クソ女大戦   作:石崎セキ

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05 魔術師(下)

 夜。

 泥棒や強盗、果ては魔物が町をうろつき、女性は表に出ることを暗黙のうちに禁じられている時間。もちろん男性にしても、特別な事情がない限り、出歩きはしない。

 

 当然、ルブーヤのような子どもも、外出は控えるべきだった。子どもだからといって容赦するような犯罪者がいるはずもない。そもそもこの時代、子どもは社会の成員として組み込まれ、子どもだからといって特別視されることはなかった。

 だが彼女はまさに、泥棒や強盗の類だった。民家の残飯を漁って、生き延びてきたのだから。彼女たちは無給の掃除屋であった。

 彼女の大きな目は、月明かりをよく捉えた。彼女は軽々と塀を越え、森へ向かっていった。

 

 パン屋に教えてもらったハシバミの自生地に向かうと、ルブーヤは新品の短刀を携えて、昼のうちに目星をつけておいた木に登った。

 狼の遠吠えが聞こえる。

 遥か遠くで、教会に灯る松明の火が見える。その小さな光を、ルブーヤはすがるようにして眺めていた。今すぐ帰りたい気持ちもあった。しかし飢えは、狼よりも恐ろしい。

 

 太陽が地平線に差し掛かった。その瞬間を逃さぬよう、ルブーヤは力任せに枝に短刀を振り下ろした。切る、というより、叩き割るといった具合だった。細い枝はパキンと乾いた音を立てて地面に落ちた。ルブーヤはするすると木から降り、枝を太陽にかざしてみた。白っぽい枝は、朝露を帯びて、祝福を受けたように輝いていた。

 

 

 

 

 

「問題は、どうしてそのおっさんがおれらなんかを雇うかってことだ」

 

 と木箱(ケスト)は言った。

 あばたやそばかすだらけの顔、ぼさぼさでシラミだらけの髪、やせ細った体、と記すだけでは、彼の特徴を言い換えたことにならない。それは平均的なスラムの孤児の姿だから。が、ケストを平均的なスラムの孤児として思い描いたところで、なんの障りもないだろう。

 

「おっさんじゃないよ。ダウラス様」

 

 ルブーヤは訂正した。

 

「ああ、おっさんじゃなくてジジイな」

「そういうことじゃないって」

 

 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。久しぶりに、ルブーヤは楽しかった。ダウラスとの会話は、いつも緊張する。

 それで、何の話だったっけ? とルブーヤが訊ねると、ケストは「ああ」と言って、

 

「よりによって、おれらを選ぶ理由。そんだけの金がありゃ、おれらじゃなくて、もっとまともな奴らを雇うだろ?」

「理由は二つ」

「学生みたいな喋り方をするんだな」

「ダウラス様のが移っちゃったみたい。ひとつは資金面。大勢を使いたい以上、使うお金は少なければ少ないほうがいい」

「安い金で働かせられるってことか」

「それは仕方ないよ。普通に暮らしてたら、手に入らないお金なんだし」

「それもそうだな」

 

 ケストは頷いた。

 ルブーヤは、ダウラスが言っていたことを思いだした。物事には表と裏があることを、ケストもわかっている。そうでなくては、スラムでは生きていけないから。

 

「もうひとつは、秘密にしたいから」

「秘密?」

「そう。つまり、」

「スラムのガキには信用がないから。だろ?」

「凄いね、ケスト。大当たり」

 

 スラムの孤児には、社会的な信頼がない。だから使える(・・・・・・)

 彼らが言いふらしたとしても、それは信じるに値しない流言飛語として認識され、ダウラスの信頼を傷つけることはない。

 

「わかった。おれがみんなを集めるよ」

「ありがとう、ケスト」

 

 こうしてダウラス・ヴェヌティの家に、ルブーヤを含め、十三名の孤児が集められた。

 

 

 

 

 

「町を作るのは一人の大工ではない」

 十三人の孤児の前に立って、ダウラス・ヴェヌティは言った。「大工を雇う者、大工に材料を渡すもの、材料を採る道具を作る者、道具を作る者のために飯を作る者――。一人で町の作ることのできる人間はおらぬ。じゃが、町は作られる。一人の指導者、すなわち王の下で」

 

 ダウラスは全員を見回した。

 全員、理解が追いつかないといった様子で、胡乱げな目を向けている。話を聞く訓練も座る訓練も受けていない彼ら彼女らは、全員がバラバラの格好をしていた。

 

「おぬしらには別々の部屋で作業してもらう。わしの魔術を知られるわけにはいかぬのでな」

 

 続く説明はこのようなものだった。ダウラスの指示があった場合を除き、今日の仕事中は、部屋の外に出てはならない。出ていたことが発覚した場合、家から追い出され、日給も与えられない。

 孤児たちの顔に不満が横溢(おういつ)するのを見て取って、

 

「じゃが、腹が減っては仕事はできぬわ。まずは腹ごしらえをしなくてはのう」

 

 とダウラスがルブーヤに昼食を運ぶよう指示すると、わあっ、と歓声があがった。ルブーヤは誇らしい思いで給仕をした。

 

 

 

 

 

 

 ルブーヤに与えられた仕事は石を磨くことであった。それは彼女が川原から運んできた石の一部だった。これが、ダウラスの魔術の何に関わっているのかは、わからない。

 もしかすると教会で禁じられているような行いなのかもしれない、とも思ったが、教会に対する畏れの意識はルブーヤには希薄であった。司祭や助祭の説法は、炊き出しをもらうための対価としか思っていなかったからだ。聖教のように高度化した信仰は、彼女たちには難しかった。信仰はしばしば、教育に寄生する。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。

 窓のない部屋なので、ルブーヤは時間感覚をすっかり失っていた。まだ六時の鐘は鳴っていないので、夕方にはなっていないようだ。

 

 石の重さで、腕が上がらなかった。

 腕をぶんぶんと振って疲労を抜いていると、廊下のほうから、重いのか軽いのかわからない音がした。身体が跳ね上がった。どことなく不吉な音だった。

 

 ルブーヤは、ドアを小さく開けてみた。錆びた鉄のような匂いがした。

 ダウラスがいないことを確認し、体重を預けてドアを開けると、その隙間から身を滑らせるように廊下へ出る。

 

 古びた床が軋み、身体がわずかに床に沈むような感覚があった。この数か月で慣れたはずの場所が、異様なものに感じられた。

 

 廊下の角にさしかかったとき、小さく声が聞こえた。ダウラスとケストの声だった。ルブーヤは耳をそばだてた。

 

「よいか、目隠しをするのじゃ」

「目隠し?」

「そうじゃ。今から、わしがその石に魔術を込める。おぬしに、それを見られるわけにはいかないからのぅ」

 

 何事もなかったかのように、穏やかな調子だった。ダウラスはあの音を聞いていなかったのだろうか?

 ルブーヤは角から顔を出して、覗いてみた。

 

 ドアの前、部屋からは死角になる場所。

 

 そこに、斧が置かれていた。

 

 斧には、

 

 血が。

 

 ルブーヤは慄然とした。

 胃液が食道を逆流し、みんなで摂った昼食が、反吐と化して口の中を酸っぱくした。消化されきっていない黒パンの欠片が喉の奥でぬらりと動き、更なる吐き気を誘った。ルブーヤは懸命に反吐を飲み込んだ。肺が引きつり、痛みを発した。喉が灼けるように熱かった。

 

 ――お願い、逃げて!

 

 そう叫びたかったが、反吐が気管を溶接してしまったかのように、声はまるで出なかった。

 ダウラスが動く気配がした。ルブーヤはとっさに身を引っ込めた。ダウラスが廊下まで出て、部屋へ引き返した。

 

(こうべ)を垂れよ。そう、それでよい」

 

 べきょっ。

 重いのか軽いのかわからない音がした。

 ちょろちょろびちゃびちゃと壁に小便をしたときのような、噴きだした液体が弾ける音がして、その後に何かがトサッと倒れた。

 

 膝の力がくたりと抜け、その場に座り込みそうになる。

 だが、仕事(・・)を終えたダウラスが廊下に出てくる気配を察し、ルブーヤの足はおのずと、自分に割り振られた部屋に向かっていた。

 部屋に静かに入ると、廊下で足音が聞こえた。足音は部屋の前で止まる。ごと、と何かを置く音がする。

 

「どうじゃ、ルブーヤや。仕事は進んでおるか?」 

 

 人を殺してきたとは思えないほど、平然とした声だった。

 

 進んでいます、と声を出そうとして。

 駄目だった。

 駄目。駄目だ。駄目。どうして? 声を出さないと気づかれる。気づかれ、ちゃう。なのに喉がひくひくして、ひゅー、って首しめられた七面鳥みたい。がまんしてた吐き気がゲェゲェこみあげてきて、首元からお腹まで、べちゃべちゃ汚した。

 液状化した固形物がぼつぼつと服の繊維に引っかかり、氷が溶けるようにずり落ちてゆく。辺りには吐瀉物の酸っぱい臭いが充満した。呼吸が邪魔されて目に涙が浮かぶ。視界がかすむ。駄目、ちゃんと見ないといけないのに。

 

「そうか」

 ダウラスの声音から、先ほどまでの好々爺然とした調子は消えていた。「見たのか」

 

 放たれた矢のように、ルブーヤはダウラスに突進した。彼女の勢いに怯んだのか、それともローブが吐瀉物で汚れるのを厭ったのかはわからない。いずれにせよ、ダウラスはルブーヤを避けた。ルブーヤは猫のように素早く部屋を出た。

 

 部屋を出ると、ルブーヤは廊下の壁に立てかけられている斧に手を伸ばした。重い。わずかに持ち上がったが、バランスを崩して尻餅をつく。ダウラスが手を振り上げる。ルブーヤは斧を取り落とした。斧は時間を引き伸ばされたように、もたもたとダウラスの足に落ちた。

 

 絶叫しながら(うずくま)った相手の目に狙いを定めて、ルブーヤは爪先で蹴りを入れようとしたが、ダウラスが上を向いたので鼻を直撃するにとどまった。

 

 怒声。

 

 逃げないと。ルブーヤは階段を下り、一階へ向かった。一段、また一段と一階が近づくにつれて、ルブーヤの心に希望が芽生えてくる。だが、その希望はあっけなく粉砕された。

 

 ドアには木の板があてがわれ、釘が滅多打ちされていた。

 孤児にやらせたのか、木の板はドアの低い位置にあり、釘の頭は出鱈目に曲がっている。それが孤児たちの生首のようにも思えて、ルブーヤは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 ぎし、と階段が軋む音。

 ルブーヤは振り返った。斧を構えたダウラスが、怒りに歯を剥き出し、足を引きずるようにして階段を降りてくる。

 

 ルブーヤは、どこへ行けばよいのかわからないままに走りだした。

 廊下は一本道だ。このままでは捕まってしまう。どこに逃げればいい? 窓のある部屋は?

 自分の考えを、ルブーヤは即座に却下した。無駄だ。ダウラスには、誰一人として、逃すつもりはないだろう。だとすれば、殺す前に、逃げ道は事前に塞がせているはず。

 

 ルブーヤは迷ったが、結局、ダウラスの調薬を手伝っていた部屋を目指すことにした。あの部屋には、(かんぬき)がある。

 

 ルブーヤはその部屋に駆け込み、素早く閂をかけた。

 

 それから周囲に目を配る。

 

 部屋は異様だった。

 窓のない部屋で、明かりはろうそくの火だけだった。それが、自分が買ってきた聖なるろうそくだったことを思いだす。机には先端に血のついたハシバミの枝が、無造作に置かれていた。

 

 何よりも異常だったのは、床だった。

 一面に血で四重の円が描かれ、最も小さな円の内側に、天秤が描かれていた。天秤の両端には、湯だった釜が描かれている。血はまだ乾ききっておらず、ところどころに粒のような血溜まりが残っていた。

 

 片方の天秤には、切断された孤児の頭部が置かれていた。

 彼は自分が死んだことに気がついていないのか、ぽかんと口を開けていた。白濁した目に蠅が止まり、その尻を、ぐっと眼球に押し当てている。血抜きがなされたのか、首が置かれた床はさほど汚れていなかった。

 

 石を入れて運んだ麻袋に血がついていた。おそるおそる覗き込むと、数体の首なし死体が詰め込まれている。

 

 瞬間、ドアがガチャガチャと鳴った。ついで、斧が打ちつけられる音が何度も響いた。斧が振るわれるたび、床が揺れる。

 

 怯えている場合ではない。

 ルブーヤは暖炉に目を遣った。煙突を覗き込んだが、通れなくはないものの、彼女には登れそうになかった。それでも彼女は暖炉の薪を掻きだした。

 

 煙突から逃げた痕跡を残して、ルブーヤは麻袋に入った。死体が柔らかく潰れる感触が気持ち悪い。浅い呼吸を何度も繰り返す。ばくばくばくと心臓が暴れまわっている。

 荒い繊維の隙間から室内の様子が伺えた。

 

 とうとうドアが壊され、ドアが魔法陣に向かって倒れてゆく。

 

 煙突から逃げたと思ってくれますように。

 

 ルブーヤは祈ったが、ダウラスはまっすぐこちらに向かってくる。どうして? どうして暖炉に目をくれもしない?

 

 考えをめぐらせ、ルブーヤは気がついた。

 

 臭いだ。

 吐瀉物の臭い。

 すでにルブーヤの鼻は麻痺していたが、ダウラスはまだその臭いに慣れていない。

 

 ダウラスは斧を振り上げた。

 

 中身を改めることなく、麻袋ごとルブーヤを叩きつぶすつもりらしい。

 

 ルブーヤは観念して目を瞑った。涙と鼻水がぼたぼたと溢れてくる。

 

 ごめんなさい、ケスト。

 ごめんなさい、みんな。

 馬鹿だったから、私が馬鹿だったから、みんな殺されちゃった。たった少しのお昼ご飯のために……。

 

 予期していた衝撃は来なかった。

 ルブーヤはおそるおそる目を開ける。ダウラスはドアのほうを向いている。

 

 なに……?

 

 聴覚に集中すると、玄関のほうから何人もの人間が、どやどやと入ってくるようだった。

 そしてそれらの足音は間に二人のいる部屋までやってきて――

 

「まあ、なんて酷い――。ダウラス・ヴェヌティ様。教会法に基づいて、あなたを違法な魔術を試みた咎、そして殺人の咎で拘束します。教会はあなたの身柄を憲兵に引き渡し、七二時間以内に火あぶりにするよう上申します」

 

 美しさを帯びた不条理を、人は奇跡と呼ぶ。

 

 

 

 

 

「衛兵のみなさん。わたくし、ダウラス様と少しばかり個人的に(・・・・)お話をしたいのですけれど……駄目でしょうか?」

「構いません。しかし、危険ではないですか?」

「手枷も足枷もありますから、問題ありませんわ。それに、いざとなったら大声でみなさんを呼びます。きっと、すぐに駆けつけてくださるでしょう?」

 

 フローラが微笑むと、衛兵たちは顔を赤らめた。

 衛兵たちが指示通りに話が聞こえない距離まで離れると、床に這いつくばるような格好で、ダウラスが言う。

 

「ローズマリー家の娘だな」

「あら、覚えていてくださいましたの? 光栄ですわ、ダウラス様」

「今は司祭の真似事をしているのか?」

 

 ダウラスが嘲笑するような調子で言った。

 

「何事も真似から始めるものですわよ――それに、あなたも悪魔の儀式の猿真似をしていたではありませんか」

「何を」

 

 悪魔崇拝者。

 それがダウラスの正体だった。悪魔を呼び、不老不死を願う――。ダウラスが目指したのは、そのような魔術だ。

 

「あのろうそくは、ただのろうそくです。あなたは儀式の猿真似のために孤児を殺めました」

「なぜお前がそれを……ルブーヤか!」

 

 ダウラスが吠えるように言った。

 

「使う駒は選んだほうがよろしくてよ? 聖なるろうそく、ハシバミの枝……悪魔の儀式以外に考えられません。それで、こうして火あぶりを待つ身となった。ざまぁないですわね。火あぶりは、苦しいそうですわよ」

「お前が邪魔したのか」

「邪魔? いいえ、邪魔するまでもありません。――あなた、魔術なんてくだらないもの、本気で信じていますの?」

「なんだと?」

「魔術なんて、あるわけないでしょう」

 

 そう言うと、フローラは魔法陣を踏みにじった。孤児の血で描かれたそれを、ぐちゃぐちゃに。

 

「やめろ!」

「そうですわねぇ、この子と接吻をしたら考えてさしあげますわ」

 

 フローラは天秤の絵に置かれた生首の髪の毛を無造作に掴み、ダラウスの前に突きだした。

 

「やめろ! やめろぉぉぉ!」

 

 ダウラスの叫び声を意に介した様子もなく、フローラは嫌がるダウラスの口に、無理やり死体の唇をあてる。

 

「ほーら、ぼくとのチュー、気持ちいいでちゅねー?」

 少年を装った声には、笑いが滲んでいた。「ふふ、これで死姦の咎も加わりましたわね。これでは天国へ行けませんよ?」

 

「お前は……お前は、なんなんだ」

「わたくしはただの司祭です」

「ふざけるな! お前のような司祭がいるか!」

 

 フローラは血まみれの靴でダウラスの顔面を蹴った。

 

「がっ!?」

「目を瞑っているようですから、気つけですわ。いますわよ、眼の前に」

 

 フローラの蹴りに目覚ましの効果があったわけではあるまいが、ダウラスは静かに訊ねた。

 

「なぜ私を泳がせた? 材料を知った時点で、私の目的はわかったはずだ」

「あら、本当に馬鹿ですのね。未然に防ぐなんて、もったいないではありませんか」

「もったいない……?」

「騒ぎが大きければ大きいほど、鎮めたときにわたくしの手柄になるでしょう?」

 

 フローラは当たり前のように言った。

 

「は……はは……」

 ダウラスは力なく笑った。「私の魔法は、どうやら半分は成功していたようだ」

 

 フローラは衛兵を呼び、ダウラスを捕らえさせた。ダウラスは抵抗しなかった。

 衛兵たちが引き上げてゆく。

 

 それですべてが終わった。

 

 はずだった。

 

「あら?」

 

 目が。

 目が、合った。

 

「あなた――聞いていましたの?」

 

 それは困りましたわねぇ、とフローラは言って。

 周囲に目をやった。それから、ダウラスが持っていた斧を持ち上げた。

 

 その動きを、ルブーヤは抵抗せずに眺めている。

 

 悪魔に魅入られるとは、このような状況を言うのだろう。

 

 斧が目の前に迫り、

 

 止まった。

 

「もしかして、あなた――言葉を喋れませんの?」

 

 悪魔は美しく微笑んだ。

 

 

 

    * * *

 

 

 

 フローラの背後の通気口から、ボタボタと血が垂れている。

 

「よくやりましたわね」

 

 フローラは、ルブーヤの頭を撫でた。

 スラムの汚らしい孤児たちの生き残り。ダウラスを泳がせたのには彼らを掃除してもらう狙いもあったが、彼女は思わぬ拾いものだった。

 

 この召使いは声を出せないので、どのような遊びでも自由にでき、使い勝手がいい。彼女をテレジアに擬して屈服させるのが、フローラの最近の趣味だった。

 

 もちろん、ただの性奴隷ではない。

 暗殺の訓練(・・・・・)を施したとっておきの性奴隷だ。

 

 フローラの顔を死角として放たれたナイフは、刺客をあっけなく貫いた。

 

 フローラはルブーヤに指示し、男がきちんと死んでいるかを確認させた。

 

 安全が――つまりは死が――確認できると、フローラは男に近づく。

 

(これは……)

 フローラに長らく使えていた召使い1だった。(なぜ翻意を?)

 

 特にそのような兆候は見えなかった。自らの召使いの動向には、当然、フローラは気を使っている。

 

 外出はおろか、外部と接触する機会も――

 

(いえ、)

 その機会はあった。(あの女――)

 

 テレジアは、修道院で放火されたことに苦言を呈しに来たのではなかった。

 それはフェイクで、実際は。

 

(わたくしの召使いを懐柔しにきた――そういうことね)

 

 翌日、フローラはルブーヤを除くすべての召使いを解雇した。

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