「ここがいいのね、テレジア?」
征服欲に満ち満ちた表情を浮かべ、フローラが腹に跨り、
来る。
腰を動かしてそれを逃がそうとするが、大きく身動きが取れない。代わりに腰が小刻みに動き、主人への恭順を示した。
すぐに二度目の波が訪れた。
暴力的なそれに、途切れかけた意識が叩き起こされ、自分のものではなくなった腰が、水揚げされた魚のように暴れ回る。視界がちかちかと明滅する。枕からずり落ちるようにして傾いた彼女の頬を、わけのわからぬ涙が伝っている。
上気したフローラの顔を、彼女はいつまでも陶然と眺めている。
フローラはいつもの司祭服を着ていたが、信者たちの前では決して見せない嗜虐的な笑みを浮かべ、彼女の細い首を締めつける。
視界が狭まり、世界が薄らいでゆく。
このまま世界が消えてしまい、フローラ様とふたりで虚空に取り残されてしまいたい、と彼女は思う。
長い痙攣が終わると、彼女は自分の使命を思いだす。
腕がだらりと脱力したふりをして、彼女はベッドの下に手を潜らせる。
そして、
* * *
雲ひとつない夏空を、真っ白な雪が踊っていた。
教会にも、市場にも、表通りにも、路地裏にも――すべてに平等に、蝶々のように舞い降りてゆく。
後年の気象学者は、この珍事を、サンビエス山の万年雪が、風に乗って飛んできたのであろうと推測している。
太陽の昇るほう、町の東にあるサンビエス山は、両手の指をぴったりと合わせた、祈りの手の形に
しかし今は科学のない時代のこと、町の教会には教えを求める人々が押し寄せた。
誰もが理由を知りたがった。博学な司祭に尋ねれば、何かしら理由を教えてくれるはずだ。
あいにく司祭は席を外していた。突然の出来事に戸惑う信者たちを前に、教会の助祭も戸惑っていた。理由を知りたいのは、助祭も同じだった。
司祭であれば――たちどころに聖典を解釈して、すばらしい教えを説いてくださるはずなのに。助祭は新しく就任した司祭にすっかりやり込められ、自身の考えにまったく自信を持てなくなっていた。
「これは」
助祭は少し
「――奇跡です」
美しさを帯びた不条理を、人は奇跡と呼ぶ。
柔らかな雪が睫毛に積もっていた。
彼女は長らく動かずにいたけれど、雪が風に吹かれてポロポロと頬を転がり、わずかな体温に触れてほろりと崩れた。雪が液体に変換され、彼女の頬のくぼみに溜まってゆく。
彼女の頬に生まれた湖はしばらく凪いでおり、順に一つずつ、三つの人影を映した。
一つめは、髭面の男だった。
酒場で火照った顔が急速に冷えていくのを感じながら、男はあたりを見回した。近ごろ、この近辺で騒がれている孤児狩りと間違えられてはたまらない。誰もいないことに安堵した男は、目を瞑ったままの彼女を検分していたが、彼女が今にも死んでしまいそうだったので、舌打ちをして立ち去った。
もし行為の最中に彼女が死んでしまったら、いくらスラムのガキであろうと、憲兵にいくらか金を渡さないことにはすまないことが、酒毒の回った頭でも理解できたから。
二つめは、彼女同様にボロ服を着た少女だった。
少女は少しためらって、彼女の肩を叩いた。彼女からの反応がわずかだったことに安堵して、少女は彼女の懐をまさぐった。何一つとして収穫はなかった。少女の腹が鳴った。少女は今日の夕飯をどうするべきかを考え、酒場の前まで歩いていった。薄着が体に堪えた。どうせあとで脱ぐことになるにせよ、羽織るものが欲しかった。彼女の服を剥がなかったのは、少女の情けだった。
三つめは、皺だらけの老爺だった。
老爺はこの路地裏に似つかわしく古びてはいるが、この路地裏に似つかわしくなく上等な、ゆったりとしたローブを身にまとっていた。
長く生きるほど肉体には
「生きておるかの」
彼女は返事をしなかった。
老爺は彼女を抱き上げた。彼女の輪郭を避けて、薄い雪溜まりが形成されていた。湖はただの雫にもどり、彼女の姿がぼんやりと浮かぶ地面に、吸い込まれるようにして消えていった。
柔らかなベッドで目を醒ました。
全身から汗が噴きだしていたが、身体は軽かった。地面で眠る生活が身体を蝕んでいたことに、彼女は初めて気がついた。
「気がついたかね」
彼女は慌ててベッドから飛び跳ね、窓の前まで走った。が、そこが二階であることに驚いて足を止めた。
「だ、誰」
「ダウラス・ヴェヌティ。写本師じゃよ」
「おっ、お貴族様……? ごめん、なさい」
相手に名字があることを知り、彼女はぎこちない敬語を使った。
「謝ることはない。自分の前に知らぬ者がいたら、正体を確認したくなるのは当然のことじゃ。それに、わしは十二男坊。しかも
ダウラス・ヴェヌティはお茶目にウィンクをした。
「どうして、ダウラス様は、あたしを」
「
穏やかに言うダウラスに、彼女は警戒しつつもベッドに腰を掛けた。どのみちドアの前にはダウラスがいて、逃げるのは難しそうだ。
ダウラスの言う通り、彼女は聡い娘だった。スラムの中では、という但し書きがつくが。孤児として生きるための知恵は、一般的な知恵のあり方とは異なる。
「お主の名は?」
「ルブーヤです」
「〈
「はい。みんな、あたしをゴミ箱のって言います。三番通りのゴミ箱に捨てられてたから」
彼女は誇らしげに答えた。捨てられた場所がわかっていることは、孤児たちの間では羨むべきことだった。
「じゃがそれは、あまり女の子らしくない名じゃのう」
「そう、ですか? みんな、同じです。
「その三人との仲はどうじゃ?」
「えーと、シフォーナは死にました。血を吐いて。仲間の中で、敬語がいちばん得意でした。ケストとはときどき喋ります。炊き出しの日とか、です。男ですけど。ポントもそうだったけど、最近、会わないです。孤児狩りにやられたのかも、です」
彼女の言葉にダウラスは「そうか」と言って、
「お主に、わしの研究を手伝う気はあるかのぅ」
「研究……ですか? あの、ごめん、なさい。あたし、馬鹿で。ダウラス様の言葉、ときどきわかりません」
「構わぬ。研究とは……そうじゃな、人間にわからないことを、一つずつなくしていくことじゃよ」
「そんな難しいこと、あたしにはできません」
「なに、物を買ったり、薬を混ぜたり……簡単なことじゃ。お主にできないことをさせるつもりはない。手伝うというのなら、お主にはこの部屋に住んでもらう。三食は保証するし、週に二度は浴場へ行かせてやろう。どうかね」
こんなうまい話があってよいのだろうか、と彼女は思う。
この人は貴族なのだし、自分の遥か上にいる人だ。
「わかりました。手伝い、ます。ダウラス様がわからないことって、なんですか?」
「不老不死――わしは、不老不死の魔術を研究しておる」
ルブーヤはダウラスをよく手伝った。彼の指示にしたがって薬を調合し、文字を写した。彼女は文字を読めなかったけれど、写すだけなら上手くできたのだった。
数ヶ月がして、彼女に与えられたつぎの使命は、三つのものを集めることだった。
よく磨かれた
ルブーヤはまず、夜の川原で石を大量に集めた。
月の光を浴びたあと、太陽の光にさらさないことが重要とのことだったので、麻袋を何重にも重ねて、川原とダウラスの家を往復した。
つぎに、聖なるろうそくをどこで買えばよいのか、雑貨屋で訊ねると、教会へ行けばよいと教えてくれた。
「聖なるろうそくですか? もちろんございますよ。このろうそくは、わたくしどもの祈りによって作られたものですから」
ライ麦のような金髪の司祭は、穏やかな笑みを湛え、ルブーヤの身長に合わせて膝を曲げた。
燃えるように赤い
新しく町の司祭となったこの女性は、誰にでも分け隔てなく笑顔で接していたので、横領で飛ばされた以前の司祭よりも評判がよかった。以前の司祭はこれは謂れのない罪だと騒ぎ立てたそうだが、罪人はみなそのように言うものだ。
「最近お見かけしていなかったから、心配しておりましたのよ。でも、頬の肉づきがよくなったみたい」
「ありがとうございます」
「お上手な敬語ですのね。どなたが教えてくれましたの?」
「ダウラス様です」
「ダウラス・ヴェヌティ様?」
「はい、そうです」
「他に頼まれているものはありまして?」
「
五メートル以上の高さにある枝を、一度も使ったことのない小刀で、太陽が地平線から昇る瞬間に切り取らなくてはならない。しかも、実がなっていないものに限る。
この条件が難しかった。町の外に出て森を探したが、小さな緑色の実がついているものばかりで、実がついていないものなどなかったのだ。
「
司祭は踵を返すと聖堂へと向かい、ひとりの男性を引き連れて戻ってきた。
「
「ま……」
魔術、と言いかけて、ダウラスに目的を秘すように言われたことを思いだした。「わかりません」
「しかしなぁ、宝石はちと値が張るぞ。お嬢さん、いくら持ってるんだい?」
「いくらなら買えますか?」
ルブーヤは訊ね返した。
「司祭様の前でガキから金をちょろまかそうなんて考えちゃいないさ」
彫刻家は苦笑した。「九〇〇ヴェーヌ……いや、八五〇ヴェーヌといったところかな」
「あら……わたくしどもにも、それで売ってくださいません?」
「勘弁してくれ。それじゃ、干上がっちまうよ」
司祭が横から口を挟むと、彫刻家が肩をすくめた。
ルブーヤには目が飛び出るほどの大金だったが、教会にはお金が有り余っているようだ。炊き出しができることも頷ける。
しかし、司祭がこう言うということは、ふっかけられているわけではなさそうだ。
「あの……あります、八五〇ヴェーヌ」
ルブーヤは巾着袋を掲げて、中から八五〇ヴェーヌを出して見せた。
「驚いたな……ほら、これだ」
彫刻家は懐からいくつかの石を出して、ルブーヤの前に広げた。どれも磨かれていて、綺麗だった。「好きなのを選んでいい」
ルブーヤがいちばん色艶のよいものを選ぶと、彫刻家は「見る目があるな、お嬢さん」と言って、八五〇ヴェーヌを受け取った。
彫刻家が聖堂に戻ると、司祭はルブーヤに微笑んだ。
「よい買い物をしましたわね。この石、一四〇〇ヴェーヌはしますわ」
「え」
「この辺りでは採れませんもの。きっと、神のお導きですわね」
「私、お礼を言ってきます」
ルブーヤは聖堂のほうへ行こうとしたが、司祭に止められた。
「隠れた善意には、隠れて返すものですわ」
「でも」
「お礼や金品だけがお返しではありませんわ。善意を他の方に手渡す方法もありますの」
その言葉はルブーヤの心に深く染みた。
この司祭は毎日、報われるとは限らない善意を人々に手渡しているのだから。
「ハシバミの枝は、パン屋に聞くとよいでしょう。ハシバミの実は、ケーキの材料に使われますから。実を採るわけではないのでしたら、きっと快く教えてくれるはずですわ。炊き出しが終わったら、一緒に訊ねにいきましょうか」
「ありがとうございます。でも、私が頼まれたことだから、大丈夫です」
「頑張りますのね。一人でお手伝いしていますの?」
「はい、そうです」
「それは大変ですわね。ハシバミの枝が見つかりましたら、ぜひお知らせください。もし困ったら、わたくしにご相談くださいませね」