死体回収屋が、無窮迷宮の最深部を目指す 作:エベレスト
幾度も代わり映えのない迷宮探索を終え、その日の分の死臭を洗い流すこともなく立ち寄ったとある夜。
場所は城壁都市の外郭、絢爛な中心街から見捨てられたスラムとの境界線に位置する、冒険者たちの吹き溜まり。
酸えたエールと焦げ付いた獣の脂、粗悪な煙草の煙、そして衣服や皮膚に染み付いた血と臓物の匂いが混ざり合う。
その劣悪な空間に、狂ったような蛮声と嬌声が煤けた石壁を震わせて響き渡っていた。
その日の命を拾った者たちが安堵に身を委ね、あるいは明日には散るかもしれない命をすり減らす者たちが、刹那の快楽を貪る酒場――それが《灰猪亭》である。
「聴いたぜぇ、シドウよぉ。まーた浅層で、乳離れできねえ新人冒険者の介護をしてるってよぉ!」
ちびちびと酸味の強い安物の酒杯をあおっていたシドウのテーブルの前に、どんと地響きを立てんばかりの勢いで、ひとりの男が腰かけた。
赤銅色の肌を持つ、座っていても見上げるような巨漢だ。
人間と巨人の血を引く半巨人族であり、泥水をすするようだったスラム時代から、シドウとはもう何年になるかも分からない腐れ縁の冒険者。
そして、稼いだ金のほとんどを酒に変える筋金入りの酒カスであるジェイクだ。
彼はその隆々としたたくましい胸筋を、前開きの粗末な獣皮衣からこれ見よがしにむき出しにし、剛毛の生えた太い腕で泥色のジョッキを掲げて豪快に笑っている。
「介護じゃねえ。ただの投資だよ、投資。
最近のギルドは、新人への支援や安全策のための予算が少なすぎるだろ。
俺のような底辺の回収屋が慈善事業まがいの真似をしなきゃならんくらいにな」
シドウが冷淡な声色で返すと、ジェイクはガハハと周囲の騒音に負けない下品な笑い声を上げた。
「投資ねえ! 成長しきった小綺麗なところを、後から美味しくいただくっていうお前の助平な魂胆にしか聞こえねえよ!」
「ふん、言うじゃねえか。まあ、あながち間違ってねえよ」
シドウは頬杖をつきながら、雑な返答で言葉を濁す。
流石に今日の探索は体に堪えており、疲れているのだ。
「まあ、予算についてはしょうがねえぜ、シドウ」
ジェイクが不味そうなエールを喉に流し込み、髭に絡みついた泡を乱暴に拭いながら、世知辛い迷宮都市の社会情勢を吐き出す。
「今の迷宮都市は国防の予算に大半を割いてるし、迷宮の恩恵を独占する上級冒険者クランの待遇改善、おまけに大教会への多額の寄進で手一杯だ。
右も左も分からねえ新人を一から手厚く育てる余裕なんざ残ってねえよ。連中は、迷宮の罠で間引かれる程度の奴は消耗品だと割り切ってやがる」
シドウはただ、ひび割れた木杯の底を見つめる。
油の浮いた濁った液体が、かすかに揺れていた。
「……その予算がいつになったら、末端にまで賄われるのかっていう話なんだがな」
「多分、俺たちが生きている間は無理だよなー。せいぜい長生きして、お互いがくたばった時は死体から小銭を回収し合おうぜ」
シドウの陰鬱な問いに、ジェイクは苦々しく頬肉をつりあげる。
迷宮都市もギルドも、人材をただの代替可能な資源としてでしか見ていない。命は金貨よりも軽く、容易く散る。
同じスラム上がりとして、ジェイクもシドウと底辺の諦観を共有していた。
どこか辛気臭くなった空気を払拭するように、んなことよりもだ、とジェイクは空になった杯を荒々しく叩いた。
「シドウ、俺が言いてえのはただひとつ。もし助けた相手が仮に極上の嬢ちゃんだってなら、俺だったら助ける条件に、肢体の隅々まで調べる権利を要求するね! そういう役得がないと、この街じゃやってられねえ!」
「お前……相変わらずブレねえな」
卑猥な手つきで、ジェイクはニヤニヤと意味ありげなジェスチャーを交わす。
苦笑するシドウだが――直後、その顔がぴきりと不自然にひきつった。
遠目に、明らかに厄介極まる客が店に入ってきたのを、彼の鋭い知覚が捉えたからだ。
酒場の入り口付近から、波紋が広がるように歓迎の歓声と、どよめくような野太い蛮声がとどろいた。
シドウにとってはただの頭痛の種でしかない、因縁のある連中だが、ここにいる大半の荒くれ者たちにとっては、泥の中に咲いた一輪の華――文字通りのアイドル的な存在がそこにいた。
入ってきたのはふたり。どちらも若い。おそらく十八歳前後であろう。
ひとりは、男たちの視線を釘付けにする魅惑的な肢体を、動きやすい暗色の高級な軽装鎧で覆った、燃えるような赤い髪を持つ盗賊の女。
そしてもうひとりは、衣服こそ上質な布地で仕立てられているが、その両目を白い包帯で幾重にも厳重に巻いた、異様なまでの静寂を纏う女。
彼女たちこそ、迷宮都市の中堅冒険者において最強の一党と名高い《天翼》の主要メンバーである。
長年に渡って、高い連携力を誇る『五人の女性のみ』で構成される特殊にして最高峰の一党。
既に上位冒険者の大規模クランからも何度もも破格の条件で引き抜きの勧誘を受けているという、この界隈の有名人だった。
「あれ、あれあれあれー? そこにいるのはシドウ先輩じゃないですかー」
小動物染みた愛らしい風貌の少女――赤髪の盗賊ルーナが、まるで極上の獲物を発見したかのように目を輝かせ、案の上まっすぐにシドウのテーブルへと接近してくる。
「ルーナか。……どうしたんだよ、こんな薄汚くて安い店に。流石に今の豪勢なお前たちの稼ぎとは、見合わないんじゃないか」
「たまにはいいじゃないですかー。高いところは格式張ってて堅苦しくていやなんですよ、わたしは」
圧倒的な陽キャムーブを見せつけながら、ルーナはシドウの隣の席へ強引にその身体を滑り込んできた。柑橘類を思わせる甘い匂いがシドウの鼻腔をくすぐる。
彼女は流れるような動作で、シドウをプライベートな会話の檻に引き込んでいく。
こうなると、もう簡単には逃げられそうにない。
案の定、周囲の男たちから「なぜあの冴えない死体回収屋が」という、嫉妬と殺意が入り混じった視線が突き刺さる。シドウは内心で大きなため息をついた。これだからこいつらと関わるのは嫌なのだ。
チラリと正面を見ると、先ほどまで下品に笑っていたジェイクが、これみよがしにシドウに向けて中指を立てていた。その顔には『お前、楽しんでるんじゃねえよ』と書いてある。
あとでその指関節ごと捩じ切るからな、シドウは目でそう脅し返したが、ジェイクはどこ吹く風で、すでに別の給仕の尻を追いかけ始めていた。
「――シドウ・カンザキ。やはりあなたの運命は、どこか霧雨のようで捉えどころがない」
鈴を転がすような、だがどこか感情の起伏に欠ける声が響く。
目を包帯で覆った女――《天翼》のウルスラが、視界が閉ざされているはずにもかかわらず、正確にシドウの正面に立った。
彼女は『分岐的未来の観測』と呼ばれる、因果の糸を垣間見る希有な特異能力の保持者だ。
常に煙に巻くような、しかし核心を突いた不気味な言葉を吐くため、シドウとしてはルーナ以上に警戒している相手だった。
「先輩ー、わたしとの『約束』、まさか忘れてるわけじゃ無いですよねぇ?」
それまでそれまでそれまで無邪気に笑っていたルーナが、不意にその声音から温度を消した。
彼女はシドウの肩にそっと手を置き、顔を近づける。耳元で囁かれる吐息は熱い。
だが、その瞳からは完全にハイライトが消え失せており、底知れない女の暗い情念が渦巻いていた。
シドウにしか聞き取れない、ほんの微かな呪いのような声で少女は呟く。
「次の『迷宮武闘祭』。負けた方は、勝者のいうことをなんでもきく。……そう言いましたよね」
「……ああ、そんな戯れ言を一方的に言われた記憶はあるな。受諾した覚えは皆無だが」
「ダメですよ、強制ですから。……それでね、わたしの望みは」
ルーナの湿った唇が、シドウの耳たぶに今にも触れそうなほどに近づく。
「先輩の『所有権』ですからね。一党の勧誘なんて生ぬるいものじゃなくて、身も心も、あなたの人生のすべてをわたしが買い取りたいんです」
それは、迷宮都市の荒くれ者たちを魅了するアイドルの顔ではなかった。
純粋な、そして狂気すら孕んだ一人の女としての異常な執着の表情。
――マジで狂ってやがるな。
確実に関わりあいになってはいけない。
直感が、全力で警鐘を鳴らしていた。
「――――おおっ、シドウ・カンザキ、あなたは《天翼》に来なければならない」
ルーナの言葉に同調するように、ウルスラがその場で重々しく首肯する。
それは神の託宣を受け取る預言者のような、ひどく仰々しく、そして確信に満ちた仕草だった。
「《天翼》に来なければ、あなたはいつか破滅する。この未来は外れない、ということだけは明確にわかる」
「――なかなかに面白い与太話だったよ。あばよ、嬢ちゃんたち」
もうこれ以上、彼女たちの奇妙な狂言に付き合うのは御免だとばかりに、シドウはテーブルに勘定の硬貨を置く。
残ったエールを強引に喉に流し込んだ。
背中に突き刺さるルーナの射抜くような熱い視線と、ウルスラのすべてを見透かすような不気味な予言を振り切るようにして、シドウは《灰猪亭》の重い木扉を押し開け、夜の雑踏へと消えていった。
◇
「ああ、くそ。厄日じゃねえか」
足元の石畳を軽く蹴りながら、シドウは己に言い聞かせるように呟いた。
ひんやりとした夜気に触れ、ようやく胸のつかえが少し取れた気がして、彼は大きく息を吐いた。
白く濁った呼気が、街灯代わりの魔導石の乏しい光に照らされて、ゆらゆらと夜空へ立ち上る。
迷宮の瘴気から都市を守るための、見上げるような巨大な城壁が、夜空を切り取るように黒々とそびえ立っている。
遠くからは、中央街の闘技場で飼い慣らされている魔獣の遠吠えが、風に乗って微かに響いていた。喧騒から完全に離れたこの路地裏は、酒場の熱気とは無縁の、凍てつくような冷たさに支配されている。
――汝と共に歩むものは、皆ことごとく破滅するであろう! それが、祝福されぬ稀人の運命なればっ!
忌々しき過去の亡霊の声を脳裏から追い出すように、シドウは激しくかぶりを振った。
《天翼》のルーナの異常な執着と、あの未来を見通すようなウルスラの不気味な言葉のせいで、余計な過去を思い出してしまった。
異世界からこの地に流れ着いた稀人である彼が、どのような人生を歩んできたのか。
しばらく歩き、頭の奥に残っていた安酒の酒精が完全に覚めたころ、路地の突き当たりにひっそりと佇む古びた住居が見えてくる。
看板すら掲げられていない、シドウが長年ねぐらにしている家――クランハウスだ。
だが、その場所に近づくにつれ、長年の経験が培った直感が警戒を発した。様子がおかしい。
揺らめく魔導街灯の薄暗い光の下、入り口の扉の前に、ひとりの小さな人影がうずくまっている。
鼻腔を突いたのは、むせ返るような鉄の匂い。――血だ。それも、今流れたばかりの新鮮で大量の血。
シドウが足元を見下ろすと、その人影の背中には、鋭利な刃物で斜めに深く切り裂かれたような大きな傷があり、衣服を赤黒く染めていた。
石畳の上には、果てしない黒々とした血だまりが広がっている。誰がどう見ても重傷だった。
「……まじかよ」
シドウは思わず低い呻き声を漏らし、その場に足を止めた。
幻覚であってほしかった。あるいは、ただのタチの悪い行き倒れの酔っ払いであってほしかった。
しかし、その影は間違いなく現実のものであり、何よりシドウはその服装に見覚えがあった。
数日前の迷宮――地下五層で魔物落ちした冒険者から助け出した、三人の少女。
そのうちのひとりだ。恐怖に怯えながらも、最後まで気丈に振る舞い、去り行くシドウに必死で名前を尋ねようとしていた、あの魔術師の少女だった。
迷宮での慘劇から辛うじて生き延びたばかりの彼女が、なぜ、危険な夜のスラムに近いこの場所を特定できたのか。なぜ、わざわざ自分の家の前で、このように瀕死の状態で倒れているのか。
「マジで厄日極まるじゃあねえか……」
無意識に舌打ちをひとつ落とし、頭痛を堪えるようにシドウはきつく眉根を揉んだ。
またしても、逃れられない面倒事の予感であった。