死体回収屋が、無窮迷宮の最深部を目指す 作:エベレスト
「――掛けまくも畏き世界の調停者にして、いと尊き輝龍神アモンに願い伏して奉る。深き迷宮の底にて朽ち果てし、この哀れな者たちに、今一度、冥界からの帰還の御許しを与え給え」
血と臓物にまみれた迷宮の底から一転、そこはまさに天上界を思わせる荘厳な空間であった。
迷宮都市の地上部、その中央にそびえ立つ白亜の大聖堂。
巨大な薔薇窓から色とりどりの陽光が降り注ぐ祭壇の前で、ひとりの少女が祈りを捧げていた。
透き通るような銀糸の髪に、蒼玉を思わせる深い青の瞳。汚れ一つない純白の法衣。そして、側頭部から伸びるなめらかな曲線を描く、龍人の象徴たる二本の角。
迷宮の泥にまみれた冒険者たちからは『大聖女』と呼ばれ崇められる破格の美貌の少女――レティシアの
「《
レティシアの細い指先から放たれた黄金の光が、石床に並べられた三つの死体袋を柔らかく包み込んだ。
それは、まごうことなき神の奇跡であった。
袋の隙間から漏れ出す光の中で、物理法則を完全に無視した現象が起きる。
失われた血液が虚空から生成されて血管を満たし、断ち切られた神経が再び結合される。
聖堂に漂いかけていたむせ返るような死臭は完全に浄化され、蝋のように青白かった骸たちの頬に、みるみると朱い生気が宿っていった。
やがて――ヒュッ、と水面から顔を出した溺死者のように大きく喉を鳴らして空気を吸い込み、若き剣士が重い瞼を開けた。
「あ、あ、ああァァァッ! 喰われる、足が、俺の足がァッ!」
跳ね起きるなり、若者は自身の両足を力任せに抱きしめて絶叫した。
無理もないだろう。彼の最期の記憶は、生きながらに魔物に自身の肉を咀嚼されるという、圧倒的な苦痛と絶望の瞬間で途切れているのだ。精神に深く刻み込まれた死の幻痛が、蘇生直後の脳を激しく揺さぶっている。
錯乱しながら全身をまさぐり、傷一つない己の肉体を何度も確認して、若き剣士は呆然と周囲を見渡した。
「俺……生きて、いるのか……?」
「ええ。輝龍神アモンの御手により、貴方がたの蘇生は無事に完了いたしました」
自身の太ももをさすりながら震える剣士に、レティシアは額に滲んだ汗を優美に拭いながら、慈愛に満ちた微笑みを向ける。
隣では、同じく蘇生を果たした魔術師の少女と荷物持ちの少年が身を起こし、互いの無事な顔を見合わせていた。
地獄の淵から生還した若者たちは、やがて冷たい大理石の床に縋り付いて歓喜の涙を流し始めた。
「ああ、神よ……! レティシア様、ありがとうございます……ッ!」
「うぅ、生きてる……よかった、本当によかった……!」
死からの帰還。神の恩寵。
それは、宗教画から抜け出してきたかのように美しく、誰もが涙する感動的な光景であった。
だが、そんな神聖な空気を、底の厚い戦闘靴の足音が無遠慮に踏み躙る。
大聖堂の太い柱の陰に寄りかかっていた男は、陰鬱気味に手入れのされていない灰色の髪をかき上げた。
「――感動の再会のところかなり悪いんだが、報酬の話に移らせてもらうぜ」
まるで墓場のように、堂内の空気が一瞬にして凍りつき、静まり返る。
歓喜に咽び泣いていた三人の新人が、びくりと肩を跳ねさせて声の主を振り返った。
そこに立っていたのは、酷く擦り切れた黒い革鎧を纏い、無骨な
彼がそこにいるだけで、浄化されたはずの空気に微かな血と泥の匂いが蘇るようだった。
彼らもまたこの男が死体回収屋として自分たちを救うために、凄惨な玄室に現れたことだけは理解しているのだろう。
全滅した若者たちのリーダーである剣士は、己の置かれた状況を悟り、屈辱と安堵の入り混じった顔でゆっくりと首肯した。
「回収基本料がリュード金貨八枚。狂鬼の群れに突っ込んだ危険手当で追加金貨二枚。しめて金貨十枚だ」
淡々と告げられた金額に、リーダーの剣士は目を丸くして見開いた。
「そ、それだけでいいのか……?」
「ただでさえ既にバカ高い蘇生費用を払っているだろ。それに新人冒険者の費用は格安にするのが俺の流儀でな。手持ちがないなら一括じゃなくて、ギルドを通した分割払いでも構わないぜ」
破格の安さであった。
リュード金貨十枚といえば、庶民がひと月ほど慎ましく暮らせる額ではあるが、冒険者の命の代金、それも浅層とはいえ死地からの回収費用としてはタダ同然と言っていい。
同業の死体回収屋であれば、恐怖につけ込んでこの十倍は吹っかけ、彼らのなけなしの装備すらも身包み剥いで売り払うのが常識である。
しかも、分割払いまで認めるというのだから、裏があると思われても仕方がない。
新人冒険者には安く、中堅以上の冒険者には高く。それがシドウの流儀であった。
冒険者の死亡率が最も高いのは、潜り始めてから三ヶ月以内の新米期間である。
ここで過大な借金を背負わせれば、彼らは絶望して迷宮探索を引退するか、あるいは無理な探索を強行して今度こそ
ならば、まずは安い投資で生かしておく。彼らが死線を越えて経験を積み、中堅に育ち、実入りが良くなった頃に再び死んだとき、高額な回収費用――正規よりやや高い費用を要求する。
それが、この狂った異世界で十年生き抜いてきたシドウなりの、したたかな商売であった。
「だが、追加条項だ」
シドウは懐から羊皮紙の契約書を取り出し、若者たちの前に放り投げた。
「以後、迷宮内でお前らがひとりを残して全滅した際、そのひとりが出す緊急時の死体回収の依頼において、俺、シドウ・カンザキを原則的に『優先指名』とする。これだけは記載してくれ。もめごとは防ぎたいからな」
「なるほど……商売上の競合を防ぎたいのか。他の悪辣な回収屋に俺たちを取られないための」
「そういうこった」
シドウは面倒くさそうに短く答える。
新人冒険者のリーダーは納得したものの、やはり懐が寂しいのか、あるいは己の圧倒的な未熟さを突きつけられたためか、やや苦々しく唇を噛み締めながらも羽根筆を受け取り、契約書にサインを行った。
大聖女であるレティシアは、祭壇の前からその一部始終を静かに見つめていた。
彼女もまた、この迷宮都市における死体回収屋の強欲な相場を知り尽くしている。
シドウのやり方が、新人たちを結果的に悪徳業者から保護する安全網として機能していること、そして彼らが中堅冒険者になれば、地の果てまで逃げようが情け容赦なく取り立てる冷徹さも理解している上で、ただにこにこと柔和な笑みを浮かべている。
「よし、契約成立だ。せいぜい長生きして、立派な得意先になってくれよ」
「ああ、今後も頼む」
そのあとも蘇生上の細かな手続きが行われ、すべての事務処理が終わったところで、新人冒険者たちがどこか逃げるように足早に去っていく。
サインのされた羊皮紙を無造作に丸めて背嚢に突っ込むと、シドウは踵を返した。
これ以上、この清澄で神聖な空気を汚すつもりもなかった。
もう用はないとばかりに大聖堂の分厚い扉へ向かって歩き出す、シドウの背に声がかかる。
「聴きましたよ。シドウ・カンザキ様。……まだ
先程までの信徒に向ける慈愛の響きとは違う、色濃い私情の混じった声だった。
しぶしぶといった形で振り返る。
澄みきった青い瞳が、シドウを真っ直ぐに射抜いている。
それは、蛮勇を咎めるような、あるいは心の底から心配するような切実な視線であった。
シドウがこの異世界に流れ着いてから十年。地獄をも超える路地裏でのスラム生活から、迷宮都市の泥水をすするような底辺時代まで、彼の泥臭い生き様を知る長年の顔なじみであるレティシアにとって、シドウはどこか不器用な兄に近い存在であった。
だからこそ、いかに腕が立つとはいえ、常に死と隣り合わせの迷宮探索をたった一人で続けている男の蛮勇極まる行いには、一家言申したいところであった。
単独探索など、遅かれ早かれ死を招く自殺行為に等しいのだから。
「相棒を作れとは言いません。ですが、せめて
小言のように告げるレティシアの言葉に、シドウは足を止め、視線だけを肩越しに投げ返した。
その光を吸い込むような漆黒の瞳の奥には、十年という歳月が重い澱のように溜まり、そして酷く歪な熱を帯びていた。
「悪ぃな。レティシア、俺は止まれないんだ」
ぽつりとこぼれ落ちたのは、理屈でも感情でもない、ただの事実の羅列だった。
まるで、奈落の底から手招きする何かに魂を固く縛り付けられているかのように。どこか迷宮の狂気に魅入られた男の陰気な返答に、レティシアは深く、大聖女らしからぬ重いため息をついた。
「……スラムの路地裏で泥水をすすっていた頃から、貴方は本当に何も変わっていませんね。救いのない――あるいは自ら救いを捨てた、迷宮中毒者」
「言ってろ。俺にとって最大の賛辞だ」
シドウは自嘲気味に鼻を鳴らす。
彼が迷宮探索にこだわる本当の理由を、レティシアは知っている。
迷宮の深淵――いまだ誰も到達したことのない未踏破領域に、彼がこの狂った異世界からかつていた世界へ帰還するための『鍵』が眠っていると信じているからだ。
その果てしのない渇望がある限り、カンザキ・シドウという男が自らの意志で歩みを止めることはない。
「最後にこれだけは言わせてください……死なないでくださいね、シドウ兄さん」
一瞬だけ、誰からも崇められる大聖女の顔を捨て、ただの一人の少女として気遣う彼女に、シドウは苦笑交じりに応えた。
「――ああ。さすがにお前に高額な蘇生費用を払うのは御免だからな」
シドウは振り返ることなく、ただ右手を軽く上げて応えた。
ギィィィッ、と重厚な木の扉が押し開かれる。
途端に鼓膜を打つのは、けたたましい喧騒と、欲望と狂気が煮詰まった常変わらぬ迷宮都市の熱気であった。
乳香の甘い匂いは吹き飛び、錆びた鉄と埃、そして安酒の入り混じった風がシドウの灰色の髪を激しく揺らす。
眩い陽光の下、何者でもない一人の死体回収屋として、シドウは雑踏の中へと姿を消していく。
残された大聖堂の中で、レティシアは胸元で両手を固く組み、祭壇の輝龍神に切なる祈りを捧げ続けていた。