死体回収屋が、無窮迷宮の最深部を目指す 作:エベレスト
深い泥の底へと静かに沈んでいくような意識の混濁のなかで、少女は夢を見ていた。
まだ確かに彼女が人間として、そして誇り高き貴族として、何の疑いもなく幸福だと胸を張って言えたころの、色鮮やかで遠い過去の夢を。
さる由緒正き歴史と領地を持つ門閥貴族の父と、それに嫁いだ、立ち居振る舞いのすべてに気品を宿した母。
そして、高貴なる青き血を引く者として文武の双方に秀で、誰の目から見ても英邁闊達そのものであった自慢の兄。
その眩しい背中を追うようにして生まれた少女は、いずれ自分が見知らぬ有力貴族のもとへ政略結婚のための道具として嫁ぐ運命にあることを幼いながらに理解しつつも、伯爵家の愛娘として何一つ不自由のない、温室の薔薇のような生活を送ってきた。
幼少期から特異な魔術の才能を見出され、王都の最高学府である魔術学院においても、常に次席を争うほどの傑出した成績を収めていた。
気難しい学院の老講師たちからの評価もすこぶる高く、華やかなサロンでは常に気心の知れた友人たちに囲まれていた。少女の未来は、誰もが羨むような至上の輝きをもって約束されていたはずだったのだ。
――あの陰険で、吐き気を催すほどに血生臭い、宮廷の政治的陰謀劇という底なし沼に巻き込まれ、少女の家が完全に失脚するその日までは。
敵対する強大な貴族陣営の緻密な罠によって、事実無根の国家反逆という偽りの罪を着せられ、誇り高かった少女の兄は暗い地下牢のなかで『自殺』というかたちで、事実上謀殺された。
指先まで氷のように冷たくなった兄の無惨な身体を前にして、少女の家の崩壊はもはや誰の目にも決定的なものとなった。
長年築き上げてきた地位、名誉、そして広大な領地と財産のすべてを一夜にして奪われ、絶望の淵に立たされた少女の父と母もまた、愛息の後を追うようにして、自らの命を絶った。
屈辱に塗れて生きるよりも、貴族としての死を選ぶという
一夜にして文字通りすべてを失い、家門は歴史の表舞台から容赦なく取り潰された。
昨日まで少女に甘い微笑みを向けていた友人たちは、まるで
学院からも、言いがかりに等しい不敬の罪をでっち上げられ、追放されるに至った。
少女は、呪われた家名を捨てた。
生き延びるためには、血の滲むような思いで捨てざるを得なかったのだ。
屋敷も家財もすべて没収されたために一枚の金貨すらなく、少女はほとんど着の身着のまま、追手から逃れるようにして西方の地――この混沌と欲望が渦巻く迷宮都市へと流れ着いた。
どれほど泥の臭いにまみれようとも、這いつくばってでも生き延びて、自分たちを奈落へ突き落として冷笑したあの貴族どもを必ず見返してやる。
この手で復讐してやる。
そんな、ひどく安っぽくて、けれど彼女の命を辛うじて繋ぎ止める唯ひとつの小さなプライドだけを、少女は冷たい胸の奥底に秘めていた。
それなのに。
決死の覚悟を固めた少女を待ち受ける迷宮都市の現実は、どこまでも残酷で冷酷だった。
実戦経験など皆無に等しい、訳ありの落ちこぼれ同士で組んだ急造の
最初の数日は、順調そのものに見えた。
だが、それはただ運が良かったというだけに過ぎず、実際は底の見えない奈落の上に張られた薄氷の上を、無知ゆえに踊っていただけだったのだ。
地下五層。熟練者からすれば浅層であるはずのその場所で、少女たちは、魔物にではなく『狂気に呑まれた人間の冒険者』たちに襲撃された。
一応の武装をしていたのにも拘わらず、本物の殺意を向けられた恐怖で足がすくみ、まともな抵抗すらできなかった。
仲間たちとともに、血の臭いがこびりついた薄暗い玄室へと引きずり込まれ、乱暴されかけるという衝撃的な事件。
大切に守ってきた尊厳を粉々に砕かれ、少女が世界の不条理のすべてを呪い、舌を噛み切ろうとしたその瞬間――暗闇を切り裂いて、あの男が現れた。
ただ淡々と、まるで壊れた絡繰りを解体する日々の作業のように、無駄のない剣筋で狂人たちの首を撥ね落とし、少女を地獄の淵から救い出した、どこか虚ろな瞳をした灰髪の剣士。
あの惨劇のあと、完全に精神が破綻し、心が折れてしまった仲間の強い進言もあり、一党は完全に解散することとなった。
いままでの迷宮探索で稼いだ金を崩し、生活のための蓄えは最低限確保できたものの、身寄りのない、法律よりも暴力が支配するこの都市での独り暮らしは、あまりにも心細く、毎夜いつ誰に襲撃されるかもわからない恐怖に震えるしかなかった。
そんな極限の精神状態のなかで、少女の脳裏に、卑しくも、ひとりの男の無愛想な顔が浮かんでしまった。
――もういちど、あの人に会いたい。
それは高潔な感謝を伝えたいという美しい思いなどではなく。あの圧倒的な、暴力の権化のような強さに縋り付きたいという、弱り切った少女の剥き出しの本音だった。
這うようにして小銭を使い、情報屋から彼の噂を頼りに、外郭の薄汚れた宿へと辿り着いた。
けれど、その幸福な安堵に手を伸ばそうとした途端、少女はスラムの暗がりに潜んでいた不穏な影に急襲され――。
「こ、ここは……」
乾いた喉から漏れた微かな呟きとともに、深い泥の底から意識が浮上した。
重い瞼を開け、視界に入ってきたのは、王都の邸宅にあった美しい天蓋ではなく、煤けた木目が不規則に並ぶ、見知らぬ安普請の天井だった。
ハッとして現在の状況を確認しようと身体を動かそうとするも、脊髄を直接太い針で抉るような凄まじい激痛が背中から走り、少女はヒュッと喉を引きつらせて悶絶しそうになった。
「動かないほうがいいぜ。傷口が開く」
ひどく陰鬱な色を宿した、けれど低く、明確に聞き覚えのある声が部屋の空間に響いた。
痛む首をかろうじて傾け、枕元に視線を向けると、そこには使い込まれた粗末な水差しをもった男が立っていた。
あの時、迷宮の地獄の底から少女を無造作に救い出してくれた、あの冷徹な眼差しの持ち主だった。
「……わたし、は……」
「行き倒れてたんだよ、お嬢さん。この家の扉の前でね。おかげで玄関先が血の海だ」
シドウというその男は、陰気な風貌でそう言いながら、手際よく木杯に水を注ぎ、彼女の青白い唇に近づけた。
少女は拒むこともできず、緩慢な動作で差し出された水を飲み干す。ひんやりとした液体が乾いた喉を潤し、荒い呼吸が少しずつ整っていく。
シドウはベッドの脇にある、動くたびに軋む丸椅子にどかと腰掛けた。
「すみません……シドウさん」
「おや、俺の名前を知ってたのか」
「あなたはどうも、この界隈の裏では……かなり有名でしたので」
どこから、適当な情報屋でも捕まえて小銭を掴ませたのか。少女はシドウという男の本名と、彼が死体回収を生業にしていることまで突き止めていたようだった。シドウは小さく鼻を鳴らした。
「事情があったんだろ、話してみろよ。どうしてわざわざ、こんなスラムの境界線にある俺のねぐらに、お嬢様が這ってきたのかを」
「……ええと」
少女は一瞬戸惑い、視線を彷徨わせた。
しかし、眼前にいる男が嘘や誤魔化しを最も嫌悪する人種であることを察し、断れる雰囲気ではないことを悟った。
彼女は、痛みに時折顔を歪めながらも、たどたどしく自分が迷宮に来た凄惨な背景と、なぜこのクランハウスの前で倒れていたのかという経緯を包み隠さず話し始めた。
宿へ向かう途中で、衣服や所持品を狙ったスラムの追剥、あるいは通り魔に背後から刃を立てられ、死に物狂いでここまで逃げて力尽きたこと。
シドウはそれを、呆れたような、あるいは酷く憂鬱そうな顔で、顎を撫でながら静かに相槌を打って聞いていた。
彼女がすべてを話し終えた後、部屋には重苦しく、長い沈黙が降りた。
壁に掛けられた魔導灯の微かな光が、シドウの彫りの深い顔に暗い影を落としている。
やがて、彼は大きなため息をひとつ吐き出すと、自身の黒髪を乱暴にかきむしった。
「――ああ、なるほどね。簡潔に言うなら要は、先立つものが何一つないんだな」
金がない。
あまりにも直接的で、情緒の欠片もない言葉だった。
まあ、平たく言えばその通りなのだが、少女のなかに辛うじて残っていた元貴族としての矜持が、その身も蓋もない言い方にきりきりと傷つく。
せめてもう少し別の言い方はしないでほしかった、と少女は不満げに頬を歪めたが、今の彼女には反論する気力も、そして何よりその資格もなかった。
「……申し訳ありません。おっしゃる通りです。魔術杖も含めて、生きるためにすべて売ってしまいました。今のわたしには、この惨めな命の他に、何ひとつ残されていません……」
「――つまり完璧な文無しか。
お嬢さん、君の背の傷口を塞ぐのと、造血のために治癒の貴石をそれなり以上に使用した。
残念ながらあれはタダじゃない。こちらも慈善事業でやってるわけじゃないんだ――つまり相応の対価を支払ってもらう必要がある」
シドウの言葉はどこまでも冷淡に響いた。
だが、少女は本能的に理解していた。本当に冷酷で利己的なだけの男なら、そもそも行き倒れの人間をわざわざ部屋の中に運び込み、ましてや高価な貴石を消費してまで命を繋ぎ止めるはずがない。
彼は『生かす価値』を彼女に見出そうとしているのだ。
「……ああ、わかったよ」
シドウは静かに立ち上がり、空になった水差しをテーブルに置いた。
「お嬢さんが自力で稼げるようになるまで、俺が色々と協力してやる」
少女はその言葉の本意がすぐには理解できず、思わず
「協力、ですか? お金も、お支払いできる対価もないわたしに、どうして……。また、あの恐ろしい迷宮に潜れと、そうおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ。もう一度潜ってもらう。ただし、次は死にかけの無知な素人としてではなく、真の意味で、戦って生き残るための冒険者としてだが」
シドウの言葉を頭の中で幾度も
一周、二周と回って、ようやく彼女の明晰な頭脳はその狂気じみた提案の真意へと理解に至った。
「俺がお嬢さんを、一から冒険者として教育する。治療費とこれまでの経費、それに利子をきっちり返すまで、俺の目の届かないところで勝手に死なれては困る」
突き放すような、冷徹極まりない物言い。
しかし、それは少女にとって、暗闇の底で唯一差し伸べられた、細くとも決して切れることのない強靭な蜘蛛の糸だった。
――うれしい。
歪んだ歓喜の感情が、胸の奥底から泥のように湧き上がってくる。なんだかんだで、自分が心のどこかで思い描いていた通りの展開になったのだ。
この冷徹で、けれど圧倒的な力を持つ男の庇護下に、合法的に、かつ大義名分を持って入り込むことができる。
少女は瞬時に『表情術』を用いた。
かつて王都の宮廷社交界や、伯爵家としての苛烈な教育のなかで骨の髄まで叩き込まれた、完璧な感情のコントロール技術。心の奥底にある――この男に徹底的に縋り付きたい、利用できるものはすべて利用してでも生き延びて、いつかあの貴族どもを屠ってやるという、卑しい女の本音と昏い野心を綺麗に隠し、ただの『困窮した哀れな、守られるべき被害者の仮面』を完璧に被り直す。
「……わかりました。その条件、謹んでお受けします。あなたに救われたこの命です、お望み通り、あなたが満足し、経費を回収し終えるまで、どうぞ存分に使い潰してください」
「殊勝なことだな」
シドウは彼女の仮面を見抜いているのか、あるいは敢えて乗っているのか、その表情からは何も読み取れなかった。
何はともあれ、少女はようやく、この無愛想な死体回収屋の男とともに、真の深淵へと向かう不条理な契約を交わしたのだ。
「お嬢さん、最後に聞いておくが、名は?」
シドウの問いに、少女は一瞬だけひび割れた唇を噛み、捨て去った伯爵家の立派な家名を脳裏の奥底へと完全に葬り去った。そして、ただ自らの名前だけを毅然と名乗る。
「わたしは、ガブリエラと申します。ただの、ガブリエラです」
その名が、結露した薄暗い部屋の冷たい空気に静かに響き、溶けていった。
それが、奇しくも後にこの迷宮都市の歴史を、その根底から激しく揺るがすことになる、虚ろな瞳の剣士と、復讐を誓った魔術師の少女が結んだ、本当の始まりの瞬間であった。