あさおん!〜48歳のハゲ散らかしたおっさんですが、朝起きたら超絶美少女でした。15億円の資産で「奇跡の歌姫」として二度目の青春を謳歌する〜   作:高山 虎

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第八十四話 嵐の前の静けさ

「おー、これがドームか!」

 

 三月下旬、春の陽気が本格的になり始めた頃。巨大な白い屋根に覆われた『東都ドーム』のグラウンド中央に建てられた、途方もなく巨大なメインステージの上で、由愛が思い切り首を反らせて高い天井を見上げながら、感嘆の声を上げていた。

 

 今日は、高校生覆面バンド『渋ガ』にとって初のワンマンライブであり、同時に彼女たちの最大の武器でもあった「覆面」を脱ぎ捨て、「顔出し解禁」を行う歴史的なドーム公演の前日である。

 

 まだ観客が誰も入っていない、五万人を収容するすり鉢状の巨大なスタンド席は、それだけで圧倒的な威圧感とスケールを放っていた。

 

 天井からは数え切れないほどの照明機材や巨大なラインアレイスピーカーが吊るされ、アリーナでは大勢のスタッフがパイプ椅子を規則正しく並べている最中だった。ステージの背後には、見上げるほど巨大なLEDビジョンが設置されており、圧倒的な非日常の空間を作り出している。

 

「ひ、広いねー……」

 

 琴音が、ドラムスティックを両手に握りしめたまま、少し気圧されたように周囲を見渡した。

 

 どこまでも続くような客席の広がりは、夏の野外フェスとはまた違った、密閉空間ならではの独特の重圧感がある。

 

「というか、信じられないわ。当日だけじゃなくて、二日も丸々この東都ドームを借り切るとか……サージョの権力はどうなってんのよ」

 

 ベースを肩から下げた玲奈が、呆れと慄きが入り混じった声で呟いた。

 

 日本のエンターテインメントの聖地とも言える東都ドームは、ただでさえ予約を取るのが数年待ちと言われている。それを、わずか半年前に「ツテ」で、しかも新人の初ワンマンのために押さえるなど、常軌を逸しているにもほどがある。

 

「あ、玲奈ちゃん。二日じゃなくて、四日みたいだよ?」

 

 ステージの袖でバインダーに挟まれたスケジュール帳を確認していた新米マネージャーの一花が、ひょっこりと顔を出して訂正した。

 

「……は?」

 

「えっとね、ステージや照明の設営に二日間。そして今日のゲネプロで一日、明日の本番で一日。全部合わせて、四日間丸々ドームを貸し切ってるんだって。レイン副社長がそう言ってたよ」

 

「よ、よっかかぁん!?」

 

 玲奈の顔からスッと血の気が引いた。

 

 ただでさえ今は三月下旬。プロ野球のオープン戦が終盤を迎え、ペナントレースの開幕を目前に控えた、球団にとって最も重要な調整期間である。普段であれば、アーティストのライブなどで絶対に借りることなどできない、完全なる聖域であった。

 

「マジで……? 開幕直前の大事な四日間を、球団から権力でふんだくったってこと……? バグってるわ。いくらなんでも剛腕すぎるでしょ……」

 

 玲奈は、この強引すぎるスケジューリングを実現させたサージョトレーディングの九条社長の底知れぬ権力に、改めて背筋が凍るような戦慄を覚えた。

 

「……さすが、九条社長」

 

 しかし、その横ではギターを抱えた雫が、無表情のまま両手を胸の前で組み、サージョトレーディングのトップに対する無条件の賞賛と深い信仰心を滲ませていた。彼女にとって、サージョの力で不可能が可能になるのは神の奇跡と同義であり、なんら疑うべきことではないのだ。

 

「やばーい! 四日も貸し切りなんて、うちら超VIPじゃん!」

 

「本当! 佐藤さん、やっぱりすごい人と知り合いなんだね!」

 

 一方、由愛と一花の二人は、それが日本のエンタメ業界やスポーツ業界においてどれほどとんでもなく、恐ろしいことなのかを全く理解できていないようである。彼女たちは、ただ無邪気にはしゃいでいるだけであった。

 

(……まあ、大人の事情や裏工作のえげつなさは、今のこの子たちには知る必要のないことだろう)

 

 優莉は、中身が四十八歳の元・総務部長としての冷徹な視点を隠しつつ、苦笑しながらメンバーのやり取りを眺めていた。

 

「はーい、それでは渋ガの皆さん、サウンドチェック入りまーす!」

 

 アリーナ席の中央に設置された、巨大なミキシングコンソールが並ぶPA(音響)ブースから、チーフディレクターの声がドーム内に響き渡った。

 

「はいっ、お願いしまーす!」

 

 優莉がマイクを通して返事をする。

 

 まずは、ステージ上で演者が自分自身の音や、他のメンバーの演奏を聴きやすくするための「モニター」の音量調整から始まる。彼女たちの耳には特注のカスタムIEM(イン・イヤー・モニター)が装着されており、さらに足元には「フットモニター」と呼ばれる巨大なスピーカーが配置されていた。

 

 玲奈がベースの弦を弾き、琴音がドラムを叩き、雫がギターのカッティングを鳴らす。

 

「うーん……すいません、私のベースの返し、音量をもう少しだけ下げてもらっていいですか?」

 

 自分の耳に届く低音の圧力を感じながら、玲奈がPAスタッフに向けて要望を出した。

 

「あー、玲奈さん。本番ではお客さんの歓声と熱気がものすごい音量になるんで、これより小さくすると、本番で自分の音が全く聞こえなくなっちゃうかもしれませんよ? 今は誰もいないから大きく聞こえますけど、ゲネプロの段階ではこれくらい大きめにしておくのが丁度いいんです」

 

 経験豊富なPAスタッフが、インカム越しに的確なアドバイスを返してきた。

 

「あー、確かに! 夏のFUJI PUNKに出た時も、お客さんの『うおおおおっ!』って歓声がすごすぎて、イヤモニしててもうちらの音、ほとんど聞こえてなかったもんね!」

 

 由愛が当時の野外フェスのすさまじい光景を思い出しながら、大きく頷いた。

 

「じゃあ、玲奈、とりあえずこのままでやってみない? ゲネプロを通してどうしても気になったら、後でまた微調整してもらおうよ」

 

 優莉が全体をまとめるように提案する。

 

「……わかったわ。確かに、あの歓声の壁を越えるには、これくらいじゃないとダメよね」

 

 玲奈も納得したように頷いた。

 

「うん、そうだね。ドラムもこのままで大丈夫です!」

 

 琴音も力強く答える。

 

「すいませーん、このままでおーけーでーす!」

 

 優莉がPAブースに向かって大きく丸印を作った。

 

「了解しました! じゃあ続いて、外音(そとおと)の調整に移りまーす。皆さん、一曲軽く合わせてみてください!」

 

 外音とは、実際に五万人の観客が聴くことになる、メインスピーカーから出力される音のことを指す。

 

 ドームという巨大なすり鉢状の空間は、音が壁や天井に乱反射し、非常に音響が難しい会場として知られている。音が遅れて聞こえたり、低音が濁ったりする「ドーム特有の反響」をいかに計算し、クリアに届けるかが、PAスタッフの腕の見せ所だ。

 

 琴音のスティックのカウントから、五人が軽くセッションを始める。 ステージの五人が演奏を続ける中、サージョが手配した日本トップクラスのPAチームが、ミキサーの無数のフェーダーをミリ単位で調整し、最新のデジタル音響システムを駆使して、アリーナの最前列からスタンドの最後列の隅々まで、最適な音が届くようにチューニングを重ねていった。

 

 ドーム特有の低音の濁りや、音が遅れて聞こえるディレイの問題を、プロフェッショナルな耳と技術で一つずつクリアにしていくのだ。ものの数分で、ドーム内に響き渡っていた音が、まるで霧が晴れたように劇的にクリアになり、各楽器の分離感とボーカルの抜けが圧倒的に向上していた。

 

「……すごい。目に見えて……いや、耳で聞いてはっきりと音が良くなった。やっぱ本職の一流スタッフは凄いね」

 

 優莉はその魔法のような技術に感嘆の声を漏らしていた。

 

「本当……! ドームなのに、スタジオみたいに綺麗に聞こえる!」

 

「うんっ、これなら絶対お客さんにも最高の音が届けられるっしょ!」

 

 メンバー全員が、プロの卓越した仕事ぶりに深く同意した。

 

 そうしてサウンドチェックが終わると、次は舞台演出の確認に入る。

 

 曲ごとの立ち位置や、センターステージへと続く長い花道の移動ルートの確認が、詳細な図面と照らし合わせながら綿密に行われる。

 

「ここではもう少しゆっくり歩いて、Bメロの入りでセンターステージの中央に到達するように」「ギターソロの時は、このリフター(昇降機)を使って五メートル上がります」といった具体的な指示が次々と飛び交い、五人も実際にステージを縦横無尽に走り回りながら、その圧倒的なスケール感を身体に叩き込んでいく。

 

 さらに、サビの最高潮で打ち上がる火花やCO2ジェットなどの特殊効果や、ラストにアリーナへ降り注ぐ銀テープのタイミングの確認も行われた。それに合わせて、照明スタッフと連携し、演者のダイナミックな動きに合わせたライティングの切り替えや、背後の巨大なLEDビジョンに映し出される映像のタイミングが、一秒の狂いもなく合わせられていく。

 

 これらの膨大な作業を、何百人というスタッフが一丸となって、流れるような手際でこなしていく。これが、日本のエンタメの最高峰であるドームライブの裏側なのだ。

 

「オーケー! 特効、照明、映像、すべてタイミングばっちりです!」

 

 総合演出を担当する監督の声が響き渡る。

 

「それじゃあ、事前準備はこれで全部終わりだね。残るは、本番と全く同じ通し稽古……ゲネプロのみだ」

 

 優莉がメンバーを見渡して、少しだけ表情を引き締めた。

 

 すべての準備を終え、本番さながらの衣装に着替えた五人が、再びステージの中央に立つ。 誰もいない五万席の客席に向けて、明日の歴史的瞬間のための最終テストが始まる。

 

「それじゃあ、ゲネプロ、いきまーす!」

 

 監督の鋭い声がドームの空気を切り裂き、彼女たちの長い長い一日が始まった。

 

 

 

 東京の夜景をパノラマで一望できる、優莉の自宅の広々としたリビング。

 

 ドームライブ前日の今日、メンバー五人は全員で優莉の家に泊まり込んでいた。明日の朝は、ここから手配した黒塗りのハイヤーを使い、厳戒態勢で東都ドームへと乗り込む手はずとなっている。

 

 マネージャーの一花は、すでに一足先に明日の準備のため、自分の家へと帰宅済みだ。そのため、今は完全に五人だけの時間だった。

 

 夕食にタワーマンションのコンシェルジュに頼んで手配した、色鮮やかなオードブルや上質なローストビーフなどの豪華なケータリングを平らげ、五人は広いバスルームで入浴を済ませた。お揃いのパジャマやスウェット姿で、リビングのふかふかの絨毯の上に寝転がったり、ソファに深く腰掛けたりして、最高にリラックスした時間を過ごしているようだ。

 

「はぁ……なんだか、渋学の卒業式から、本当にあっという間だったわね」

 

 玲奈が、グラスに入った炭酸を一口飲みながら、深い息を吐き出して言った。

 

「そうだね。三月の初めに卒業式やって、大学の準備しながらドームの練習もして……。毎日が忙しすぎて、気がついたらもう明日が本番なんだもん」

 

 琴音が、クッションを胸に抱きしめながら、少し不思議そうな顔でここ数週間を振り返る。

 

「でもさ、みんな、夏のフェスの時に比べたら、全然緊張してないよね!」

 

 由愛が、ポテトチップスをかじりながら、からからと笑った。

 

「まあ、さすがにあの五万人のプレッシャーを一度乗り越えてるし、テレビのタイアップとか、いろいろな経験を積んできたもの。さすがに慣れてきたわね。それに、今回は何と言っても『覆面』がないから。私たち自身の顔で勝負できるっていうのも大きいわ」

 

 玲奈が、少しだけ大人びた表情で言う。

 

「うーん、私はやっぱり、まだ少し緊張しちゃうけどなぁ。明日の本番、スティック落としちゃったらどうしようとか、頭が真っ白になっちゃったらどうしようとか……」

 

 琴音が、抱きしめたクッションに顔を埋めて、もごもごと弱音を吐く。

 

「大丈夫だよ。琴音、ゲネプロでも完璧だったじゃない。それに、少しくらい緊張している状態の方が、アドレナリンが出て一番良いパフォーマンスが発揮できるものなんだ。案外、今の状態がちょうどいいんじゃないかな」

 

 優莉が、かつてのビジネスマンとしての経験から導き出した「本番への心構え」を、優しく琴音に語りかけた。

 

「それにしても……ドームライブかぁー。東都ドームで、あーしらだけのワンマンだよ? ガチャでチケット当ててくれた五万人のお客さんが、うちらのためだけに集まってくれるなんて。なんだか、まだ夢みたいっしょ」

 

 由愛が、天井のシャンデリアを見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

 『渋ガ』は、もとを辿ればただの高校生だった彼女たちが、渋学祭のために始めたバンドである。あまりの早さで日本の音楽シーンの頂点へと駆け上がってしまったことで、当事者である彼女たち自身こそが、その現実感のなさを一番強く感じていた。

 

「ふふ、そんなに夢みたいって思うなら、私がほっぺたつねってあげようか?」

 

 優莉が、悪戯っぽく笑って由愛の方を向いた。

 

 しかし、優莉が手を伸ばすより早く。

 

 スッ……と、隣に座っていた雫が無言で腕を伸ばし、由愛の柔らかい右頬を、指の腹で容赦なく、そして的確にギュッとつねった。

 

「いったたっ! ちょ、急にやんなし!」

 

 由愛が涙目になって抗議するが、雫は無言のまま、さらに少しだけ力を込める。

 

「いだだだだ! わかった、わかったって! 夢じゃない! 現実、現実だから!」

 

 由愛がジタバタと暴れるその滑稽なやり取りを見て、クッションに顔を埋めていた琴音が、堪えきれずに「あははっ!」と大きな笑い声を上げた。

 

「もう、雫ってば、変なところで行動力あるんだから!」

 

 玲奈も、お腹を抱えて笑い出す。

 

 優莉も、由愛の真っ赤になった頬を見て、声を出して笑った。

 

「なんだよもー! みんなして笑うなぁ!」

 

 由愛は頬をさすりながら唇を尖らせていたが、やがて自分でも可笑しくなってきたのか、「あーあ、明日はメイクさんにチーク濃いめに塗ってもらわなきゃ!」と言いながら、一緒に笑い出した。

 

 そんな四人の笑い声の中心で、雫だけは声を出さず、ただ満足そうに薄く微笑んでいた。

 

ステージで見せる、完璧に計算されたプロフェッショナルな顔。

 

 そして今、このタワーマンションのリビングで見せている、等身大の、何も飾り気のない少女たちの素顔。

 

 互いのすべてを知り、互いを信頼し切っているからこそ見せ合える、この奇跡のような時間。  外の世界では、日本の音楽史に残る「伝説の顔出しライブ」の瞬間を待ち望む五万人のファンたちが熱狂している。しかし、嵐の前の静けさのようなこの部屋の中だけは、ただただ温かく、穏やかな空気が流れていた。

 

 明日の歴史的な瞬間に向けて、力を蓄えるように。何も飾りけのない素の姿を見せ合いながら、渋ガのドームライブ前日の夜は、静かに、そしてゆっくりと更けていくのだった。




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