あさおん!〜48歳のハゲ散らかしたおっさんですが、朝起きたら超絶美少女でした。15億円の資産で「奇跡の歌姫」として二度目の青春を謳歌する〜 作:高山 虎
「はい、じゃあテストをします」
優莉の声が宿泊先のヴィラのリビングに響いた。
今日は土曜日。国内最大級の音楽イベント『FUJI PUNK』の中日にあたる日だ。彼女たち『渋ガ』の出番は夕暮れ以降のサンセット(ドリームアワー)枠に指定されているため、午前中は完全に自由時間となっていた。
しかし、何もない無駄な時間があると、人間はどうしても悪い方向へと思考を巡らせ、極度の緊張感に押し潰されてしまうものである。四十八年間をサラリーマンとして生きてきた優莉は、その経験則からプレッシャーの恐ろしさを誰よりも熟知していた。
だからこそ優莉は、あえてこの午前中、極限の緊張状態をほぐすために「一時間だけ英単語のテストをする」と宣言したのである。五万人という途方もない大観衆を前にする非日常から、受験生としての見慣れた日常のルーティンを強制的に挟むことで、メンバーの心を落ち着かせるという彼女なりの優しさであり、戦略であった。
「えっ? こんな時までテストやるの!?」
「スグの鬼! 悪魔!」
由愛たちがぶつくさ文句を言いながらも、いざテスト用紙に向かい合うと、次第にペンを走らせる音だけがリビングに響くようになった。テストに集中するうちに、フェスへの過剰な不安は薄れ、少しずついつもの調子を取り戻していく。結果的に、メンバーの緊張は少しばかりほぐれてきたようだった。
そうして午後。適度にリラックスした五人は、途中まで一般客に紛れてフェス会場内を移動し、関係者ゲートからこっそりと楽屋入りを果たした。
「うわー、緊張するっしょ」
割り当てられたプレハブの楽屋に入り、由愛が胸を押さえながら息を吐く。そう言いながらも、メンバーたちの表情は昨日の下見の時のように恐怖で動けなくなるようなものではなかった。
優莉の狙い通り、それぞれが本番に向けて適度な緊張感を保っているようだ。やがて、プロのスタイリストたちによるヘアメイクが開始された。
「もう少し、髪の結び目を高くした方がシルエットが綺麗に出るんじゃないかな?」
「でも、こっちのほうが激しく動いた時に服の広がり方が大きく見えていいんじゃないかしら」
ゲネプロの経験を活かし、それぞれが忌憚のない意見を出し合う。顔を隠して紗幕に映る巨大な影だけで五万人を魅了しなければならない彼女たちにとって、シルエットをいかに美しく、かつダイナミックに見せるかは生命線だ。プロのスタッフも彼女たちの意見を取り入れながら、入念にセットを進めていった。
やがて、時間が迫るにつれて、外から地鳴りのような歓声が絶え間なく響いてくるようになった。渋ガの前に出演しているバンドが、パフォーマンスのクライマックスを迎えているのだろう。
その暴力的なまでの音圧と熱気に、楽屋の空気はピリピリと張り詰めていく。
「渋ガさーん、次でーす。スタンバイお願いしまーす」
コンコン、とドアがノックされ、スタッフの声がかかった。
時刻は十八時。前のバンドの演奏が終わり、五人はステージ横の薄暗いテントへと移動を始めた。
出番を待つテントの中では、誰もが自分の世界に入り込んでいた。雫と玲奈は無言のまま、入念にギターとベースのネックを握り、指先の感触を確かめている。
琴音は落ち着きなく足踏みを繰り返し、深呼吸をしていた。そして、由愛と優莉は、お互いの震えを抑えるようにしっかりと手を繋いでいた。
「よーし、円陣組もう!」
不意に、由愛が明るい声を出してメンバーを見回した。
「急にどうしたの?」
玲奈が驚いて目を丸くする。
「いや、こういうときは円陣っしょ!」
由愛は満面の笑みで強引にみんなの手を引いた。
「うん、そうだね。気合入れないと」
琴音も同意し、五人はテントの暗がりの中で身を寄せ合い、小さな輪を作った。円陣を組んだ由愛は、何か掛け声を出すのかと思いきや、隣にいる優莉に向かってニヤリと笑いかけた。
「スグ、ひと言!」
「えっ、私!?」
急に振られて驚く優莉だったが、すぐに表情を引き締め、メンバー全員の顔を順番に見渡した。
「みんな、すごく緊張していると思う。でも、それはそれだけ、今日のこのステージを大切に思っている証拠だよ。いい? この胸のドキドキは恐怖じゃない、武者震いだ。私たちはやれるだけのことは全部やった。だから、あとはこの緊張を最高に楽しもう! いくよ、せーの!」
「「「「「おー!!」」」」」
五人の気合の入った声が、転換中のざわめきに紛れてステージ裏に響いた。
十八時二十分。スタッフが猛スピードで前のバンドの機材を片付け、渋ガの楽器をセットしていく。同時に、ステージ前面に『巨大な白い紗幕』がスルスルと下りてきた。
メンバーたちはスタッフの合図とともに、紗幕の裏側へと足を踏み入れる。客席からは完全に姿が見えない。定位置につき、琴音がドラムのキックペダルを「ドンッ、ドンッ」と重く踏み鳴らした。続いて雫がギターのコードを「ジャーン」と鋭く鳴らし、最後のサウンドチェックを行う。
――その瞬間だった。
「うおおおおおっ!!」
「渋ガだ!!」
「ホントにいたんだ!」
紗幕の向こう側から、地響きのような大歓声が沸き起こった。姿は一切見えないのに、ただ彼女たちの楽器の音が出ただけで、五万人の大観衆が狂乱したのだ。その凄まじく圧倒的な熱量を肌で感じ、五人のボルテージも最高潮に達していく。
空が深い群青色とオレンジ色に染まる、マジックアワーと呼ばれる絶好のタイミング。
会場に開始を告げる重厚なSEが鳴り響く。
歓声が悲鳴へと変わり、期待が臨界点を突破したその時、ステージ後方から強烈なバックライトが焚き上げられた。真っ白な紗幕に、五人の『巨大なシルエット』が黒く、くっきりと浮かび上がる。
その熱狂のままに、一曲目『青のオーバーライト』が始まった。
由愛の真っ直ぐで力強い声と、優莉の透き通るような表現力豊かな声が見事なハーモニーとなって重なり合い、会場の大空へと響き渡る。
一拍遅れて、五万人の観客が一斉にジャンプし、大地が物理的に揺れた。足元から伝わるすさまじい振動が、彼女たちの心臓を直接叩きつける。
(すごい……!)
全員の頭の中にはもう、「すごい」「このまま最後まで全力で走り抜ける」ということしかなかった。優莉の頭からも、これまで散々口にしてきた「ビジネス」や「ROI(投資対効果)」といった大人の言葉は完全に消え去っていた。
四十八年間、ただの会社員として生きてきた。そこには責任と義務はあっても、これほどまでに血が沸騰するような情熱はなかった。ずっと探していた、心の底から夢中になれるもの。本気になれること。性転換前の四十八年間で見つけることのできなかったものを、優莉は今、確実に見つけた気がした。
高一の春休みに、八十人のライブハウスで「もっと、ずっとこうしていたい」と願った、あの純度百パーセントの高揚感が、今、目の前にもっとずっと強く、圧倒的なスケールで存在している。
(すべてが一つになっていく。この空間全体に、自分という個が溶けて混ざっていく感覚……。音楽は、バンドは、本当に最高だ……!!)
優莉はマイクスタンドを握りしめ、全身でその熱狂を浴びた。
怒涛の勢いで曲が進み、『未来投資アルゴリズム』が終了したところで、メンバー全員が視線を合わせた。
「えーっと、渋ガです!」
由愛がマイクを握り、このライブで唯一のMCを始めた。五万人から割れんばかりの歓声が巻き起こる。しかし、由愛は少し困ったように笑い、紗幕越しに観客と、そしてメンバーを見回す。
「実は、色々なに言おうか裏で練習していたんですけど……全部忘れちゃったので、うーん、どうしよっか?」
五万人の前でまさかのノープラン宣言。
とりあえずどうにか間をつなぐために、優莉がツッコミを入れる。
「もう、由愛何やってるの」
「まあ、由愛ちゃんだから」
琴音がドラムセットの奥でくすくすと笑う。
「さっさと思い出しなさい」
玲奈もベースを構えたまま呆れたように言い放った。その時、雫がマイクに向かってボソリと呟いた。
「……コールアンドレスポンス」
「あっ、そうそう!」
由愛はポンと手を打ち、客席に向かって「じゃあいくよ!イェーイ!」とコールアンドレスポンスを始めた。観客もそれに全力で応え、会場のボルテージはさらに跳ね上がる。そのままの流れで、ライブは一気に後半戦へと突入していく。
完璧に作り込まれた台本ではなく、この少しグダグダで等身大な感じが、かえって私たちらしいのかもな、と優莉は歌いながら微笑ましく思っていた。
「じゃあ次の曲、『微炭酸ストラトスフィア』!」
由愛の曲振りと共に、雫のギターのカッティングが爽やかに響き渡る。
アップテンポなサマーチューン。弾ける炭酸の泡を成層圏(ストラトスフィア)まで飛ばすような勢いで、「今この瞬間を楽しもう」と全力で歌う曲だ。由愛の突き抜けるような高音が、真夏の夜空に最高に映える新曲だった。
そこからスタジアム・アンセムの『無敵のスタートライン』へと繋がり、最後は新曲『終わらないアンコール』へと雪崩れ込む。
いつまでもこの時間が続いてほしいと願うような、明るくもどこか泣けるミディアムテンポのロック。ライブの最後、紗幕の向こう側から「また絶対に会おう!」と観客に約束して終わる、渋ガの新しい大トリ曲だ。
優莉は溢れ出す感情のすべてを歌声に乗せ、五万人の観客と完全に一つになった。
たったの三十五分間。
しかし、それは彼女たちの人生で最も濃密で、熱を帯びた三十五分間であった。
玲奈と琴音の盤石で完璧なリズム隊、雫の空間を支配する変態的なギター、そして由愛と優莉の最強のツインボーカル。全七曲を怒涛の勢いで駆け抜け、渋ガの伝説の初フェスステージは幕を閉じた。
最後のコードが鳴り止み、バックライトが完全に消える。暗闇に戻ったステージ。鳴り止まない五万人の拍手と地鳴りを背に、全身汗だくになった五人は、急いで舞台袖へと駆け戻った。
「はぁっ……はぁっ……!」
肩で激しく息をしながら、誰からともなく抱き合う。
「やった!」
「あーしら、やり切った!」
由愛が涙を流して優莉に抱きつき、玲奈も琴音も雫も、お互いの健闘を称え合いながら涙ぐんでいた。優莉の目にも、熱い涙が浮かんでいる。
「……最高だった。みんな、本当に最高だったよ……!」
優莉は力強く、メンバー全員と両手でハイタッチを交わした。
こうして感動を胸に刻み込んだ五人は、覆面バンドの最大の利点を活かし、他のアーティストや大人たちへの挨拶などは一切挟まず、すぐに用意された車に乗り込んで会場を撤収し、宿泊先のヴィラへと戻ったのだった。
シャワーを浴びてさっぱりとした私服に着替えても、五人の興奮は一向に冷めやらず、誰もソファに大人しく座っていられなかった。
「あんな大舞台、一生に一度のことだと思ってたけど……次もまた、絶対にあんなステージに立ちたいって思っちゃうわよね」
玲奈が、自分の手を見つめながら熱っぽい声で告白した。
「本当に、すごい一体感だったよね。お客さんの熱がダイレクトに伝わってきたっていうか……」
琴音も、瞳をキラキラと輝かせて同意する。
「ええ。だからこそ、顔を隠しているあの薄い紗幕すら、途中で邪魔に感じちゃったわ」
玲奈のその言葉に、優莉はハッとした。一番顔出しを嫌がり、リスクヘッジを重視していた玲奈が、直接顔を出して演奏することを考えさせるほどに、FUJI PUNKのステージは彼女たちに強烈な影響を与えたのだ。
ここでいつもなら、優莉が総務部長の顔に戻り、「よし、アドレナリンが出ているうちに小論文だ集中できるぞ」とパンパンと手を叩いて宣言するタイミングである。玲奈たちもそのお決まりのパターンを予測し、少し身構えていた。
だが、今の優莉は、四十八年間のサラリーマン人生で一度も経験したことのない「極上の余韻」に浸っていた。今夜ばかりは、冷徹なタスク管理(勉強)でこの熱を上書きしたくない。ただ、この二度目の青春に溺れていたかった。
優莉は勉強道具には見向きもせず、キッチンへと歩いて行き、冷蔵庫からオレンジジュースとスパークリングサイダーを取り出す。そして、全員分のグラスをテーブルに並べ、たっぷりと注いでいく。
「……今日は、受験のことも、会社のことも、全部吹っ飛んじゃった。みんなで乾杯しよう」
優莉がグラスを配ると、由愛が目を真ん丸にして驚いた。
「えっ、スグが勉強しなくていいって言った!? 明日は雪が降るっしょ!」
大袈裟に驚く由愛を見て、優莉は優しく微笑んだ。
「いま、七月だよ。降るわけ無いでしょ。……でも、あの小さなライブハウスから始まって、まさか本当に、五万人のフェスに出られる日が来るなんて思わなかった」
優莉が少し感傷的に呟くと、由愛が力強く首を振った。
「スグが、本気でプロになるって言ってくれたからだよ! あーしたち、絶対天下取れるっしょ!」
「うん。私たち五人なら、きっとどこまでだって行ける」
優莉がグラスを高く掲げた。カチン、と涼やかな音を立てて、五つのグラスが中央で合わさる。
「ま、いいでしょ。私も付き合ってあげるわ」
玲奈が少し照れくさそうに笑いながらサイダーを飲む。
「じゃあ、私がいないとまとまらないね」
琴音も嬉しそうにジュースに口をつけた。
「……私も、一緒」
雫が珍しく柔らかい表情で小さく頷いた。
四十八歳の元・おっさんが手に入れた、二度目の青春。
あの日、地下の小さなライブハウスで誓った『夢』が、今夜、五万人の熱狂という確かな現実となって彼女たちの背中を押していた。
五人は夜が更けるまで、グラスを片手に、初めてのフェスの興奮と音楽の素晴らしさについて、いつまでもいつまでも語り明かしたのだった。
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