眼前の危機に対し、ガブリエラが何かしらの反応をするよりも遥かに早く、
「《深淵ノ王タル大魔神ゾムン二願イ伏シテ奉ル――其レナルハ、闇ノ御手ナリ》」
淀みのない邪悪な口上とともに、
瞬間、虚空から濃密な瘴気で編み上げられた巨大な黒い手が沸き上がった。
それは容赦なく、ガブリエラたちの頭上へと猛烈な速さで叩きつけられる。
圧死を覚悟した寸前、彼女たちの前方に飛び出したシドウの
ギィィィンッ、と鋼が悲鳴を上げる。
シドウの足元の石畳に放射状の亀裂が走り、砕けた石の破片が飛散する。凄まじい重量が掛かっている
「GIHahahahaッ!!」
前方に見えているのは
鼓膜を劈くような喊声を上げ、十九体の
むせ返るような獣の体臭と、錆びた鉄の匂いが押し寄せてきた。
「ヒィィッ……来ないでっ!」
「ま、任せてください。グレイスっ、右方をお願い」
「っ、承知いたしましたわ」
突出して足止めされているシドウを背後から守るように前に出たのは、ヴァシリアと、グレイスと呼ばれた神官の少女だった。
ヴァシリアは利き腕ではない左手で必死に剣を握り締め、最初に接敵した一体目の
だが、未だ残る右腕の痛みと不慣れな左手での剣撃によるバランスの悪さから体勢が大きく泳ぎ、胸元の守りががら空きになってしまった。
「させませんわっ!」
その決定的な隙を埋めるように、横からグレイスが果敢に踏み込み、聖気を纏わせたメイスを
しかし、腐っても精鋭種ゆえの異常な反射神経か、
空振りで体勢を崩したグレイスの無防備な腹部へと、逆に太い拳を叩き込もうとする――が、それをさらにヴァシリアが、体勢を崩したまま剣先を突き出し、決死の牽制で食い止める。
魔物との圧倒的な筋力差と体格差ゆえの不利を、互いの身を呈して補い合う見事な連携であった。
だが、流石に地力の差までをも覆すことはできない。重い一撃を受けるたびに、ふたりとも苦痛に顔を歪ませ、滝のような汗を流していた。
「十分だ」
その声は、喧騒の中でも不思議なほど明瞭に響いた。
大地から十分に勁を汲み上げていたシドウが、静かな呼気を吐いてゆっくりと腰を捻る。
凄まじい重圧をかけていた《魔手》を彼は剣身で持ち上げつつ、斬り上げた。
如何なる術理によるものか。魔神の力の一端であるはずの巨大な黒い手が、まるで薄皮を裂くように両断され、無残に霧散する。
さらにシドウの握る
ヴァシリアたちが戦っていた
絶命して血を噴き出す様を見届けるや否や、後続として群がってきた
死体袋を背負っているとはいえ、それでも常人の動体視力では、暗闇に僅かに残る銀色の剣光の残滓しか目視できない。
ただ静寂と死だけを量産する凄まじい手際であった。
包囲しようとしていた残る
その戦局の傾き――好機を、ガブリエラは見逃さなかった。
わずかに一歩前へと歩み出る。
『――沸き立て、我が魔力よ。敵穿つ無慈悲なる白魔の牙となれ』
シドウの蹂躙と、ヴァシリアとグレイスの決死の抵抗が稼いでくれた時間で、ガブリエラの魔術が構築されていた。
虚空に魔術式が展開される。
素材の剥ぎ取りなど考慮しない――ガブリエラの純粋な殺意と加減なしの魔力が込められたそれは、大気中の水分を強制的に凍結させ、巨大で鋭利な氷の杭を複数まとめて陣より生み出した。
「皆さん、伏せてくださいっ」
シドウが前衛の
ガブリエラが《玲瓏の月》を振り下ろすと同時に、青白い軌跡を引いて氷の杭が猛然たる勢いで射出される。
ズドォォンッ!
咄嗟に
氷の杭は勢いを殺すことなく、そのまま
「甘イデスナ、《深淵ノ王タル大魔神ゾムン二願イ伏シテ奉ル――其レナルハ、侵シキガタキ剛壁ナリ》」
分厚い闇の瘴気が凝縮された《剛壁》が、ガブリエラの放った複数の氷の杭を真っ向から受け止めた。
ギィィィィンッ! という激しい魔力の衝突音と共に、鋭利な氷柱は頭目の鼻先のところで無残にも粉砕され、細かなダイヤモンドダストとなって広間の床へと降り注いだ。
――……強い。
ガブリエラは杖を握る手に力を込める。
以前遭遇した
「あああああああっ」
その時、背後から悲鳴が上がった。
ガブリエラが振り向くと、ここまで一切の気配を殺して隠密行動をとっていた
前方の集団で十分に注意を惹きつけ、その隙に致命的な後方からのバックアタックを狙うという、知性を感じさせる狡猾な戦術だった。
「ど、どうすれば……」
ヴァシリアとグレイスが、さらなる危機を前に思考を停止させたように顔を青ざめさせる。
ガブリエラは思わず縋るように、前線に立つシドウの背中を見た。
シドウは戦線が崩壊する兆しを見せても決して焦らず、いつもどおりの陰鬱げな声で即席
「ヴァシリア、グレイス。
このまますぐに後方に向かい、そいつを仕留めろ。
最低でも時間を稼いでくれればいい。
ガブリエラは次の魔術の準備を。
俺は前方の
「「は、はいっ!」」
一切の口答えや泣き言を赦さぬシドウの冒険者としての圧力。
それに背中を押されたのか、ヴァシリアとグレイスが即座に踵を返し、後方の
後方の憂いを仲間に託し、ガブリエラはさらなる魔術を構築するための深い精神集中――トランス状態へと沈み込んでいく。
一方でシドウは、依然として多勢である前方の
「キィィィィッ!」
怒り狂った
だが、シドウの振るう刃は、それらを遥かに凌駕する速度と精密性を持っていた。
下級冒険者であれば三人以上で対処すべき敵だ。
しかし、彼らはまともな打ち合いすらさせて貰えずに、前方に躍り出た二体の腕と首が呆気なく宙を舞った。
これで前方の
「《深淵ノ王タル大魔神ゾムン二願イ伏シテ奉ル――其レナルハ、尽キヌ闇ノ御手ナリ》」
虚空から瘴気で編み上げられた巨大な黒い手が、先ほどとは比べ物にならない――十を数えるほどの数で沸き上がった。
確実にすり潰して殺すという、魔物の悪意と気迫が空間を歪ませていた。
十の魔手がそれぞれ変則的な軌道を描き、シドウひとりに対し四方八方から殺到する。
「――――」
魔手が彼に到達するまで、僅かな時間があった。
その刹那の間に、シドウは無造作に歩み寄り、さらに
そして、剣先を後方に向け、静かに瞳を閉じる。
ゆっくりと、長い呼気を吐いた。
かつて彼に死体回収屋としてのイロハを叩き込み、剣匠と謳われた師から伝授された技のひとつ。彼にとっては奥義ですらない、初伝の型を振るう。
「■■■■」
腰の捻転とともに、前方に鋭い剣閃を放つ。そのまま手首を返し、翻るようにもう一閃。
軸足だけを踏みかえ、その斬撃の動作をただひたすらに、狂気的な速度で繰り返す。
やがてそれは肉眼では目視できぬ、暴風のような剣技の奔流と化した。
膨大な数の剣閃が空間そのものを切り刻み、シドウの周囲に致死の領域――緻密な『剣界』が構築される。
四方から殺到した魔手は、その領域に触れた端から凄まじい剣気によって削り取られていく。
絶対的な圧殺をもたらすはずだった魔手は勢いを大きく削がれ、やがて微塵切りにされて次々と闇へ溶けて消えていった。
それはもはや、剣術という枠を超え、何らかの魔術にしか見えない不可解な絶技であった。
「コノ化ケ物メガ――オマエタチ、アノ男ヲ何トシテデモ殺セ」
自身の手札を無傷で凌がれ、
死を恐れぬ残り六体の
『《
シドウの背後から放たれた極低温の暴力が、空間を薙ぎ払う。
四体の
《剛壁》の加護が残っている
「オノレ、オノレェェェッ! 忌々シイ人間共メッ!」
頭目の錫杖が、天を貫かんばかりに掲げられる。
周囲の冷え切っていた空気が突如として異様な熱を持ち始め、むせ返るような硫黄の悪臭が広間に充満していく。
「《眼前ノ供物ヲ以ッテ、深淵ノ王タル大魔神ゾムン二願イ伏シテ奉ル――其レナルハ、魂ヲ喰ラウ暴食ノ炎》」
その起句と共に、致命傷を逃れていた
それは伝承にのみ語られるという、生贄を捧げる代償系の嘆願であった。
同胞の命を対価として虚空より現れたどす黒い火球が、異常な熱を発しながら肥大――猛烈な勢いで膨れ上がっていく。
それは先ほどの《魔手》や《剛壁》とは次元の違う、高密度に圧縮された魔力を孕んだ純粋な殲滅の奇蹟であった。
着弾すれば、ガブリエラたち全員が骨すら残さず灰と化すだろう。
「……」
ガブリエラは奥歯を強く噛み締めた。
肌を焦がすほどの圧倒的な熱量を前に、生物としての本能は逃走を叫んでいる。
しかし、ここで自分が逃げ出せばヴァシリアたちに被害が及ぶし――なによりもシドウからの信用を失ってしまう。
それだけは絶対に避けなければならなかった。
「シドウさん、ここまで温存していた第三階梯の魔術を試します」
決死の覚悟を決めたガブリエラに対して――おそらくは彼単独でこの絶望的な局面を切り抜ける手段を、まだ幾つも隠し持っているのだろう――シドウは感情の読めない横顔のまま、静かに首肯した。
「――やれるのか、ガブリエラ」
「はい」
シドウの問いに対し、ガブリエラは一切の迷いを捨て去り、極限のトランス状態へと意識を沈めた。
自身の内に残存するすべての魔力を掻き集め、彼女が成し得る高難度の魔術式を虚空に構築していく。
「人間共メガ、揃ッテ消シ炭ニナレェェッ!」
頭目が杖を振り下ろす。
すべてを溶かす絶望的な熱量を秘めた巨大な黒炎の球体が、大気を陽炎のように歪ませながら、ガブリエラたち目掛けて一直線に放たれた。
『沸き立て、我が魔力よ。万魔を拒絶せし無毀の守り――すなわち不可侵たる氷の聖域となれ』
『《
ガブリエラが杖を天に掲げる――その瞬間、魔術式の陣より荘厳な青白い光を放つ巨大な六角形の氷の結晶体が現出した。
ガブリエラと頭目の間に位置する空間で、すべてを焼き尽くす黒炎の球体と、絶対零度の冷気を放つ巨大な氷の華が真正面から激突する。
――轟ォォォォォンッ!!
凄まじい水蒸気爆発が広間を激しく揺るがし、視界が一瞬にして真っ白な霧に包まれた。
途方もない熱と冷気が互いを殺し合おうと激しく拮抗し、耳を劈くような魔力の軋轢音が響き渡る。
「グヌゥゥゥゥッ!?」
頭目が驚愕に目を見開く。
取るに足らない弱者であるはずの人間が放った魔術が、魔神へ生贄を捧げてまで発動した奇蹟と互角に渡り合っているのだ。
死線を潜り抜けたガブリエラの魔術の冴えは、迷宮の浅層で弱い冒険者ばかりを狩って驕り高ぶっていただけの頭目の練度を上回っていた。
「押し返せえぇぇっ!」
ガブリエラの裂帛の叫びと共に、青白い光を帯びた氷の聖域が黒炎の熱量を凌駕し、それを完全に飲み込んで相殺した。
「バ、バカナァァァァッ!?」
最大の切り札を破られ、
「いやはや素晴らしい――本当にこの上なく良い教材だったよ、お前は」
「ガ、ァァッ……」
一閃。
シドウの放った斬撃が、
邪神官として奇跡の嘆願に特化した
ドサリと、首のない死体が重い音を立てて床に崩れ落ちた。
頭目が殺されたことに動揺したのか――後方でヴァシリアとグレイスと対峙していた
(つ、疲れた……)
安堵と疲労のあまりガブリエラは、床につきたてた杖によりかかる。
こうして、地下四層における