夜。
泥棒や強盗、果ては魔物が町をうろつき、女性は表に出ることを暗黙のうちに禁じられている時間。もちろん男性にしても、特別な事情がない限り、出歩きはしない。
当然、ルブーヤのような子どもも、外出は控えるべきだった。子どもだからといって容赦するような犯罪者がいるはずもない。そもそもこの時代、子どもは社会の成員として組み込まれ、子どもだからといって特別視されることはなかった。
だが彼女はまさに、泥棒や強盗の類だった。民家の残飯を漁って、生き延びてきたのだから。彼女たちは無給の掃除屋であった。
彼女の大きな目は、月明かりをよく捉えた。彼女は軽々と塀を越え、森へ向かっていった。
パン屋に教えてもらったハシバミの自生地に向かうと、ルブーヤは新品の短刀を携えて、昼のうちに目星をつけておいた木に登った。
狼の遠吠えが聞こえる。
遥か遠くで、教会に灯る松明の火が見える。その小さな光を、ルブーヤはすがるようにして眺めていた。今すぐ帰りたい気持ちもあった。しかし飢えは、狼よりも恐ろしい。
太陽が地平線に差し掛かった。その瞬間を逃さぬよう、ルブーヤは力任せに枝に短刀を振り下ろした。切る、というより、叩き割るといった具合だった。細い枝はパキンと乾いた音を立てて地面に落ちた。ルブーヤはするすると木から降り、枝を太陽にかざしてみた。白っぽい枝は、朝露を帯びて、祝福を受けたように輝いていた。
「問題は、どうしてそのおっさんがおれらなんかを雇うかってことだ」
と
あばたやそばかすだらけの顔、ぼさぼさでシラミだらけの髪、やせ細った体、と記すだけでは、彼の特徴を言い換えたことにならない。それは平均的なスラムの孤児の姿だから。が、ケストを平均的なスラムの孤児として思い描いたところで、なんの障りもないだろう。
「おっさんじゃないよ。ダウラス様」
ルブーヤは訂正した。
「ああ、おっさんじゃなくてジジイな」
「そういうことじゃないって」
ふたりは顔を見合わせて笑いあった。久しぶりに、ルブーヤは楽しかった。ダウラスとの会話は、いつも緊張する。
それで、何の話だったっけ? とルブーヤが訊ねると、ケストは「ああ」と言って、
「よりによって、おれらを選ぶ理由。そんだけの金がありゃ、おれらじゃなくて、もっとまともな奴らを雇うだろ?」
「理由は二つ」
「学生みたいな喋り方をするんだな」
「ダウラス様のが移っちゃったみたい。ひとつは資金面。大勢を使いたい以上、使うお金は少なければ少ないほうがいい」
「安い金で働かせられるってことか」
「それは仕方ないよ。普通に暮らしてたら、手に入らないお金なんだし」
「それもそうだな」
ケストは頷いた。
ルブーヤは、ダウラスが言っていたことを思いだした。物事には表と裏があることを、ケストもわかっている。そうでなくては、スラムでは生きていけないから。
「もうひとつは、秘密にしたいから」
「秘密?」
「そう。つまり、」
「スラムのガキには信用がないから。だろ?」
「凄いね、ケスト。大当たり」
スラムの孤児には、社会的な信頼がない。
彼らが言いふらしたとしても、それは信じるに値しない流言飛語として認識され、ダウラスの信頼を傷つけることはない。
「わかった。おれがみんなを集めるよ」
「ありがとう、ケスト」
こうしてダウラス・ヴェヌティの家に、ルブーヤを含め、十三名の孤児が集められた。
「町を作るのは一人の大工ではない」
十三人の孤児の前に立って、ダウラス・ヴェヌティは言った。「大工を雇う者、大工に材料を渡すもの、材料を採る道具を作る者、道具を作る者のために飯を作る者――。一人で町の作ることのできる人間はおらぬ。じゃが、町は作られる。一人の指導者、すなわち王の下で」
ダウラスは全員を見回した。
全員、理解が追いつかないといった様子で、胡乱げな目を向けている。話を聞く訓練も座る訓練も受けていない彼ら彼女らは、全員がバラバラの格好をしていた。
「おぬしらには別々の部屋で作業してもらう。わしの魔術を知られるわけにはいかぬのでな」
続く説明はこのようなものだった。ダウラスの指示があった場合を除き、今日の仕事中は、部屋の外に出てはならない。出ていたことが発覚した場合、家から追い出され、日給も与えられない。
孤児たちの顔に不満が
「じゃが、腹が減っては仕事はできぬわ。まずは腹ごしらえをしなくてはのう」
とダウラスがルブーヤに昼食を運ぶよう指示すると、わあっ、と歓声があがった。ルブーヤは誇らしい思いで給仕をした。
ルブーヤに与えられた仕事は石を磨くことであった。それは彼女が川原から運んできた石の一部だった。これが、ダウラスの魔術の何に関わっているのかは、わからない。
もしかすると教会で禁じられているような行いなのかもしれない、とも思ったが、教会に対する畏れの意識はルブーヤには希薄であった。司祭や助祭の説法は、炊き出しをもらうための対価としか思っていなかったからだ。聖教のように高度化した信仰は、彼女たちには難しかった。信仰はしばしば、教育に寄生する。
どれほどの時間が経っただろうか。
窓のない部屋なので、ルブーヤは時間感覚をすっかり失っていた。まだ六時の鐘は鳴っていないので、夕方にはなっていないようだ。
石の重さで、腕が上がらなかった。
腕をぶんぶんと振って疲労を抜いていると、廊下のほうから、重いのか軽いのかわからない音がした。身体が跳ね上がった。どことなく不吉な音だった。
ルブーヤは、ドアを小さく開けてみた。錆びた鉄のような匂いがした。
ダウラスがいないことを確認し、体重を預けてドアを開けると、その隙間から身を滑らせるように廊下へ出る。
古びた床が軋み、身体がわずかに床に沈むような感覚があった。この数か月で慣れたはずの場所が、異様なものに感じられた。
廊下の角にさしかかったとき、小さく声が聞こえた。ダウラスとケストの声だった。ルブーヤは耳をそばだてた。
「よいか、目隠しをするのじゃ」
「目隠し?」
「そうじゃ。今から、わしがその石に魔術を込める。おぬしに、それを見られるわけにはいかないからのぅ」
何事もなかったかのように、穏やかな調子だった。ダウラスはあの音を聞いていなかったのだろうか?
ルブーヤは角から顔を出して、覗いてみた。
ドアの前、部屋からは死角になる場所。
そこに、斧が置かれていた。
斧には、
血が。
ルブーヤは慄然とした。
胃液が食道を逆流し、みんなで摂った昼食が、反吐と化して口の中を酸っぱくした。消化されきっていない黒パンの欠片が喉の奥でぬらりと動き、更なる吐き気を誘った。ルブーヤは懸命に反吐を飲み込んだ。肺が引きつり、痛みを発した。喉が灼けるように熱かった。
――お願い、逃げて!
そう叫びたかったが、反吐が気管を溶接してしまったかのように、声はまるで出なかった。
ダウラスが動く気配がした。ルブーヤはとっさに身を引っ込めた。ダウラスが廊下まで出て、部屋へ引き返した。
「
べきょっ。
重いのか軽いのかわからない音がした。
ちょろちょろびちゃびちゃと壁に小便をしたときのような、噴きだした液体が弾ける音がして、その後に何かがトサッと倒れた。
膝の力がくたりと抜け、その場に座り込みそうになる。
だが、
部屋に静かに入ると、廊下で足音が聞こえた。足音は部屋の前で止まる。ごと、と何かを置く音がする。
「どうじゃ、ルブーヤや。仕事は進んでおるか?」
人を殺してきたとは思えないほど、平然とした声だった。
進んでいます、と声を出そうとして。
駄目だった。
駄目。駄目だ。駄目。どうして? 声を出さないと気づかれる。気づかれ、ちゃう。なのに喉がひくひくして、ひゅー、って首しめられた七面鳥みたい。がまんしてた吐き気がゲェゲェこみあげてきて、首元からお腹まで、べちゃべちゃ汚した。
液状化した固形物がぼつぼつと服の繊維に引っかかり、氷が溶けるようにずり落ちてゆく。辺りには吐瀉物の酸っぱい臭いが充満した。呼吸が邪魔されて目に涙が浮かぶ。視界がかすむ。駄目、ちゃんと見ないといけないのに。
「そうか」
ダウラスの声音から、先ほどまでの好々爺然とした調子は消えていた。「見たのか」
放たれた矢のように、ルブーヤはダウラスに突進した。彼女の勢いに怯んだのか、それともローブが吐瀉物で汚れるのを厭ったのかはわからない。いずれにせよ、ダウラスはルブーヤを避けた。ルブーヤは猫のように素早く部屋を出た。
部屋を出ると、ルブーヤは廊下の壁に立てかけられている斧に手を伸ばした。重い。わずかに持ち上がったが、バランスを崩して尻餅をつく。ダウラスが手を振り上げる。ルブーヤは斧を取り落とした。斧は時間を引き伸ばされたように、もたもたとダウラスの足に落ちた。
絶叫しながら
怒声。
逃げないと。ルブーヤは階段を下り、一階へ向かった。一段、また一段と一階が近づくにつれて、ルブーヤの心に希望が芽生えてくる。だが、その希望はあっけなく粉砕された。
ドアには木の板があてがわれ、釘が滅多打ちされていた。
孤児にやらせたのか、木の板はドアの低い位置にあり、釘の頭は出鱈目に曲がっている。それが孤児たちの生首のようにも思えて、ルブーヤは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ぎし、と階段が軋む音。
ルブーヤは振り返った。斧を構えたダウラスが、怒りに歯を剥き出し、足を引きずるようにして階段を降りてくる。
ルブーヤは、どこへ行けばよいのかわからないままに走りだした。
廊下は一本道だ。このままでは捕まってしまう。どこに逃げればいい? 窓のある部屋は?
自分の考えを、ルブーヤは即座に却下した。無駄だ。ダウラスには、誰一人として、逃すつもりはないだろう。だとすれば、殺す前に、逃げ道は事前に塞がせているはず。
ルブーヤは迷ったが、結局、ダウラスの調薬を手伝っていた部屋を目指すことにした。あの部屋には、
ルブーヤはその部屋に駆け込み、素早く閂をかけた。
それから周囲に目を配る。
部屋は異様だった。
窓のない部屋で、明かりはろうそくの火だけだった。それが、自分が買ってきた聖なるろうそくだったことを思いだす。机には先端に血のついたハシバミの枝が、無造作に置かれていた。
何よりも異常だったのは、床だった。
一面に血で四重の円が描かれ、最も小さな円の内側に、天秤が描かれていた。天秤の両端には、湯だった釜が描かれている。血はまだ乾ききっておらず、ところどころに粒のような血溜まりが残っていた。
片方の天秤には、切断された孤児の頭部が置かれていた。
彼は自分が死んだことに気がついていないのか、ぽかんと口を開けていた。白濁した目に蠅が止まり、その尻を、ぐっと眼球に押し当てている。血抜きがなされたのか、首が置かれた床はさほど汚れていなかった。
石を入れて運んだ麻袋に血がついていた。おそるおそる覗き込むと、数体の首なし死体が詰め込まれている。
瞬間、ドアがガチャガチャと鳴った。ついで、斧が打ちつけられる音が何度も響いた。斧が振るわれるたび、床が揺れる。
怯えている場合ではない。
ルブーヤは暖炉に目を遣った。煙突を覗き込んだが、通れなくはないものの、彼女には登れそうになかった。それでも彼女は暖炉の薪を掻きだした。
煙突から逃げた痕跡を残して、ルブーヤは麻袋に入った。死体が柔らかく潰れる感触が気持ち悪い。浅い呼吸を何度も繰り返す。ばくばくばくと心臓が暴れまわっている。
荒い繊維の隙間から室内の様子が伺えた。
とうとうドアが壊され、ドアが魔法陣に向かって倒れてゆく。
煙突から逃げたと思ってくれますように。
ルブーヤは祈ったが、ダウラスはまっすぐこちらに向かってくる。どうして? どうして暖炉に目をくれもしない?
考えをめぐらせ、ルブーヤは気がついた。
臭いだ。
吐瀉物の臭い。
すでにルブーヤの鼻は麻痺していたが、ダウラスはまだその臭いに慣れていない。
ダウラスは斧を振り上げた。
中身を改めることなく、麻袋ごとルブーヤを叩きつぶすつもりらしい。
ルブーヤは観念して目を瞑った。涙と鼻水がぼたぼたと溢れてくる。
ごめんなさい、ケスト。
ごめんなさい、みんな。
馬鹿だったから、私が馬鹿だったから、みんな殺されちゃった。たった少しのお昼ご飯のために……。
予期していた衝撃は来なかった。
ルブーヤはおそるおそる目を開ける。ダウラスはドアのほうを向いている。
なに……?
聴覚に集中すると、玄関のほうから何人もの人間が、どやどやと入ってくるようだった。
そしてそれらの足音は間に二人のいる部屋までやってきて――
「まあ、なんて酷い――。ダウラス・ヴェヌティ様。教会法に基づいて、あなたを違法な魔術を試みた咎、そして殺人の咎で拘束します。教会はあなたの身柄を憲兵に引き渡し、七二時間以内に火あぶりにするよう上申します」
美しさを帯びた不条理を、人は奇跡と呼ぶ。
「衛兵のみなさん。わたくし、ダウラス様と少しばかり
「構いません。しかし、危険ではないですか?」
「手枷も足枷もありますから、問題ありませんわ。それに、いざとなったら大声でみなさんを呼びます。きっと、すぐに駆けつけてくださるでしょう?」
フローラが微笑むと、衛兵たちは顔を赤らめた。
衛兵たちが指示通りに話が聞こえない距離まで離れると、床に這いつくばるような格好で、ダウラスが言う。
「ローズマリー家の娘だな」
「あら、覚えていてくださいましたの? 光栄ですわ、ダウラス様」
「今は司祭の真似事をしているのか?」
ダウラスが嘲笑するような調子で言った。
「何事も真似から始めるものですわよ――それに、あなたも悪魔の儀式の猿真似をしていたではありませんか」
「何を」
悪魔崇拝者。
それがダウラスの正体だった。悪魔を呼び、不老不死を願う――。ダウラスが目指したのは、そのような魔術だ。
「あのろうそくは、ただのろうそくです。あなたは儀式の猿真似のために孤児を殺めました」
「なぜお前がそれを……ルブーヤか!」
ダウラスが吠えるように言った。
「使う駒は選んだほうがよろしくてよ? 聖なるろうそく、ハシバミの枝……悪魔の儀式以外に考えられません。それで、こうして火あぶりを待つ身となった。ざまぁないですわね。火あぶりは、苦しいそうですわよ」
「お前が邪魔したのか」
「邪魔? いいえ、邪魔するまでもありません。――あなた、魔術なんてくだらないもの、本気で信じていますの?」
「なんだと?」
「魔術なんて、あるわけないでしょう」
そう言うと、フローラは魔法陣を踏みにじった。孤児の血で描かれたそれを、ぐちゃぐちゃに。
「やめろ!」
「そうですわねぇ、この子と接吻をしたら考えてさしあげますわ」
フローラは天秤の絵に置かれた生首の髪の毛を無造作に掴み、ダラウスの前に突きだした。
「やめろ! やめろぉぉぉ!」
ダウラスの叫び声を意に介した様子もなく、フローラは嫌がるダウラスの口に、無理やり死体の唇をあてる。
「ほーら、ぼくとのチュー、気持ちいいでちゅねー?」
少年を装った声には、笑いが滲んでいた。「ふふ、これで死姦の咎も加わりましたわね。これでは天国へ行けませんよ?」
「お前は……お前は、なんなんだ」
「わたくしはただの司祭です」
「ふざけるな! お前のような司祭がいるか!」
フローラは血まみれの靴でダウラスの顔面を蹴った。
「がっ!?」
「目を瞑っているようですから、気つけですわ。いますわよ、眼の前に」
フローラの蹴りに目覚ましの効果があったわけではあるまいが、ダウラスは静かに訊ねた。
「なぜ私を泳がせた? 材料を知った時点で、私の目的はわかったはずだ」
「あら、本当に馬鹿ですのね。未然に防ぐなんて、もったいないではありませんか」
「もったいない……?」
「騒ぎが大きければ大きいほど、鎮めたときにわたくしの手柄になるでしょう?」
フローラは当たり前のように言った。
「は……はは……」
ダウラスは力なく笑った。「私の魔法は、どうやら半分は成功していたようだ」
フローラは衛兵を呼び、ダウラスを捕らえさせた。ダウラスは抵抗しなかった。
衛兵たちが引き上げてゆく。
それですべてが終わった。
はずだった。
「あら?」
目が。
目が、合った。
「あなた――聞いていましたの?」
それは困りましたわねぇ、とフローラは言って。
周囲に目をやった。それから、ダウラスが持っていた斧を持ち上げた。
その動きを、ルブーヤは抵抗せずに眺めている。
悪魔に魅入られるとは、このような状況を言うのだろう。
斧が目の前に迫り、
止まった。
「もしかして、あなた――言葉を喋れませんの?」
悪魔は美しく微笑んだ。
* * *
フローラの背後の通気口から、ボタボタと血が垂れている。
「よくやりましたわね」
フローラは、ルブーヤの頭を撫でた。
スラムの汚らしい孤児たちの生き残り。ダウラスを泳がせたのには彼らを掃除してもらう狙いもあったが、彼女は思わぬ拾いものだった。
この召使いは声を出せないので、どのような遊びでも自由にでき、使い勝手がいい。彼女をテレジアに擬して屈服させるのが、フローラの最近の趣味だった。
もちろん、ただの性奴隷ではない。
フローラの顔を死角として放たれたナイフは、刺客をあっけなく貫いた。
フローラはルブーヤに指示し、男がきちんと死んでいるかを確認させた。
安全が――つまりは死が――確認できると、フローラは男に近づく。
(これは……)
フローラに長らく使えていた召使い1だった。(なぜ翻意を?)
特にそのような兆候は見えなかった。自らの召使いの動向には、当然、フローラは気を使っている。
外出はおろか、外部と接触する機会も――
(いえ、)
その機会はあった。(あの女――)
テレジアは、修道院で放火されたことに苦言を呈しに来たのではなかった。
それはフェイクで、実際は。
(わたくしの召使いを懐柔しにきた――そういうことね)
翌日、フローラはルブーヤを除くすべての召使いを解雇した。