星の導きと銀河の旅路   作:花咲 凛香

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苦いワインと人生の年輪

彼女はマスターへ軽く会釈すると、《星見茶房》を後にした。

 

扉を開き、次の車両へ足を踏み入れる。

 

すると目の前に広がったのは、先ほどまでとはまるで違う空間だった。

 

天井は高く。

 

照明は最低限。

 

車両の両側はほとんどが巨大なガラスで構成されている。

 

まるで宇宙空間そのものへ放り出されたかのような開放感。

 

窓の向こうには銀河が流れていた。

 

青白く輝く恒星。

 

赤く燃える巨星。

 

遠くで瞬く惑星群。

 

時折、彗星が尾を引きながら通り過ぎる。

 

そこは銀河鉄道の展望車両――

 

《プラネットスペース》。

 

旅人たちが星を眺めながら静かに過ごすための場所だった。

 

車両の端には小さなワインセラーが設置されている。

 

透明なケースの中には様々な銘柄のボトルが並んでいた。

 

どれも異なる惑星や植民地で作られたものらしく、ラベルだけでも見ていて飽きない。

 

彼女はしばらく眺めた後、一本のボトルを手に取った。

 

名前も知らない銘柄。

 

ただラベルに描かれた星空が綺麗だったから。

 

それだけの理由だった。

 

グラスへ注ぐ。

 

琥珀色の液体が静かに揺れる。

 

彼女はそれを持ち、大窓のそばに置かれた椅子へ腰を下ろした。

 

窓の向こうには銀河。

 

手の中にはワイン。

 

静かな時間だった。

 

そして。

 

隣の席には一人の男性が座っていた。

 

白髪混じりの髪。

 

深い皺の刻まれた顔。

 

年季の入ったコート。

 

その姿からは長い旅路を歩いてきた者だけが持つ落ち着きが感じられる。

 

彼は手にしたグラスを軽く揺らしながら窓の外を眺めていた。

 

だが彼女が座ると、視線だけをこちらへ向ける。

 

そして穏やかに笑った。

 

「おや?」

 

低く落ち着いた声だった。

 

「お若いのに銀河鉄道に?」

 

彼女は少しだけ首を傾げる。

 

「珍しいですか?」

 

男性はくすりと笑った。

 

「珍しいとも」

 

グラスの中でワインが揺れる。

 

「銀河鉄道は若者の憧れではあるが、実際に乗る者は案外少ない」

 

彼は窓の外の星々へ目を向けた。

 

「特に終点の見えない長旅となればなおさらだ」

 

「そうなんですか」

 

「大抵の若者は忙しい。夢を追ったり、仕事をしたり、恋をしたりね」

 

彼は肩を竦める。

 

「銀河を眺めながら何ヶ月も旅をする余裕なんてない」

 

彼女はグラスを見つめる。

 

琥珀色の液体の中に星の光が映っていた。

 

男性は続ける。

 

「だからここにいるのは人生の一区切りを迎えた者が多い」

 

「一区切り?」

 

「引退した者。何かを失った者。何かを諦めた者」

 

彼は少し笑う。

 

「あるいは、何かを探している者だ」

 

その言葉に彼女の指先がわずかに止まる。

 

男性はその様子に気付いたらしい。

 

「お嬢さんはどれかな?」

 

彼女は窓の向こうを見た。

 

無数の星々。

 

その中にある一つの星。

 

まだ遠く。

 

けれど確かに存在する星。

 

しばらく考えた後、小さく答える。

 

「探してるんだと思います」

 

「ほう」

 

「ずっと見ていた星があるんです」

 

男性は静かに耳を傾ける。

 

「子供の頃から」

 

彼女はワインを一口飲む。

 

少し苦い。

 

けれど嫌な苦さではなかった。

 

「だから会いに行こうと思って」

 

男性はしばらく黙っていた。

 

やがて窓の外を見ながら呟く。

 

「会いに行く、か」

 

その声にはどこか懐かしさが混じっていた。

 

「いい言葉だ」

 

彼は静かにグラスを掲げる。

 

「今の時代、皆すぐ結果を求める」

 

星々の光がグラスに反射する。

 

「だが旅というのは本来そういうものじゃない」

 

「……?」

 

「辿り着くためだけにあるわけじゃないんだ」

 

男性の目は遥か遠くの銀河を映していた。

 

「目的地に着くまでの道のりこそが旅なんだよ」

 

そう言って彼は微笑みグラスを静かに傾けた。

 

赤いワインが揺れ、その向こうで銀河の光が滲む。

 

彼は一口飲むと、窓の外を見つめたまま口を開いた。

 

「お嬢さん……人生って何だと思う?」

 

突然の問いだった。

 

彼女は少し考える。

 

人生。

 

あまりにも大きな言葉だ。

 

答えなど簡単に出るものではない。

 

だから彼女は正直に答えた。

 

「……分かりません」

 

男性は小さく笑う。

 

「そうじゃろうな」

 

彼は再びワインを口に含む。

 

「わしも若い頃は分からんかった」

 

静かな声だった。

 

長い年月を重ねた者だけが持つ重みがあった。

 

「わしゃな、人生は年輪だと思っとる」

 

「年輪……」

 

「うむ」

 

彼は指先でグラスの縁をなぞる。

 

「巨木には沢山の年輪がある」

 

窓の外を流れる星々を眺めながら続けた。

 

「春が来て育ち、夏に伸び、秋に実り、冬を耐える」

 

「……」

 

「その繰り返しじゃ」

 

彼女は耳を傾ける。

 

「強い風の日もある」

 

男性はゆっくりと語る。

 

「雷に打たれることもある」

 

「病気になることもある」

 

「枝を折られることもある」

 

そして少し笑った。

 

「中には幹を半分失うような傷を負う木もある」

 

彼の視線はどこか遠くへ向いていた。

 

まるで昔を思い出しているようだった。

 

「じゃがな」

 

男性は窓ガラスに映る自分の姿を見る。

 

「木はそこで終わらん」

 

「終わらない?」

 

「傷を抱えたまま生きる」

 

彼は頷く。

 

「曲がりながらも伸びる」

 

「歪みながらも育つ」

 

「傷跡を残しながらも年輪を刻み続ける」

 

銀河鉄道は静かに宇宙を進んでいく。

 

その音だけが二人の間に流れていた。

 

「若い頃のわしはな」

 

男性がぽつりと呟く。

 

「立派な木にならねばならんと思っとった」

 

「立派な木?」

 

「真っ直ぐで、強くて、大きな木じゃ」

 

彼は苦笑する。

 

「じゃが人生はそう都合よくはいかん」

 

ワインを揺らす。

 

「失敗もする」

 

「後悔もする」

 

「失うものもある」

 

「もう二度と会えん人もできる」

 

彼女は黙って聞いていた。

 

その言葉の一つ一つが、胸の奥へ静かに落ちていく。

 

男性は続けた。

 

「だがな、お嬢さん」

 

穏やかな目が彼女を見る。

 

「年輪には良い年も悪い年も刻まれる」

 

「……」

 

「苦しかった年も」

 

「楽しかった年も」

 

「泣いた日も」

 

「笑った日も」

 

「全部じゃ」

 

彼は優しく笑った。

 

「どれか一つ欠けても今の木にはならん」

 

窓の外では巨大な青い惑星がゆっくりと通り過ぎていく。

 

まるで世界そのものが呼吸しているかのようだった。

 

「人間も同じじゃよ」

 

男性は静かに言った。

 

「人生に無駄な年輪など一本もない」

 

その言葉に彼女は思わずグラスを見つめた。

 

失ったもの。

 

傷付いた日々。

 

忘れたい記憶。

 

消えてしまいたかった夜。

 

そんなものまで本当に必要だったのだろうか。

 

その疑問が表情に出ていたのかもしれない。

 

男性は少しだけ笑った。

 

「納得できん顔じゃな」

 

「……少し」

 

「それでいい」

 

彼は即座に答えた。

 

「無理に納得する必要はない」

 

そして窓の外の星を指差す。

 

「ほれ、あの星を見てみい」

 

彼女が視線を向ける。

 

そこには小さな恒星が輝いていた。

 

「星もな」

 

男性は静かに言う。

 

「燃え続けるためには自分を削らねばならん」

 

「……」

 

「光とは燃えた証じゃ」

 

彼は微笑む。

 

「だから傷があることを恥じる必要はない」

 

「苦しんだことを恥じる必要もない」

 

「それもまた、お嬢さんの年輪なんじゃから」

 

彼女は何も言わなかった。

 

ただ窓の向こうにある星々を見つめる。

 

その中にある、自分が目指す一つの星を。

 

そしてほんの少しだけ。

 

本当にほんの少しだけ。

 

その旅の意味が分かった気がした。

 

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