フローラの私邸は、ベルフール宮殿の一画にある。
長年に渡って弱者から搾り取った金で作られた館は、かつてフローラが伯爵家の娘であった頃に住んでいた邸宅よりも豪華で、それなりに満足のゆくものであった。
(これであの死にぞこないのお下がりでさえなければよいのですけれど)
フローラは、追放した前教皇の顔を思い浮かべる。聖職者とは思えぬ好色な視線が不愉快だった。
そのうち火事でも起こして、新しい館を建てる方便を作ろうかとも考えたが、あいにく修道院を燃やしてしまっている。
フローラが着任してから火事が頻発したのでは、神罰だと騒ぎ立てる人間も出てくるかもしれない。いや、テレジアこそが信者どもを煽動して市井にそのような噂を広めるだろう。
前教皇の痕跡が残らぬよう、フローラの趣味で上書きをした部屋。
壁には近ごろ名を馳せているフィンセントという画家から寄贈された『聖ベルフールの浸礼』が架かっている。サイラス・ベルフールが洗礼盤に浸された絵で、見るものを厳粛な面持ちにさせるが、フローラにとっては著名な画家とのつながりを誇示する小道具にすぎなかった。
天板を仔牛の革で覆ったウォールナットの机に、これまた革張りの椅子。職人に作らせたマグカップで、召使い2に淹れさせたハーブティーを飲む。
書類へのサインを手際よく終わらせて秘書に手渡したとき、七回のノックが鳴った。
「どうぞお入りになって?」
召使い3がおそるおそるといった様子で部屋に入ってきた。召使い3は口が利けないので、誰であるか判別するために、特殊なノックをさせているのである。
そして手ぶりで来訪者を告げた。
せ・い・じ・ょ・て・れ・じ・あ
馬鹿にでも覚えられるように、フローラがスペルを簡略化してやった手話だった。
「入れてよくってよ」
そう言うと召使い3はバタバタと部屋を出ていった。
「失礼いたします」
召使い1がテレジアを連れて戻ってくる。召使い1は最も古くからフローラに仕えているだけあって、フローラに忠実で、召使い3とは違って、よく気が利いた。男でさえなければ、抱いてやってもよかったのに。
フローラは召使い1を下がらせる。すると、
「さすがに火を使うのはルール違反でしょう」
(本気でキレていますわね……)
こちらを睨んでくるテレジアに、フローラは内心、怖気づいた。
「でも、残念ながらこうして生きておりますわよね。お互いの身に危害を加えない――この条件はきっちり守っていますわよ」
フローラは表面上は堂々と返す。
この女に舐められるくらいなら、死んだほうがマシだ。
「それは結果論でしょう。わたしが死んでいたら文句も言えないじゃないですか」
「それはいいことを聞きましたわ。けれど、逃げ道はちゃんと用意してあげましたわよね」
「天井裏のことですか? あんな埃っぽい場所」
埃まみれになりながら天井裏を這いずり回るテレジアの姿を想像して、フローラは愉快になった。
「それに、聖女の襲撃犯はちゃんと処刑して差しあげましたわ」
「今更とぼけるつもりですか? どうしてあの賞金首にわたしを殺す理由があるというのです?」
「さあ。そのすまし顔にむしゃくしゃしたのではなくて?」
「その理由でしたら、わたしよりもあなたを襲うのが道理でしょう」
普段であれば見逃せない悪口だったが、長年あたためてきた計画が炸裂して気分がよいので、見逃してやることにした。
彼女を失脚させる上でなんの役にも立たないお遊びだが、わざわざ苦情を言いに来たテレジアの顔を思いだすだけで、半月くらいは愉快になれそうだった。
当然、殺すつもりなどない。テレジアが脱出するルートくらいは考えていた。殺したら奴隷にできないではないか。そんなことにも思い至らないくらいテレジアは動揺しているようだった。
「修道院長もグルですか」
「さあ? グルも何も――暴漢と手を組んだなんて、わたくしたちの修道院に限ってありませんわ」
フローラは白々しく言う。「ただそうですね、あれは頭が悪いので、わたくしの指示など覚えられないのではないかしら? たとえ意図せず暴漢に襲われたのだとしても、リーゼロッテ派の聖女を危険な目に合わせるなど、滅相もないこと。その責任を取らせて、寒村の司教に任命いたしましたの」
「使い勝手の悪い駒を処分して、子飼いを院長に据えた、と」
「なるほど――悪意を持てば、そのように解釈できますのね。このままでは、あっという間に大悪人に仕立て上げられてしまいそう」
「仕立て上げるまでもないでしょう」
「舐めた口を利いてくれますわね、ブスビッチ」
「ここに鏡はありませんよ」
フローラが睨みつけるも、今度はテレジアが不愉快な薄笑いを浮かべている。
(……押し倒してやったら、どんな顔をするのかしら)
筋力では五分五分だが、不利になったとしても、ここはベルフール派の本拠地。地の利を使い、襲われたと強弁すれば、テレジアを取り押さえることはできるだろう。飛んで火に入る夏の虫とは、今のテレジアの
この場はなんとかなっても、裁判になれば、リーゼロッテ派全体を敵に回すことになるが、そもそも裁判を起こさせなければいいのだ。それがどんな経緯であっても、処女を散らしてやれば――テレジアが処女かどうかは怪しいものだが――聖女は聖女たる資格を失う。牢に入れて、そのまま楽しんでしまえばいい。
もちろんその場合はフローラも聖女の資格を失うが、孤児であるテレジアと貴族の子女であるフローラとでは、失うものの大きさがまったく異なってくる。だからテレジアは訴え出ることはないだろうし、仮に訴え出たとしても、知らぬ存じぬを貫けばいいだけの話。
と、そこまで考えて。
(……わたくしとしたことが短慮でしたわ。奴隷にした後でなら、憂いなく好き勝手にできるのですから)
怒り心頭だったとはいえ、テレジアが敵地であるセントデヴィナ宮殿に訪ねることを
勝者があらゆるリスクを排して敗者を好き勝手にできるという契約には、勝敗が決するまでの互いの禁じ手を抑止する効果がある。自分の勝利を疑っていないフローラやテレジアのような人物にとって、一時的な欲求に身を任せてリスクを取るよりも、多少は時間がかかってもノーリスクで相手を支配したほうが、利益を最大化できるからだ。
フローラは、頭の中で損得勘定をする。紙に書こうかと思ったが、敵がいるときに計算を記す馬鹿はいない。
| フローラ/ テレジア | あとで愉しむ | 今すぐ愉しむ |
|---|---|---|
| あとで愉しむ | (80,80) | (20,-100) |
| 今すぐ愉しむ | (-100,20) | (-100,-100) |
この表で、あとで愉しむ選択がお互いにとって優れていることが瞭然としている。お互いに今動くことはない、ということだ。
もちろん普通の人間は不合理なので、この計算を乱す選択を取るケースもあるが、相手が合理的な思考のできない馬鹿なのであれば恐れるに足りない。そして相手が合理的でも恐れるに足りない。計算外のことは起こらないのだから。
「用向きはこれでおしまい? 説教の時間ですから、とっとと出ていってほしいのですけれど」
* * *
赤髪のリポーターの顔のアップ。二十代の快活な女性で、ゆったりとしたピンクのスーツを身につけている。
「おはよう、いい朝ね。アリダ・ブラウンよ。テレビの前のいい子のみんな、いま私たちがどこにいると思う? ヒントは、この人混み。三、二、一……タイムアップ! ここは、セントベルロッテ博物館です。会場の二時間前なのに、すごい数の人が並んでいます」
アリダが身を引き、セントベルロッテ博物館の全景が映しだされる。バロック建築の荘厳な建物だ。
直後、カメラが、彼女の真上にあるヘリコプターからのものに切り替わる。
上空からは凹の形をした建物と、その入口に並ぶ人々の姿がよく捉えられた。
金髪と栗毛とその他の髪色の比率は、大数の法則により、統計上の数値である5:4:1へと収斂していた。
長蛇の列の最後尾のアリダがヘリコプターに向かって大きく手を振ると、カメラは彼女をズームで映す。そしてカメラが再び切り替わり、上を向いて手を振っているアリダを正面から見据えた。
「え、ウソ、カメラ、切り替わってる? そんなに私のチャーミングな顎を撮りたかったわけ?」
カメラが縦に揺れて頷きを示すと、彼女の白いスニーカーを映した。
「そんなに見たいなら、存分に見せてあげるわよ」
とアリダは大股でカメラまで歩いていき、顎を密着させる。
「ええと、このまま続けてもいい? 謝ったらギブアップさせてあげるけど?」
カメラマンが笑ってギブアップと言うと、アリダは「どういたしまして!」と後ろ歩きで元の位置まで戻った。
「生年月日が今日の人以外はみんな知っているわよね? この博物館がオークションでフローラ様の机を買い取ったって話! 今日はなんと――その映像を、『
そう言うとアリダはカメラに背を向けて、列の横を軽やかに通り抜ける。列の人たちがアリダに気がついて手を振った。
中年男がカメラに向かって大声で呼びかけた。
「なあ、今日は仕事をサボってきてるんだが、俺の姿も映るのか?」
「もちろん、あなたのDNA配列が見えるくらい大きくね」
やめてくれ、と言いながら中年男は嬉しそうだ。
アリダは人々をあしらいながらついに行列の先頭に来て、一番乗りで博物館の中に足を踏み入れた。そこには館長がいて、アリダに一礼をする。アリダも礼を返した。
「それではご案内いたします」
と館長はエレベーターの五階ボタンを押した。
「最上階にあるのね」
「ええ。他の作品も、じっくりご覧いただきたいので」
「なるほど――行列のみんなが聞いてくれていたらいいのだけど、私も人のことは言えないわね。こうして他の作品をスキップして机を見に行っているわけだから。でもあなたと」
とアリダはカメラマンを指さし、ついでウィンクをしてレンズを指さした。「あなたも同罪ね」
恒例の視聴者いじりをすませると、ちょうどエレベーターのドアが開いた。五階の最奥にまで進む。
「これが?」
「はい。こちらがフローラ・ベルフール様の執務机となります」
館長が
「確かに贅沢な机ね」
「ええ、当世の職人が腕を振るったようです。アンティークとしての価値も確かにあります。しかし、机を覆うのに使われている仔牛の革に――フローラ様の
「御筆が」
「はい。確かにフローラ様の御筆は教会の記録として残っていますが、これは極めてプライベートな、書簡にもなかった内容なのです。それは表のようなもので、専門機関に依頼して解析にかけたところ――」
「それが歴史を変えるような発見だった」
アリダは早口になった館長の話を遮った。館長は自分が夢中になっていたことに気がついたのか「失礼」と詫びて、話を続けた。
「私たちはそう確信しています」
「どんな表だったの?」
「こちらです」
館長は机の前にあるキャプションを示した。カメラがそのキャプションをズームする。
A | B | |
|---|---|---|
| A | (80,80) | (20,-100) |
| B | (-100,20) | (-100,-100) |
「これは?」
「こちらはゲーム理論の利得表と考えられます」
「ゲーム理論は、確か一九四四年に考えられたのよね?」
「よくご存知で」
「ここだけの話、付け焼き刃よ。プレスリリースを見て勉強したの。その理論を七〇〇年近く前に先取りしていたっていうこと?」
「ええ。これがどれほど凄いことか。フローラ様の時代には、いまよりも強く神の存在が信じられていました。聖職者には、行動の結果は神意で決まる――そのように考える者が多く、確率の概念すらよく知られているとは言えませんでした。そのような時代の中で、互いの行動を数値化して評価するという姿勢は、まさしく異端と言えるものでしょう。公的な文書に残っていなかった理由がうかがえます。加えてマトリクス! この表を作ったことです。明らかにこの時代の概念ではありません。さらに、さらにですよ。フローラ様は均衡の考えにたどり着いていた可能性があります。ゲーム理論における均衡は――」
「待って、私にあてさせて。この表で、お互いにこの選択しかありえないという場所のことよね?」
アリダは再び館長の話を遮った。
「その通りです。図の左上が均衡になります。この均衡の考えは応用可能性が極めて高く――」
「ゲーム理論の発明者ですら、最初には思いつかなかった。あるいは思いついていたとしても論文にはしなかった」
「付け焼き刃とは思えませんよ!」
館長が嬉しそうに言った。
「ありがとう。いったいフローラ様は、この表で何を考えていたのかしら?」
「それはわかりません。A、Bと伏せられていますから。ただ、この表は非常に力強い筆跡で書かれています。聖教にとって大切な分岐点だったのではないでしょうか。だからこそ、私たちの時代にまで残っているのです。想像をたくましくすれば、テレジア様たちリーゼロッテ派との和解の協議に向けて、フローラ様が戦略を考えていたのかもしれません」
館長の熱弁が終わると、アリダはカメラに向かって微笑みかけた。
「ありがとうございました、館長。フローラ様の机はセントベルロッテ博物館に常設される予定だけど、十一月下旬には、復旧や解析作業で、一時的に出張しちゃうみたいなの。みんなもそれまでに、セントベルロッテ博物館に、この歴史的な発見を見に来てはどうかしら。以上、アリダ・ブラウンがお届けしました。また明日!」