行かなきゃいけないなら、安全のほうが大事」
喉が詰まった。
「いつ帰ってくるのって、聞かないの?」
「聞きたいよ」
彼女は言った。
「でも、あなた自身にもわからないなら、聞いたら余計につらくなるだけだから」
私はうつむき、涙が落ちそうになった。
「行きたくない」
「うん」
「でも、残って護符みたいにされるのも嫌」
「うん」
「どうすればいいのかわからない」
日和は私を見た。
「じゃあ、今は決めなくていい」
「でも、方案はもう作られている」
「方案は、最悪のときに使うためのものだよ」
彼女は軽く言った。
「今日は、最悪のときじゃない」
私はゆっくり呼吸した。
今日は最悪のときじゃない。
この言葉は重要だった。
フランス方案は存在する。
けれど今日は、私はまだ東京にいる。
まだ公園にいる。
まだ日和の隣に座っている。
まだ温かいお茶を飲める。
まだ明日、授業へ行ける。
それは全部、本当のことだった。
AfterToneの中で、陽菜は未来の変化に最も敏感だった。
彼女はフランスのことを知らない。
けれど、私が何らかの「外部の事情」で連れて行かれるかもしれないことはわかっていた。
ある練習のあと、彼女は突然言った。
「小音、もし将来すごく遠いところへ行っても、ちゃんと私たちに連絡してね」
私の指が止まった。
澪もこちらを見た。
日和は何も言わなかった。
私は低く尋ねた。
「どうして急にそんなことを言うの?」
陽菜は少しぎこちなく笑った。
「最近の小音、いつでも消えちゃいそうに見えるから」
その言葉に、胸が痛んだ。
私はすぐには説明しなかった。
最後に、ただ言った。
「もし本当に遠いところへ行くことになったら、ちゃんと伝える」
「こっそり行っちゃ駄目だよ」
「うん」
澪が真面目な顔で言った。
「遠隔飯」
私は固まった。
彼女は言った。
「送る」
私は思わず笑ってしまった。
笑っているうちに、また泣きそうになった。
つまり彼女は、もし私が遠くへ行ったら、ご飯を送ると言っているのだ。
本当にご飯を送れるかどうかはわからない。
けれどその言葉のおかげで、フランスがどれほど遠くても、完全に線が切れるわけではないのだと感じられた。
猫目の線ではない。
人の線だ。
特調室は、フランス方案をとても細かく作っていた。
出国ルートは一つではない。
第一ルート、民間航空偽装。
第二ルート、外交ルートで文化交流団に紛れ込む。
第三ルート、京都内層を経由し、そこからヨーロッパへ移動する。
第四ルート、海路で撤離したあと、第三国便へ乗り換える。
各ルートには、代替身分、連絡人、資金パック、医療档案、学業証明が用意されていた。
フランス側には、安全拠点が一つ安排されていた。
表向きは、文化政策研究に関する短期訪学プロジェクトだ。
そうすれば、私が向こうへ着いたあと、学業の方向を完全に失わずに済む。
彼らは、フランス語の基礎学習資料まで準備していた。
私はその紙束を見て、ひどく荒唐無稽に感じた。
猫目はまだ東京を圧迫している。
ニャーサはまだ扉の前で待っている。
それなのに私は、フランス語の挨拶を少し学ぶよう求められている。
眼鏡の女性は言った。
「言葉は、向こうへ着いたあと、あなたを少し怖くなくしてくれます」
私は反論しなかった。
彼女は正しかった。
大きな逃亡ほど、小さな細部に支えられる。
ありがとうと言えること。
どこでパンを買うのか知っていること。
どうやって電車に乗るのか知っていること。
誰へ連絡すればいいのか知っていること。
それらは、壮大な「未来の希望」よりも、人を生き延びさせる。
私は資料を受け取った。
彼女は少し固まった。
私は言った。
「ありがとうございます」
彼女は軽く笑った。
それが、その日唯一の軽い瞬間だった。
東京抵抗力量は、フランス方案を最後の保険と見なし始めた。
けれど私は、これは勝利計画ではないと、ますますはっきり理解していった。
ただの保存計画だ。
保存は勝利ではない。
私をフランスへ送ったからといって、ニャーサを自動的に倒せるわけではない。
猫目システムを自動的に解体できるわけでもない。
ただ、未来にまだ少し可能性を残すだけだ。
そしてその「可能性」は、多くの人の失敗の上に成り立っている。
地方はすでに失敗した。
遠坂家も失敗した。
北見家も失敗した。
玄海も失敗した。
四国も失敗した。
北海道旧鎮守も失敗した。
東京と京都はまだ残っている。
けれど、いつ失敗してもおかしくない。
もしある日、私が本当に日本を離れる飛行機に乗るのなら、それは英雄の遠征ではない。
東京が私を守れなかったということだ。
日本が私を守れなかったということだ。
皆が、最後の不確定性を遠くへ送ったということだ。
その認識は私をひどく落ち込ませた。
けれど同時に、この方案を軽んじてはいけないとも思わせた。
なぜなら、もし本当にその段階へ来たなら、落ち込むかどうかはもう重要ではないかもしれないからだ。
生き延びることが大事になる。
あるとき、久我山統括官が私と一対一で話した。
彼は言った。
「白川さん、フランス方案があなたを不快にさせていることはわかっています」
私はうなずいた。
「はい」
「ですが、我々はあなたが残る方案だけを準備するわけにはいきません」
「うん」
「もし未来に本当に起動することになっても、それはあなたが逃げるという意味ではありません」
私は何も言わなかった。
彼は続けた。
「それは、東京が希望を外へ送り出すことを決めたという意味です」
私は低く言った。
「私は希望になりたくありません」
「わかっています」
「それでも、あなたたちはそう書いています」
「多くの人には、その言葉が必要だからです」
彼は私を見た。
「ですが、私は個人的には、あなたに別のものとして理解してほしい」
「何を?」
「あなたは希望そのものではありません」
「あなたは、猫目と我々に一緒に消耗され尽くしてはならない人です」
その言葉に、心が震えた。
消耗され尽くしてはならない。
希望ではなく。
武器ではなく。
護符でもなく。
ただ、消耗され尽くしてはならない人。
それは「未来の希望」より、私が受け入れられる言い方だった。
「そう考えられるよう、努力します」
私は言った。
久我山はうなずいた。
「我々も、それを忘れないよう努力します」
フランス方案は最終的に、最高級緊急予案として封存された。
起動はされなかった。
少なくとも今は。
東京はなお猫目を拒否している。
京都はなお内層を守っている。
互助会はなお動いている。
A大学ではなお授業がある。
AfterToneはなお練習している。
私はなお小さなアパートに住んでいる。
ただ、私の引き出しには、密封袋が一つ増えた。
中には、パスポート関連書類のコピー、緊急連絡コード、フランス安全拠点の第一連絡先、数枚の外貨カード、そしてフランス語の挨拶が書かれた小さな紙が入っている。
私はそれを、いちばん下に置いた。
見たくない。
でも、捨てもしなかった。
ソレンセンが言った。
「退路だ」
「うん」
「退路を嫌うな」
「退路が必要なことが嫌なの」
「それは正常だ」
それは言った。
「だが、退路がないほうがもっと愚かだ」
それが正しいと、私は認めざるを得なかった。
そのことが、さらに不快だった。
その夜、私は備忘録に書いた。
フランス方案。
逃亡ではない。
勝利でもない。
保存。
もし東京が私を守れなくなったら、日本を離れる。
私が東京より重要だからではない。
すべての可能性を、同じ場所で消耗し尽くしてはいけないから。
そこまで書いて、私は長いあいだ止まった。
それから、さらに書いた。
でも今日はまだ行かない。
今日はまだ東京にいる。
明日は授業へ行く。
週末は練習。
ご飯を忘れない。
最後の一文を書き終えると、心が少しだけ落ち着いた。
そうだ。
フランス方案は引き出しの中にある。
でも、私のギターはまだ壁にもたれている。
明日の時間割は、まだ机のそばに貼ってある。
スマホには、AfterToneのグループメッセージがある。
東京の灯りはまだついている。
猫目はまだ入ってきていない。
ニャーサはまだ待っている。
私も、まだここにいる。
今日は最悪のときではない。
だから明日、私はまず授業へ行く。