さて、そうして歩き出した彼女だが、急いでいるわけでもないその歩みは大した速さではなかった。
魔法を使って飛行することは可能だが、理由も無いのにそんな急いでも……というわけで、彼女は徒歩を続けている。
この世界の常識で考えれば、それは変わり者の所業であった。
なんでかって、この世界には当たり前のように野盗の類がいたる所に潜伏していて、他にも、モンスターと呼ばれている狂暴な生物がいたる所に生息しているからだ。
このモンスターは、彼女の前世にあったサブカルチャーなどに登場する『モンスター』に姿形や特徴がよく似ている。
たとえば、人を襲う、とか。
すべてが同じではないけれど、それでも何の鍛錬も訓練もしていない素人が遭遇したら、なす術もなく殺されるなんてレベルのモンスターは多いのだ。
また、生息しているモンスターだけではなく、『ダンジョン』と呼ばれる全てが謎の空間より這い出てくるモンスターもまた脅威だ。
ダンジョンとは、地下へと続く階段を下りた先に広がっている大迷宮の総称。
誰が作ったのか、何のために作られたのか、どのような歴史を経てモンスターが住み着いたのか、何もかもが不明な場所。
分かっているのは、ダンジョン内には金銀財宝を始めとして、地上では手に入らないモノが手に入るという事と。
ダンジョンは自然発生し、その最奥にある核を破壊しない限りは基本的に不滅だということ。
ダンジョン内のモンスターの方が、地上のモンスターより強くて狂暴……そして、稀にそれらは地上へ出てくる……ということぐらいだろうか。
……で、話を戻すけど、おかげで、この世界は彼女の前世に比べてけっこう物騒である。
さすがに地元民すら近寄らないほどに危険な場所レベルというわけではないけど、何の対策もせずに一人旅だなんてのは、ある程度の覚悟をしている者ぐらいで。
よほど腕前に自信があるか、あるいは護衛を雇うか、あるいはそれらに襲われないよう祈るか……というぐらいでないと、基本的には用も無く町の外になんて出ないのが常識であった。
……そんな中で、だ。
馬にも乗らず、馬車にも乗らず、徒歩で呑気に歩いている彼女は……特に不安を覚えてはいなかった。
それどころか、ご機嫌な様子であった。
何故ならば、どんな相手が来ようとも、今の彼女ならば赤子の手を捻るぐらい簡単に対処できるからだ。
この世界に転生(?)させてくれた存在によって、それを可能とする力を彼女は与えられ、その扱い方も身体に染みついているぐらいに理解していた。
だからこそ、彼女は余裕を保てていて……そして、前世の暮らしが暮らしだったからこそ、彼女はとても機嫌が良かった。
なにせ……彼女が暮らしていた前世の家は、お世辞にも広いとは言い難い都会のワンルーム。
ユニットバスで日当たりは悪く、給湯器が小さいから冬場は熱いお湯が出ない。
それなのに家賃はけっこう高く、度重なる増税によってそれすらも贅沢な暮らしとされていた……そんな彼にとっては、だ。
誰に対しても憚る必要はなく、密かに憧れていた自然の中を歩き、自由に行き先を決めて良い。
そんな状況が嬉しくて楽しくて、仕方がなかった。
しかも、この世界に転生させてくれた神様(?)の餞別と思われる『アイテムボックス』の中には、魔法の品と呼んでも差し支えない道具が山のように収められている。
そのうえ、それら一つ一つの使い方を彼女は初めから有していて……気持ちは、アレだ。
水や電気やガスやトイレの容量や処理などを一切気にしなくてよいうえに、もちろん、燃料も一切気にしなくてよい。
空調完全完備で両手両足を伸ばして寝られるだけでなく、入浴設備まで備わったキャンピングカーをいつでも取り出せて。
食料全般もそうだけど、本来ならば日持ちしない生ものすらも、アイテムボックスの中には大量に……本当に大量に入っている。
しかも、前世では関節を始めとした節々の痛み、年齢からくる抜けない疲労感とは無縁の、若い頃の活力を今は感じているのだ。
歩いても、歩いても、足が痛くならない。
ちょっと走っても息切れしないし、なんならもっと走っても問題ないぐらいに……とにかく、身体が軽いのだ。
そんな状況に置かれたわけで……そりゃあ、気持ちも高揚し、機嫌よく鼻歌の一つや二つは出て当たり前であった。
ちなみに、そういった魔法のキャンピングカーも『アイテムボックス』にはあるから、余計にテンションアゲアゲであった。
……。
……。
…………そして、日が暮れるまで歩けば、空には前世では映像越しでしか見たことがなかった見事な星空が広がり始めていた。
その美しさに感動を覚えながらも、急がなければ手元まで見えなくなると思った彼女は……『アイテムボックス』より家を取り出す。
見た目は平屋の一軒家で、デザイン住宅ってやつだろうか……木造で、なんとも木の温かみを感じる家である。
なお、テントもあるけど、モンスターが跋扈するこの世界で、見張りも立てずには、ちょっと怖い。
たとえ、そのテントが核爆発を受けてもビクともしないと分かっていても、そういった不安を抱えたまま寝るのは嫌だったから、彼女は家で寝ることにした。
ちなみに、この家も魔法的な力を帯びた家である。
テントと同様に核爆発の熱風と衝撃波を受けてもビクともせず、鍵を閉めればドラゴンすらこじ開けることは出来ないし、内部はあらゆる害を未然に防ぐ。
言うなればシェルターの中……これはもう安心して当たり前である。
水も電気も一切気にせず無限に使用可能で空調その他諸々も最適な状態に保たれているという、全てにおいて至れり尽くせりな家なのだ。
「ふぃ~……今日は歩いたなあ~……」
そんな家にて、彼女が最初にするのは……入浴である。
大して疲れていないとはいえ、半日近く歩けば精神的な疲労が溜まる。楽しくても、家に帰ったらドッと疲労感が出てくる、あの感覚だ。
それは、とても充実感のある疲労だ。
そんな疲労感を覚えているときにこそ、手足を伸ばしてゆっくり風呂に浸かるという行為がもたらす幸福感を最大限膨らませてくれる。
特に、今日はこの世界に来て初めての風呂ということで、入浴剤を投入している。
これによって気持ちよさは倍、さらに程よいお湯加減によって倍、肉体と精神が理想的にリラックスして倍……といった具合に、彼女を心地よくさせていた。
この心地良さのおかげで、頭では分かっていても初めて触る己の女体に対する緊張感は一切なく、スムーズに入浴を終えられた。
……自分の身体にドキドキしなかったのかって?
それがまあ、不思議なぐらいに何も感じなかった。
感覚としては、今さら……ってやつだろうか。
実際は初めてちゃんと触る部位だというのに、自分のち〇〇を触っている時のような……なんというか、『無』、その一言であった。
鏡に映った自分を見て射精できるかって話で……もう付いていないけど、そういう感覚が近しかった。
そんなわけで、だ。
ドキドキそわそわタイムなんてものはなく、そんな事よりも、生きていて良かった……と、心から思えるぐらいにこの日の風呂は最高であった。
ちなみに……風呂上がりに飲んだビールの美味いこと、美味いこと。
冗談抜きでちょっと涙が出てしまったぐらいに美味くて、彼女は久しぶりに……本当に久しぶりに、アルコールで酔い潰れるのではなく。
酒の美味さに呑まれて、倒れ込むようにベッドで寝息を立てたのであった。
……。
……。
…………そして翌日。
新しく与えられた身体、というか肝臓は前世よりも頑丈なようで、二日酔いに苦しむこともなくスッキリとした目覚めであった。
これが若さか……そう思った彼女だが、実際のところ、そういう話ではない。
彼女は気付いていないだけで、彼女は自身に様々な魔法を無意識にかけている。
具体的には、体力回復や免疫能力の向上といった……そのおかげで、彼女はスッキリ爽快な目覚めになったのであった。
なので、朝食も少し手の込んだモノを作る気持ちが湧いてくる。
普段は疲れが取れず面倒くささもあって市販の菓子パンかトーストで済ませるのだけど、この日はサンドイッチに決めた。
普段から料理をする人からすれば、サンドイッチは手軽に作れる料理の一つなのだろうけど、彼女のようなタイプは違う。
極論ではあるけど、包丁を使う時点で立派な料理なのだ。
つまり、サンドイッチとはいっても、そんな手の込んだサンドイッチではない。
家の中にある冷蔵庫からハムとトマトを取り出し、トマトは輪切りにして、パンの耳を切り分け、パンを四等分に。
これだけでも彼女にとっては立派な料理であり、久しぶりに包丁を握ったなとちょっと感慨深くなるぐらいな出来事であった。
なお、ケチャップとマスタードをしっかり入れるのが好みである……とまあ、そんな感じで朝食を終えた後は、身支度をして。
再び、徒歩での移動を再開である。
せっかく歩いて移動しているわけだし、最初ぐらいは最後まで歩いて目的地まで向かおうと思ったわけだ。
幸いにも身体に疲労は残っていなかったので、特に苦にもならず……この日も、彼女は機嫌よく目的地へ向かって向かっていた。
──その際、なにやら野盗に襲われている馬車を発見……なんて事も無い。
冷静に考えて、野盗たちだってそこまでバカじゃない。
そりゃあ金を持っていそうな馬車を狙えば大金が手に入るかもしれないが、言い換えれば、金を持てるだけの『力』を有している可能性がある。
ぶっちゃけてしまえば、相手が面子を保つために野盗どもを皆殺しだ……なんて動き出したら、もう終わりだ。
同様に、万が一襲った相手がそういった者たちとつながりが有ったらアウトで、そんなの知ったこっちゃねえみたいな者たちばかりだったら、とっくに根絶やしにされている。
つまり、襲う側もある程度の損得勘定、リスクを考えられる者が残るわけで。
治安がよろしくなくて、普段は町や村の外に出ないのが当たり前な世界でも、ゲームや漫画みたいに必ずエンカウント……とはならないわけである。
……まあ、それはそれとして。
傍から見たら、モンスターも跋扈する外にて、護衛の一人も雇わず機嫌良く歩いている女なんて、怪しい以外の何者でもなくて。
野盗側からしても、あまりに得体が知れないから逆に警戒して、近付いてこないだけなのかもしれないけど……で、だ。
そんな感じで歩き続けること、しばらく。
お昼も周り、夕方へと差し掛かったあたりで……ようやく彼女は、出発地点より一番近しい位置にある町、『ベルターナ』へと到着した。
『ベルターナ』は、このあたり一帯を治めている王国の最も東の方にある町で……いわゆる辺境の町である。
ただそれは、田舎というわけではない。
単純に王都から距離があるというだけで、元々が東の大陸からやってくるモンスターをせき止めるために作られた町なだけ。
むしろ、その役割から国内における発言権は強く、よほど分かっていない者以外からは一目置かれている町であった。
まあ、これもまた冷静に考えれば、だ。
国防を担っている町を蔑ろにするだなんて、自殺行為みたいなものだし……さて、話を戻そう。
えっちらおっちら徒歩で向かえば、初めて自分以外の人たちを見かけるようになる。
ほとんどの者は人の往来によってか、雑草が禿げた道路(?)を通っているか、その道路に沿うようにして町へと向かっている。
その中には馬車もあって、何台も目視できた。
彼女のようにまったく別方向から町へと向かう者は少数派で……というか、現時点では彼女以外誰もいなかった。
そりゃあ、そうだ。
都会育ちには少しばかり想像しにくいかもしれないが、雑草だらけの道って、想像以上に歩きにくかったりするのだ。
地面が平坦ではないのに雑草のおかげで錯覚してしまうし、穴や石などを見過ごして躓いて転んでしまう。
ましてや、馬車は雑草の生えた草むらなんてのは通らないのが基本である。
植物が生えた土壌は水分を保持しやすく、目視では見落としやすいぬかるみ等に車輪を取られてしまって動けなくなる……なんてのは、よくある事故だからだ。
ちなみに、徒歩ならばぬかるみに足を取られないなんてわけもないので、何か理由が無い限りは雑草が禿げた道を使うのが無難である。
(……こそっと後ろの方から付いていくか)
やろうと思えば飛行して一直線も可能だけど、いちおう、ほら……余所者みたいなものじゃん?
こういうのは変な事はせず、他の人たちに倣って行動した方が色々と無難に終わる……ので、彼女はえっちらおっちら歩いて、人の往来が伸びている禿げた道へと出た。
前方には馬車があって、少し後方に人の集団。ちょうど隙間が開いていたので、変に横入りする形にならなくて一安心。
それから、彼女はフウッと気を抜いてから、被っていたフードを外した──ん?
フードなんて被っていたのかって?
そりゃあ、被るよ。
だって、虫がさ。
田舎とか自然の中で生きている虫って、パワーというかタフネスが違うっていうか……ものすごい勢いで吸血しに来るのだ。
あいつらの前では、虫よけスプレーなんて気休め……なんなら虫よけスプレーしたところを狙って刺してくるバイタリティーだからね。
着ている服に虫よけ魔法を掛けて、フードを被れば虫刺されとは無縁のスーパー旅人服……これが無ければ、彼女のぴょんと伸びた長い耳は虫刺されだらけになっていただろう。
しかし、それもここまでだ。
フードを被りっぱなしもうっとうしくてストレスが溜まるし、ここまで来たら吸血してくる虫の数も減っているから──っと、その時であった。
「……ママ! エルフさんがいるよ!」
彼女の前方、馬車の出入り口より何気なく後方を見ていた子どもが、フードを外した彼女を見て思わず叫んだ。
子ども特有の甲高い声。
最初は馬車内で注意の声があがったようで、一瞬ばかり子どもは怯んだ様子を見せたけど、それでも──と言わんばかりに、本当のことだもんと呟いていた。
呟いているのが、聞こえた。
ただ、他の人は顔を覗かせない……おそらくマナー的な問題と、荷台を引いている馬への負担を考えてのことなのかもしれない。
小さな子供一人ぐらいならともかく、何人もの人が一斉に動けば馬がビックリしてしまう。
現代の鉄の車ですら、車内で人が移動するだけで揺れるのだ。
基本的には御者の指示が出るまではその場から動かないというルールでもあるのだろう……だから、親を引っ張って来ようとはしないのか。
……。
……。
…………正直、ちょっと悪い事をしたなと思った。
子どもなんて、思った事をそのまま口に出すなんて当たり前のことだ。
自分のせいで叱られたとなれば、見た目は美女の心はおっさんな彼女はどうにも無視できず……そっと小走りになって、子どもの……あ、近くで見ると女の子か。
「お嬢さん、ごめんなさいな。私のせいで」
意識したつもりはなかったけど、勝手に言葉遣いというか、話し方が女性っぽい感じになっていて、ちょっとびっくり。
ちなみに、彼女が顔を覗かせたら、車内の人たちもびっくり仰天……まあ、当たり前と言えば当たり前だろう。
この世界の『エルフ』って実在するという噂はあるし見た人が居るけど、絵本の中の存在って思っている人が一定数いるぐらいには数が少ないのだから。
それこそ、様々な場所を渡り歩く商人を始めとして、仕事があればどこへでもって感じの冒険者や傭兵ですら話には聞くけど見たことが無いって人がほとんど。
そりゃあ、驚かれて当たり前である。まあ、誰も近寄っては来ないけど。
どれだけ近付きたくても、馬車内でバタバタ動き回るのはみんなの命が……というわけで、彼女は子供の相手をしつつ、そのまま町へ。
あ、いや、遠目からでも察してたはいたけど、これは町っていうよりは、街って呼んでも過言じゃない広さだ。
なので、今後は街だ。
で、街への出入り口あたりでは検問が行われているのか、列がどんどん詰まっていき、気付けば足が止まっていた。
「あなたって本物のエルフなのかい?」
すると、これまで前に乗り出し過ぎないよう子供の襟をつかんでいた女性から尋ねられた。
当然、エルフである。
本物のエルフなのかと問われたら断言は出来ないが、自認レベルでは立派なエルフだ。なんてったって、神様のお墨付きだし。
しかし、この世界で確認されているエルフかと問われたら、玉虫色の回答しか出来ないのもまた事実。
「そうですね、そう言われた時もありますね」
「??? どういう意味なんだい?」
「100年も経てば呼び名が変わったりしますから。今はそのように呼ばれることが多いかな、と」
「ははあ、なるほど。エルフってとても長生きだって絵本で見たけど、本当に長生きなんだね」
感心したように頷く女性に対して、他の者たちも頷く……いや、口から出まかせなんだけどね。
とはいえ、相手からしたら何が本当で何が嘘かだなんて分かるわけがない。
彼らからしたら、自分たちとは違う長い耳に、明らかに異なる顔立ち(良い意味で)というだけで、十分なのだから。
そうして、物珍しさからチラホラと馬車の人たちだけでなく、気付いた他の人たちからも話しかけられ……で、ようやく彼女の番が来たのだけど。
「うわぁ……ほ、本物のエルフだ、初めてみた……!!」
なんか、鎧を着た兵士っぽい恰好の人たちから感動の眼差しを向けられたのであった。