――おお、汝、迷宮の王を畏れよ。その無窮たる深淵に挑むのであれば。
『エルドネス物語:冒頭一節』
地下迷宮――正式名称《無窮迷宮》は、城壁に囲まれた迷宮都市外郭からさらに離れた荒野、その中心に存在する巨大遺跡の地下に広がる深淵である。
かつて、この迷宮から溢れ出る膨大な資源を管理するため、迷宮を中心に都市を構築する計画が存在した。
しかし、それは都市規模の防衛戦略としてはあまりに杜撰で危険に過ぎた。
もし、万が一敵国の軍勢が攻めてきた時に、迷宮から
そのため、あえて距離を置いた場所に強固な城塞都市が建設されたという、のっぴきならない背景が存在する。
これは迷宮都市の貧民窟の孤児ですら知っている話ではあった。
「――どうも。騎士さん方、精が出ますね」
遺跡の入り口、重厚な石門を護る男たちが、シドウの姿を認めるとわずかに顎を引いた。
全身を鋼の鎧で固めた、屈強な戦士たち。
白銀に輝く巨大なハルバードを彼らは泰然と構えている。
全員が冒険者の最高到達点である《
彼らの任務は、迷宮探索ギルドにおける無登録者の侵入を防ぐこと、迷宮から万が一魔物があふれ出した場合の可及的速やかなる掃討、そして最も重要なのが敵国による迷宮そのものの強奪の阻止である。
誰が言ったか、すなわち《迷宮騎士》。
尊崇と畏怖を一身に集める都市の守護者に対し、アウトロー寄りの冒険者たちにとって愛想よく接することは処世術のひとつであった。
騎士のひとりが、無骨な鎧兜の下から感情のない視線を向ける。
「……最近、深層の歪みが激しい。死にたくなければ無茶は控えることだな」
「ご忠告どうも」
我らは貴様らの冒険には一切干渉せぬゆえ、という彼らの態度にシドウは軽口で返し、淡々とした足取りで遺跡内部へと進んでいく。
不気味なまでに整然とされた石造りの廊下を抜けると大広間と巨大な昇降機――かつての超文明が遺した動力炉で駆動する遺物――にたどり着く。
錆びついた鎖が軋む音を響かせ、巨大な籠が迷宮の底へと滑り降りていく。
「……さて。稼がせてもらいますかね」
ごきごきと肩を鳴らした後、シドウは懐から銀色のギルド証を取り出し、昇降機へと押し付ける。
この昇降機は過去の五層ごとの
誰もその絡繰りを解き明かせぬまま、便利だからという一点で思考停止している迷宮都市の住人たち。
シドウはこの
選択可能な表示を横目に、手慣れた様子で地下五層を選択する。
重厚な唸りを上げて、籠が地下へと落ちていく。視界を石壁が高速で滑り降りていく。
地下五層。そこは湿り気と古臭った
シドウはこの階層の地図を網膜に焼き付けるように記憶している。
魔物の出現エリアを熟知し、最短経路で下層を目指す。
浅層でありながら、不注意な新人が命を落とすには十分な危険地帯だ。
「遍満せし魔素よ、疾く灯となせ――《
冒険者の必需である第一階梯の呪文を唱える。
幾何学模様で構成される陣――魔術式が手のひらに構築される。
やがて掌から、蒼い光球が出現した、
これなしでは、明かりの確保が厳しい迷宮で落命は免れない。
松明に関しては片手が塞がる為、非常時以外は推奨されないのだ。
大して気負うこともなく、シドウは通路を探索する。
時折、玄室に足を踏み入れては、かつての冒険者が遺した装備品や、無惨な骸を回収する。
これも彼の日課であり生業だ。
基本的に迷宮で死んだ者の持ち物は、次の誰かの命を繋ぐ糧にしかならない――が、まあ遺品を使う趣味はシドウにないため、ギルドに提出するつもりではある。
「流石に下に行くか」
間抜けに歩いてきた数匹の小鬼の首を跳ね、シドウは独り言ちた。
既に二十匹以上の小鬼を駆除している。
旨味がなさすぎる探索に、さらに下に潜ろうかと思案していたその矢先――シドウは、微かだが女の切迫した悲鳴に眉を寄せた。
即座に壁へと身を寄せ、気配を殺す。
最短で音源を特定し、小走りに近づいていく。
階層最奥の細まった通路の先にある玄室から声が響いているようだ。
見張りなのだろうか。
腐り落ちた革鎧に、錆びだらけの剣。飛び出した眼球。
風貌から明らかに
意識の間隙を縫うように接敵し、速やかに斬首。
既に空いていた扉からそっと中を覗き込む。
仄かに明るいそこで繰り広げられていたのは、三人の少女を六人の男たちが追い詰める、無慈悲な光景だった。
「っ、いやっ……近づかないで!」
「無理なんだよなあ、嬢ちゃん。ここは迷宮だ。騎士の連中だって、冒険者同士のいざこざには関与しねえよ」
「あきらめなよ。お前みたいな新人がここまで来ること自体が間違いなんだよ……魔物の餌になる前に俺たちの手で処分してやろうってんだから感謝しろよ」
迷宮という残酷で閉鎖的な空間。
《迷宮騎士》は余程の騒乱にならない限り、内部の不和には介入しない。
それを知っているからこその、
「……なるほど。新人冒険者を食い物にするタイプねぇ」
この程度ありふれすぎている出来事だ。
だが、ありふれているという事実は、彼らを見過ごしていいという理由にはならない。
シドウが死体回収屋として貫いてきた流儀とは対極にある、迷宮の屑ども。
こうした連中が、新人冒険者の死の確率を不必要に高めている。
陰鬱な話だが、お掃除の時間であった。
愛剣を構える。
既に《
数人の男たちが組み敷くように、少女たちに覆いかぶさっていく。
少女たちにとって悪夢でしかない、狂宴の始まり。
だが、ニヤニヤと宴の始まりを見ていた男が、不意に違和感に気づく。
玄室の見張りとして立っていた男の定時連絡がなかった。
「おい、どうした」
男のひとりが、安否確認を含めた問いを投げる。
迷宮探索に挑む者としての心構えという人間性――あるいは残滓が残っていたのか、ずり下げた脚衣を速やかに戻そうとする。
が、しかし、時すでに遅し。
シドウは影のように空間を駆け抜け、最初の男の首筋へと刃を叩き込む。
ブチリ、と肉の裂ける鈍い音。
男は悲鳴を上げる間もなく、首から鮮血を噴き出して崩れ落ちた。
「――お楽しみのところ悪ぃねえ」
悲しくなるほど思ったより練度が低い。
もはや軽口をたたく余裕すらあった。
一切の感情をそぎ落としたような声に、男たちは戦慄する。
数多の死を見届け、深淵を歩き続けてきた者だけが纏う、濃密な死の臭い。
「な、なんだお前、どこの冒険者だ……!? 俺たちは《黒牙》の一党だぞ!」
「騎士に密告すれば――!」
男たちが脅しをかけるが、シドウの表情は微塵も変わらない。
さらにひとりを斬首。
返す剣身でまたひとり。
せめて武装してれば多少は戦いになったかもしれない。
が、無防備な状態で圧倒的格上に奇襲された状況においては、もはや抵抗などあってないようなものだった。
淡々と、無駄のない動きで四番目の男の心臓を貫く。
返り血が顔を赤く染めるが、瞬きひとつせず、次の獲物を定める。
面白い冗談だねえ、とシドウは唇のなかだけでつぶやいた。
「……莫迦かよ。事なかれ主義の究極たる
ここでようやく少女たちを人質に、という手段に思い至ったのだろう、五番目の男が短剣を構える。
げらげらと嗤いながらひとりの少女の顔に刃身を添える前に――その男の頭蓋を割った。
最後になりふり構わず六番目の男が逃げようと背を向けた瞬間、シドウは一撃で脚を凪ぎ払う。
「――死にたく」
「ばいばい」
膝をついた男の背後から、躊躇いなく剣を突き刺した。
肋骨の隙間を縫い、心臓を確実に貫いている。
数秒前までの騒ぎが嘘のように、玄室には静寂が戻る。転がる六人の死体。
「……あ、ああっ」
「っ、ぐ、ぐすっ」
「……どうして、こんな」
少女たちは放心状態で、その場にへたり込んでいた。
ひとりはましだが、残りふたりはまともな会話が通じそうになかった。
シドウは血のついた剣を振るい、腕で剣身を挟むようにして人脂を拭い始める。
――魔術師、剣士、荷物持ちか。盗賊と盾がいないのが致命的だな。
経験則から少女たちの職業を見抜く。
駆け出しの冒険者が大した危難にもあうことなく、運よくこの階層まで来てしまったということだろう。
そして、この階層を縄張りにしていた
「……おい、そこのお嬢さんがた」
シドウの低い声に、少女がビクリと肩を震わせる。
「さっさと近場の昇降機まで戻れ。
魔物の再出現はしばらくない。大した罠もないから、まっすぐ帰りな」
シドウは冷徹な視線を投げる。少女は唇を震わせ、濡れた瞳でシドウを見上げた。
まるで、目の前で起きた凄惨な殺戮が現実か夢かも分からぬ様子だ。
彼女は立ち上がろうとして足がもつれ、また床に手をついた。
「わ、私は……っ、もう、どうすれば……」
「足が動かないなら、死ぬだけだぜ」
シドウの言葉は突き放すようでありながら、ある種の助言でもあった。
少女はハッとしたように捨てられたローブを拾い、必死の形相で身に纏う。
シドウは残した死体を一瞥すらしない。
この男たちは、もはやただの廃棄物に等しい。
「――あ、あのっ!」
魔術師の少女は何かを言いかけるも、シドウの乾いた表情を見て何かを察したのか。
放心状態のふたりの少女を連れながら、震える足で昇降機の方角へと駆け出した。
その背中が暗闇に消えるのを見届けてから、シドウは小さく息を吐く。
「……面倒なことをした」
独り言ちて、彼は自身の革鎧に付着した血を拭う。
迷宮の底へ降りれば降りるほど、人間らしい感情は摩耗していく。
それは、既知の事実の確認でしかなかった。