201◼︎/08/01 10:◼︎7 ◼︎岡県 稲裏山
降りしきる雪が視界に入る。体の芯から凍えるような冷たい空気を肌で感じる。息も絶え絶えの死に体とも変わらない姿で私は雪道を走り抜けていた。
自身の走る音と遠くから響く怒号にも似た声を聞きながら、私はひたすらに、無我夢中に走る。
煌びやかで美しかった体は今や見る影もない汚らわしく、醜い獣の姿に変わってしまっている。本来あったはずの金色の美しい毛並みは血と泥に汚れぐちゃぐちゃになっている。
「あぐっ…!」
必死に走っていたからか雪に隠れた足元の木の根につまづく。口の中に雪と泥が混ざった土が入り込み、思わず咳き込む。息を吸えば冬の冷たい空気が引き裂くような痛みを肺に与える。
『〜〜〜!』
「くっ…!」
痛みと惨めさに耐えながらノロノロと立ち上がっていると背中に人間達の声を感じた。私を殺すために追いかけ、血眼になって探し回っているのだろう。本来なら歯牙にもかけない羽虫のような矮小な存在だった人間だが、ボロボロになって弱り果てた今の自分なら問題なく嬲り殺すことができるだろう。
私はそんな屈辱的で恐ろしい未来を迎えてなるものかと歯を食いしばりながらまた走り出す。
もう自分がどこいるのか、どこに向かっているかすらわからない。今私の中にあるのは1つの感情だけだった。
「死にたくないッ…!」
笑える話だ。
散々多くの命を弄び、尊厳を踏み躙ってきた私が。今はただただ死にたくないと言う恐怖に嗚咽を漏らしている。最近まで感じることなどなかった狩られるものの恐怖。追い詰められたことで自身に迫る死の気配を嫌でも実感する。
「くそっ…!こんなはずでは…!」
怨嗟の入り混じった泣き言が口から漏れ出る。
あの戦い。3体の◼︎と陰陽師達による連合軍。私にとっては取るに足らない存在のはずだった。実際、戦いは終始私が優勢で常に優位を保っていたのだ。
だが誤算があった。だからこそ今私はこうやって惨めに敗走している。
「あやつら…!揃いも揃って次から次へゾロゾロと…!」
加勢がきた。普段動きもせず、傍観を決め込んでいた他の◼︎達だ。3体の◼︎と連合軍を相手にしてガラ空きになった私を背後から急襲した。完全に油断していたため反応することすらできず、数の暴力によって押し切られ戦況をひっくり返された。
私は最後の力で自爆のような攻撃を行うと共に魂を3つに分けて別方向に逃走した。分体とは違い、本体の魂は今逃げているこの体に宿しているのでこの体が討たれれば分けられた他の魂も消滅し、完全な死が訪れてしまう。本来なら力の配分や魂の切り分け方を調整するべきだったのだが、咄嗟に行った行動のために余裕がなく、色々と失態を重ねてしまっていた。
九州の方角に逃げたこの体は気付けばどこかの山の中にいた。殺される恐怖から無我夢中で走ってきたのでここがどこかも分からない。後ろから聞こえていた声はいつのまにか聞こえなくなっていた。
追手の声が聞こえなくなっていたことに気づいた私は安堵感から力が抜け、
茂みに隠れていた斜面を岩のように転がり落ちていた。
〜
「ぐぅ…」
目が覚めると体が冷えた感覚に襲われる。斜面を転がり落ちたまま気絶していたのか、体には雪が積もっていた。今の今まで無事だったのは雪に埋もれたことで姿が見えなくなっていたからだろうか。
体を振って雪を振り落とそうとするも力が入らずべしゃりと体が崩れ落ちる。
「ハァ…ハァ…」
体の至る所が痛い。頭が割れるような痛みに襲われる。息を吸おうと口を開くも入ってくる空気の少なさから自身の体力の少なさを嫌でも実感する。少量の空気を吸えば咽せ返るような嘔吐感が現れてゴホゴホと咳き込んでしまう。
なんとか立ち上がって目線を上げると朽ち果てた社が目に入った。誰も手入れをしていないのであろうその建物は木材が朽ち果て建物全体が傾いて今にも潰れてしまいそうだ。だが私はそんな社に縋り付くように歩み寄る。今はただ、この寒さと追手と死の恐怖から隠れたかった。
私は朽ち果てた戸に開いた穴から這いずるように社の中に入る。中は朽ち果ててところどころに穴が空いており、隙間風と寒さからは逃げられなかった。
それでも、今の私はこの社に入れたことに凄まじい安心感を覚えていた。
「人払いと…感知阻害…それと◼︎が入って来れないように結界を…」
朦朧とする意識の中で最後の力を振り絞り、持てる全ての霊力を込めて結界を張る。天井に開いた穴から社全体を覆うように張られた結界を確認した私は、そのまま支えを失った建物が崩れるかのようにドサリと音を立てて倒れ、そのまま意識を失っていった。
〜
過去の夢を見ている。そう思えるのは私が見ている景色の中で、私自身の全盛期の姿が見えているからだ。
否、正確に言うならばこれは夢ではなく、過去にあった私の記憶を夢として見ているのだろう。
『どうしてこのようなことができる!?』
茶色の毛並みをしたあのお人好しの◼︎が憤怒の形相で吠える。
『何を言っている?殺すのは楽しいだろう?暇つぶしでも、計画的でも、どちらでもな。』
昔の私がかんらかんらと笑い声を上げながら答える。
『最近の君はどうも命を奪いすぎじゃないかい?僕も人のことは言えないけどもっと節度と気品を』
『ほざけ。どうせ増えるのだ。私の楽しみのために死ねるなら奴らも本望であろう。』
あの性格の悪い大蛇が語りかける。余裕のある態度に見えるが昔の私を見るその目は怒りと侮蔑の感情が色濃く映っていた。
そんな大蛇に昔の私は吐き捨てるように呟く。
『分かっているのか?人間達の信仰心がなければ我ら◼︎は衰弱の未来を辿るのだぞ?』
気位の高い傲慢な角が睨みつける。ガリガリと前足で地面を掻くような仕草。此奴が苛立っている時によくしていたものだ。
『信仰心?そのようなものに頼らなければならぬほどの力なのか。哀れよのう◼︎。』
昔の私が見下した視線と共に唾を吐き捨てるかのように言葉を紡ぐ。
景色が変わる。
昔、捧げられた供物が気に入らなくて辺り一帯を火の海に変えた時の記憶だ。
空に座る昔の私は逃げ惑う民衆や崩壊する家屋を見て頬杖をつきながらニマニマとその様子を楽しんでいる。その光景を観ている私は下を見下ろして逃げ惑う人々を眺める。
まるであの日敗走した今の自分のようではないか。
崩壊した家屋の下敷きになった母親を小さな子供がなんとか引っ張り出そうと手を掴んで力一杯引っ張っている。子供は涙と苦悶の表情でぐしゃぐしゃになり、母親は子供に逃げて欲しいのか大声で何かを叫んでいる。やがて子供と母親は上から降り注ぐ炎によって燃え上がる。悲鳴をあげながらのたうちまわり、やがて元がなんだったのかわからないほどの残骸へと変わった。
頭上を見上げれば炎を放った張本人たる以前の私がみっともないほど大口を開きながら嘲笑っている。
私の横を人々が走り抜けていく。中には老人を背負いながら逃げるもの、なんとか火を消し止めようとするもの、怪我人を放っておけず手を差し伸ばすものもいた。
だが、そんな人々もやがては炎に包まれていった。
景色がぐるぐると動き出す。水面に引き寄せられるかのように。私はこの昔の記憶から現実へと浮上していった。
〜
目を開けると煮えるような暑さを肌で感じた。目線だけ動かすと相も変わらず朽ち果てた部屋が視界に映り込む。
あれから何度目の夏が来ただろうか?何度も何度もすぎる季節をなんとなく肌で感じていた私は、外から聞こえる蝉達のやかましい声を遠くに感じながら目を開けることすらできず、死体のように横たわっていた。
この社に来てから何度目かの夏。あの日から横たわり衰弱死するのを待つだけのこの身は、とうの昔に日時や時間を数えることを諦めてしまった。
陰陽師達の忌々しい術や◼︎達の攻撃により魂が深い傷を負っている。おかげでこの体は長い年月を超えたと言うのに体力と霊力はまったく回復しないどころか、一歩一歩確実に死へと向かっていた。
(このまま…惨めに朽ち果てるのか…)
自身が今いる社のように、誰にも気づかれることなく、ただひっそりと惨めに朽ち果てて終わる。
なんと哀れで情けない最期だろうか。以前のの私は自身がこのような末路を辿ることなど夢にも思わなかっただろう。
(あぁ…終わるのか…)
目を閉じてそう思索する。
死ぬのは怖い。自分が自分で無くなるような感覚なのだろう。もう目覚めが来ない永遠の眠り。
その恐怖に泣き声をあげてしまいそうになるも、衰弱した体からは吐息すらも出てこなかった。
だが、もういいのかもしれない。
死の恐怖からようやく解放され、こんな惨めな思いをしなくて済むという事実に私はどこか安堵していた。
暗く深いどこかに沈み込むような感覚に身を任せ、
私と言う存在はついにその命を終える
「…ワンちゃん?」
筈だった。
私の耳に聞こえてきたのは、
今まで一度も開けられることがなかったあのボロボロの戸が開く音と、疑問の色を含んだ幼い小さな声だった。
◼︎の◼︎→遥か昔、暴虐と殺戮の限りを尽くした存在。その存在は現代では天災として秘匿されながら歴史に記録されている。蛮行に我慢の限界を迎えた他の◼︎達と陰陽師達の手によって討たれたとされている。
陰陽師達の記録によれば、9本の尾を持つ美しい女性の姿をしており、多くの能力を持っていたらしいが、特に炎を操ることに長けていたとされている。
尾を2つ持った獣→深手を負って九州の山に逃げ込んだ◼︎の◼︎。逃走の際に魂をあわてて分けたことで凄まじい弱体化を受けた。倒壊した社にて、ついにその生涯を終える筈だった。
好奇心旺盛な少年→山の中にある朽ち果てた建物で不思議な生き物と出会う。