その日の夕方、ユウトは珍しく業務を早く終わらせて、帰り支度を始めていた。
自分らしくないと思いつつ、鼻歌交じりにパソコンの電源を落としたり、資料をまとめたりしていると、スタッフルームの扉がバンと開き、小さな乱入者が入ってくる。
「ハーハッハッハ!! 我が眷属ユウトよ! 今宵は我がholoXのアジトにて食事会をするぞ! 光栄に思って、ぜひとも招待を受けるがいい!」
「あ、すみません。今日は飲み会の予定が入ってるので……」
「なんだとー!?」
ユウトがそう返すと、小さな乱入者――ラプラス・ダークネスはぷんすかと怒ったようにユウトの背中をよじ登り、自然と肩車の体勢になった。
「どうして!? なんで!? だーれーとーだーよー!」
「……」
「質問に答えろー! 吾輩という偉大なる総帥からの招待より優先する相手とは何者だー!?」
「Aちゃんとそらさんと、YAGOOさんです」
「……」
ユウトの頭の上で、ラプラスの動きがぴたりと止まる。
「……YAGOO?」
「はい」
「Aちゃんも?」
「はい」
「そらさんまで?」
「はい」
「……ずるくない?」
「ずるい、とは?」
「ずるいだろ!? 吾輩も行くー!」
「ラプラスさんは今日、holoXの食事会でしょう?」
「ユウトが来ないなら意味ないもん!」
「総帥」
「総帥だけれども!」
ラプラスはユウトの上で前に後ろに揺れながら、ユウトの頭を両手でぺしぺしと軽く叩き、駄々をこねる。
痛くはない。
痛くはないのだが、普通に視界が揺れるため迷惑ではあった。
ユウトがため息を吐きながら荷物をさらにまとめていると、ラプラスはさらにぐずるように足をばたつかせる。
「だってだって! holoXの食事会だぞ!? ルイもこよりも、クロヱもいろはもいるんだぞ!? ユウトが来た方が楽しいに決まってるだろ!」
「楽しみにしてくれてるのはありがたいんですけど、先約がありますから……」
「じゃあ吾輩たちもそっち行く!!」
「食事会はどうなるんですか?」
「ぐぬぬ……!」
ラプラスが悔しそうに唸るが、ユウトの頭から降りる気はないらしい。
むしろ角がどこかに当たらないように微妙に体勢を調整しながら、しっかりとユウトの頭にしがみついている。
「……ラプラスさん?」
「なに!?」
「そろそろ降りません?」
「やだ!」
「僕、帰り支度中なんですけど」
「吾輩を置いていくなら降りない!」
「置いていくも何も、最初から別の予定ですよね?」
「それはそれ! これはこれ!」
「便利な言葉ですね」
「便利だからな!」
「開き直った……」
ユウトがため息を吐き、どうしようか悩んでいた、その時だった。
スタッフルームの扉がもう一度開く。
「ラプー? どこ行ったんですかー?」
落ち着いた声とともにスタッフルームに顔を出したのは、鷹嶺ルイだった。
手にはスマホを持っており、どうやらラプラスのことを探していたらしい。
スタッフルームに入ったルイは周囲を見渡し、ユウトの肩に乗っているラプラスの姿を見て、数秒だけ黙った。
それから、すべてを察したように苦笑する。
「ラプ……」
「ルイ聞いてくれ! ユウトが! 吾輩たちの食事会よりAちゃんやそらさん、YAGOOとの飲み会を優先するんだ!」
「それは先約なら仕方ないですね」
「ルイまで!?」
ラプラスが心底裏切られたような声を上げ、ルイは申し訳なさそうにユウトへ視線を向けた。
「ごめんね、ユウトくん。ラプが急に走っていったから、多分ここだろうなって思って」
「いえ、慣れてますので」
「慣れちゃったかぁ……」
ルイは苦笑しながら、ユウトの肩に乗っているラプラスへ近づく。
「ラプ、今日はこれから準備もあるんですから。こよりたちも待ってますよ」
「でもユウトがいない!」
「それは確かに残念ですけど、また今度誘えばいいじゃないですか」
「今度っていつだ!」
「ユウトくんの予定を確認してからですね」
「じゃあ今確認する!」
ラプラスはユウトの頭上からぐいっと前に身を乗り出す。
ユウトの視界にラプラスの顔が逆さまに入ってきて、ラプラスとユウトの視線が合う。
「ユウト! 今度はholoXの食事会に来るよな!?」
「というよりも、毎回僕の家で食事会をしてません?」
「それとこれとは別なんだ! それで、来るのか来ないのか、どっちなんだ!?」
「予定が合えば」
「それは来ないやつ!」
「いえ、本当に予定次第なので……」
「じゃあ来週!」
「来週は……あー、収録と外部との打ち合わせがありますね」
「じゃあその次は!?」
「確認しないことには……」
「ルイー! ユウトが誤魔化すー!」
「誤魔化してはいないと思いますよ?」
ルイは苦笑しつつラプラスの脇に手を入れ、肩車状態のラプラスをひょいと持ち上げた。
「うわあああ!? ルイ!? 吾輩を何だと思ってるんだー!?」
「総帥です」
「ならもっと丁重に扱え!」
「丁重に回収しています」
「今回収って言った!」
じたばたと暴れるラプラスを、ルイは慣れた様子で小脇に抱える。
ラプラスはまだ納得していないらしく、ルイの腕の中からユウトへ手を伸ばした。
「ユウトー! 吾輩を置いていくなー!」
「僕が置いていくというよりは、ラプラスさんがルイさんに連れていかれてますよね」
「冷静に分析するなー!」
「ラプ、そろそろ本当に行きますよ。こよりが『お腹空きました! ラプラスはどこですか!?』って三分ごとに連絡してきます」
「こよりぃ……!」
「クロヱからも『先に食べてていい?』って来てます」
「ダメだ! 吾輩が最初に乾杯する!」
「じゃあ急ぎましょうね」
「でもユウトがぁ!」
ラプラスはまだユウトを諦めきれないようで、ルイの腕の中からじっとユウトを見つめる。
その目は少し涙目で、完全に拗ねていた。
ユウトは少し困ったように笑い、ラプラスの頭を軽く撫でる。
「ラプラスさん、今日はすみません。今度ちゃんと、holoXの食事会にも顔を出しますから」
「……ほんと?」
「はい。予定を確認して、ルイさんにも共有しておきます」
「絶対?」
「絶対とは言い切れませんが、努力はします」
「そこは絶対って言えー!」
「ユウトくんらしいですね」
ルイが小さく笑うが、その表情にはほんの少しだけ残念そうな色もあった。
「でも、私も少し残念です。ユウトくんが来ると思って、こよりたちも張り切ってましたし」
「すみません、ルイさん」
「いえいえ、先約なら仕方ないですから」
ルイはそう言いながらも、少しだけ目を細める。
「ただ……次は、ちゃんとholoXにも時間をくださいね?」
「はい、約束します」
「聞いたぞ! 今約束したな!?」
ラプラスがすぐさま反応する。
「ルイ! 記録! 今の記録は!?」
「はいはい、記録しました」
「録音はしたか!?」
「してません」
「しておけー!」
「ラプ……そういうことをするからユウトくんが警戒するんですよ?」
「むぅ……」
ラプラスは不満そうに頬を膨らませる。
けれど、ユウトがもう一度頭を撫でると、少しだけ機嫌を直したように目を細めた。
「……次は絶対だからな」
「はい」
「吾輩はユウトの隣の席だからな」
「席順は皆さんで相談してください」
「そこは即答してくれないのか!?」
「僕が決めると揉めます」
「正論だ……!」
ラプラスが悔しそうに呻く。
ルイはそんなラプラスを抱えたまま、ユウトに軽く頭を下げた。
「それじゃあ、ユウトくん。飲み会、楽しんできてね?」
「ありがとうございます。ルイさんたちも楽しんできてください」
「もちろんです。ラプも、ちゃんと楽しみますよね?」
「むぅ……ユウトが来ないから半分くらいしか楽しめない」
「じゃあ残り半分は次回に取っておきましょう」
「そうする!」
立ち直りが早い。
ユウトが思わず苦笑すると、ラプラスはルイの腕の中からびしっと指を差した。
「ユウト! AちゃんとそらさんとYAGOOに言っておけ! 今日は譲るが、次は吾輩たちの番だとな!」
「伝える必要あります?」
「ある!」
「では、機会があれば」
「機会を作れー!」
そんな声を残しながら、ラプラスはルイに回収されていった。
スタッフルームの扉が閉まると、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かになる。
ユウトは少し乱れた髪を手で整え、荷物を持ち直した。
「……帰るだけで一仕事ですね」
そう呟いて、ユウトはスタッフルームを後にした。
事務所の正面玄関には、すでに準備を終えたそらたち三人が、ユウトのことを待っていた。
「あ、ユウトくん、やっと来た。何してたのさ」
「すみません。ラプラスさんに絡まれてちょっと……」
「ユウトさんも大変ですね」
「いえいえ、そらさんたちこそ。お待たせしてすみませんでした」
「僕たちもついさっき集まったばかりだからね。じゃあ行こうか」
YAGOOがそう言って歩き出す。
その隣にはAちゃんがいて、少し後ろにそらが続く。ユウトも荷物を肩にかけ直し、三人の後を追った。
向かった先は、事務所から少し離れた場所。
表通りから一本入った路地にある、個室付きの居酒屋だった。
騒がしすぎず、かといって堅苦しすぎることもない。スタッフやタレントが少人数で、打ち合わせを兼ねて使うこともある店で、ユウトも何度か来たことがある。
「ここ、久しぶりですね」
「そうだね。昔は何かあるたびに来てた気がする」
「まだ人数が少なかった頃ですね」
Aちゃんが懐かしそうに笑う。
そらもその横で、少し嬉しそうに店の看板を見上げていた。
「ここで次の配信どうしようとか、イベントの準備はどうしようとか、よく話してたよね」
「そうですね。食事をしているはずなのに、いつの間にか打ち合わせになっていた気がします」
「それは……今もあまり変わってないんじゃないかな?」
YAGOOが穏やかに笑う。
ユウトは少しだけ苦笑しながら、店の入り口へ目を向けた。
「まあ、今日くらいはただの飲み会にしましょう」
「お。ユウトくんがそういうの珍しい」
「僕だって、毎回仕事の話ばかりしたいわけじゃありません」
「本当?」
「……なるべく」
「今ちょっと弱くなったね」
Aちゃんが楽しそうに笑うと、そらも口元に手を添えて小さく笑った。
四人は店に入り、予約していた個室へ案内される。
木目調の落ち着いた部屋で、掘りごたつ式の席があり、扉を閉めれば外の喧騒もほどよく遠ざかる。気取った店ではないが、居心地は良い。昔から使っている店らしく、YAGOOが名前を告げると、店員も慣れた様子で案内してくれた。
席順は、奥にYAGOOとそら。手前にAちゃんとユウト。
荷物を置き、上着を掛け、メニューを開く。
それだけの動作が、妙に懐かしかった。
「最初はどうする?」
「私は軽めので」
「私も……あ、でも今日はちょっと飲んでもいいかな」
「そらさん、珍しいですね」
「だって……今日はこの四人だし」
そらがそう言って、柔らかく笑う。
その言葉に、ユウトは一瞬だけ目を伏せた。
この四人。
今ではホロライブには数えきれないほどのタレントがいて、スタッフも増えた。
配信も、イベントも、案件も、海外展開も、昔とは比べ物にならないほど大きくなった。
けれど、最初の頃。
まだ今ほど大きな事務所ではなく、手探りで何もかもが不安定だった頃。
そこにいたのは、確かにこの四人だった。
YAGOOがいて、Aちゃんがいて、そらがいて、ユウトがいた。
「……そうですね」
ユウトは小さく頷く。
「たまにはこういうのも悪くないですね」
「ユウトくん、もうちょっと嬉しそうに言ってもいいんだよ?」
「嬉しそうに見えませんか?」
「見えるよ。すっごく分かりにくいけど」
「それは……見えていると言えるんですか?」
「私は分かるよ」
そらが穏やかに言う。
ユウトがそらの方を見ると、そらは少し得意げに笑っていた。
「ユウトくん、さっきからちょっと口元が緩んでる」
「……そうですか?」
「うん」
「そら、よく見てるね」
「昔から見てるから」
その何気ない一言に、AちゃんもYAGOOも表情を柔らかくした。
注文を済ませ、しばらくすると飲み物と料理が運ばれてくる。
グラスが四つ。
枝豆、だし巻き卵、唐揚げ、刺身の盛り合わせ、焼き魚。
昔もよく頼んでいたものだった。
「それじゃあ」
YAGOOがグラスを持つ。
それに合わせて、Aちゃん、そら、ユウトもグラスを持ち上げる。
「今日も一日、お疲れさまでした」
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
四つのグラスが軽く触れ合い、小さな音が個室の中に響いた。
最初の一口を飲んだ後、Aちゃんがグラスを置いて大きく息を吐いた。
「はー……仕事終わりって感じ」
「Aちゃん、今日はまだ控えめにしてくださいね?」
「大丈夫大丈夫、ユウトくんじゃないんだから」
「僕はそんなに飲みませんよ?」
「酔うと面倒なのはユウトくんも同じだよ?」
「そんな記憶はありません」
「本人に記憶がないタイプなんだよねぇ」
Aちゃんがグラスを傾けながら、にやにやと笑う。
ユウトは眉をひそめるが、YAGOOも否定しなかった。
「昔……忙しすぎた時期に、ここで少し飲んだユウトくんがね」
「YAGOOさん?」
「『みんな無茶しすぎなんですよ』って三十分くらい説教してくれたことがあったんだ」
「それは……まあ長すぎですけど、多分必要な説教だったんだと思います」
「うん。必要だったね」
YAGOOは笑いながらも、どこか懐かしそうに言う。
そらも頷いた。
「あの時のユウトくん、すごく怒ってたよね」
「……そんなに怒ってましたか?」
「怒ってた。……でも、怖くはなかったよ」
「そうなの?」
Aちゃんがそらの方を見る。
そらは両手でグラスを包むように持ちながら、思い出したことを懐かしむように目を細めた。
「だって……心配して怒ってくれてるのが伝わってきたから」
「……」
ユウトは何か言いかけて、結局口を閉じる。
代わりに照れ隠しからか、だし巻き卵を一切れ取って自分の皿へ置いた。
「そらさん、これ好きでしたよね?」
「あ、照れてる? でもありがとう」
「照れてません……! Aちゃんは唐揚げですよね?」
「そうそう、よく分かってるよね」
「YAGOOさんは焼き魚でしたっけ?」
「ありがとう」
ユウトが三人の料理を取り分けると、Aちゃんがじっとユウトを見る。
「……そういうところ」
「何がです?」
「昔から、みんなの好みを当たり前みたいに覚えてるところ」
「仕事柄です」
「今は仕事じゃないよ」
「……まあ癖です」
「それもそれで、ユウトくんらしいけどね」
Aちゃんが笑い、ユウトは少しだけ居心地悪そうに視線をそらした。
飲み会は他愛のない話から始まって、自然と昔話へ流れていった。
ときのそらの初期配信の話。
機材トラブルで開始時間が遅れた時の話。
新しい企画が持ち込まれて、Aちゃんとユウトが同時に頭を抱えた話。
まだ、何もかも手探りだった頃の話。
少し笑えて、少し苦くて、とても大変で、けれど今となっては大切な思い出になっている話が、ぽつりぽつりと重なっていく。
「ユウトくん、あの頃は今よりもっとぶっきらぼうだったよね」
Aちゃんが三杯目を飲みながら言った。
「そう、でしたかね?」
「そうだよ。今みたいに『〜です』とか、そんな感じじゃなかった」
「今も、たまにだけど出るよね」
そらが懐かしそうに、楽しそうに続ける。
「昔のユウトくんの話し方」
「……そうですかね」
「うん。特に疲れてる時とか、気を抜いてる時」
「あと、酔った時ね」
Aちゃんが楽しそうに言い足すと、ユウトは露骨に嫌そうな顔をした。
「僕、そこまで酔いませんよ」
「今は、ね」
「昔は違ったかな〜?」
YAGOOが穏やかに笑いながら言う。
その言葉に、ユウトは少しだけ視線をそらした。
「昔は……まあ、今よりいろいろ余裕がなかったですし」
「みーんな余裕なかったよね」
Aちゃんが唐揚げを一つ取りながら、しみじみと言う。
「あの頃はさ……本当に何もかもが手探りで、配信のたびに何か起きるし、企画を立てても機材が追いつかないし、スケジュールも今ほど整ってなかったし」
「まあ、今も整ってるかと言われると、微妙なところですけどね」
「ユウトくん、そういうこと言う」
「事実ですし」
いつものように淡々と返すユウトに、Aちゃんは笑う。
そらもそんなやり取りに笑いながら、両手でグラスを持つ。
「でも、あの時があったからこそ、今があるんだよね」
「そうですね……」
YAGOOも頷く。
「最初は、本当に小さなところから始まった。そらちゃんがいて、Aちゃんがいて、ユウトくんがいて……。配信を一つやるだけでも大変で、毎回のように反省会をして……」
「反省会という名の深夜会議でしたね」
「よく朝まで話してたよね」
「翌日は全員目が死んでましたけど」
「ユウトくんが一番死んだ目をしてたよ?」
「Aちゃんも大概でした」
そんな軽口に、個室の空気が柔らかくなる。
料理をつまみ、少しずつ酒が進み、話題は自然とこの四人が歩んできた旅路に戻っていく。
五年という年月は、言葉にすれば短い。
けれど、その五年に詰まっているものは、決して少なくなかった。
ときのそらの配信が、まだ今ほど多くの人に届いていなかった頃。
コメントが一つ増えるだけでも喜んで、同接の数字に一喜一憂して、機材トラブルが起きるたびに全員で顔を青くして。
心ないコメントが来た時には、悲しみや怒りを覚えて。
それでも、次はもっと良くしようと話し合って。
少しずつ、少しずつ、本当に少しずつ、ホロライブという場所を作ってきた。
「五年、かぁ」
Aちゃんがぽつりと呟く。
「もう五年なんだね」
「早いようで、長かったですね」
ユウトがそう答えると、そらが静かに頷いた。
「うん、長かった。楽しいこともたくさんあったけど、大変なことも、悲しいこともたくさんあったから」
「そらちゃんには、ずっと先頭に立ってもらってたからね」
YAGOOの声は穏やかだったが、その奥には少しだけ申し訳なさも混じっていた。
そらはそれに気づいたのか、ゆっくりと首を横に振る。
「私だけじゃないですよ。YAGOOさんもAちゃんも、ユウトくんも……みんな一緒でした」
「そらさん……」
「一人だったら、きっと無理だったから」
そらはグラスの中身を少しだけ揺らしながら、柔らかく笑った。
「でも、みんながいたから、ここまで来られたから…」
その言葉に、Aちゃんは少しだけ目元を緩め、YAGOOは静かにグラスを傾け、ユウトは何も言わずにだし巻き卵を箸で小さく切っている。
ユウトはそらに何か言おうとして、うまく言葉が出てこないようだった。
「ユウトくん、照れてる?」
「照れてません」
「またそれ」
「事実です」
「じゃあ、今何考えてたの?」
「……別に」
「あ、出た!」
Aちゃんが嬉しそうにユウトを指さす。
「今の、昔のユウトくんだ」
「……そうですか?」
「そうだよ。昔のユウトくん、都合悪くなるとすぐ『別に』って言ってた」
「そうでしたっけ?」
そらも楽しそうに目を細める。
「言ってたよ。あと、『大丈夫です』じゃなくて『平気だ』って言ってた」
「……そんな細かいところまで、よく覚えてますね」
「覚えてるよ」
そらは少し得意げに、胸を張って言う。
「だって、五年も一緒にいるんだもん」
「……五年、ですか」
ユウトは小さく呟いた。
その声は、いつもより少しだけ低く、少しだけ柔らかい。
酒が回り始め、頬はわずかに赤くなり、普段よりも表情が緩んでいる。
それを見て、AちゃんとYAGOOは顔を見合わせた。
「ユウトくん、少し酔ってきた?」
「酔ってません」
「今の返事、酔ってる人が言うやつだよ」
「酔ってないって言ってるでしょう」
「ほら、ちょっと口調が崩れてきた」
「……気のせいです」
ユウトはそう言ってから、グラスを少し傾ける。
AちゃんとYAGOOは面白そうにそれを見ていたが、そらは少しだけ心配そうにのぞき込んだ。
「ユウトくん、大丈夫?」
「平気です」
その一言に、三人の動きが止まる。
ユウトはそんな三人の反応に気づいて、少しだけ眉を寄せた。
「……何ですか」
「今」
「え?」
「今、『平気です』って言った」
そらの声が嬉しそうに揺れている。
Aちゃんも頷く。
「昔っぽいね」
「昔はもっと雑だったと思いますけど」
「そうそう。『平気だ』って」
「……そんなに懐かしむことですかね」
ユウトは少しだけ気まずそうに言って視線を料理の方へ落とすが、酒が回っているせいか、いつもより声が丸い。
丁寧さを保とうとしても、少しずつ崩れていく。
そんな丁寧さの裏に隠れた言葉が、三人にはたまらなく懐かしかった。
「ユウトくん」
YAGOOが穏やかに声をかける。
「無理に丁寧にしなくていいよ。今は仕事じゃないし、ここには僕たちしかいないんだから」
「……いや、でも」
「いいんじゃない?」
Aちゃんが笑う。
「たまには昔みたいにさ」
「昔みたいって……」
二人の言葉に、ユウトは少し黙る。
それから、少しだけ諦めたように息を吐いた。
「……じゃあ、少しだけ」
そう言って、ユウトはグラスを置いた。
そして、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「でも……変なこと言っても、あとで掘り返すなよ?」
その言葉に、Aちゃんが目を輝かせる。
「出た!」
「出たね」
「いや〜懐かしいね」
「だから、掘り返すなって」
ユウトが眉を寄せてグラスを傾けるが、その表情には怒りは含まれていない。
そらは思わず口元を押さえ、笑った。
「ユウトくん、本当に昔みたい」
「そらさん……いや、そらまで笑うなよ」
普段なら絶対にユウトがしない、そらの呼び方。
それにそらは目を丸くし、それから嬉しそうに笑う。
「うん。そらだよ」
「……分かってる」
ユウトは短くそう返すと、照れ隠しのように枝豆を一つ口に放り込んだ。
その仕草も、その少し乱暴な返し方も、三人にとってはどうしようもなく懐かしかった。
「ユウトくん」
「なんだよ、Aちゃん」
「今の、もう一回言って」
「嫌だ」
「即答」
「そういうところは今も変わらないね」
YAGOOが楽しそうに笑う。
ユウトは少しだけ頬を赤くしたまま、グラスの中身を見つめた。
「変わってないのは、そっちもだろ」
「私たち?」
「YAGOOさんは、ずっと無茶な夢ばっかり見るし」
「それは否定できないかな」
「Aちゃんは、何でも自分で抱え込もうとするし」
「うっ」
「そらは……」
そこで、ユウトの言葉が少し止まる。
そらが静かに首を傾げた。
「私は?」
「……ずっと前を見てる」
ユウトはぼそりと言う。
「怖くても、不安でも、ちゃんと前に立ってる。昔から、ずっとそうだった」
「……」
「だから、こっちも止まれなかったんだよ」
その言葉に、そらは少しだけ目を見開いた。
Aちゃんも、YAGOOも何も言わない。
個室の中に、店の外から聞こえるかすかな笑い声と、換気扇の音だけが残る。
ユウトは自分が何を言ったのかに気づいたのか、少し気まずそうに視線を逸らした。
「……今のは忘れろ」
「無理だよ」
そらが即答する。
「絶対、忘れない」
「……そういうところだよ」
「えへへ」
そらは少し頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ユウトは諦めたように息を吐く。
Aちゃんはにやにやとしながらグラスを持ち上げた。
「いやぁ、今日は来てよかったね」
「録音しておけばよかったかな」
「YAGOOさんまでやめてください」
「今は敬語に戻った」
「うるさい」
「あ、戻った」
「どっちなんだよ」
Aちゃんが笑い、YAGOOも笑う。
そらもつられて笑い、ユウトもほんの少しだけ口元を緩めた。
それからの時間は、さらに穏やかに過ぎていった。
仕事の話をしない、と最初に言っていたはずなのに、結局少しだけ今後の話もした。
新しい企画の話。
後輩たちの話。
ホロライブがこれからどこへ向かっていくのかという話。
けれど、それは会議ではなかった。
ただ、長い時間を一緒に歩いてきた四人が、酒と料理を挟んで、ぽつぽつと未来の話をしているだけだった。
「ユウトくんはさ」
しばらくして、Aちゃんが少し酔った声で言った。
「今、楽しい?」
「急に何だよ」
「いや、なんとなく」
Aちゃんはグラスを両手で持ちながら、少しだけ目を細める。
「昔はさ、楽しいとか言う余裕なかったじゃん。やらなきゃ、守らなきゃ、次に進めなきゃって、そればっかりだったから」
「……まあ、そうだな」
「今は?」
ユウトは少しだけ黙る。
それから、静かに答えた。
「楽しいよ」
三人の視線がユウトに向く。
ユウトは少し照れくさそうに眉を寄せた。
「大変だけどな。毎日誰かしら騒ぐし、予定は増えるし、気づいたら誰かの家に迎えに行かされてるし、旅行の運転手にもされるし」
「それは本当にごめんね?」
「謝るなら最初からやるな」
「うわ、辛辣」
「でも」
ユウトはグラスを置き、少しだけ視線を落とした。
「楽しい。……ここまで来られて、よかったと思ってる」
その言葉に、Aちゃんは目元を緩める。
YAGOOは何も言わず、ただ静かに頷いた。
そらは、少しだけ泣きそうな顔で笑っていた。
「そっか」
「泣くなよ、そら」
「泣いてないよ」
「泣きそうだろ」
「ユウトくんこそ、照れてる」
「照れてない」
「照れてる」
「……本当に変わらないな」
ユウトが小さく呟くと、そらは嬉しそうに笑った。
そこからさらに少しだけ酒が進んだ。
Aちゃんは頬を赤くしながら、昔の失敗談を次々と掘り返す。
YAGOOも穏やかに笑いながら、時折とんでもない記憶を追加する。
ユウトはそのたびに「やめろ」「覚えてない」「それはAちゃんも悪いだろ」とぶっきらぼうに返し、そのたびに三人が懐かしそうに笑った。
そらは、そんな三人のやり取りを楽しそうに眺めながら、いつもより少しだけ多く飲んでいた。
「そら、そろそろ水飲め」
「んー……大丈夫だよ?」
「その大丈夫は信用できない」
「ユウトくんに言われたくないなぁ」
「僕は平気だ」
「あ、また言った」
「……だから掘り返すなって」
ユウトが水の入ったグラスをそらの前に置く。
そらはそれを両手で受け取って、こくこくと少しだけ飲んだ。
「ユウトくん、やっぱり優しいねぇ」
「水出しただけだろ」
「そういうところ」
「はいはい」
ユウトが雑に返すと、そらはふわりと笑った。
その笑顔はいつもより少しだけ幼く、力が抜けている。
Aちゃんがそれを見て、あっと小さく声を漏らした。
「あ、そら、結構酔い回ってる」
「ですね」
YAGOOも苦笑する。
そらは二人の声に反応したのか、少しだけ顔を上げた。
「回ってないです……」
「それ、酔ってる人の言うやつだよ」
「ユウトくんも言ってた」
「僕と一緒にするな」
「一緒だよぉ」
そらはそう言って笑うと、ゆっくりと体を傾けた。
隣に座っていたYAGOOが慌てて支えようとするより早く、ユウトが席を立ってそらの肩を支える。
「そら」
「ん……?」
「眠いなら無理するな」
「眠くないよ……」
「目、半分閉じてる」
「閉じてない……」
「閉じてる」
「……ユウトくん、昔みたい」
そらは小さく笑う。
そして、そのままユウトの腕に少しだけ体重を預けた。
「昔も、こうやって……無理するなって言ってくれたよね」
「言ったな」
「嬉しかったよ」
「……そうか」
「うん」
そらはそう答えたきり、ゆっくりと目を閉じた。
数秒後、すぅ、と規則正しい寝息が聞こえてくる。
完全に寝ていた。
「……寝た」
Aちゃんが呟く。
「寝たね」
YAGOOも苦笑する。
ユウトはそらの肩を支えたまま、小さくため息を吐いた。
「だから水飲めって言ったのに」
「ユウトくん、口調」
「今それどころじゃないだろ」
「ああ、もう本当に懐かしい」
「Aちゃん」
「はいはい」
Aちゃんはまだ頬を赤くしたまま、スマホを取り出す。
時間はすでに遅く、そらをこのまま一人で帰すわけにはいかない。
もちろんタクシーを呼ぶことはできるが、そらの家までは少し距離がある。
AちゃんもYAGOOも飲んでおり、普段より判断が少しふわついている。
一方で、ユウトの家はこの店から比較的近い。
そして、ユウトは酔っているとはいえ、四人の中では一番しっかりしていた。
AちゃんとYAGOOは顔を見合わせる。
そして、非常に申し訳なさそうにユウトを見た。
「……ユウトくん」
「嫌な予感しかしない」
「そら、お願いできる?」
「やっぱりか」
「ごめん。本当にごめん。私もYAGOOさんも、ちょっと今日は飲んじゃってるし、そらの家まで送るには距離があるし……」
「僕も飲んでるんだけど」
「でもユウトくんの家、ここから近いよね?」
「近いけど」
「もちろんタクシーは呼ぶし、そらのマネージャーにも連絡入れる。あと、私たちも玄関までは一緒に行くから」
Aちゃんが早口で説明する。
YAGOOも真面目な顔で頷いた。
「申し訳ないけど、今日だけお願いできないかな。そらちゃんも、ユウトくんの家なら安心できると思う」
「……」
ユウトは眠っているそらを見る。
そらは穏やかな寝息を立てており、時折何かを呟くように唇を動かしていた。
今日の彼女は、少しだけ飲みすぎた。
それだけ楽しかったのだろう。
それだけ、この四人で過ごす時間が嬉しかったのだろう。
そう思うと、ユウトは強く断れなかった。
「……分かった」
「本当?」
「ただし、次からはそらに飲ませすぎるなよ」
「はい」
「あとAちゃんも飲みすぎ」
「はい……」
「YAGOOさんも」
「気をつけます」
「返事が軽い」
ユウトがぶっきらぼうに言うと、Aちゃんは少しだけ笑った。
「今の言い方、やっぱり昔のユウトくんだね」
「今それ言う必要あるか?」
「ある」
「ないだろ」
ユウトは呆れたように言いながら、そらを起こさないよう慎重に体勢を整え、そらを抱える。
所謂お姫様抱っこというやつだ。
会計を済ませ、タクシーを呼び、店を出る。
外の夜風は少し冷たく、酔った頬に心地よかった。
そらはユウトの腕の中で眠っている。
AちゃんとYAGOOも少し足取りはふわついていたが、二人ともそらの荷物を持ち、タクシーが来るまでの間、どこか申し訳なさそうにしていた。
「ユウトくん、本当にごめんね」
「いいよ。……どうせ、こうなる気はしてた」
「予想してたんだ」
「そら、今日は最初からちょっと嬉しそうだったからな」
ユウトが何気なく言う。
Aちゃんはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「本当、よく見てるね」
「見てるだけだ」
「それがすごいんだよ」
「……知らない」
タクシーが到着し、四人は乗り込む。
最初にAちゃんとYAGOOを途中まで送り、その後、ユウトの家に向かうことになった。
AちゃんとYAGOOは最後まで恐縮していたが、ユウトはそらを支えながら、いつものように短く言う。
「明日、そらが起きたら連絡入れる」
「お願いね」
「水と薬も置いておく」
「さすが」
「茶化すな」
「はいはい」
Aちゃんが降りる直前、そらの寝顔を見て小さく笑った。
「そら、安心しきってるね」
「酔ってるだけだろ」
「それだけじゃないと思うけどな」
「……早く帰れ」
「はいはい。おやすみ、ユウトくん」
「おやすみ」
YAGOOも続いて降りる。
「ユウトくん、今日はありがとう。そらちゃんのこと、よろしくね」
「任せてください……いや、任せろ、でいいんでしたっけ」
ユウトが少しだけ皮肉っぽく言うと、YAGOOは穏やかに笑った。
「どっちでも。ユウトくんが言いやすい方で」
「……じゃあ、任せてください」
「うん。ありがとう」
AちゃんとYAGOOを見送った後、タクシーはユウトの家へ向かった。
到着した頃には、そらは完全に眠っていた。
ユウトは会計を済ませ、そらを起こさないように慎重に支える。
家の鍵を開け、玄関に入る。
普段なら、勝手知ったるタレントたちの声で騒がしい場所も、今日は静かだった。
「そら、着いたぞ」
「ん……」
「寝てていい」
そらが小さく何かを呟く。
ユウトは靴を脱がせ、上着だけを丁寧に外し、彼女を抱えるようにして寝室へ向かった。
自分のベッドにそらを寝かせ、布団をかける。
枕元には水の入ったペットボトルと、念のための酔い覚まし用の薬。
スマホは充電器に繋ぎ、そらの鞄はベッド脇に置いた。
部屋の照明を少し落とすと、そらは布団の中で小さく寝息を立てている。
ユウトはしばらくその寝顔を見てから、静かに息を吐いた。
「……飲みすぎだ、そら」
その声は、普段よりも少しだけぶっきらぼうで。
けれど、確かに優しかった。
すると、眠っているはずのそらが、ほんの少しだけ目を開けた。
「ユウト、くん……?」
「起きたか?」
「ん……昔みたいに、呼んでくれた……」
「……酔ってるからだ」
「そっか……」
そらはふわりと笑う。
「ありがとね……ユウトくん」
「礼は明日でいい」
「うん……おやすみ……」
「おやすみ、そら」
そらはその言葉を聞くと、安心したように目を閉じた。
今度こそ、深く眠りに落ちていく。
ユウトはしばらくその場に立っていたが、やがて静かに寝室を出た。
扉を少しだけ開けておき、リビングへ戻る。
テーブルの上に、自分用の水を置く。
スマホを確認すると、Aちゃんから『そら大丈夫?』とメッセージが届いていた。
ユウトは短く返信する。
『寝た。水も置いた。明日連絡する』
すぐにAちゃんからスタンプが返ってくる。
YAGOOからも『ありがとう。よろしくお願いします』と届いた。
ユウトはそれに『了解です』と返してから、スマホを置いた。
自分のベッドは、そらが使っている。
客用布団を出すこともできたが、今さら面倒だった。
ユウトはソファに腰を下ろし、近くにあったブランケットを引き寄せる。
「……本当に、帰るだけで一仕事だったな」
そう呟いて、天井を見る。
今日の飲み会。
懐かしい店。
昔話。
少しずつ崩れていった自分の口調。
それを嬉しそうに見ていたAちゃんとYAGOOと、そら。
なんだかんだで、楽しかった。
大変で、騒がしくて、最後には酔いつぶれたそらを家に連れて帰ることになった。
けれど、それも含めて、ひどくホロライブらしい夜だった。
「……次からは、全員水多めだな」
最後にそんなことを呟いて、ユウトはブランケットを肩まで引き上げる。
寝室の方からは、かすかな寝息が聞こえてくる。
それを確認してから、ユウトは静かに目を閉じた。
ソファはベッドほど寝心地が良いわけではない。
けれど、不思議と悪くはなかった。
懐かしさと少しの酔いと、穏やかな疲れに包まれながら。
ユウトはそのまま、静かに眠りへ落ちていった。