《
迷宮の悪意によるものか、ちょうど通路は運悪く逃げ場のない一本道となっており、やはりというべきか接敵は避けられなかった。
どこかこの絶望的な状況を愉しんで腕組みをして立ち止まるシドウを尻目に、ガブリエラは最速で自身の体内から魔力を汲み上げ、魔術式を構築していく。
(焦るな焦るな、落ち着けわたし……《
シドウが腰の
そう自分に強く暗示をかけ、ガブリエラは早鐘のようにバクバクと暴れる心臓の動悸を必死に抑え込もうとする。
相対する獲物が人間の若い雌であることに気付いたのか、暗闇の奥から下劣な怒号とも欲情の昂りともつかない濁った叫びが響く。次いで、巨躯を揺らす地響きと共に、
(というか、はやい! 速すぎるでしょ! これ、無傷で切り抜けろってシドウさん正気で思ってますか!?)
むわっと、食欲とも欲情ともつかぬ魔物特有のどす黒い衝動が、強烈な獣の体臭となってガブリエラの鼻腔を刺戟する。
息をするだけで胃袋がひっくり返り、吐き気がこみ上げてくるほどの悪臭だ。
直後、頭上の暗がりから、槍のように鋭く禍々しい毒針を備えた
地と空、二つの脅威による、悪夢のような連携攻撃だった。
一歩でも足がすくめば、豚鬼の丸太のような棍棒で挽肉に変えられるか、毒針を刺されて泡を吹きながら苦悶死するかのどちらかだ。
(間に合え、間に合え……っ!)
本能は悲鳴を上げて逃走を求めている。
だが、シドウの無慈悲なこれまでの教えが、彼女の身体を強引に前へと踏みとどまらせていた。
魔術の完成が間に合わなければ死ぬ。
ただその絶対的な事実に対する必死さのみが、今のガブリエラの集中力を極限まで高めていた。
『沸き立て、我が魔力よ! それなるは凍てつき、縛り、静寂なる停滞をもたらすもの!』
濁った黄色い瞳がガブリエラの怯えた顔を捉え、勝利を確信したかのように下劣な笑みを浮かべた。
同時に、二匹の
まさに死の淵にガブリエラの足先が触れた、その刹那。
『《
ガブリエラの喉から、発動のための起句が絞り出された。
第一階梯の魔術が、迷宮の淀んだ空気を一瞬にして書き換えた。
虚空に展開された魔術式――その陣から爆発的に放たれた極低温の風が、迫り来る二つの死の輪郭を容赦なく呑み込む。
大気中の水分が瞬時に氷華へと変貌し、突進の勢いそのままに突っ込んできた大毒蜂は、空中で完全に氷漬けにされたまま石畳へと墜落した。
そして
パキ、パキパキッ……と、氷が周囲を侵食する静かな音だけが通路に響き渡る。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……っ!」
心臓が肋骨を内側から叩き割るのではないかと思うほど激しく打ち鳴らされ、全身からは滝のような冷や汗が噴き出している。
階層を降りて早々の、文字通りの地獄のような闘いだった。
ほんの瞬き一回分でも詠唱が遅れていれば、間違いなく自分が迷宮の染みになっていただろう。
というか、エミリーたちと探索していた頃には、こんなに矢継ぎ早に魔物とは遭遇しなかったはずだ、とガブリエラは荒い息の中で自問する。
――単純に旧
後方で腕組みをしたまま静観していたシドウを、ガブリエラは震える首を巡らせて振り返る。
「し、シドウさん、た、倒しました」
「大丈夫か、ガブリエラ。流石にきつかったか?」
「も、問題ありません……」
引きつった笑顔で、なんとか空元気を取り繕って答える。
ガブリエラの呼吸がある程度収まるのを待ってから、シドウは無表情のまま氷漬けになった死骸へと歩み寄り、
「
一回、俺が実践して見せる」
「は、はい」
言われるがままに杖の先に炎を灯し、
氷が水となり、どす黒い血が滴り始めたところで、シドウは迷うことなく解体用ナイフを豚鬼の股間付近に突き入れた。
「君もかつて貴族令嬢として耳にしたことはあるかもしれないが、
「た、確かにそういう話しは昔聞いた覚えが……」
急にシドウから不意打ち気味に生々しい話を振られたため、ガブリエラは別の意味で心臓をドキドキさせ始めていた。
……まあ、なんとか彼女は持ち前の表情術で取り繕ったのだが。
手慣れた手つきで、シドウは赤い睾丸を取り出す。すごい匂いであった。
「……睾丸の切り取り方はこんな感じだ。傷をつけると値崩れする。魔石のほうは、ガブリエラのほうでやってみろ」
「は、はいっ」
ガブリエラは震える手をどうにか抑え込みながら、大きく背伸びをして巨大な豚鬼の胸部付近にナイフを入れる。
周囲に充満する凄まじい獣臭と死臭に吐き気を堪えながら、分厚い脂肪と硬い筋肉に守られた魔石の摘出は困難を極めた。
それでもシドウの教えを頭の中で反芻しながら、どうにか自らの手で魔石を回収することに成功した。
それから、少女魔術師にとって地獄のような時間が続いた。
ガブリエラは複雑に入り組む四層の構造を綿密にマッピングする作業と並行しながら、絶え間なく襲い来る
地図作成と戦闘と解体作業の無限ループ。
何度も豚鬼の股間にナイフを入れるうち、いつしかガブリエラは貴族令嬢としての羞恥心を完全に捨て去り、一切の感情を交えず作業効率のみを追求する立派な冒険者へと変貌しつつあった。
――そこからさらに深く潜り、少し進んだ先でのことだった。
重い扉を押し退け、新たな玄室に足を踏み入れる。
その瞬間、ガブリエラがふと耳を澄ませると、前方から微かな音が聞こえてきた。
魔物の咆哮や足音ではない。
それは、すすり泣くような声と、そして苦痛に喘ぐ呻き声だった。
これまでこの階層では遭遇することのなかった、他の冒険者パーティである。
しかし、そこにいたのは、男女の六人組――否、正確には二人は既に四肢を欠損し、絶命して転がっていた。
生き残った四人の身なりと状況もまた、悲惨という言葉すら生ぬるい、凄惨な地獄絵図そのものだった。
部屋の奥には、蓋が開いたままの古びた宝箱が鎮座していた。
しかしその中身は空であり、代わりに周囲の石畳には鼻を突く人脂が焦げる悪臭と、むせ返るような白煙が淀みのごとく漂っている。
「こいつは……」
凄惨な現場を一瞥し、背後でシドウが感情の読めない声で低く呟いた。
典型的な宝箱の罠である、爆発罠が発動したのだろう。
ガブリエラは目を細め、彼らの状況を冷静に観察した。
宝箱の罠の解除にあたっていた盗賊らしき誰かは、至近距離で爆風と熱線を浴びたのか完全に炭化しており、もはや人間の形すら保たない黒焦げの肉塊と化していた。
また、宝箱の最も近くでとっさに仲間の肉盾になろうとしたと思われる全身鎧の男は、分厚い装甲ごと頭部を吹き飛ばされており、ひしゃげた首の断面からはどす黒い血が溢れ出している。
魔術師の少年は、腹部が破片で裂かれた上に腸がはみ出しており、その苦痛に白目を剥いていた。
回復役であるはずの僧侶の少女は、赤く染まったメイスを震える腕で抱え込んで、ただひたすらに虚空を見つめ、神への祈りともつかないうわ言を呟き続けている。
これこそが迷宮探索の現実なのだ。
ほんのわずかな油断や知識不足が、一瞬にして死を招く。
かつての自分だったら、間違いなく同じ末路を辿っていただろう。
その事実に背筋を凍らせながら、ガブリエラは杖を握る手にぐっと力を込める。
そんな絶望のどん底の中、ガブリエラたちの足音に気付いた一人の影が動いた。
剣を握るはずの右腕は肘から下の皮膚がひどく焼け爛れた上に指はなく、もはや武器を構えることすら不可能な状態だった。
彼女が着ている革鎧は腹部の装甲が爆風で消し飛んでおり、そこからの出血も酷い。
「あ……ああっ………!」
彼女はガブリエラの姿を認めると、絶望に染まりきっていた瞳に一縷の光を見出したかのように、ズルリ、ズルリと血の跡を石畳に残しながらすり足で這い寄ってくる。
「ぼく、僕たちを、た、助けてくれませんか……ッ!」
顔を涙と泥で汚した水色の髪の少女――
『宝箱の罠を解除する際は、被害を最小限にするために盗賊ひとりだけ残して、その他は玄室の外に出ればよいのでは』という選択肢を封じる為に、
本作では迷宮側の監視システムのナニカが、そういう『振る舞い』を感知した段階で無条件で罠起爆か、内部のお宝を消失させるということで(ウィザードリィ等でよくある疑問の理由として)、どうかひとつ。