死体回収屋が、無窮迷宮の最深部を目指す   作:氷見崇瑞月

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小休止

「んん……」

 

 微かな呻き声とともに、ガブリエラは重い瞼をゆっくりと押し上げた。

 冷たく、僅かに埃っぽさを孕んだ乾燥した空気が肺に流れ込んでくる。

 迷宮都市の朝は早い。

 窓の隙間から差し込む光はまだ薄暗く、青みを帯びた夜明け前の薄明(はくめい)が、石造りの簡素な部屋をぼんやりと照らし出していた。

 空気中を漂う細かな塵が、その細い光の帯の中で静かに舞っている。

 

 昨日、地下三層での死闘を終えたふたりは、探索ギルドでの諸々の換金を後回しにして、シドウが個人で所有するこの堅牢なクランハウスへと直行した。

 精神を削り取るような極限状態の連続で、ガブリエラの魔力も体力も完全に底を突いていたからだ。

 一歩歩くごとに膝が笑い、視界が明滅するほどの激労だった。

 帰還後、備え付けの魔石駆動の湯沸かし器で汗と地下の泥を洗い流すべく風呂に入った彼女は、髪を乾かすのもそこそこに、そのまま泥のように深く、重い眠りに落ちたのである。

 

 彼女が横たわっているのは、かつての貴族時代の豪奢な天蓋付きベッドとは似ても似つかない、干し草を粗い麻布で包んだだけの硬いマットレスと、湿気を吸って重くなった毛布だ。

 寝返りを打つたびに、ギシギシと頼りない木組みの軋む音が響く。

 だが、ガブリエラにとって、昨夜の眠りはここ数週間の内で最も深く、魂の底から安心できるものだった。

 そもそもシドウに看病されたかの一週間で、この感触には既に慣れている。

 迷宮の底で嗅いだ血と強烈な腐臭、這い寄る影がもたらす背筋を凍らせるような死の気配。

 それらすべてから完全に隔絶された、四方を分厚い防護の石壁に守られたこの空間は、今の彼女にとって何にも代えがたい絶対の安全地帯であった。

 

「……朝、ですね」

 

 強張った唇を動かし、小さく呟きながら毛布を押し退けてゆっくりと身を起こす。

 全身の筋肉が悲鳴を上げて軋み、体内魔力の異常な酷使による焼け焦げるような鈍い痛みが、身体の芯にまだこびりつくように残っていた。

 昨日、地下三層で遭遇した『影法師』の放つ、息もできないほどの圧倒的な悪意にあてられ、極限状態の中で最大火力の殲滅魔術を強引に編み上げ、放った代償だ。

 それでも、手足は確かに動く。五体満足で、こうして朝の空気を吸って生きている。

 その厳然たる事実が、ガブリエラの胸の奥底に静かで力強い活力を呼び起こした。

 

 ベッドの傍らには、彼女の命綱であり、唯一の友とも言える《玲瓏の月》の杖が、朝日を受けて静かに立てかけられている。

 そして小さな木机の上には、昨日迷宮から持ち帰った戦利品――狗人(コボルト)の死骸から抉り出した微かな濁りを帯びた灰色の魔石と、宝箱から見つけ出した古い琥珀の指輪が無造作に転がっていた。

 ギルドへ持ち込めば相応の金貨に変わり、明日の糧となるはずのそれらは、没落した彼女が己の力だけで死線を乗り越え、勝ち取った何よりの証である。 

 まあ、厳密には琥珀の指輪の発見は、シドウのおかげではあるのだが。

 

 ガブリエラはベッドから降りると、ひんやりと冷え切った石の床を裸足で踏みしめた。

 刺すような冷たさが足の裏から直接伝わり、まだ微睡みに僅かな未練を残していた脳を強引に覚醒させる。

 部屋の隅に置かれた洗面台に向かう。 

 そこには、昨晩シドウが配慮して汲み置きしてくれていた木桶があった。

 

 木桶の中の水は、夜間の底冷えする冷気にあてられて、まるで氷のように冷え切っていた。 

 ガブリエラは細い両手でその水をすくい上げると、一切躊躇うことなく顔に叩きつけた。

 

「ひゃっ……!」

 

 針で突き刺さるような容赦のない冷たさに、思わず短い悲鳴が漏れる。 

 だが、同時に頭の中に残っていた靄のような不快な疲労感と死の残滓が、一気に吹き飛んでいくのを感じた。

 もう一度、二度と冷水を顔に浴びせ、傍らに掛かっていた少しゴワゴワとした粗末な手拭いで顔を拭う。

 桶の中で水面が小さく揺れ、そこにひとりの少女の顔が映り込んだ。

 

 色素の薄い金糸の髪は、王都にいた頃のように専属の侍女によって美しく結い上げられてはいない。

 かつて高価な香油で手入れの行き届いていた白い肌は、連日の過酷な探索で僅かに日焼けし、頬には迷宮の小枝で擦りむいた生々しい小さな傷跡が残っている。

 しかし、水面に映る翠緑(すいりょく)の瞳だけは、以前よりも遥かに強い、射抜くような光を宿していた。

 理不尽な運命と絶望に打ちひしがれ、ただ震えていたか弱い令嬢の面影は、もはやそこにはない。

 ここにあるのは、灰と死と隣り合わせの過酷な迷宮都市で、何としても生き抜くことを決意した、ひとりの魔術師の揺るぎない顔だった。

 

「よし」

 

 ガブリエラは両手で自身の両頬を軽く叩いて気合を注入すると、手早く着替えに入る。

 飾り気のない簡素な下着を身につけながら、ふと自身の胸元に視線を落とした。

 

(胸、もう少し大きくならないかな……)

 

 それは、没落前から彼女が密かに抱えていた切実な悩みであった。

 まあ、大小に貴賤はないとは頭では分かっているのだ。 

 だが、もしも将来、女性としての天性の武器で殿方を誘う――あるいは色仕掛けで魅了して致命的な窮地を脱するような盤面があると想定すれば、いささか心許ない起伏である。

 でも大きすぎると無駄に肩がこると聞くし、何より若い少女の胸は、迷宮での激しい動きの中で何かにあたるとひどく痛いのである。まあ、今は冒険者としての都合の方が優先だと思うが。

 そんな益体もない言い訳じみたことを考えながら、ガブリエラは装飾を廃した動きやすさを最重視したチュニックとズボンを、慣れた手つきで手際よく身に付けた。

 

 ギィ、と立て付けの重い木の扉を開け、二階から一階へと続く薄暗い階段を慎重に降りていく。

 一歩降りるごとに、空腹の胃袋を刺激するような微かに香ばしい匂いが下から漂ってきた。

 

 リビング兼ダイニングとして使われている広めの一階フロアに出る。

 すでに石造りの暖炉には赤々と火が入り、備え付けの黒い鉄鍋から食欲をそそる白い湯気が立ち上っていた。

 

 フロアの一角には、トゥバン・ポラリス魔術商店で昔入手したという『九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)』の社を祀る、異国情緒の漂う立派な神棚が飾られている。

 その神棚の近く、使い込まれて古びた木製テーブルに座り、ただ黙々と何かを手入れしている中肉中背の男の後ろ姿があった。

 シドウだ。

 

 彼は昨日と同じく、迷宮の汚れが染み付いた薄汚れた灰色の装束を身に纏い、膝の上に愛用の片手半剣(バスタードソード)を乗せていた。

 細かな刃こぼれを砥石でシャッ、シャッと 一定の心地よいリズムで丁寧に均し、特殊な防錆の油を染み込ませた布で鈍く光る刀身を拭き上げている。

 その動作には一切の無駄がなく、長年培われた流れるような美しさすら感じさせた。

 昨日、あの悍ましい影法師を瞬きする間に両断した、死神の如き冷徹な剣技。

 それを振るう血塗られた男が、今はこうして静謐な朝の光の中で、まるで熟練の職人のようにただ静かに武器を労わっている。

 その戦場と日常の極端な落差に、ガブリエラは何故だかはわからないが、胸の奥が温かくなるような奇妙な安堵を覚えた。

 

「おはようございます、シドウさん」

 

 ガブリエラが背中越しに声をかけると、シドウは刃を拭う手を止めることなく、鋭い視線だけをちらりとこちらに向けた。

 

「……起きたか。体調はどうだ」

「まだ少し鈍い痛みはありますが、問題なく動けます。魔力の練り上げにも支障はないはずです」

「まあ、昨日の今日、しかもあれだけの無茶をやらかしたと考えると十分すぎる恢復だな」

 

 彼は満足そうに短く鼻を鳴らすと、手入れを終えた剣を革の鞘にカチャリと納め、立ち上がって暖炉の鍋へと向かった。

 

「座れ。飯にする」

 

 ことり、とテーブルに差し出されたのは、大振りに切られた牛の腿肉だった。

 盛り合わせは安価な香草とチーズ、そしてパンを一緒にぐつぐつと煮込んだスープだった。

 王都の宮廷料理人が見れば顔をしかめて捨ててしまうような代物だが、極限の空腹を抱えたガブリエラにとっては、どんな豪奢なご馳走よりも魅力的に映った。

 彼女は粗末な木のスプーンを手に取り、ふうふうと息を吹きかけて熱いスープを一口すする。

 チーズの塩気と、肉の獣じみた野性的な旨味、そして香草の鼻を突く鮮烈な香りが、空っぽの胃袋に熱を伴って急速に染み渡っていく。

 

「美味しいです……。身体の芯から温まります」

「迷宮に深く潜りすぎたせいで濃密な魔素に当てられ、まともな飯が喉を通らなくなるやつも大勢いる。

 食える時に無理してでも食い、蓄えられる時に腹に蓄えたほうがいい」

 

 シドウは自分用の椀を手に取ると、感情の読めない硬い顔で淡々とスープを胃に流し込んでいく。

 その無骨な姿は、食事を楽しむというよりは、無機質な機関にただ燃料をくべる作業のようだった。

 

 朝食を手早く終え、ガブリエラが自ら申し出て椀と焦げ付いた鍋を洗っている間、シドウはテーブルの上に一枚の古い羊皮紙を広げていた。

 そこには、迷宮の第一層から第三層までの、ガブリエラ自身が血と汗で書き込んだであろう、手書きの地図が描かれていた。

 

「今日の予定を伝える」

 

 清潔な布で濡れた手を拭きながら戻ってきたガブリエラに、シドウは地図の一点をトントンと無骨な指で指差した。

 

「今日は迷宮には潜らない。まずは君の肉体的な基礎訓練を行う。

 後衛とはいえ、魔術にばかり頼り切った貧弱な体では、次層以降の過酷な環境と魔力消耗に耐えられんからな……そのあとに君が描いた迷宮の地図の精査と清書を行う」

 

 シドウの冷たい黒色の瞳が、真っ直ぐにガブリエラを射抜いた。

 一切の妥協を許さない、師としての厳しい目だ。ガブリエラはピンと背筋を伸ばし、力強く頷いた。

 不思議と恐怖はない。 

 迷宮の底で味わった、あの息の詰まるような絶望に比べれば、この厳格な導き手による血の滲むような訓練など、百倍もマシである。

 むしろ、彼が自分を犬死にさせないために、これほど真剣に戦いの技術を教え込もうとしてくれている事実が、どうしようもなく嬉しかったのだ。

 

 シドウが真剣の片手半剣(バスタードソード)の代わりに、部屋の隅に立てかけられていた、ずっしりと重い分厚い樫の木剣を手に取った。

 ガブリエラは肺の奥まで深く息を吸い込む。

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

 このあとクランハウスの裏庭でガブリエラはめちゃくちゃに扱かれ、やっぱり冒険者は辛いよ……となるのだが、それはまた別の話である。 

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