死体回収屋が、無窮迷宮の最深部を目指す   作:氷見崇瑞月

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剥ぎ取りは冒険者の基本

 そして翌日。

 迷宮の淀んだ冷気が、肌を粟立たせる。

 鼻腔を突くのは、千年も循環することなく淀んだままの黴の匂いと、微かな血と腐臭だ。

 しかし、ガブリエラの身を削ってまで綿密に書き上げた地図の力によるものか、迷宮に潜ったふたりの足取りは極めて順調だった。

 加えてシドウによる厳しい添削は、結果としてガブリエラの脳裏に迷宮の構造を完全に焼き付けていた。

 無駄な交戦を避け、迷宮特有の悪辣な罠の数々や巧妙に偽装された落とし穴を的確に看破していく。

 半日程度で、ガブリエラたちは地下三層まで到達していた。

 

 《影法師(シャドウ)》の一件があったとはいえ、ガブリエラの瞳に怯懦(きょうだ)はない。

 今の彼女には、震え上がるような恐怖よりも、己の役割を完遂しようとする確かな意志が宿っていた。

 

 それは、迷宮の一角に口を開けた玄室の扉を開いたときのことだった。

 天井の暗がりから突如として巨大な半透明の塊――粘性獣(スライム)の上位種である溶解粘性獣(アシッド・スライム)が降ってきたのだ。

 

「ひっ……!」

 

 ガブリエラは短い悲鳴を上げ、間一髪で後方へと跳んで直撃を避けた。

 それは緑色の巨大なゼリー状の肉体を持ち、触れたものを瞬時に溶かす強酸を帯びている。

 ドシャリと着地した瞬間、石畳がジュウウウと不快な音を立てて白煙を上げたほどだ。

 物理的な斬撃を加えてもすぐに癒着する性質を持っているため、剣士にとっては極めて相性の悪い、厄介極まりない相手である。

 さらに悪いことに、溶解粘性獣(アシッド・スライム)の落下音に呼応するように、玄室の四隅から汚らしい毛並みと錆びた鉈を握りしめた五匹の狗人(コボルト)までもが、飢えた獣のよだれを垂らしながら乱入してきていた。

 

(落ち着け、私……! この程度どうとでもなるっ)

 

 ガブリエラは奥歯を噛み締め、即座に意識を切り替える。

 深く息を吸い込み、魔術師としての極限の集中――トランス状態へと没入した。

 

『沸き立て、我が魔力よ。それなるは凍てつき、縛り、静寂なる停滞をもたらすもの』

 

 ガブリエラの桜色の唇から滑らかに紡がれる詠唱とともに、《玲瓏の月》の先端にはめ込まれた宝玉が、周囲の薄闇を青白く染め上げるほどの眩い光を放った。

 杖を握る彼女の体内を巡る魔力の経路は凄まじい熱と脈動を帯びていた。

 

 迷宮の魔物を殺すと、その魂たる魔素の残滓が殺害した者の糧となって吸収される――冒険者の間でまことしやかに囁かれるその伝承が真実であることを、彼女は今、身を以て体感していた。

 大量の魔物をひとりで殺し続けた経験が、明確な成長をもたらしている。

 前回この階層を訪れた時とは比べ物にならないほど、ガブリエラの魔力の絶対量と制圧範囲は向上していた。

 ガブリエラの魔力を使い構築された魔術式が杖の先端に展開される。

 瞬く間に術式の密度が上がっていく。

 

『《凍結(フローズン)》!』

 

 彼女が杖を振り下ろすと同時に、以前使った魔術《氷牙(アイス・ファング)》よりも下位階梯に位置する魔術が発動した。

 しかし、下位とはいえ、今の彼女が放つ魔術の威力は絶大だった。

 玄室の石畳を起点に、氷の波紋が爆発的な速度で放射状に広がる。

 空気に含まれる水分が一瞬にして凍りつき、パキパキと甲高い音を立てて狂い咲く霜の花へと変貌した。

 

 その極低温の波は、玄室の主たちを容赦なく呑み込んだ。

 強酸を撒き散らそうと蠢いていた溶解粘性獣(アシッド・スライム)は、極低温の波状攻撃を受けて一瞬でその活動を停止し、内部の液体ごと完全に凍結させられ、醜悪な氷の彫像と化して沈黙した。

 機敏に動き回っていた狗人たちもまた、足元から急速に這い上がってきた霜に両足を縫い留められ、その凶悪な牙を剥き出しにして飛びかかろうとした姿勢のまま完全に動きを止めている。

 やがてゆっくりと全身に霜が降りた段階で、狗人(コボルト)たちの瞳から凶暴な光が消え、完全に絶命した。

 

「ふう……っ」

 

 杖を下ろしたガブリエラが、白く染まった息を吐き出す。

 震える膝を必死に押さえつけながらも、自身の魔術がもたらした完全な制圧劇に、彼女は確かな手応えを感じていた。

 

 玄室を支配していたのは、完全な静寂だった。

 前回同様に『原則、ガブリエラの冒険者としての勉強と訓練のために一切手を出さない。前衛の役割も持たない』という宣言通り、シドウは後方で腕組みをしたまま、その光景を静観していた。

 

「下位階梯の魔術で十分にやれるようになったな。前回と違って、素材の剥ぎ取りのことも考慮しているらしい」

「あ、ありがとうございます」

 

 シドウからの珍しい称賛の言葉に、ガブリエラは安堵の笑みを浮かべる。

 いくら集めてもはした金にしかならない小鬼(ゴブリン)の魔石とは違い、狗人(コボルト)の魔石は多少の金になる。

 威力が高すぎる《氷牙(アイス・ファング)》を使えば、魔物もろとも内部の魔石まで粉砕してしまうリスクがあった。

 そのため今回はあえて威力を抑えた《凍結(フローズン)》で動きを封じ、絶命させるにとどめたのだ。

 

 しかし、玄室の奥をいくら見渡しても、彼女が密かに期待していたものは姿を現さなかった。

 

「……今回は、出ませんでしたね」

 

 肩を落として呟くガブリエラ。

 あくまで、魔物のすべてを倒した際に稀に空間が歪み出現する――迷宮の法則通り、今回は宝箱は現れなかった。

 死線を越えて魔物を掃討しても、必ずしも臨時報酬が得られるわけではない。この理不尽な徒労感もまた、冒険者の日常なのだ。

 

「期待するだけ無駄だ。迷宮の気まぐれに一喜一憂している暇があったら、ナイフを抜け。目の前にある確実な利益を回収しろ」

「は、はい……っ」

 

 前回は影法師戦でガブリエラが極度に消耗していたとあってシドウが手際よく剥ぎ取りをおこなったが、今回は彼女が冒険者としての勉強のために自らやらねばならなかった。

 ガブリエラは気を取り直すと、杖を構え直した。

 

『沸き立て、我が魔力よ。それなるは灰に至らしむもの』

『《小炎(プア・フレイム)》』

 

 ポッと、杖の先に小さな炎が灯る。

 狗人(コボルト)の死骸は内部の血管ごと凍結しているため、炎の魔術で少しずつピンポイントに溶かしていく。

 急激に熱を加えると温度差で魔石が破損してしまうため、魔力制御には細心の注意が必要だった。

 氷が溶け、どす黒い血が滴り落ちるようになったところで、ガブリエラは腰のベルトから解体用のナイフを抜き放った。

 剥ぎ取りの開始である。

 

 しかし、これが中々に難しい。

 相手は人間サイズの直立歩行する犬の怪物だ。

 凍結が解けたことで、生臭い血の匂いと獣特有の強い体臭が一気に鼻を突き、令嬢として育ったガブリエラの胃を激しく掻き回す。

 だが、吐き気を堪えてその胸部を切り開かなければ、換金素材である魔石は手に入らない。

 

「え、えい……っ!」

 

 ガブリエラは覚悟を決め、狗人の心臓付近にナイフを突き立てた。

 しかし、毛皮の下にある皮膚は想像以上に分厚く、刃先がそれ以上進まない。

 魔石そのものも、体内の奥深くに無造作にあるわけではない。

 彼らの生命線であるため、硬質な血管と、異常発達した強靭な筋肉の繊維によって幾重にも強固に守られており、まるで臓器が魔石を抱え込むような構造になっているのだ。

 無理に刃を進めれば、ゴリッという嫌な感触とともに刃こぼれを起こしそうになる。

 さらには、力加減を誤って乱暴にえぐり出そうとすれば、価値のある魔石そのものに傷をつけてしまう恐れがあった。

 

「違う。力任せに押すな。筋繊維の走っている方向に沿って、刃を滑り込ませるんだ」

「こ、こうですか……?」

「刃の角度が浅い。もう少し立てて、血管の根元を断ち切れ。……そうだ。そこから梃子の原理で掻き出せ。……というか、その手つきだと前の一党の時はどうしていたんだ?」

「全部、エミリーに任せていました……」

 

 前の一党(パーティ)にいた、剣士の少女の名前を出す。

 解体はすべて彼女ひとりに押し付け、自分は荷物持ちの少女と共に後方で小綺麗なままでいたのだ。

 過去の己の傲慢さに、ガブリエラは今更ながらに顔から火が出るような恥ずかしさを覚えた。

 まじかよ、と呆れたような顔をしたシドウが傍らにしゃがみ込むと、自らも血に塗れることを厭わず、ガブリエラの手を取って的確に刃の入れ方を実地で指導していく。

 

 ぬるりとした生温かい血の感触と、肉を断つ音。

 数分間の悪戦苦闘の末、ガブリエラの血まみれの手のひらに、ようやく濁った灰色の魔石が転がり出た。

 全身をどっと疲労が襲う。

 魔法を使った戦闘そのものよりも、この凄惨で生々しい解体作業の方が、彼女の精神をゴリゴリと削り取っていくようだった。

 五匹の狗人(コボルト)と、氷を砕いて核を拾い上げた巨大な溶解粘性獣(アシッド・スライム)からすべての魔石を回収し終えた頃には、ガブリエラは両手を血と粘液にまみれさせたまま、その場にへたり込んでしまっていた。

 

「……少し早いが、野営にするか」

 

 ガブリエラの疲労の色を見てとったシドウが、陰気な顔のまま提案した。

 彼らは玄室から少し離れた、三方が強固な岩壁に囲まれた安全な行き止まりへと移動した。

 

「ええと、こうでしたよね」

「そうだ、それでいい」

 

 前回の探索の記憶とシドウの指示のもとに、ガブリエラは荷物から取り出した銀製の『聖印』を入り口の床に等間隔で配置していく。

 さらに、小さな小瓶に入った『聖水』を、円を描くように石畳に撒いた。

 聖水が迷宮の邪気に触れると、微かに青白い燐光を放ち、空気中の澱んだ淀みをシュウシュウと音を立てて浄化していくのがわかる。

 

 結界の構築を終えると、ガブリエラが密かに愉しみにしていた迷宮飯の時間だった。

 質の良い乾燥チーズと、上質な脂の甘みが素晴らしい干し肉。

 さらに添えられた干し葡萄と乾燥無花果は、程よい酸味で疲労を和らげてくれた。

 前回同様に十分な御馳走であった……ガブリエラにとって生きている実感がする。

 

「交代で見張りをする。俺が先だ。一時間後に君を起こす」

「はい。シドウさん、ありがとうございます」

 

 ガブリエラは背嚢を枕代わりにして壁に背を預ける。

 すぐには眠れないのか、ガブリエラは杖を抱き抱えるようにして膝を抱え、漆黒の闇が広がる通路の奥をじっと見つめた。

 時折、遠くから聞こえてくる魔物の咆哮や、岩が崩れるような不気味な音が、彼女の鼓膜を打つ。

 孤独と恐怖が忍び寄ってくるが、不思議とパニックに陥ることはなかった。

 すぐ側にいるシドウの静かな呼吸音と、彼が放つ圧倒的な存在感が、彼女の心を確かに繋ぎ止めていたのだ。

 

(私、少しはまともな冒険者になれたのでしょうか……)

 

 乾いた血がこびりついた自身の手を見つめ、小さく自問する。

 まだまだ足手まといかもしれない。魔物の解体一つで音を上げる未熟者だ。

 それでも、何もできずにいた少女魔術師は、もうここにはいない。

 

 数時間の短い野営を終え、英気を養った二人は、再び探索を再開した。

 数度の小規模の戦闘を終え、やがて三層の最奥部――階段前に到着する。

 すでに空気が次第に重く、ねっとりとした瘴気の淀みを帯び始めているのを肌で感じる。

 息を吸うだけで肺がチリチリと痛むような感覚だ。

 

 そのまま長く続く石造りの螺旋階段を下り抜けた先。

 

「ブヒィィィッ!」

「ジジジジジッ……!」

 

 遠くの暗がりから響き渡るのは、豚鬼(オーク)の下劣で野蛮な雄叫び。

 そして、空気をびりびりと震わせる巨大羽虫の羽音。

 途端に、強烈な獣の体臭と、何かが発酵したような腐臭が鼻腔を暴力的に殴りつけてくる。

 思わずガブリエラが顔をしかめた隣で、シドウはかすかに唇の端をあげた。

 

 今の少女魔術師の勉強に相応しい試練場――地下四層へと到達したのだ。

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