「……ふっ、ふっ、はっ」
雲ひとつない、突き抜けるような快晴の空の下、ガブリエラはクランハウスの裏庭でひたすらに鍛錬にいそしんでいた。
動きやすいように装飾の一切を省いた簡素な長上衣《チュニック》と、足捌きを邪魔しない細身の脚衣《ズボン》だけの格好である。
飾り気のない布地はすでに汗を吸って重くなり、彼女の肌にぴったりと張り付いていた。
シドウが所有するこのクランハウスは、スラム街との境界線――迷宮都市南地区にありながら、周囲の建物とは比較にならないほど相当に大きい。
ぐるりと周囲を覆う石壁は外の喧騒を完全に遮断し、その内側に広がる裏庭もクランハウスの規模に比例するかのように広大だった。
地面は丁寧に踏み固められており、思い切り走り込みをするのに全く不自由しない。
腕立て伏せ、腹筋、そして延々と続く果てしのない走り込み。
さらには、迷宮内で魔力切れを起こした際や、頼みの綱である杖を失ったときの最低限の護身の技術として、ずっしりと重い樫の木剣を使った素振りを行う。
肩の筋肉が悲鳴を上げ、掌の皮が破れて血が滲んでも、木剣を振るう手を止めることは許されない。
前衛後衛の役割を問わず、過酷な迷宮の底で生き残るためには、何よりもまず基礎体力が重要である。
それが、シドウの教えだった。
ガブリエラはその言葉に従い、以前にも行ったように地道な訓練を何度も交互に、ただ愚直に繰り返していた。
――結構体力ついてきたかも、わたし。
額に浮かんだ玉のような汗を、無造作に腕で拭う。
少し前のひ弱な自分であれば、一刻足らずで音を上げていたであろう過酷な訓練が、今は不思議と苦ではなかった。
奇しくも、過酷な迷宮探索による成果――あるいは倒した魔物の魂の残滓を取り込んだおかげとでもいうべきか。
ガブリエラの身体は女豹のようにしなやかで、引き締まった肉体となりつつあった。
……心なしか、胸も少しばかり大きくなったような気がする。
息を吐きながら、ガブリエラはほんの少しだけ頬を緩めた。
「ガブリエラ、そろそろ休憩したほうがいい。訓練は半々刻後にまた再開する」
「は、はいっ。承知しました!」
縁側に腰掛けていたシドウから、ぽんと革袋が放られる。
ガブリエラはそれを受け取ると、木の栓を抜いて水を口に含んだ。
冷たい水が、火照りきった身体の隅々の血管にまで染み渡っていく。
――なんだろう?
汗を拭ったガブリエラがふと顔を上げると、眩しい日差しを遮るように、上空からさっと黒い影が落ちた。
バサバサという羽音とともに、シドウが差し出した腕へ、一匹の大きな烏が舞い降りるのがわかった。
その鳥の姿をよく見れば、驚くべきことに三本の足が生えている。
赤い双眸は知性の光を宿しており、それが単なる野生の獣ではなく、使い魔の一種であることは明白だった。
「シドウ・カンザキ様、御手紙デス。差出人ヨリ、直接手渡シヲ所望トノコトデシタ」
「ヤタか。御苦労だったな」
三本足の烏――ヤタは鋭い嘴に咥えていた分厚い羊皮紙の封筒をシドウの手に落とし、再び羽ばたいて空高く飛び去っていく。
シドウの手に残された封筒には、差出人の身分を示す豪奢な指輪の紋章――太陽と剣が交差する意匠――で蜜蠟の封がされていた。
シドウは手持ちのペーパーナイフで手早く封を開け、無表情のまま内容を検める。
だが、文字を追うにつれシドウの眉間が寄り、わずかに渋面になっていくのが傍から見ていたガブリエラにははっきりとわかった。
「ガブリエラ、今日の訓練はもうこれで切り上げてくれ。
一旦風呂場で汗を流して、服を着替えたら、これから俺と一緒に外出だ」
「は? 外出、ですか? し、承知しました」
◇
水浴びをしてからローブに着替えてクランハウスの外に出たガブリエラは、驚くことになる。
なんと招待者側が既に馬車を用意して待機しているとのことだった。
確かに指定されたクランハウスの通りから少し外れた開けた場所には、黒い馬が二頭立てで牽く、四輪の馬車が泊まっていた。
車体の側面には、あの蜜蝋の封に押されていたのと同じ『太陽と剣』の紋章が描かれている。
御者台には、痩躯の男が背筋を伸ばして座っていた。
どうもこれから向かう先は、明らかに厄介そうな雰囲気があった。
彼らが向かうのは、迷宮都市北部地区――通称、貴族街である。
馬車に乗り込み、ベルベットの座席に揺られること一刻。
雑多な南部地区から遠ざかり、北部に近づくごとにたびに、車窓から見える街並みが劇的に変化していく。
馬車の車輪が奏でる音が、ぬかるんだ土の音から、舗装された真っ白な石畳を転がる軽快な音へと変わる。
建物の意匠はより整然と、そして芸術的な彫刻や装飾が施されたものになっていく。
行き交う人々も無骨な冒険者が明らかに減り、絹やベルベットといった上等で洒落た身なりをした人物が増えていく。かつて自分もあのような服を着ていた時期があったのだと、ガブリエラは少しだけ懐かしく、そして苦い気持ちになった。
「……シドウさん、私たちはどこに向かっているんですか?」
「ああ、《黎明》のクランハウスだとさ」
その名を聞いて、ガブリエラははっと息を呑んだ。
まだ駆け出しに近い彼女ですら、その名は知っている。
迷宮都市において頂点に君臨する、五大クランのひとつ。
その中でも最も古い歴史と伝統を誇り、所属するだけで一種の名誉とされる。
すべての冒険者にとっては、いつかそこに名を連ねることを夢見る、憧憬を集める名門中の名門といっていい。
「……確か、ヴァシリアさんたちが所属していたクランのはず、ですよね?」
「お、よく覚えていたな。そうだ」
もう数日前のことだ。
かの蘇生の儀式の後、最終的な護衛契約および死体回収の金額の支払いの手続きにおいて、大聖堂の雑務室内に同席していたガブリエラは、ヴァシリアたちが借金を背負うにあたり、かのクランとの関わりを持っていたことを覚えていた。
あの時、レティシアに対し、ヴァシリアは
……まあ、蘇生の奇跡を嘆願した結果、
目撃者としてそのことを思い出すとガブリエラは暗澹たる気持ちとなった。
しばらく馬車が進み、ついに貴族街の境界線に差し掛かる。
そこには強固な鉄柵が設けられ、直立不動で警戒にあたる兵士たちがいた。
彼らの鎧は一点の曇りもなく磨き上げられている。
わざわざ迎えの馬車を用意しておきながら二度手間とは思うが、シドウが窓から改めて羊皮紙の招待状を見せると、兵士たちは恭しい敬礼とともに通行の許可を出した。
重厚な門を抜けると、驚くべきことに街の中に清らかな水路が流れている。太陽の光を反射してきらきらと水面が輝いている。
等間隔に配置された灯は夜になれば昼間のように周囲を照らすのだろう。
――やがて、馬車がゆっくりと停止する。
門の先に見えたのは、もはやクランハウスというよりは豪邸だった。
庭の中央には大理石で精巧に彫刻された噴水が清らかな水を噴き上げ、花壇には見たこともないような色鮮やかな異国の花々が咲き誇っている。
手入れの行き届いた緑の芝生の上を、揃いの制服を着た使用人たちが忙しなく、しかし優雅な足取りで音もなく動いていた。
馬車を降りたシドウはガブリエラを伴って豪邸の庭を進み、やがて巨大な建物の入り口に辿り着く。
そこには、タキシードに似た黒の礼服を完璧に着こなした家令の男――頭にピンと立った狼の耳を持つ獣人が、静かに両手を前で組んで立っていた。
「ようこそおいでくださいました、シドウ・カンザキ様。ならびにガブリエラ様。
我らがクランマスターが、奥の客間にてすでにお待ちになられます。
どうぞ、こちらへ」
うやうやしく低頭する獣人の家令に従い、シドウたちは分厚い絨毯の敷かれた廊下を進んでいく。
壁に飾られた絵画、天井から吊るされた魔石をふんだんに使ったシャンデリア、凄まじい価値を持つであろう煌びやかな調度品の数々。
貴族として没落する前の自分の家よりも金を持っているのかもしれない……とガブリエラはとりとめのないことを考えた。
手入れの行き届いた調度品の一つ一つが、小国を動かせるほどの価値を秘めているのが元貴族の彼女にはわかってしまう。
なお、隣を歩くシドウは、調度品に関して一切の関心を示さず淡々と歩を進めている。
その堂々たる無関心さに、むしろガブリエラは少しだけ救われる思いだった。
「ここでございます――クランマスター、シドウ様とガブリエラ様が到着されました」
「わかった。入れ」
獣人の家令がひと際豪奢な装飾が施された重厚な扉の前に立つ。
ノックを行い了承を得た後――扉が開かれる。
踏み入れた広々とした室内には、四人の男女が待ち構えていた。
ソファーの端にはすこし痩せたように見える少女ヴァシリアと、同じく神官の少女であるグレイスが身を寄せ合うようにして座っている。
ふたりとも平服とでもいうべきか、
なお、欠損していたはずのヴァシリアの右手の指は――クランお抱えの神官の治癒の奇跡によるものか、元通りに治っているようであった。
そして、彼らの背後には胸当てだけを身に着けた、ひょろりとした体躯の長い耳をした隻眼の剣士――おそらくは高位の
だが、何よりもガブリエラの目を惹いたのは、中央の豪奢な椅子に深く腰掛ける、豊かな白い髭を蓄えた禿頭の老人だった。
家令に着席を促され、シドウとガブリエラは向かいのソファーに並んで座る。
「初めましてかの。儂は《黎明》のクランマスターをしているダリルじゃ」
「シドウ・カンザキです。冒険者としての等級は銀で――死体回収業を営んでおります」
ガブリエラは人知れず震える。
《黎明》クランマスター:ダリル・トワイライト。
『賢聖』と謳われる、迷宮都市はおろか大陸屈指の大魔術師である。
ガブリエラが元貴族として所属していた国にすら、その名は轟いていた。
歴史書に載るような生きた偉人に等しい存在を前にして、ガブリエラは知らず識らずのうちに、ごくりと生唾を飲んだ。
もう老境にありながら、
「――いやはや、遠路はるばるご苦労だった、シドウ殿、ガブリエラ殿。
まずは貴君等には礼を言わねばなるまいて。
迷宮の底で死にかけていた儂の子供たちを助けてくれた上に、無事で送り届けるなど――もはや感謝しかないわい」
「子供たち、ですか」
「さよう」
表情を変えないシドウの短い問いに対して、クランマスターの禿頭の老人が好々爺のように相好を崩して応える。
話の流れからして、ヴァシリアとグレイス――彼女らは《黎明》の数ある末端構成員というわけではなく、このダリルの血を引く子息か――あるいは養子だったのだ。
つまり彼らは、将来のクランを背負って立つはずのある意味で幹部候補たちだったのだろう。
「いえ、でしたら感謝される謂れはありませんよ。
護衛および治癒等の報酬に対して、我々は誠実な対応をしただけのことです」
「ほっほっほ、謙虚じゃのう」
ダリルが腹の底から笑う。
見た目は温厚な老人だが――果たしてその懐の裡はどのように考えているのか。
……この御仁は油断ならない手合いのような気がする。
気を引き締めるようにガブリエラは背を伸ばした。
「さて、無駄話はこれくらいにして、本題に入ろうかのう」
「…………」
「シドウ殿、ガブリエラ殿。
我らが《黎明》に入らんかね。
特にシドウ殿――貴君に対しては最初から幹部待遇で迎えようじゃないか」
一切の前置きのない、豪速の直球であった。
五大クランのトップからの、異例中の異例とも言える直接の引き抜き。
思考停止するガブリエラを他所にシドウはあっさりと首を振った。
まるで最初からその言葉が来ることを予想していたかのような、どこまでも落ち着いた、凪のような佇まいだった。
「過分な評価をいただき光栄ですが、お断りします。
零細冒険者の死体回収屋という立場が、今の俺――我々の身の丈にあっていると思っています。
とてもではないですが、歴史ある貴クランのような集団行動や気風に我々は向いていません」
「……なるほどのう。ガブリエラ殿も同じ気持ちというわけじゃな」
「は、はい。そうです」
間髪入れずに答える。かつての社交界で培った経験として、余計なことをいうべきではないとガブリエラは薄々察していた。
それにシドウが駄目だといっているのに、ガブリエラが受諾する理由など微塵もなかった。
うーむ、とダリルは豊かな白い髭をゆっくりとしごきあげる。
取り付く島もないシドウたちの態度に、思索を巡らせるように老人の褐色の瞳が細まった。
「なら、儂も執着はせぬ。諦めようぞ。
――それはそれとしてシドウ殿。これは依頼の一種として引き受けてほしいのじゃが」
「我々死体回収屋にできる範疇であれば」
「まあまあ、そう警戒せずに最後まで聞いてくれ。
考えるのも結論を出すのもそれからでも悪くはないじゃろ」
一切の譲歩や言質をとらせないシドウに、ダリルは苦笑する。
そして、歴戦のクランマスターとしての顔から一転、ただの年老いた保護者のような顔になり、悩みを吐き出すように息を深く吐いた。
「貴君のところで、ヴァシリアとグレイス――彼女等の面倒を見てほしいのじゃよ」