あさおん!〜48歳のハゲ散らかしたおっさんですが、朝起きたら超絶美少女でした。15億円の資産で「奇跡の歌姫」として二度目の青春を謳歌する〜 作:高山 虎
「いや、高すぎるから!」
春の麗らかな陽気が街を包み込む中、東京・銀座の高級ブランドが立ち並ぶメインストリートに、由愛の悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。
三月末の今日、優莉は四月からの大学生活に向けた由愛の『買い物』に付き合って、このハイエンドな街へと足を運んでいた。
「そうかな? これくらいが妥当だと思うんだけど」
有名ブランドのロゴが控えめに光る、最高級のカーフレザーを使用した上品なトートバッグを見つめながら、優莉は不思議そうに首を傾げた。そのバッグのハンドル部分に結びつけられた値札には、『640,000円』という、およそ高校を卒業したての少女が持つには不釣り合いな金額が印字されている。
事の発端は数日前のことだった。由愛は、近所の量販店で七万円の入学式用スーツこそ買ったものの、それに合わせるバッグやアクセサリー、腕時計などの小物類を一切買っていないことが判明したのである。
そこで優莉は、二月にあった由愛の誕生日を、渋ガ再始動の準備でまともに祝えなかったことを盾に取り、「私が全部買ってあげる! 遅めの誕生日プレゼントだよ!」と強引に言い出し、由愛をこの銀座へと連行してきたのである。
「こういうのは、若いうちから安物で妥協するより、一生物を買って長く大切に使った方がいいんだって。大学だけじゃなくて、これからのバンドのメディア露出の時にも使えるし。……これ、買っちゃうね?」
優莉が、かつてのビジネスマン時代に培った(しかし金銭感覚は完全にバグっている)ロジックで強引に押し切ろうとしていた。
「いやいやいや! 一生物って言っても限度があるっしょ! 六十四万って、あーしのスーツ十着近く買えるんだけど!」
必死で止める由愛をよそに、優莉は店員に向かって優雅に微笑みかけた。
「すみません、これください。カード一括で」
「かしこまりました。ありがとうございます」
店員が満面の笑みでバッグを包みにかかり、由愛は「あわわわ……」と頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
重厚なブランドショップのドアを抜け、大通りに出た由愛が、大きなショッパーを抱えながら優莉に抗議する。
「ちょっとスグ! いくらなんでも、誕生日の相場じゃないっしょ!? こんなのもらったら、来年の優莉の誕生日にあーし破産しちゃう!」
「いいからいいから。うちの会社のトップボーカルが、みすぼらしい格好をしてたら、レイン副社長に怒られちゃうからね。必要経費みたいなものだよ」
「絶対違うって!」
「いいからいいから。さ、次行くよ!」
優莉は由愛の抗議を笑顔で受け流し、そのまま近くの高級時計店とジュエリーショップを軽快な足取りでハシゴした。
そして、「手元が寂しいから」という理由で四十七万円の国産高級腕時計を、「首元に輝きがワンポイント欲しい」という理由で四十万円の一粒ダイヤのペンダントを、半ば強制的に追加でプレゼント(購入)したのであった。
「じゃあ、次! やっぱり足元が一番大事だから、パンプスかな!」
まったく疲れを見せず、元気に次の店舗へと向かおうとする優莉の背中を見つめながら、由愛は紙袋を両手に抱え、「……もう、どうにでもなれっしょ……」と、もはや完全に抵抗を諦めて項垂れていた。
老舗の高級靴店に入り、二人はショーケースに並んだ美しいパンプスを物色し始めた。
「私は、入学式なんだし、ワンポイントで目立つこういう『赤』もいいと思うんだけどな」
優莉が、深みのあるボルドーレッドのパンプスを手に取って提案する。
「えー、悪目立ちしない? ここは無難に『黒』っしょ。スーツも紺色だし」
由愛が、シンプルな黒のエナメルパンプスを指差して反論する。
あーでもない、こーでもないと、女子大生になる直前のショッピングを楽しんでいる最中。
優莉のコートのポケットで、スマートフォンがマナーモードの振動を立てた。画面を見ると、登録されていない知らない番号からの着信だった。
「あれ? 誰からだろ?」
優莉は首を傾げながら、通話ボタンをスワイプして電話に出た。
「はい、佐藤です」
『あ、突然のお電話申し訳ありません。私、恵応義塾大学事務の学事課、斎藤と申します。佐藤優莉さんの携帯電話でお間違い無いでしょうか?』
「はい。そうですが」
『実は、四月一日の入学式における『新入生代表挨拶』の件でご連絡いたしました。佐藤さんは本年度の一般入学試験において、全学部を通じてトップの成績、つまり首席での合格でございました。つきましては、ぜひ佐藤さんに代表挨拶をお願いしたいのですが……』
電話口からの予想外の言葉に、優莉は一瞬だけ目をパチクリとさせた。
(……あー。でもまあ、九十八パーセントも取ってれば、そりゃ首席にもなるか)
あっさりと状況を飲み込んだ優莉は、元・総務部長としてのスイッチを切り替え、極めて落ち着いた、ビジネスライクな声で返答した。
「はい……はい、わかりました。謹んでお受けいたします。では文字数にして千二百字から二千字程度で、三〜五分程度の原稿をこちらで用意しておきます。……はい。当日のリハーサルの時間ですね、承知いたしました。はい、よろしくお願いいたします。それでは、失礼いたします」
優莉は淀みない敬語で事務的な確認を終え、通話を切ってスマートフォンをしまった。
「……なんかあった?」
由愛が、優莉の急に大人びた態度を不思議そうに見つめながら尋ねた。
「いや、なんか大学の入学式で、代表挨拶を頼まれちゃってさ」
優莉は、パンプスを棚に戻しながら平然と答えた。
「……は? 代表?」
由愛の声がひっくり返る。
「うん。なんか、入試の成績がトップの首席だったみたいで。そういう慣例らしいよ」
「しゅ、首席!? 恵応大学で!?」
由愛は驚愕のあまり、持っていた黒いパンプスを落としそうになった。
「てか、あんな普通に『原稿用意しておきます』とか言えなくない!? 普通もっとパニックになるっしょ!」
「別に、人前で喋るのはドームの五万人の前で慣れたしね」
優莉がケラケラと笑う。
「はー……。優莉と一緒にいると、ほんっと驚くことばっかり……。あーしの心臓、いくつあっても足りないわ……」
由愛は深くため息をつき、もはや呆れを通り越して感心したような目で優莉を見つめた。
「よし、靴はこれにしよう。お会計してくるね」
そうしてすべての買い物を済ませた二人は、夕暮れ時の東京をタクシーで抜け、いつものタワーマンションへと到着した。
近くに迫った入学式の準備と、大量の荷物を整理するため、今日、由愛は優莉の家でお泊まりをすることになっていたのだ。
部屋着に着替え、広々としたリビングのソファに深く腰を下ろした由愛が、ふと辺りを見回して口を開いた。
「ねえ、あーしら、こうして『二人きり』でお泊まりするのって、すっごい久しぶりじゃない?」
キッチンで温かい紅茶を淹れていた優莉は、その言葉に手を止めた。
「ああ、言われてみれば……。そうだね、ドームの前日とかメンバーみんなで泊まることはよくあったけど。由愛と二人きりって、前に泊まり込みで歌詞作った時以来なんじゃないかな」
優莉は二つのマグカップをテーブルにコトッと置き、由愛の隣に腰掛けた。
「でしょ? なんか新鮮」
由愛がマグカップを両手で包み込みながら、えへへと笑う。
二人きりというシチュエーションに、最初は少しだけ照れくささがあったものの、そこは同じ目標に向かって駆け抜けてきた親友にして、ボーカルとしてのパートナーでもある。もはや家族のような安心感と空気感の中で、二人はデリバリーのピザで夕食を済ませ、広いバスルームで湯船に浸かり、心身の疲れを癒した。
夜の十時を回った頃のことだった。
「さてと、どうせやんなきゃいけないし。ささっと入学式の原稿やっちゃうか」
優莉は髪をタオルで拭きながら、リビングのデスクにノートパソコンを広げた。
「えっ、今から書くの? てか、そんなすぐに書けるもんなの?」
由愛が、ソファから身を乗り出して優莉の横顔を覗き込む。
「んー……なんか、歌詞書くのよりずっと難しそう」
「そんなことないよ」
優莉はキーボードに指を置き、迷うことなくタンッ、タッタンッと軽快なタイピングを始めた。
「こういう式典の挨拶はね、歌詞みたいなゼロから生み出す創造的な作業とは全然違うんだ。ある程度の『定型句』と『構成のフォーマット』が決まっていて、そこに自分の現状や少しのオリジナリティを組み合わせるパズルみたいなものだからね。一度慣れちゃえば簡単、簡単」
株主総会の想定問答集や、社長の訓示の草案を嫌というほど書き上げてきた元・総務部長にとって、大学の入学式のスピーチ原稿など、目をつぶっていても書けるような定型業務に過ぎなかった。
「へー……。なんか、優莉のそういう大人のバリキャリみたいなところ、すっごく頼りになるし、かっこいい」
由愛は、一瞬も止まることなく一定のスピードで画面に文字が埋まっていく様子を、純粋な感心の眼差しで見つめていた。
ものの二十分ほどで、優莉は「よし、完成」とキーボードから手を離し、大きく伸びをした。
「お疲れ様! それじゃ終わったし、もう寝よっか」
由愛が立ち上がり、パジャマのシワを伸ばす。
「うん、そうだね。じゃあ、電気消すよ」
優莉がリビングのメイン照明を落とし、二人は廊下へと出た。
優莉が自分の寝室のドアを開けようとした時、後ろからついてきた由愛も、そのまま当たり前のように優莉の寝室へと入ってこようとしていた。
「あれ? 由愛、いつものあっちの部屋(ゲストルーム)じゃないの?」
優莉が振り返って尋ねる。
「いいじゃんいいじゃん! たまには一緒に寝よ?」
由愛は悪戯っぽく笑い、優莉の腕にギュッと抱きついてきた。
「うーん……まいっか。仕方ないなぁ」
優莉は苦笑しながらも、由愛の温もりを拒むことはできず、納得して二人で広いキングサイズのベッドへと潜り込んだ。
部屋の明かりは小さな間接照明だけになり、静寂が訪れる。高級な羽毛布団の中で、隣り合って天井を見つめていると、不意に由愛が寝返りを打ち、優莉の方へと顔を向けた。
「ねぇ、優莉」
「ん?」
「……高校生活、楽しかったよね」
由愛の声は、いつもの元気なトーンではなく、夜の静けさに溶け込むような、少しだけ甘く、しんみりとしたものだった。
優莉も首を巡らせ、由愛の方を向く。
同じ枕を共有しているため、由愛の顔がすぐ目の前にあった。ほのかに香る、同じシャンプーの匂い。暗がりの中でもわかる、長くて美しいまつ毛。
「うん、そうだね。……最初は、こんなふうになるなんて、全然想像してなかったな」
優莉は、ふと自分がこの少女の身体で目覚めた頃のことを思い返していた。
突然の性転換から二週間後、あまりに暇なため、一人でカラオケに行こうとしたものの、身分証がなくて入店できず、途方に暮れて帰ろうとしていたあの日のことだ。
「もし、あのビックエーコーで由愛に出会わなければ、今の私は絶対にあり得なかったよ」
「あーしも、あの時、歌の練習のために行ったカラオケで、優莉に声かけて本当によかったって思ってるっしょ。あの時、優莉と一緒に歌ってなかったら、あーし、絶対今みたいになってなかったし」
「私だって。由愛がバンドに誘ってくれたから、一緒にプロになろうって思えたんだから」
それから、二人は小さな声で、数え切れないほどの思い出話を語り合った。
渋学祭の時のこと。由愛の親を説得した時のこと。秘密にしていたはずのバンド活動が、実は渋学のみんなにバレバレだったこと。そして、数日前の、人生を変えたあの東都ドームの光の海のこと。
「……やっぱり、由愛に出会えてよかった」
優莉は、胸の奥から湧き上がる純粋な感情のままに、ポツリと言葉を紡いだ。
「一緒に歌ってくれて、一緒に夢を見てくれて……ありがとね、由愛」
優莉がそう伝えて、由愛の返事を待ったが。
「……すぅ……」
横から聞こえてきたのは、言葉ではなく、規則正しい静かな寝息だった。
見れば、由愛は目を閉じ、完全に夢の世界へと旅立っていた。
「…………またこのパターンかよ」
優莉は、思わず小さく吹き出して呟いた。肝心なところで寝落ちしてしまうのは、やっぱり由愛らしい。
「まあ、また今度伝えればいいかな」
優莉は、無防備な寝顔の由愛の頭を優しく一度だけ撫でた。
「おやすみ、由愛」
そうして優莉も目を閉じ、温かな安心感に包まれながら深い眠りについた。
四月一日。雲一つない青空が広がる、恵応義塾大学の入学式当日。
歴史ある広大な講堂は、真新しいスーツに身を包んだ数千人の新入生たちによる熱気に包まれていた。
厳かな空気の中で式典が進行し、やがて学長からの式辞が終わると、司会進行の教授がマイクに向かった。
「続きまして、新入生を代表し、誓いの言葉。――入学生代表、商学部、佐藤優莉」
その名前が呼ばれた瞬間。
新入生席の最前列から、一人の女子学生が静かに立ち上がり、背筋をピンと伸ばして壇上へと向かって歩き出す。
その姿が大型モニターに映し出された途端、講堂の空気が一変し、あちこちから抑えきれないざわめきが波のように広がっていった。
「えっ……あの代表の子、滅茶苦茶美人じゃね?」
「ていうか、恵応の代表挨拶って、全学部のトップの首席がやるんでしょ? あんなアイドルみたいな美貌で頭も一番いいとか、どうなってるの……神様不公平すぎない?」
「おい、それよりあのスーツやばくね? ブランドのロゴとか全くないけど、立ち姿のシルエットが美しすぎる。仕立てが異常にいいぞ……」
「……ちょっと待って。佐藤優莉……すぐり……どこかで聞いたような……」
会場のざわめきが徐々に大きくなる中、優莉は壇上の中央、マイクの前に立ち、凛とした姿勢で会場全体を見渡した。
彼女が着ているのは、打ち上げでも話題になった、イギリスの名門テーラーで仕立てた二百四十万円の『ビスポーク』のフルオーダースーツだ。その唯一無二の気品と、彼女自身の持つ『国宝級の美少女』としてのオーラが合わさり、ただそこに立っているだけで、数千人の視線を強制的に釘付けにしていた。
優莉は、一切の緊張を感じさせない堂々とした笑みを浮かべ、胸ポケットから原稿を取り出す。
「本日、ここに恵応義塾大学入学式を挙行していただき、新入生一同、心より感謝申し上げます。また、ご多用の中ご臨席賜りましたご来賓の皆様、並びに教職員の皆様に、厚く御礼申し上げます――」
透き通るような、しかしホールの隅々まで響き渡る圧倒的な発声と、淀みないスピーチ。
先日、由愛の横で適当に書き上げた原稿とは思えないほどの説得力を持って、彼女は大学生活の幕開けを鮮やかに飾ってみせたのであった。
「いやー、凄かったね! 代表挨拶! 優莉が出た瞬間の会場のざわめきったらなかったよ!」
入学式が終わり、キャンパスの桜並木の下で合流した新米マネージャーの一花が、興奮気味に身振り手振りで語っている。
「ほんと、入学初日から伝説作ったよね! さすが、うちらのボーカルっしょ!」
由愛も、買ってもらったばかりのハイブランドのバッグを揺らしながら、自分のことのように自慢げに胸を張った。
「そんなことないでしょ。ただ単に、女の子が首席で挨拶するのが物珍しかっただけだよ」
優莉は照れ隠しのように謙遜したが、その表情はどこか満足げだった。
「今日はもう、特に予定はないよね? せっかくだし、新歓のエリアをぶらつきながら帰ろうか」
「さんせーい! まあ、うちらはバンドと会社の仕事で忙しいし、サークルに入る気は全くないんだけど、お祭りみたいで楽しそう!」
由愛が、キャンパスの奥から聞こえてくる賑やかな歓声の方へと歩き出す。
「一花はサークルどうするの? マネージャーは一応アルバイト扱いだし、大学生としての時間は結構あるでしょ?」
優莉が隣を歩く一花に尋ねた。
「うーん、現在検討中! マネージャーの仕事の邪魔にならない程度で、なんか面白くていいサークルがあれば考えるよ」
一花が答えたその時。
人混みの中から、メガホンを持った先輩らしき学生の声が聞こえてきた。
「新入生の皆さん、こんにちはー! 将来の起業家を目指すならここ! 恵応大経営研究会でーす! 現役の学生社長も多数在籍! ビジネスのノウハウ、教えます!」
その言葉を聞いた瞬間、優莉の足がピタリと止まり、その美しい瞳がキラリと光った。
「……ごめん、ちょっと行ってくるね」
優莉はそう言うが早いか、小走りで経営研究会のブースへと向かっていった。
「えっ、ちょ、優莉!?」
数分後。パンフレットを片手に戻ってきた優莉は、満足そうな笑みを浮かべていた。
「いやぁ、入会しちゃった」
「えっ、マジで!?」
由愛が目を丸くする。
「社長、そんな暇あるの? これから夏のドームツアーの準備とか、レコーディングとかでスケジュールびっしりだよ?」
一花がマネージャーの顔になって心配する。
「大丈夫、大丈夫。毎回のミーティングに出る必要はなくて、出られる日だけ顔を出せばいいんだって。それに、他大学の優秀な学生や、すでに起業してる先輩たちとの人脈も築けそうだしね。将来のうちの採用活動や、新しいビジネスのアイデア出しの場として、有効活用させてもらうよ」
「……ほんと、どこまで行ってもビジネス脳っしょ」
由愛が呆れたようにため息をついた。
そうして三人で、各サークルの熱烈な勧誘をひらりひらりと躱しながら冷やかして歩いていると、三人のスマートフォンが、バッグやポケットの中でほぼ同時に「ピコン」と鳴った。
「あ、グルチャだ」
由愛がスマートフォンを取り出すと、いつもの渋ガのグループチャットに、別の大学に進学したメンバーたちから立て続けにメッセージが届いていた。
『入学式どうだった? 何かやらかしてない?』
玲奈からのメッセージとともに、『大丈夫?』と書かれた看板を持った、呆れ顔のペンギンのスタンプが送られてきた。
『三人とも、入学おめでとう! 私は明日が入学式だよ。なんだかすっごく緊張するなぁ……』
琴音からは、『ドキドキ』と文字が添えられた、激しく鼓動が鳴っているハートマークのアニメーションスタンプ。
そして雫からは、メッセージのテキストはなく、ただ『やればできる!』という力強い毛筆の文字だけの、絶妙にダサいスタンプが送られてきていた。
「なにこれ、雫のこれ何? どういう感情!?」
由愛がスマートフォンの画面を指差して笑う。
「うーん……まあ、雫ちゃんなりに、新生活を応援してくれてるんじゃない?」
一花が苦笑いしながらどうにか雫をフォローしている。
「てかさ、玲奈の『大丈夫?』って、絶対優莉がなんかやらかすと思ってるよね。ドームの時も勝手にサージョの手引きしたりしてたし」
由愛がニシシと笑いながら優莉を小突く。
「いや、そんなことないでしょ。むしろ、由愛が大学初日から怪しげなサークルに入ったりして、なんかやらかさないか心配してるんだって。玲奈の保護者目線だよ」
優莉も負けじと反論する。
「「ねぇ、一花! どっちだと思う!?」」
優莉と由愛が、同時に一花の方を振り向いて同意を求めた。
「えっ、私!? えーっと、それは……」
一花が困惑して答えに窮しようとした、その時だった。
「ねぇ……ちょっと、あの制服みたいなスーツの子」
「えっ、あれって……嘘でしょ? 渋ガの、優莉じゃない!?」
「えっ、マジ!? 私、ドームライブ行けなかったから顔わかんないんだけど! てか超絶美人過ぎない!?」
「いや、だからSNSでずっと言ってたじゃん! 人間じゃない、女神だったって!」
女子学生の数人が、優莉の顔を見てひそひそと、しかし確かな興奮を帯びた声で騒ぎ始めた。
その声に反応して、三人がそちらを振り向く。
視線の先には、『軽音サークル』と書かれた手作りの看板を掲げた長机と、そこで勧誘活動を行っていた十人ほどの先輩サークルメンバーと思われる男女の学生たちが立っていた。
彼らはこちらを向いて、優莉の顔を凝視している。
「おい、待てよ……。優莉ちゃんの隣にいるあの子、あの顔は……間違いない、由愛ちゃんだ! 渋ガのツインボーカルが、揃ってうちの大学にいるぞ!!」
軽音サークルの先輩の一人が、指を差して絶叫した。
その瞬間、周囲の空気が一気に沸騰した。
「やばっ、バレた!?」
由愛が焦って優莉の背中に隠れる。
「ええっ、どうしよう! パニックになっちゃう!」
マネージャーの一花がオロオロと周囲を見回す。
「よしっ、逃げよう」
優莉は瞬時に状況を判断し、極めて冷静に決断を下した。
「じゃ、一花はあの軽音サークルの人たちに、適当に説明と牽制しといて。これからのキャンパスライフを守るための、マネージャーの初仕事だね!」
「ええぇっ!? 私が!?」
優莉の無茶振りに、一花は目を丸くして驚きながらも、すぐに覚悟を決めたように力強く頷き、押し寄せてこようとする軽音サークルの学生たちの壁となるべく、両手を広げて立ちはだかった。
「皆さーん! 落ち着いてくださーい! プライベートなんで、撮影はNGでーす!」
軽音サークルの騒ぎは、波紋のように少しずつ周囲の新入生たちにも波及し始めていた。
「じゃ、いくよ、由愛!」
優莉は、戸惑う由愛の右手をガシッと掴んだ。
「うんっ!」
由愛は、何がおかしいのか、最高に楽しそうな笑顔で笑いかけた。
「せーのっ!」
二人は息を合わせ、ビスポークのスーツと、青川のスーツの裾を翻し、春風を切り裂いてキャンパスを走り出した。
「待ってー! サインくださーい!」
「軽音サークルに入ってくれー!」
後ろから追いかけてこようとする学生たちを、一花が必死に「ストーップ! 止まってくださーい!」と引き止めてくれているのが、振り返る視界の端に映った。
「あははははっ!」
正門まであと少しというところで、この漫画のような逃走劇の状況がおかしくなってきたのか、由愛がこらえきれずに大きな笑い声を上げた。
「ふふっ……あははっ!」
優莉も、由愛につられて声を上げて笑い出した。
入学初日から追われる身となるなんて、思いもよらなかった。
しかし、息を切らし、笑い合いながら手を繋いで走るこの瞬間が、どうしようもなく青春の匂いに満ちていて、心地よかった。
そうして二人は、喧騒を置き去りにして、大学の巨大な正門から春の街へと飛び出したのであった。
性別が変わり、戸惑いから始まった波乱万丈の高校生活が終わり。
ドームライブを成功させた、トップアーティストとしての大学生活が、今、始まる。
初日からこれほどまでにイベントが盛りだくさんの、二度目の大学生活は、今まで以上に賑やかで、刺激的で、そして輝かしいものになりそうだ。
正門を抜け、タクシー乗り場へと向かう途中。
ふと立ち止まった優莉が空を見上げると、街路樹の遅咲きの桜が、抜けるような青空の下で満開に咲き誇っているのが目に入った。
ひらひらと舞い落ちる薄紅色の花びらを、優莉はそっと見つめる。
そして、その美しさに呼応するように、彼女の胸の奥から自然と一つの言葉がこぼれ出した。
「……私も、花、咲かせられそうだよ」
それは、ビジネスの成功でもなく、バンドの名声でもなく。
一人の『佐藤優莉』という少女としての、そして仲間たちと共に歩む未来への開花宣言だった。
春の陽射しに照らされた優莉の顔には、これまでのどんな時よりも美しく、希望に満ちた、満面の笑みが浮かんでいた。
【完】
読者の皆様、まずはここまで長い物語に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
前作の二次創作と比べると、本作は思うように閲覧数が伸びず、正直なところ「このまま投稿を続けていいのかな」と少しへこんでしまった時期もありました。
感想で少しキツめのことを言われて落ち込んだこともあります。オリジナルランキングから転げ落ちて涙したことも……。
それでも、自分が本当に書きたかったものを最後まで連載しきることができたのは、ひとえに読んでくださる皆様の存在があったからです。
実は、私が本作で「本当に書きたかったもの」というのは、まさに先ほどの最終話のラストシーンでした。
あの『遅咲きの桜』を見上げて、「私も、花、咲かせられそうだよ」とこぼす彼女の姿。
このたった数行のためだけに、40万字超えの長い道のりを走り始めたと言っても過言ではありません。
この物語は一見するとおっさんが無双する成り上がりストーリーに見えるかもしれませんが、その根底には「流されるまま生きてきた48歳のおっさんが、二度目の青春を通して、本当の意味で自分自身の人生を見つけ、救済される」というテーマを込めていました。
あの遅れて咲いた桜に重ねた優莉の想いが、少しでも皆様の心に届いていれば、作者としてこれに勝る喜びはありません。
また、連載中にいただいた温かいご感想、そして丁寧な誤字脱字のご報告には本当に助けられました。
皆様からのリアクションの一つ一つが何よりの原動力となっています。
重ねてお礼申し上げます。
そして、この結末まで見届けてくださった皆様に、一つ大切なお知らせとお願いがあります。
■ 個人出版と、本編大部分の非公開化について
前作のあとがきや活動報告でもアナウンスさせていただいておりましたが、本作『あさおん!』はKindleでの個人出版を予定しています。
それに伴い、完結から約一ヶ月後となる【10月10日】を目安に、一部のエピソードを残して大部分をハーメルン上からは非公開とさせていただきます(もちろん、それまでは全編しっかり無料でお読みいただけます!)。
作者としてはこのまま残しておきたい気持ちもやまやまなのですが、「Kindle Unlimited」に登録するにあたり規約(独占配信のルール)上、どうしても他サイトでの公開を取り下げる必要があり、このような形を取らせていただくことになりました。
どうかご理解いただけますと幸いです。
Kindle個人出版のリリースは【10月16日】に第1巻の配信を開始し、以降は全3巻(完結)まで隔週配信していく予定です。
Kindle版では、本編の内容を一部変更・ブラッシュアップすることに加え、各巻末に9,000〜16,000字の書き下ろしIFストーリー(もし優莉が本編とは違う選択をしていたら……)を付録として収録します!
本作を少しでも「面白かった」「また優莉たちの物語を読みたい」と思っていただけたなら、ぜひKindle版もお手に取っていただけると嬉しいです。
【各巻予約ページをチェック!】
第1巻 https://www.amazon.co.jp/dp/B0HHYG48SY
第2巻 https://www.amazon.co.jp/dp/B0HHYHVM1S
第3巻 https://www.amazon.co.jp/dp/B0HHYHRFT1
表紙画像
【挿絵表示】
なお、本作はKindle Unlimitedに対応いたしますので、会員の方であれば追加料金なしでお読みいただけます。
もしお読みいただけた際は、Amazonのサイト上で☆評価やレビューをしていただけるとめちゃくちゃ励みになります!
ぶっちゃけた話をしてしまうと、少しでも多くの方に読んでいただければ高山にささやかなお小遣いが入ります。
それが今後の執筆モチベーションを爆上がりさせる何よりの特効薬になりますので、「しょうがねえ、次回作のためにお布施してやるか」というあたたかいお気持ちで読んでいただけましたら、感謝のあまりむせび泣きます……!
今後の進捗情報につきましては、都度、短い追加エピソードかIFストーリーを更新するとともに、あとがきと活動報告でお知らせいたします。
通知が届くように、ぜひ【作者お気に入り】に登録してお待ちいただけると嬉しいです。
【作者お気に入りはこちらから】
https://syosetu.org/user/513197/
また、最新情報や日々の執筆状況などはX(旧Twitter)でも呟いております。こちらもぜひチェック&フォローをお願いいたします!
▶ 高山のX(旧Twitter): https://x.com/takayama_tora
■ 今後の活動について
今後の執筆スタイルとしましては、「基本的にハーメルン様で連載し、完結後に個人出版へ移行する」という流れで活動していきたいと考えています。
現在は、新作として【10万字目標のTS転生ゾンビパニックロードムービー風小説】を鋭意執筆中です!
連載開始時期は進捗次第となりますが、今年中にはスタートし、できれば完結までもっていきたいと意気込んでおります。
なお、新作も本作と同様に「最後まで書ききってから投稿を開始する」という形をとりますので、途中でエタる(未完のまま更新が止まる)ことは絶対にありません! どうか安心してお待ちください。
連載時は「2日に1回、20:11」の更新となる予定です。
連載開始のタイミングがまだ未定のため、開始時にスムーズに通知を受け取れるよう、こちらもぜひ先ほどの【作者お気に入り】へのご登録をお願いいたします。
■ 最後に
改めまして、この『あさおん!』という物語を書くことができて、私自身とても楽しかったです。
もしよろしければ、このままページ下部からハーメルンの【評価】や【お気に入り】へのご登録もお願いいたします。皆様の応援が完結の最高のフィナーレとなり、より多くの方にこの作品を届けるための大きな力になります。
それでは、また次回作(あるいはKindle版)でお会いしましょう!