【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
ピンクのワイシャツに淡いグレーのジャケットを羽織る男は、場違いなほど軽やかな空気を纏っていた。
『川村』とは車窓越しに姿を見た程度だということを考えれば、初めましてと挨拶を交わすのが妥当ではあるが、そんなことよりも、なぜこの男がここにいるのか。
『川村』の勤務先ならばいざしらず、ここは警察庁。ましてやこのフロアに一般人が入って来られるはずもない。
「あら。それあの子が作ったお弁当? ふふ、頑張ってるじゃない。失礼するわね」
制止する間もなく伸びてきた手は、卵焼きを摘まみ上げると、己の口に運ぶ。
咄嗟のことに無言で見つめるその先で、一瞬、動きが止まった。
それでも、そのまま咀嚼して飲み下すと「なるほどね」と呟いた。
「瀬谷、千彰さんですね?」
「初めまして~、透子がいつもお世話になってます」
なんのてらいもない返しで柔和に目を細めた男は言葉を続けた。
「それで、川村さん? それとも……狗塚さん、と呼んだほうがいいかしら?」
両方の名を知る者は少ない。それをあっさりと言ってのけた男は「あらやだ、そんなに警戒しなくてもいいんじゃない?」と笑みを深めた。
「……何の話ですか?」
「ふふ。はい」
千彰はポケットから警察手帳を取り出すと、こちらにあっさりと提示して見せた。
警視
千秋 修
──名前が、違う。
識別番号まで書かれたそれは、一見本物との違いは見当たらない。かといって、この男の提示するものを、はいそうですか、と信じられるはずもなかった。
「今更面倒なやりとりはしたくないのよ。それと……これね」
千秋が取り出したのは一枚の書類──辞令だ。
そこには狗塚が今日付で『警察庁警備局特別事案対策課』へと異動することが記されている。
──特別事案対策課。聞いたこともない。
「
「……どういうつもりですか?」
「そのままの意味よ。ああ、でも出世したいなら断ることをおすすめするわ」
庁内の辞令は絶対だ。断れる類いのものではない。けれど、千秋はそんなルールすらも自在に変えられるという顔つきで、そう口にした。
「選択権がある、と?」
「あるわよ。覚悟がないなら──ここまでにして、全部忘れることね」
それまで柔和でしかなかった男の目の奥に、好戦的な感情が過った。
「あ、お茶を入れてきてくれる? 人がいれたもの、飲めないんでしょう?」
そう言い置いた千秋は、狗塚が断ることなどないと確信している顔つきで、ひらりと手を振ると、振り返ることもなく給湯室を出て行った。
◇ ◇ ◇
テレビをつけても、もうどこにもモノレールテロに触れている番組はなくなった。ネットニュースの見出しにも、その文字が躍ることはない。
皆がいつも通りの日常を再開する中で、透子は相変わらず、あの日巻き込まれた人のその後を考えていた。
今更何もできない。そんなことはわかっていた。
頭の中でシミュレーションを繰り返しても、あれがあの時の最善だったと思える。
それなのに、重しを載せたような心は晴れないまま時間が過ぎていく。
透子の心を重くしている要因はもうひとつあった。
川村のことだ。
彼が弁当を食べていないと気づいてからも、透子は変わらず毎朝弁当を作り続けた。
彩りよく。栄養バランス良く。ただ、卵焼きだけはしょっぱくして。
帰ってきた川村には毎日尋ねる。
おいしかったですか、と。
もしかしたら今日はしょっぱかったよ、と言ってくれるかもしれない。
もうそんな期待も霧散しつつあるのに、それでも毎朝作ってしまうのは、なかば意地でもあった。
幾度エレベーターに足を踏み入れたところで、どこにも行けない。
少なくとも、このマンションを出れば、透子に目を配る皆に迷惑をかけることとなる。
それがわかっていたから、透子はただ、エレベーターに足を踏み入れ、部屋に帰ることだけを繰り返していた。
その日も、そんな惰性の延長だった。
いつもならいるはずのコンシェルジュの姿はなく、いっそホッとした。
日に何度となく降りてきては、郵便受けを見る程度で再びエレベーターに乗り込むなんておかしな行動をする住人を、
それすらもどうでもいいと思っていたけれど、見られないということに安堵するあたり、自分はまだ人にどう見られるかということを気にしているみたいだ。
曇り空の今日は、肌寒い。
もう冬が目前に迫っていることを感じながら、ふとエントランスの外に視線をやって、透子は小さく息を呑んだ。
──あの制服……
少女は、マンションの外、ガードレールに腰掛けていた。
スマホを見るでなく、ただ足下を見つめている。
時折困ったように周囲に視線を投げては、再び地面に視線を落とす。
無意識にそちらに足が向く。
──まさか……
自動ドアが開く。一段空気が冷えた気がした。
外気の気配に、頭の片隅で『外に出てはいけない』と警鐘が鳴る。けれど今は、それよりも重要なものが目の前にある。
そっとガラス戸を押す。
冬の気配を孕む冷たい風など気にも留めず、透子はその制服を凝視した。
胸元の蒼いリボン。ほんの少し丈が短めのボレロ風のブレザー。胸ポケットのエンブレムは、よく知る
間違いなく、透子の中学校の制服だった。
──アリス?
透子は少女に歩み寄ると、「あの……」と声を掛ける。
近づいてみれば、少女は中学生にしてはやけに大人びて見えた。
それでも、知らない人にいきなり声を掛けられれば警戒するだろう。なんと尋ねようか考えあぐねていると、少女の方が口を開いた。
「イトウ、先輩? ……イトウ、モネ先輩?」
久方ぶりに聞く名前だ。
透子の鼓動が早く大きくなる。
「イトウ先輩、で、あってます、か?」
「そうだけど。あなたは……」
零れた言葉が小さく震えた。
「よかった! イトウ先輩ですね!」
少女はぱっと目を輝かせると、ガードレールから立ち上がり、透子に強く抱きついた。