──ざわっ、と。
彼女が階段を下りて1階の食堂(らしい)へと降りれば、急に空気がざわめいた。
彼女は知る由もないことだが、実は既に1階食堂では『エルフ』のことで誰も彼もが騒いでいた。
そりゃあ、そうだ。なにせ、あの『エルフ』が泊まっているというのだ。
エルフが泊まったと耳にした誰もが追加の宿泊、あるいは家があるのに泊まりに押しかけた者が続出し、部屋が埋まるまで一時間と掛からなかった。
そう、彼女は知る由もないことだが。
彼女がのんびり風呂に入っている時にはもう部屋は全て埋まり、それどころか普段は店に来ない者たちが食堂の椅子を生めてしまう程になっていて。
あまりにも席が足りないし、そもそも泊まっている客の邪魔になる。
なので、せめて何か買って立ち見しろという条件でエールを1杯ずつ各自購入し、中々降りてこないエルフを待ち続けていた……という有様であった。
もちろん、中にはただただすきっ腹にエールを流し込むのが嫌になって食い物を買ったりするので、売り上げは右肩上がり。
この各自エールを1杯買えという条件を出したことで、お得意先の酒屋にて追加のエールがタルで三つも売れて、お互いにホクホクとした顔に……話を戻そう。
とにかく、食堂には大勢の人々が集まっていて、それは宿屋の外にも広がっていた。
実際に顔を見ていない人も、顔を見た人も、一目見ようと、あるいはもう一度見ようとした結果である。
そして、彼ら彼女らは待っていた。
まだ来ない。
まだ降りてこない。
まだか、まだ来ないか、もしかして寝てしまったのか?
そう、誰もがちょっと想像してしまい、やきもきしていた……そんな時に、エルフが──彼女が下りて来た。
おかげで、歓声こそ上がらなかったけれども、明らかに場の空気がキュッと引き締まり……なんとも言えない、静かなのか騒いでいるのかよく分からない雰囲気になった。
(う~ん……なんだろう、常連しかいない居酒屋に入ってしまった気分だ)
そして、場の空気が変わったことを察知しつつも、エルフが原因なのか、それとも顔馴染みでないからなのか、彼女には分からなかった。
まあ、分からなかろうが関係ない、今の彼女は腹を空かしている。
エルフだろうと、飯を食わねば飢えて死ぬ。
魔法的なアレを利用して長期的に飯を食わずに生きることは可能だけど、その場合はストレスで精神がヤバいので、ちゃんと飯は食うのである。
ほら、栄養価的にはプロテインとサプリメントだけで賄えるけど、それだけで毎日生きていけって言われたら、精神的にだいぶやられてしまう……ってやつ。
あくまでも食事は食べるという行為であり、美味しさなんてのは二の次という感覚の人はけして珍しくはないが、食事というのはただ栄養補給をするわけではない。
食事という行為そのもの、好みの味というモノを感じた時に覚える幸福感は精神的ストレスを緩和するというのは、医学的にも証明されている。
そして、それはエルフになった彼女とて例外ではなく、どうせ食べるならば美味しいモノをと考えるのは自然な事であった。
特に、現代日本という金さえあれば世界中の味(日本人好みに改良された)を楽しめる国に生まれ育ったのだから、なおのこと。
(……おお、運良く席が一つ空いているぞ)
そして、今宵は運良くカウンター席が空いていたので、そこにスッと腰を下ろした。
もちろん、これも彼女が知る由もないことだが、その席は空いていたのではない、意図的に空けられていた席である。
そして、その席の左右は……抽選にて選ばれた人が座っている。なお、完全なる運である。
金を取らなかったのは下手に金を取ると尾を引きそうだし、誰も座らせないとなれば文句が出る。
だから、全部その時の運に願えってことでくじ引きにして……結果、運で二人が選ばれた、それだけであった。
「今日のおススメはなにかしら?」
「野ウサギが手に入ったから、ウサギ肉のスープがあるよ」
「じゃあ、それにします」
「あいよ、パンはいるかい?」
「お願い」
そうして出された料理が思いのほか美味しくて、こりゃあ今日の飯は当たりだなと一人ホクホクしている……そんな彼女を他所に。
(やっべぇ、すっげぇ良い匂いするわ~さすがエルフ)
(どうしよう、同じ女なのにときめきそうで怖いわ……)
幸運の二つの席に座っている男と女は、声や態度には出さなかったけれども、心の中ではめちゃくちゃ悶えていた。
なにせ、エルフだ。
それも、おとぎ話などで見聞きしていた想像上のエルフよりもよほど美人で、スタイルも良い。
そう、とてもスタイルが良いのだ。
なんで分かったかって、このエルフ……なんと上を薄い肌着一枚で食堂に降りてきているからだ。
正直、エルフは痴女なのかと本当に驚いたし、この二人だけの話ではない。
最初は面食らったし、そういう趣味なのかと思ったが……態度や雰囲気や仕草からしてそのようには感じられない。
……そこで、この場の誰もが察した。
エルフにとって、その恰好はそういう意味ではない、気を抜いた状態なのだということを。
そして、ソレは間違ってなどいなかった。
実のところ、エルフになった彼女はうっかり人間だった時の感覚で気を抜いてしまい、食べ終わったら自室に戻るだけだし……という考えでいたのが原因であった。
情報として記憶してはいるけど、それが身体に染みついていないせいで、とんだ誤解を周囲に与えてしまうところだったのだ。
なので、この場にいる誰もが悪くはなく、悪いのはエルフの彼女だけであった。
ちなみに、薄着とは言ってもシャツにスカートといった感じの部屋着といった感じだけど、この世界においては十二分にセクシーな薄着である……ということを記しておく。
で、だ。
エルフも俺たちと同じものを食べるのだな、とか。
絵本とかでは肉は食わないって話だけど、食べるんだな、とか。
食べるときに両手を合わせるのは教義なのかしら、とか。
さすがに初日&初対面から声を掛ける強者はこの場には居なかったけど、それでも、話のタネはこれでもかと提供され。
(初日もあって、やたらと視線を感じるなあ~)
と、素知らぬ顔のまま部屋へと戻る彼女をしり目に、その日はかなり遅くまで『エルフ』について盛り上がったのであった。
……。
……。
…………それから、しばらくの時が流れた。暦に換算したら、おおよそ半年ぐらいだろうか。
別に彼女は何か目的があって動いているわけではないし、これといった目標があるわけでもない。
なんなら、よく分からないうちに神様のアレやコレやの果てに、気付いたらこの世界にエルフとして転生していた身である。
転生する前の彼女がまだ10代とかであれば、冒険だとか何だとか動き回っていたかもしれないが、そうではない。
身体が若く活力に満ちているとはいえ、今はまだゆっくりしていたいという意識がとても強い。
そのうえ、彼女は自らの身体である『エルフ』の特性……すなわち、人間とは比べ物にならないぐらいの長寿であることを理解していた。
たとえ話だけど。
1年後に死ぬと言われた者と。
10000万年後に死ぬと言われた者。
はたしてどちらが物事に対して早く動き出すかと言えば、よほどの例外を除いて、1年後に死ぬと言われた者だろう。
寿命の長さは、その分だけ物事に対する捉え方に直結していると言っても過言ではない。
幸運にも長生きして100年の人間ですら、物事に対する認識が変わってくる。
若い頃は死ぬまでの寿命の長さに途方に暮れるが、歳を経てからは残り時間の短さに唖然としてしまう……というやつだ。
彼女もその唖然としてしまう気持ちをいくらか分かってはいたのだけど、それでも……今生の命であるエルフというやつは、そんな感覚すら明日に棚上げしてしまうぐらいに長寿なので。
彼女は……血気盛んな若者たちのように急いでランクを上げようとはせず、チマチマとランクに見合う仕事をこなして、その日を暮らしていた。
なお、その間、ずっと彼女は『スズメの窯宿』の一室を借りていた。
他の宿を新たに探す理由が無かったし、色々と愛着が湧いてしまったからだ。
あと、気付いたらリシェルが懐いてきたのと、エルフが泊まっているということで、宿の経営に対してプラスに働いていることに気付いたからだ。
特に不便なことはないし、下心を感じる時はあるけど、若い子に慕われ懐かれるという感覚は心地よく、気付けば1日、また1日と伸びて、半年ほどの月日となっていた。
……正直、この世界に来てからもう半年も経っていたという事実に、彼女はこっそりと驚いていた。
いや、いちおう、ちゃんと半年の月日が経っているということを頭では理解していたのだ。
ただ、その日、リシェルより『うちの宿に泊まるようになって半年になりますね、気に入っていただけて嬉しいです』と言われて。
──あ、そうか、もう半年か。
初めて、そんな感じに時の流れを実感した、その時……彼女はようやく『エルフ』の時間感覚というやつを心で理解したのであった。
これはもう、目から鱗というか、我に返ったというか、気付けなかったら年単位で時の流れを自覚出来ないかもしれない……それほどの衝撃であった。
(あ、あっぶねえ……油断してた。思い返せば、なんか時間感覚がちょっと狂っていたわ……)
月並みな言い方かもしれないが、自覚する前の彼女からすれば、半年間という時間は昨日一昨日程度の感覚であった。
言葉にしたら、『昨日と半年前ってそんなに違う?』ってな感じだろうか。
これは……もっとしっかり意識して時間感覚を留めて置かないと、どこかでトラブルが起こるかもしれない。
そう、彼女は人知れず固く心に誓うのであった。
……そして、そんな時であった。城より、使者が尋ねて来たのは。
内容は、『本物のエルフと聞いたけど、ちょっと顔を見せてね(要約)』というもの。
王族がそんな命令出すのかって首を傾げたけど、使いの人はさっさと帰っちゃったので……仕方なく、すっかり馴染みの一人になっている食堂にて、いつものメンバーに聞いてみたら、だ。
──「とても珍しい事ではあるが、一般人でも呼び出される時はあるぞ」、とのことだった。
正直、意外だなって思った。
なんかこう、彼女の記憶にあるファンタジー的なやつだと、『無礼者め!』の一言で切り捨てられそうなイメージがあったからだ。
「……いや、まあ、うん、間違ってはいないんだけどな」
それを正直に言えば、なんかこう笑われるどころか、まあ、そういう国もあるらしいけどな……と、逆に気遣われてしまった。
曰く、だ。
自分から乗り込んでギャーギャー騒ぐ程度なら牢屋で反省。よほどの理由でない場合は焼きごてで罪人の刻印を押されるらしい。
逆に、城から呼び出された場合は、よほど無礼な態度を取らない限りは、だいたい見て見ぬふりをしてもらえるとのこと。
それこそ、面と向かって中傷したり挑発したり、なんならメイドなどに手を出そうとしたり……これに関しては相手が貴族だろうとシャレにならない事態になるけど。
とにかく、礼儀作法が出来ない程度は向こうも分かっているので、普段通り無難な応対をしていたらすぐ終わる……とのことだ。
なお、犯罪の疑い有りの場合は初手で連行されるらしい……言い換えれば、初手で連行されない場合はそういう目的ではないから安心しろ……とのことだった。
「〇〇通りのミートパンを売っている爺の店あるだろ? 赤い屋根の」
「ああ、ありますね、あそこのは美味しくて時々買いに行きますよ」
「あの店、売り出し中で評判だった昔のことだけど、城から呼び出されたことあるらしいぞ。是非とも、作り立てを用意してくれって」
「えぇ、そんな軽い感じなのですか?」
「厳しく〆る時はきっちり〆るけど、それ以外の時はけっこうフランクだぞ。まあ、馴れ馴れしい態度を取ると注意されるけどな」
「なるほど……」
そんな感じで、ありがた~いアドバイスをチラホラ受けた彼女は、指定された時刻に合わせて城へと向かった。
城に行くのは初めてだったけど、この街には長く住んでいる人が多いので、道を聞けば一発だった。
……。
……。
…………ちなみに、だ。
城門前に立っていた兵士たちだが、彼女を前にしても変に同様した様子を見せなかった。
さすがは城勤めの兵士……プロ意識が半端ではない。
鎧の上からでも体格の良さが分かるし、兜のおかげで眼光が余計に鋭く見える。こんなん、素人が十数人束になったところであっという間に蹴散らされてしまいそうだ。
とはいえ、だ。
表情こそ変えないけど、兵士たちもエルフという存在に対して興味があるようで、チラチラ視線を向けてくるのは感じていた。
軽く手を振っておけば……ちょっと嬉しそうな態度を見せたので、不覚にも『こいつらカワイイじゃん……』と思ってしまったのは秘密である。