翌朝。払暁の凍てつく空気が、窓の隙間からスラム街特有の淀んだ腐臭と共に流れ込んできた。
ヴァシリアとグレイスは薄い毛布の中で目を覚ますと、重い鈍器で滅多打ちにされたような苛烈な痛みに顔を顰めた。前日のシドウのしごきは、肉体の限界をとうに凌駕していたのだ。
指先を動かすだけで断裂寸前の筋繊維が悲鳴を上げ、脳髄を白熱した激痛が走る。硬い寝台から単独で身を起こすことも叶わず、二人は細い肩を寄せ合い、歯を食いしばって這い上がるしかなかった。
それでも、二人は休むことを己に許さなかった。
一階で朝食を無言のまま胃に流し込むと、シドウに連れられ、二人は再び朝露に濡れた裏庭の泥濘の上に立っていた。空はまだ白み始めたばかりで、吐く息は白い。
昨日と全く同じように、ヴァシリアは木剣を正眼に、グレイスは木製のメイスを腰溜めに構えた。
昨夜、暗い寝室で誓い合った通り、今日こそは半歩程度でもシドウをその場から動かそうと、二人は必死に足掻いた。
しかし、現実はどこまでも非情だった。
ヴァシリアの渾身の斬撃は、シドウが木剣の柄をわずかにずらしただけで、流水に巻き込まれた木の葉のごとく威力を殺され、地面へと誘導される。
その反動で体勢を崩されたところへ、側面から強襲したはずのグレイスのメイスが、同志討ちとなるよう巧妙に操作された。
気づけば二人は激突し、手足を絡ませて冷たい地面を転がり回っていた。
鉄錆のような血の味が舌の上に広がる。
天を衝くような巨大な城壁に素手で殴りかかっているかのような無力感が、二人の心を容赦なく蝕んでいく。
「――よし、わかった。趣向を変えよう」
何度目かの転倒から震える足で立ち上がろうとする少女たちを見下ろし、シドウは呆れたように木剣の平で己の肩を軽く叩いた。
泥を啜り血反吐を吐きながら戦技を身に着けてきた彼からすれば、この程度の訓練は生温いも同然だ。
が、彼の観察眼は一つの事実を正確に射抜いていた。
彼女たちは巨大クランのクランマスターの養娘として、手厚い庇護という温室の中で育てられたお嬢様であり、つまり死線を嗅ぎ取る嗅覚もなければ、当然人体の構造を理解して相手を倒すための合理的な技術も知らない。
つまり、ここで基礎中の基礎、戦いの『術理』を言語化し、肉体に直接教え込まなければ、彼女たちは永遠に空回りを続けるだけだ。
「これも時代かぁ」とシドウは髪をかきむしりながら、少女たち以上にどこか疲弊した顔つきでため息をついた。
この世には強者との手合わせで自ずから勝手に成長する者と、そうでない者がいる。
端的に言うと少女たちは後者である、という話なのだろう。
「ヴァシリア、試しに剣を振ってみろ。ゆっくりとだ。俺に向かって振らなくていい。ただの素振りだ」
「は、はい……」
促されるまま、ヴァシリアは泥に塗れた木剣を拾い上げ、ふらつく足で立ち上がった。
深呼吸をして、習い覚えた美しい型通りに剣を上段に構え、ゆっくりと振り下ろす。
その背後に、シドウが音もなく歩み寄り、彼女の背面に密着するようにして立った。
「まず、剣の振り方が根本的に間違っている」
シドウの低く落ち着いた声が、ヴァシリアの耳元をくすぐる。
歴戦錬磨を感じさせる男と革鎧の匂いに、ヴァシリアは内心で早鐘のように心臓を打ち鳴らし、顔を朱に染めた。
彼はヴァシリアの右手を自分の大きな掌で包み込み、もう片方の手で彼女の腰をぐっと押さえた。
「剣は腕の力だけで振るんじゃない。君は肩と腕の筋力だけで振り回しているから、軽く軸をずらされただけで体勢が崩れるんだ」
「な、なるほど……では、どうすれば」
「足の裏だ。大地を踏みしめろ」
シドウは自らの足先でヴァシリアの足首を軽く小突いてスタンスを広げさせると、言葉を続けた。
「大地を踏む際の脚の反作用――地面から跳ね返ってくる力を減衰させずに、足首、膝、腰へと伝える。その力を活かし、腰から背骨、肩へと螺旋のように捻転させて刃に伝えるんだ。腕はただ、その力を逃がさないための『経路』にすぎない。特に君のような細い体躯の場合は、膂力に任せるのではなく、全身運動で剣を振るわなければならない」
シドウの言葉に合わせて、彼の手がヴァシリアの身体を直接導く。
腰を沈めさせ、右足で地面を強く蹴らせる。踏み込みの力が腰の回転を生み、シドウの手によって誘導された肩が滑らかに連動し――木剣が鋭く空を裂いた。
――ブォンッ!
先ほどまでとは比べ物にならない、空気を切り裂く重厚な風切り音が響き渡った。
腕の力は先ほどの半分も使っていないというのに、剣閃の速度と重みは倍以上に跳ね上がっていたのだ。
「これが、肉体構造を使った正しい力の伝達だ。
そして、もう一つ。常に己と敵手の『攻撃線』を意識しろ」
「こ、攻撃線、とは……?」
「雑にいえば狙う線――互いの武器が到達する最短距離のことなんだが……そうか、そこから教え込む必要があるか」
シドウは苦笑した。
「いいか。敵と君を結ぶ直線の通路があるとする。
君たちは常にその通路の上を馬鹿正直に往復しているから、簡単に俺に読まれて迎撃される。
攻撃線を意識するとは、常に相手の通路から自分の身体を外し、相手の側面に自分だけの新しい通路を敷いて攻めるということだ。
この感覚を肉体に刻み込め」
シドウはそう言うと、今度は唖然としているグレイスの方へと向き直った。
「グレイスも、だ。メイスはやみくもに相手を打撃を与える鈍器じゃない。もっと
「はい、承知しましたわ。力任せに振るのではなく、相手の攻撃を弾き返すのですね?」
「ち、違う。弾き返すんじゃない。力を正面からぶつけるな」
シドウは深くため息をつき、今度はグレイスの背後に回り込んで彼女の身体に強く密着した。
冒険者業をしているとはいえ、ヴァシリア以上に男慣れしていないグレイスは、シドウの鋼のごとく鍛え抜かれた肉体を背に感じて、顔を真っ赤に染めながら肩をすくませた。
「メイスの重心は先端にある。この重さを利用して、相手の武器の軌道に『置く』だけでいい。
ヴァシリア、グレイスに向かって剣を振ってくれ。
グレイスはメイスの柄を支点にして、先端の重りで剣を『滑らせる』感覚を覚えろ」
シドウはグレイスの震える両手に自分の手を重ね、メイスの角度を微調整する。
それは文字通り、これ以上ないほどの手取り足取りの指導だった。
手首の返し方、足の運び、呼吸のタイミング、視線の置き方。シドウは言葉だけでなく、自身の肉体を使って、彼女たちの身体に直接戦いの『理』を書き込んでいく。
おそらくはシドウにとって、およそ考え得る限りで最上級に甘い、手を尽くした教導がこれなのだろう。
少女たちの恥じらいや戸惑いは、すぐに完全に消し飛んだ。
気づけば太陽は中天に昇り、やがて夕闇が迫る時間になっていた。
二人の身体は相変わらず泥だらけで、筋肉痛も激しさを増していたが、その瞳に昨日までの絶望の濁りはなく、新たな知識と技術を吸収した確かな光が力強く宿っていた。
ただ無為に痛めつけられるだけではない、自分たちが確実に戦士として『進化』していることを実感できる、極めて濃密で充実した訓練となったのだ。
◇
夜。
クランハウスの一室で、ランプの灯りが、大きな木机の上に広げられた羊皮紙の束を照らし出していた。
部屋にいるのは、シドウと魔術師のガブリエラの二人だけだ。
壁には、これまでの探索で得られた情報を元に精緻に描かれた迷宮の構造図が何枚も貼り付けられている。インクの匂いと、安物のランプ油の焦げる匂いが部屋に充満していた。
二人は、次なる迷宮探索へ向けての綿密な計画を練っていた。ガブリエラが寝る間も惜しんで尖筆を走らせていた地下四層エリアの地図の精査作業も、粗方の目途がついてきたためである。
「シドウさん、お話があります。魔術書を購入したいのです。トゥバン魔術商店へ買い物に行ってもよろしいでしょうか」
「構わない。そも、探索時の稼ぎの半分は君の借金返済、残り半分は君の取り分とする契約だ。好きに使え」
「ありがとうございます」
もはや今更ではあるが、宿代も食事代も無料で、かつ探索の稼ぎの半分を借金返済に回せるという破格の契約。
この条件ではシドウの取り分が全くないことが気がかりだったが……彼には何か深遠な考えがあるのだろう。
シドウは腕を組み、細かく書き込まれた地図の要所を指でなぞりながら、静かに口を開いた。
「ああ、ガブリエラ。俺からも話がある」
「な、なんでしょうか」
ガブリエラは背筋をピンと伸ばした。
彼女にとってシドウは、貧窮のどん底に落ちていた自分を救い上げ、過酷な世界で生きる術を教えてくれた恩人であり、敬愛する師であった。彼の言葉一つ一つが、とてつもない重みを持っている。
「まだまだ先の話だが、取り合えずバンガン工房からの鎖帷子が出来上がり次第、探索を行うつもりだ。
そして、次の迷宮探索では――君が暫時的な
その言葉に、ガブリエラは翠色の瞳を見開いた。
「わ、私が……
「そうだ。地図書きとの兼業になる。索敵や斥候そのものはふたりに任せるとして、要所の指示、判断と前衛二人の体力管理を行うことになる。負担が大きくなるが……できるか?」
シドウの瞳は真剣そのものだった。
それは、ガブリエラに対する指導を引き上げる段階に来たという証。
彼女を後方から魔法を撃つだけの単調な砲台で終わらせず、戦場全体を俯瞰し、手駒を的確に動かす指揮官としての経験を積ませるべきだと判断したのだ。
それに、あの二人――ヴァシリアとグレイスも、いつまでもシドウの庇護下という名の訓練環境に置いておくわけにはいかない。
「も、もちろんです……! 必ず、ご期待に応えてみせます!」
ランプの淡い灯りに照らされたガブリエラの頬は、鮮やかに紅潮していた。
彼女は決意に満ちた熱い瞳で、机の上の迷宮の地図を真っ直ぐに睨みつける。
やがて時が来れば、再びあの暗く冷たい迷宮へと潜ることになる。
だが、今のガブリエラに恐れはなかった。
新しく生まれ変わろうとする前衛の二人と、指揮官としての覚悟を決めた少女。
迷宮の深淵を切り裂くための新たな歯車が、静かに、しかし確実に噛み合い始めていた。