死体回収屋が、無窮迷宮の最深部を目指す   作:氷見崇瑞月

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申し訳ございません。 
遅くなりました。


探索の終着

『――沸き立て、我が魔力よっ!』

 

 本能が最大の警鐘を鳴らし、ガブリエラは恐怖で凍りつきそうになる身体を強引に動かした。

 もしかしたらただの同業の冒険者であるかも、という安易な期待や予断はもはやしなかった。

 以前の地下五層で苦杯を嘗めた経験から、このような手合いにいかなる時でも躊躇をしてはならないことを少女は学んでいた。

 それに加え、男から放たれる絶大な悪意の波動を前に、一瞬でも隙を見せれば文字通り終わるという確信があった。

 

『形成せしは大気を縛る凍てつく吐息っ、すなわち白銀にして傲然たる霊獣の牙っ』

 

 まだ十分に距離があるため、完全な詠唱が間に合う。

 杖の先端部に巨大な魔術式が展開される。

 主の危機に呼応するかのごとく、《玲瓏の月》は眩いばかりの白銀の光芒を炸裂させた。

 

『《氷牙(アイス・ファング)》よ、穿て――ッ!』

 

 余裕などない。もはや一切の加減を捨てている。

 虚空から巨大な氷の杭が複数生成された。そのまま空気を切り裂きながら男の全身へと殺到する。 

 ガブリエラが放てる最大火力の殲滅魔術。 

 回避不能のタイミングと速度。氷の杭は間違いなく男の青白い肉体を貫き、その内側から臓腑ごと凍結させる――はずであった。

 

 ガギィンッ!!

 

 鼓膜を劈いたのは、肉を穿つ音ではなく、分厚い鋼鉄の塊を硬い槌で打ち据えたような、硬質な破砕音だった。 

 粉々に砕け散った氷の破片が、無残にも虚空へと舞い散る。  

 

「嘘」

 

 ガブリエラの喉から、怯懦の声が漏れる。

 男は躱すことすらしていなかった。 

 ただ、ねっとりとした笑みを浮かべたまま、血塗れの手刀を振り抜いている。

 ――たったそれだけの動作でガブリエラの渾身の魔術を、正面から粉々に打ち砕いてみせたのだ。

 鋼のごとき男の皮膚には、切り傷ひとつついていない。凄絶な魔術の直撃を受けながら、全くの無傷だった。

 

『――沸き立て、我が魔力よっ!』

 

 まだだ。

 ガブリエラの心はくじけずに、考えられる限り最短の速度にて再度詠唱を行う。

 流れるように魔術式が構築され、再び氷の杭の暴威が虚空に出現した。

 そのまま怒濤のごとく男を襲うが、しかし。

 

「ああ、痛いねえ。冷たいねえ。でも、その抵抗もまた……堪らなく甘美だっ!」

 

 破壊。 

 砕け散った氷の破片がキラキラと舞う中を、男は血塗れの両手で己の胸筋を掻き毟りながら、悠然と歩みを進めてくる。

 焦点の合わない、それでいて明確な『汚濁された欲望』を宿した両の瞳が、ガブリエラの華奢な肢体をねっとりと這い回る。

 

 その圧倒的な凌辱の意志に、少女は絶望してしまう。 

 そのおぞましい視線に射抜かれた瞬間、彼女の脳裏に地下五層での忌まわしい狂宴の記憶が鮮明にフラッシュバックした。

 強大な暴力の前に己の尊厳が踏みにじられそうになった、あの這い寄るような無力感と恐怖。

 全身の血の気が引き、杖を握る指先から完全に力が抜け落ちていく。

 

 ガブリエラの頬に男の右手がゆっくりと到達する、その瞬間。

 

 ――(びょう)ッ。

 

 極限まで研ぎ澄まされた鋼が、空間そのものを断ち切ったような、恐ろしく静かで刃鳴り。

 ガブリエラの鼻先を掠めるようにして、一条の鈍い銀閃が駆け抜けていた。

 

「……あ?」

「――悠長に眺めていて悪かったな。

 やはり、流石にこの位階(レベル)の相手はまだ厳しいか」

 

 如何なる状況においても即応できる態勢に入っていたシドウのひどく静かな呟きとともに、男の間の抜けた声が地下回廊に落ちる。

 ドサリ、という鈍い音がした。

 ガブリエラの目の前で、男の右腕が、肘の少し上から斜めに完璧な切断面を見せて切り離され、床に転がっていた。

 傷口からは、赤い血ではなく、黒く濁った瘴気が、泥のようにどくどくと溢れ出している。

 

 死体回収屋の片手半剣(バスタードソード)が、男の腕を斬り落としたのだ。

 

「おや、これは……?」

「理解と認識が遅いな。彼我の実力差がわからないのか。それとも既にわからなくなったのか。

 ――いずれにせよ悲しいことだな」

 

 男が不思議そうに己の右腕の断面を見つめる。 

 そして、今まさに初めて認識したかのようにシドウに顔を向けた。

 僅かな間ではあったが、それを灰髪の死体回収屋が見逃すはずがなかった。

 転身。 

 男の側面に回り込んでいたシドウが、踏み込みの勢いを殺すことなく、斬り抜いた片手半剣(バスタードソード)を滑らかな手首の返しで反転させる。 

 

 刃が空気を裂き、今度は男の左肩の付け根へと深く食い込んだ。

 骨を砕くような重々しい感触と共に、男の左腕が宙を舞い、石畳へと叩きつけられる。

 

「ガ、アッ……!?」

 

 両腕を一瞬にして失い、大量の黒い瘴気を噴き出しながら、男が大きくたたらを踏んだ。

 狂気に支配されていたはずの焦点の合わない瞳が、初めて明確な動揺に揺れる。 

 己の硬質な肉体が、まるで柔らかい泥でも削るかのように容易く両断されたという事実が、理解できないようだった。

 

 男が、恐怖を宿した目でシドウを見つめる。

 

 そこにあるのは、魔術の防壁も、神聖な加護もない。ただの年季の入った剣と、それを振るう薄汚れた装束の男。

 だが、シドウの灰色の瞳には、怒りも、正義感も、狂気に対する嫌悪すらも存在しなかった。

 ただひたすらに酷薄で、屠殺場の職人のような、一切の感情を排した虚無だけが佇んでいた。

 

「……過去の幻影よ、オマエはここで終わる」

 

 シドウの低く、地を這うような声が玄室に響いた。そこに宿るのは激情ではなく、ただ冷徹な事実の宣告である。

 片手半剣(バスタードソード)の切っ先を下げ、シドウは無造作に歩み寄る。

 

「グ、ォォォォォォォォッ!!」

 

 シドウから放たれる本物の死の気配に、男がついに生存本能を剥き出しにして咆哮した。

 男の切断された両肩の傷口から、泥のような黒い瘴気が爆発的に膨れ上がる。

 それは無数の悍ましい触手へと姿を変え、獲物を拘束する呪縛の術式となってシドウへと殺到した。

 さらに同時に、男が悪あがきするように噛みつき(バインド)をシドウに対して敢行する。

 

 しかし、シドウは歩みを止めない。

 殺到する瘴気の触手を前に、彼は小さく息を吸い込み、片手半剣(バスタードソード)を下段から振り上げた。 

 静かに剣閃を放つ。都度十回。

 鋼刃の剣界が、呪縛の触手を根こそぎ引き千切り、霧散させる。

 

 シドウは踏み込んだ。

 防御を剥がされ、無防備になった男の首元へ。

 流れるような美しい軌跡を描いて、白刃が吸い込まれた。

 

 ザシュッ、という小気味良い音。

 男の頭部が、胴体から呆気なく分離し、空高く舞い上がった。

 

 ドッ、と首を失った胴体が膝から崩れ落ち、やがてその肉体そのものが輪郭を失い始めた。

 死体は黒い靄のような瘴気へと分解され、ピキピキと音を立てて迷宮の冷たい大気の中へと溶けていく。 

 数秒後には、そこに何かが存在していた痕跡すら、綺麗に消え去っていた。

 

「……こいつが出てくるとは、流石に予想外だな。

 ガブリエラ、まったく君は運が良いのか、悪いのかわからなくなるな」

 

 シドウは静かに息を吐き、残心を解いた。

 刃に僅かに付着した黒い靄を、肘に挟んで手際よく拭い取ってから、剣帯へと納める。

 

「あ……ぁ……」

 

 ガブリエラは、へたり込んだまま茫然と目の前の光景を見つめていた。

 震えが止まらない。あれほどまでに恐ろしかった、己の最大魔術すら通じなかった化け物が、瞬きする間に解体され、消滅したのだ。

 

「シドウさん、何だったんですか……。今の、あれは……人、ではなかったですよね……」

 

 乾いた喉から、どうにか声を絞り出す。

シドウは落ちていた狗人の死骸を足で退けながら、静かに答えた。

 

影法師(シャドウ)。 

 遥か昔の迷宮刑――ロクな装備もなく迷宮探索に駆り出された罪人たちの、実体をもった亡霊だ。

 話によれば彼らの死ぬ直前の強烈な執着や狂気の思念が、迷宮の魔素と結合して生まれると聞いている。

 あくまで眉唾の話だがな」

「迷宮刑の……罪人……」

「生前の魔力や技術、そして歪んだ欲望だけを色濃く引き継いでいるからな。ただの魔物よりよほど質が悪い。 

 ……とはいえ、あの位階(レベル)影法師(シャドウ)が、こんな低層に出ることは本来ないはずなんだが。

 迷宮の生態系が少し狂ってきているのかもしれないな」

 

 シドウのその言葉に、ガブリエラは改めて彼の背中を見上げた。

 自分を恐怖のどん底に突き落とした化け物を、瞬く間に処理したその手際。 

 ただの解体作業、としか当の本人は思っていないだろうか。

 この男は、死体を回収するという過酷な仕事を請け負いながら、どれほどの修羅場をこの迷宮でくぐり抜けてきたのだろう。

 ガブリエラの胸中に、シドウという底知れない存在に対する深い畏怖と尊敬が湧き上がっていた。

 

「……申し訳ございません。シドウさんのお手を煩わせてしまいました」

「別に構わないさ。しかし、予定を変更する必要はあるな」

 

 シドウは周囲の暗闇を油断なく見回し、勘案(かんあん)する。

 先程の攻防で少女魔術師の魔力は完全に使い切ったはずだろう。

 初回にしてはそれなりに彼女に学ばせることに成功した……次の探索を考えるならば、もう潮時だ。

 ガブリエラの育成計画はもう少し慎重に行うべきである、とシドウは判断していた。

 

「ある程度進んだら、今日はこのまま帰還するぞ」

「は、はい……っ!」

 

 ガブリエラは杖を支えにして、震える足でどうにか立ち上がった。

 もう、この男から離れることなど考えられなかった。 

 この過酷で理不尽な世界で生き残るためには、この死体回収屋からすべてを学び取るしかないのだと、強烈に悟っていた。

 

 その後、ふたりは慎重に周囲の安全を確保しながら、いくつかの隠し部屋を探索した。

 幸か不幸か、先ほどの影法師が周囲の狗人をあらかた惨殺していたため、新たな魔物との遭遇はなかった。 

 シドウの手際よい罠解除によって、残されていた宝箱をいくつか開け、それなりの指輪と金貨を入手した。ついでとばかりに狗人から魔石と換金可能な部位を剥ぎ取り、回収する。

 

「よし、ここまでだ。上がるぞ」

 

 シドウのその一言で、ガブリエラの張り詰めていた糸が、ようやく少しだけ緩んだ。

 

 来た道を引き返し、巨大な螺旋階段を上り、地下二層、地下一層へと歩みを進める。 

 階層を上がるごとに、肌にまとわりつくような濃密な瘴気が薄れ、代わりに地上の微かな空気の流れを感じるようになっていった。

 

 やがて、長い長い螺旋階段の先――迷宮の入り口たる遺跡から、地上の光が差し込んでいるのが見えた。

 冷たくも澄んだ風が、ガブリエラの汗に塗れた頬を優しく撫でた。

 

「……あぁ……」

 

 生きている。

 自分は、あの死の淵から生還したのだ。

 安堵と疲労、そして微かな達成感が入り混じり、ガブリエラの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 

「……泣いている暇があるなら歩け。まずは今回の成果を換金して、真っ当な食事でも摂るぞ。 

 君にはまだ、学ぶべきことが山ほどあるからな」

 

 前を歩くシドウが、振り返りもせずに、そう告げた。

 その言葉はもう、ガブリエラにとってただの冷酷な響きには聞こえなかった。不器用な彼なりの、生き延びた者への労いなのだと素直に受け取ることができた。

 

「……はい! 今行きます!」

 

 ガブリエラはローブの袖で乱暴に涙を拭うと、しっかりと杖を握り直し、足早にシドウの背中を追った。

 すべてを奪われた令嬢の、絶望と恐怖に塗れた初めての迷宮探索。

 ガブリエラの今回の冒険は、こうして終わりを告げた。 

 だがそれは、彼女がこの迷宮都市で本物の魔術師として生き抜いていくための、苛烈なる日々のほんの幕開けに過ぎなかった。

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