桜井ユウトは、ホロライブのスタッフである。
YAGOOこと、カバー株式会社代表の谷郷からスカウトを受け、カバーが運営するタレント事務所【ホロライブ】の最初期からスタッフとして働いてきた。ホロライブ初のタレントである“ときのそら”をはじめ、0期生からholoX、ホロライブIDといった海外メンバーまで、数多くのタレントたちと関わってきた人物である。
そんな桜井ユウトは、別世界において仮面ライダーゼロノスとして戦い、壮絶な戦いの末に勝利した。ホロライブや世界の未来を守った引き換えに、世界から彼に関する記憶は失われ、それによって彼は存在ごと消滅した。
しかし、それはあくまで、その世界での話である。
この世界の彼は、いたって普通のスタッフであり、現在は――。
「スバルさん、しっかり掴まっていてください!」
「ちょっ、ユウト!? 速すぎるってぇぇぇ!!」
ホロライブ2期生・大空スバルをタンデムシートに乗せ、道路を爆走していた。
もちろん、道路に定められた法定速度は守っている。だが、法定速度ぎりぎりを維持しながら、流れの遅い車を次々と追い抜いていくその走りは、後ろに乗るスバルの心臓にまったく優しくなかった。
こうなった原因は、ユウトがホロライブ事務所で仕事をしていた時までさかのぼる。
その日の午前。ユウトは、背中にくっついてくる夏色まつりや、わざわざ自分の椅子をユウトの席の近くまで持ってきて話しかけてくる星街すいせいをあしらいつつ、同僚であるAちゃんや、後輩スタッフである春先のどかとともに仕事をしていた。
塔のように積み重なった書類を、タレントたちの目がある時は普段どおりの顔で、いない時は死んだ魚のような目で片付けていく。
そして、ある程度書類が片付き、休憩室で三人がコーヒーブレイクをしていたところに、スバルの担当マネージャーが入ってきた。
その日は、大神ミオ、戌神ころね、猫又おかゆ、大空スバルの四人が、事務所の配信部屋で配信を行う予定だった。
そんな中、スバルの担当マネージャーがかなり困った顔で休憩室に入ってきたため、三人はそろって嫌な予感を覚えた。
Aちゃんとユウトは、これまでの経験からか、なるべく気配を消そうとする。のどかは少し困ったような顔でコーヒーを飲んでいたが、スバルのマネージャーは三人の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
主に、ユウトの方を見ながら。
「すっ、すみません、桜井さん!」
「……はい。どうされましたか?」
ユウトは諦めたような顔でコーヒーカップを置き、スバルのマネージャーに向き直る。
Aちゃんとのどかは、矛先がユウトだと確定した時点で、すでにコーヒーブレイクに戻っていた。Aちゃんは完全にユウトから意識を逸らしてのどかと話し、のどかもちらちらとユウトに視線を向けてはいるものの、矛先が自分に向かないよう我関せずの姿勢を保っている。
「それが……今日の昼イチから収録がありまして。あと一時間後には収録前の確認があるんですが……」
「あー……」
「スバルさんが、まだ事務所に来ていなくて……電話もつながらないんです」
「なるほど……」
大体、ユウトの予想どおりだった。
「とりあえず、スバルさんにはそのまま連絡を続けてください。僕が迎えに行ってきます」
「すみません。いつもありがとうございます……」
ユウトはAちゃんたち二人に一言断ると、急いで支度を整え、バイク用のヘルメットを持って事務所を出た。
駐車場に停めていたバイクに跨ったユウトは、スロットルを吹かし、スバルの自宅へ向かう。
バイクで走ること数分。スバルの住むマンションに着いたユウトは、バイクをマンションの前に停めた。
そしてマンションのオートロックを、タレントたちからなぜか強引に押し付けられた合鍵で開け、さらにスバルの部屋も同じく合鍵で開ける。
「スバルさーん」
まず玄関で呼びかけてみるが、当然のごとく返事はない。
少し耳を澄ませると、スバルが寝室として使っている部屋から、携帯の着信音が鳴っているのが分かった。
「……はぁ。スバルさーん!」
靴を脱ぎ、先ほどよりも大きな声で呼びかけながら廊下を進む。
寝室に入ると、そこにはベッドの上で、布団を蹴飛ばして腹を出しながら眠るスバルの姿があった。
普通なら、ここで狼狽えたり、赤面したりするのだろう。
だが、すでに両手で数えきれないほどタレントたちを起こしに行き、こういったハプニングにも何度となく遭遇しているユウトは動じない。
おそらくスバルが放り出したのだろう。ベッドから少し離れた場所に落ちている携帯を回収し、今も『マネちゃん』と表示されている着信画面を操作して電話に出る。
「お疲れ様です。桜井です」
『あ、桜井さんですか? スバルさんは……』
「予想どおり寝てました。今から起こして、身支度をしてもらってから向かいます。事務所に着くのはギリギリになりそうです」
『そうですか……了解しました。皆さんにはこちらから話しておきます』
ユウトはそこまで話すと電話を切り、スバルに向き直った。
「すぅ……スバルさぁぁぁん!!」
「うわぁっ!? なになにっ!?」
ユウトが大きな声で名前を呼ぶと、驚いたスバルが飛び跳ねるように目を覚ました。
スバルはきょろきょろと辺りを見渡し、やがて自分を見下ろすユウトの存在に気付いて頬を赤らめる。
「なっ、なっ!?」
「おはようございます、スバルさん」
「おっ、おはよう! じゃなくて! どうしてここにいるんだよ、ユウト!!?」
スバルは律儀に挨拶を返しつつ、布団で自分の体を隠そうとしている。だが、ユウトにとってはその一秒すら惜しい。
「スバルさん。今日、何か用事がありませんでしたか?」
「用事? 用事っつったって……」
ユウトの言葉を聞いた瞬間、スバルの動きが止まった。少しずつ、顔が青ざめていく。
「……ちなみに、今って……」
「収録前確認の約四十分前ですね」
「……やべぇぇぇ!!!」
スバルがベッドから文字どおり跳ね起き、急いで着替えを始める。
ユウトは、スバルが着替えようとした時にはすでに寝室から出て扉を閉め、台所へ向かっていた。
「……やっぱり、米以外ありませんか」
適当に腹に入るものを作ろうとしたユウトだったが、冷蔵庫を開けてもまともな食材がないことにため息を吐く。
仕方がないので、炊飯器に残っているご飯をラップで包み、塩むすびにすることにした。
どたばたとスバルが支度をしている音を聞きながら待つこと十数分。身支度を終えたスバルが、寝室から台所へ駆け込んできた。
「ユウト!! おっ、お待たせ!!」
「これ、作っておいたので、とりあえず食べちゃってください。食べ終わったら、下に停めているバイクで事務所に向かいますよ」
「ありがとう……!!」
スバルはユウトから塩むすびを受け取ると、勢いよく食べ始めた。
急いで食べているせいでむせそうになるが、ユウトが水を入れたコップを差し出したことで、どうにか事なきを得る。
そして、わずか数分で食べ終えると、ユウトとスバルは家を出てバイクへ向かった。
「スバルさん、これを被ってください」
「ん、あいよー」
スバルはユウトが差し出した予備のヘルメットを被る。
それを確認したユウトはバイクに跨り、スバルもそれに倣ってタンデムシートに座り、ユウトに掴まった。
「スバルさんの担当マネージャーには、すでに遅れるかもしれないとは伝えました。それでも、急いで向かいますよ」
「おう! あ、でも安全運転で頼むぜ?」
「それは……確約できかねますね」
「え? ちょっと待て、ユウ……!」
スバルが言い切る前に、ユウトは全力でスロットルを吹かした。
バイクが勢いよく加速し、あっという間に法定速度ぎりぎりまで到達する。
こうして冒頭の状況へと戻り、ユウトたちはわずか数分で事務所に着いた。
「スバルさん、着きましたよ」
ユウトはスバルに声をかける。
だが、ユウトを掴むというより、もはや抱き着くような状態になっていたスバルは、ゆっくりと手を離してヘルメットを脱いだ。
そこには、恐怖のせいか少し涙目になったスバルが、ユウトをにらんでいた。
「……怖かったんですケード」
「……でも、ギリギリ会議には間に合いそうですよ?」
「そういう問題じゃねぇ!!」
スバルはぷんすかと怒っているが、頬は少し赤い。
ユウトはそれを指摘すると少し面倒なことになる予感がしたので、あえて流すことにした。
「とりあえず僕はバイクを停めてきますので、スバルさんは先に行ってください」
「……ん」
スバルはユウトにヘルメットを返し、一人で事務所に入っていく。
ユウトはそれを見送りつつ、駐車場にバイクを停めると、自分も事務所に入った。
ヘルメットを置いてから、自分のデスクではなく、配信用スタジオのある階へ向かう。使用予約が入っている部屋を覗いてみれば、そこには青ざめた顔で正座するスバルと、その前で腕を組み、仁王立ちしながら冷めた視線を向けるミオの姿があった。
そして、ソファに座って二人の様子を眺めているおかゆと、ころねの姿もある。
「……うわぁ」
スバルが青ざめた顔で汗を流しながらうつむいている様子を見て、思わず声が漏れる。
その声を、部屋の片隅で話し合っていた四人のマネージャーが聞きつけ、ユウトの方に向かってきた。
「あ、桜井さん!」
「あ、どうも。間に合ったようでよかったです」
「桜井さんのおかげです」
スバルのマネージャーに頭を下げられ、ユウトは軽く会釈を返しながら話をする。
すると、背後からぽすんと抱き着かれた。
「おっ、とっと……」
「わぁ〜、ユウトくんだ〜」
「おかゆさん、急に抱き着いたら危ないですよ」
「だって、ユウトくんは受け止めてくれるでしょ〜?」
「……後ろからだと無理ですよ」
背後からユウトに抱き着いたのは、猫又おかゆだった。
彼女は優しくユウトの腰に腕を回し、ふにゃっと笑みを浮かべる。
ユウトがそんなおかゆの頭を撫でつつマネージャーたちと話していると、さらにもう一人が抱き着いてきた。
「おかゆ、ずるーい」
「ころさんだ〜」
「……ころねさんもですか?」
「うん。だって、おかゆだけだとずるいもーん」
おかゆに続いて抱き着いてきたのは、戌神ころねだった。
彼女もおかゆと同じようにユウトへ抱き着きながら、頭を擦りつけている。
ユウトはおかゆところねの頭を交互に撫でつつ、さらに話を続けた。
しばらくすると、説教を終えたらしいミオが、しおしおになったスバルを引き連れてユウトの方へ歩いてくる。
「こんにちは、ユウトくん。スバルの迎え、ありがとね?」
「いえいえ。何とか間に合ってよかったですよ、ミオさん」
ユウトはミオと少し話すと、ミオの隣でしおしおになっているスバルにも目を向ける。
「……ミオしゃ、容赦なかった」
「説教だけで済んだことを喜ぶべきでは?」
「うぐっ……! それに関しては……ありがと」
「どういたしまして」
スバルは少しうつむきながらユウトに礼を言い、ユウトはそれを受け取る。
その後しばらく話をしていると、いい時間になり、配信前の確認をするということで、ユウトも仕事に戻ることにした。
「えー? もう行っちゃうの〜?」
「そうだよー。もう少しユウトくんもここにいよ?」
「こら、二人とも。ユウトくんにもお仕事があるんだから、邪魔しちゃダメだよ」
ユウトを引き留めようとするおかゆところねを、ミオがたしなめる。
ユウトは手を振る二人に手を振り返してから、部屋を出た。
配信用スタジオのある階を離れたユウトは、自分のデスクへ戻るためにエレベーターへ向かった。
途中、すれ違ったスタッフに軽く会釈を返しながら、スマホで時間を確認する。どうやら本当にぎりぎりだったらしく、スバルたちの配信前確認は予定どおり進んでいるようだった。
エレベーターを降り、スタッフ用の執務スペースへ戻ると、そこには先ほどとほとんど変わらない光景が広がっていた。
机の上には書類の山。モニターには確認待ちのメール。チャットツールには未読通知。
そして、そのすべてを見なかったことにしたい顔のAちゃんと、苦笑いしながら資料を整理しているのどかがいる。
「おかえり、ユウトくん」
「お疲れ様です。スバルさん、間に合いましたか?」
「はい。なんとか」
ユウトがそう答えると、Aちゃんは小さく拍手した。
「さすがユウトくん。遅刻タレント回収業者」
「そんな業種に就いた覚えはありません」
「でも実績はあるよね」
「否定できないのが嫌ですね……」
ユウトはため息を吐きながら自分の席に戻り、椅子に腰を下ろした。
置きっぱなしにしていたコーヒーは、すっかりぬるくなっている。だが、飲めないほどではない。ユウトはそれを一口飲み、眉を少しだけ下げた。
「……ぬるい」
「そりゃそうだよ。スバルさん迎えに行ってたんだから」
「淹れ直してきます」
「その前に、これ確認お願いしてもいい?」
Aちゃんがすっと差し出してきた資料を見て、ユウトは一瞬だけ目を閉じた。
「……はい」
休憩は、遠い。
それからしばらく、ユウトは再び仕事に戻った。
タレントのスケジュール調整、収録内容の確認、外部企業とのやり取り、配信部屋の使用状況のチェック。
普段なら複数人で分担する内容だが、ユウトはそれらを淡々と片付けていく。
Aちゃんとのどかもそれぞれ別の仕事を抱えているため、三人の間にしばらく会話はなかった。
キーボードを叩く音と、紙をめくる音だけが静かに続いていく。
だが、その静寂は長く続かなかった。
「ユウトー」
背後から聞き慣れた声がして、ユウトは手を止める。
振り返ると、そこには収録を終えたらしい星街すいせいが立っていた。手には台本らしき紙を持ち、肩には上着を引っかけている。
「すいちゃん。収録、お疲れ様です」
「お疲れー。ねえ、ユウト。お昼もう食べた?」
「いえ、まだですけど」
「じゃあ行こ」
「……はい?」
あまりに自然な流れで誘われ、ユウトは思わず聞き返した。
すると、すいせいは当然のような顔で首をかしげる。
「お昼。まだなんでしょ?」
「それはそうですが、まだ確認しないといけない資料が……」
「それ、今じゃないと絶対ダメ?」
すいせいの言葉に、ユウトは手元の資料を見る。
期日まではまだ余裕がある。
もちろん早めに片付けるに越したことはないが、今すぐでなければならないものではなかった。
「……いえ、少しなら」
「じゃ、決まり」
すいせいは満足そうに頷くと、ユウトの椅子の背もたれを軽く叩いた。
「ほら、行くよ」
「いや、あの」
ユウトがAちゃんとのどかを見ると、二人はそろってにこやかな顔をしていた。
「行ってきなよ、ユウトくん」
「お昼休憩、大事ですよ」
「……二人とも、さっきまで資料を渡そうとしてましたよね?」
「それはそれ、これはこれ」
「ユウトさん、最近また食事を後回しにしがちですし」
のどかにそう言われ、ユウトは言葉に詰まる。
すいせいはその隙を逃さず、ユウトの腕を掴んだ。
「はい、連行」
「僕は犯罪者ですか」
「食事抜き未遂犯」
「それは新しいですね……」
軽口を叩きながらも、ユウトは結局立ち上がった。
すいせいに引っ張られる形でスタッフルームを出ていく。
背後から、Aちゃんの楽しそうな声が聞こえた。
「いってらっしゃーい」
「……なんか楽しんでませんか?」
「楽しんでるね」
すいせいが即答したため、ユウトは小さくため息を吐いた。
二人が向かったのは、事務所近くにある落ち着いた雰囲気の店だった。
スタッフやタレントが時々利用する場所で、個室に近い席もあるため、ちょっとした打ち合わせにも使いやすい。
すいせいは慣れた様子で席に着き、メニューを開いた。
「ユウト、今日はちゃんと食べること。コーヒーだけとか禁止」
「分かってますよ」
「本当に?」
「……分かってます」
「今ちょっと間があった」
すいせいはじっとユウトを見る。
その視線に負けたユウトは、素直に定食のメニューを選んだ。
「じゃあ、これで」
「よし」
「すいせいさんは?」
「私はこれ。あと、食後にアイス」
「昼からですか」
「収録頑張ったので」
「それなら仕方ありませんね」
「でしょ?」
すいせいは少し得意げに笑った。
料理が運ばれてくるまでの間、二人は収録の話や、午後の予定について話した。
すいせいは収録で少し喉を使ったらしく、温かいお茶を飲みながら、今日の現場の様子をぽつぽつと語る。
ユウトはそれを聞きながら、必要そうなことを頭の中で整理していた。
次回の収録に向けて確認した方がいいこと。スタッフに共有すべきこと。本人の負担が増えすぎないように調整すべき部分。
そんなユウトを見て、すいせいは箸を止めた。
「ユウト」
「はい?」
「今、仕事の顔してた」
「……すみません」
「謝ることじゃないけどさ」
すいせいは少しだけ頬を膨らませる。
「今はお昼。仕事の話はしてもいいけど、ちゃんと食べて」
「はい」
「あと、私といる時くらい、少しは気抜いてよ」
その言葉に、ユウトは一瞬だけ目を伏せる。
それから、少し困ったように笑った。
「……努力します」
「努力目標じゃなくて実行して」
「厳しいですね」
「ユウトがすぐ無理するからだよ」
すいせいはそう言って、何事もなかったように食事を再開した。
ユウトも箸を持ち直す。
昼食は、騒がしくはなかった。
けれど、妙に落ち着く時間だった。
収録終わりのすいせいが少しだけ肩の力を抜き、ユウトもまた、仕事の合間に温かい食事をとる。
ただそれだけの時間なのに、不思議と穏やかだった。
食後、すいせいは宣言どおりアイスを食べ、ユウトはそれを見ながらお茶を飲んだ。
「ひと口いる?」
「いえ、大丈夫です」
「遠慮しなくていいのに」
「いえ、本当に」
「じゃあ、あげない」
「はい」
「そこはちょっと残念そうにしてよ」
「難しい注文ですね」
すいせいは笑いながら、アイスをもうひと口食べる。
その表情は、ステージ上の星街すいせいではなく、どこにでもいる普通の女の子のようだった。
やがて昼食を終えた二人は、事務所へ戻った。
スタッフルームに戻ると、Aちゃんとのどかが同時に顔を上げる。
「おかえり」
「ちゃんと食べましたか?」
「食べました」
「証人、星街すいせいです。ちゃんと定食食べてました」
「それはよかったです」
のどかが安心したように笑う。
すいせいはそのままユウトの席の近くに立ち、机の上の書類をちらりと見た。
「うわ、まだこんなにあるの?」
「午前よりは減りましたよ」
「これで?」
「これで」
「スタッフって大変だねえ」
「タレントさんたちが自由ですからね」
「誰のことかなー?」
「さて、誰でしょう」
ユウトがしれっと返すと、すいせいは楽しそうに笑った。
その後、すいせいは午後の打ち合わせへ向かうため、名残惜しそうに手を振ってスタッフルームを出ていった。
そこからの時間は、いつものホロライブだった。
「ユウトくーん! お菓子持ってきたよー!」
最初に顔を出したのは、夏色まつりだった。
差し入れと言いながら、なぜかユウトの隣に椅子を持ってきて座り、そのまま自然に肩を寄せてくる。
「まつりさん、近いです」
「差し入れ持ってきたからセーフ」
「その理屈は通りません」
次にやってきた白上フブキは、書類の山を見て「あっ」と声を漏らし、無言で栄養ドリンクを置いていった。
「フブキさん、これ」
「頑張ってるユウトくんへの救援物資です」
「ありがとうございます。でも三本は多いです」
「保険ですよ、保険」
その後、さくらみこが「ユウト、ちゃんと休憩してるかにぇ?」と顔を出し、なぜか五分ほど雑談していった。
さらに、おかゆところねが配信前の確認を終えた帰りに覗き込み、ユウトの頭を撫でてから去っていく。
「おかゆさん、ころねさん。ここはスタッフルームです」
「知ってるよ〜」
「ユウトくんがいる部屋でしょ?」
「違います」
Aちゃんが横で笑いをこらえ、のどかは完全に諦めた顔で議事録を打っていた。
しばらくして、ミオに連れられたスバルもやってきた。
「ユウト」
「はい」
「さっきは、ありがとな」
「いえ。間に合ってよかったです」
「あと……バイクはもうちょい優しくしてくれ」
「善処します」
「それ絶対しないやつだろ!」
スバルが叫ぶと、ミオが後ろからぽんと肩に手を置いた。
「スバル?」
「はい、すみません」
そのやり取りに、スタッフルームの空気が少しだけ和らぐ。
午後の時間は、そんなふうに過ぎていった。
誰かが顔を出しては、ユウトに話しかける。
誰かが差し入れを置いていく。
誰かが仕事の確認をして、誰かが何でもない雑談を残していく。
そのたびにユウトの作業は少しずつ中断されるが、不思議と進みは悪くなかった。
Aちゃんが全体を見ながら調整し、のどかが細かい部分を拾い、ユウトが必要なところをまとめていく。
タレントたちの声が遠くから聞こえる。
スタジオの扉が開閉する音。
誰かの笑い声。
配信準備の確認。
マネージャーたちの慌ただしい足音。
夕方が近づき、窓の外が少しずつ橙色に染まり始めるころ、ユウトはようやく大きな案件をひとつ片付けた。
「……終わった」
「お疲れ様、ユウトくん」
「お疲れ様です」
Aちゃんとのどかが声をかける。
ユウトは椅子の背にもたれ、軽く息を吐いた。
机の上にはまだ仕事が残っている。
明日の確認も、夜の配信対応も、急ぎの連絡もある。
けれど、それでも。
誰かが笑っていて、誰かが歌っていて、誰かが騒いでいる。
その中心にホロライブがあり、スタッフがいて、タレントたちがいる。
守られた未来だとか、失われた記憶だとか。
そういう大きな言葉を使わなくても、ここには確かに日常が流れていた。
「ユウトくん、コーヒー淹れるけど飲む?」
Aちゃんの声に、ユウトは目を開ける。
「お願いします」
「のどかちゃんも?」
「いただきます」
夕方のスタッフルームに、コーヒーの香りが広がっていく。
その直後、廊下の向こうから誰かの明るい声が響いた。
「ユウトー! まだいるー?」
ユウトは苦笑しながら、再び椅子から体を起こす。
「……はい、いますよ」
そう答える声は、少しだけ疲れていて。
けれど、確かに穏やかだった。