【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?-   作:稀葉

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File.XXVI I'm not myself,you see.

 瞼を押し上げると、黄ばんで薄汚れた天井が映った。

 二回ほど瞬きをした桃音は、寝ぼけた頭で考える。

 

 ここはどこなのか。なぜ、こんな場所で眠っていたのか。

 

 頭も体も酷く重い。

 合宿の翌朝より、もっと酷い。

 

 うまく回らない頭で、それでも体を起こそうとして、手首が拘束されていることに気づいた。

 

「……え?」

 

 顔の前に両手を掲げる。手首は手錠で繋がれていた。

 

 刑事の車に乗ったことは覚えている。自宅まで送ってもらう車の中で、今日が卒業式だったことを話したことも。

 

 個包装のラムネを渡されて、やたらと甘ったるいそれを口で溶かして。

 

 ──それから?

 

 そこからの記憶がない。

 

 どうにか体を起こして、室内を見渡す。

 桃音の自室と同じくらいで、広くはない。ベッドは大きいけれど、他には小さな机が壁際にあるだけの部屋。

 

 手錠をされて、知らない部屋にいる。

 それがどんなに危うい状況か、わからないはずがない。

 

 心臓が嫌な音を立てる。

 

 窓はない。時計も、持っていたはずのスマホもなく、時間を確かめることすらできない。

 ベッドを降りて、唯一の出入り口であるドアのノブを回してみても、外から鍵が掛けられていた。

 

 逃げなくちゃ──。

 

 桃音は手錠をはずそうと必死で引っ張った。がちゃがちゃと鳴るばかりで、手首がこすれて赤くなっても、銀の輪が壊れる気配はない。

 

 カチャリと金属音が響き、ドアが開いた。

 凝視すると、入ってきたのは先ほどまで共にいた刑事だった。

 

桃音(モネ)ちゃん。目が覚めたんだね」

 

 桃音は浅い呼吸を繰り返す。

 

 男は、自分を刑事だと言った。

 けれど、それがなんの保障にもならないことは、もう理解していた。

 

「ああ、はずそうとしたの? 赤くなってるよ」

 

 男は近づいてくると、「痛そうだね。可哀想に」と愉しそうに目を細めた。

 距離を取りたくて、じりと下がっても、すぐにベッドボードに背中がぶつかる。

 

「頑張ってもはずれないよ。おもちゃじゃないからね」

 

「な、なんなんですか? 家に帰らせてください」

 

「気が強いのか、それとも馬鹿なのかな。桃音ちゃんはもうおうちに帰れないんだよ」

 

 小さな子どもにでも伝えるように、ゆっくりと囁いた男は、「ああ、制服はいいよね」と桃音の胸元のリボンをそっと撫でた。

 

 嫌悪感に震え出すのを、奥歯を噛みしめて必死で堪える。

 

「女の子はいいよね。男よりいい値がつく」

 

 男の太くざらついた指が頬に触れて、腕で払った。

 

「桃音ちゃんは処女なの? 最近の子は早くにセックスしちゃうからさ。処女の方が高く売れるんだけど……まあ慣れてなさそうだからいっか」

 

 まさかここでこのまま……?

 

 逃げだそうにも、扉は男の背後だ。ベッドを飛び降りた瞬間に掴まるだろう。

 

「ああ、いいね。そういう目が見たかったんだよね」

 

 男は口角を引き上げると、蒼いリボンの端を引いて、蝶結びを解いた。

 

「中身を売るんでもいいんだけどね。それは後からでもできるから」

 

 リボンが引かれて、そのままベッドの上に落とされる。

 

 鍵をかけた音は聞いていない。

 ドアノブを回して、押し開けて、そうして走ればいいだろうか。

 両手が手錠で繋がれたまま、どれほど走れるだろう。

 混乱する頭で、必死に逃げ出す算段をする。

 

 そんな桃音をどう思ったのか、男は「あ、意味わからないかな?」と顔を覗き込んできた。

 そのまま耳元に男の生温かい息がかかる。

 

「内臓を取り出して売るんだよ」

 

「──っ!」

 

 再び腕を強く動かして、男を振り払う。

 

「可愛いなぁ。……あとは、そうだな。人が死ぬのを見たいって人の前でさ、死んでもらうんだよ。やっぱり若い女の子の方がウケるんだよねぇ」

 

 ケタケタと笑う男は、「その後も、桃音ちゃんの死は無駄にしないから安心して」と言葉を切ると、ゆったりと告げた。

 

「どんな生き物もさ、子どもや若い牝のほうがやわらかいんだよ」

 

 腿を撫でられて、桃音の中で何かが弾けた。

 ベッドを降りて、飛びつくようにしてドアを開ける。

 

 部屋の外は薄暗く、病院や学校のような廊下が長く続いていた。

 

 走るのは得意だ。けれど、それは両手が自由だった場合であって、手錠をつけたままではとてもトップスピードでなど走れるはずもない。

 

「おじさん、鬼ごっこするほど若くないんだけどなあ」

 

 すぐに背後から声が迫る。

 

「でも……いいね。売り物としての価値は下がっても、人間を狩るのも愉しそうだよね」

 

 必死で足を動かす。

 

「ほら、ちゃんと逃げて逃げて」

 

 見つけた階段を下る。可能な限り飛び降りる。

 大した距離を走っていないはずなのに、息はあがり足がもつれる。

 

 ガンッ。

 

 強い音が響いて、すぐ横で火花が散った。

 咄嗟に振り返ると、男は拳銃を手にしている。

 

 死ぬ。殺される。

 

 絶望に塗りつぶされながら、桃音は階段を駆け下りた。

 明るいフロアに出ると、大きな扉が見える。

 その向こうには車が行き交っている。

 

──あそこまで逃げれば

 

 前のめりに幾度も転びそうになりながら、飛びつくようにしてドアノブに指が触れた。その瞬間。

 

 銃声と共に焼け付く痛みを感じ、そこで桃音の意識は途絶えた。

 

 

 

◇   ◇   ◇

 

 

 

 瞼を押し上げると、白い天井が映った。

 二回ほど瞬きをした桃音は、寝ぼけた頭で考える。

 

 ──ひどい夢を見た

 

 気持ち悪くて、怖くて、最悪の夢。

 

 ピッ、ピッ、規則正しい電子音が響く。

 消毒薬の匂いに、ああ病院か、と思った。

 

 ──本当に?

 

 なぜ、病院?

 

 わからない。

 

 これもまた夢だろうか。

 目が覚めても覚めても、夢から出られない。

 

 体が動かない。ただ、なんだか全身が痛い。

 

 首を巡らすと、若いスーツ姿の男がベッドの近くに腰を下ろしていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 誰だろうか。

 回らない頭で考える。

 あの刑事ではない。

 

 ……あの、刑事?

 

 酷い記憶が蘇る。

 追いかけてくる。拳銃を持って。あの男が。

 

 桃音は飛び起きようとして、すぐに肩を強く押さえられた。

 

「いやっ、離して! 殺さないでっ!」

 

 男は片手で桃音を押さえつけたまま、ナースコールを鳴らす。

 すぐにやってきた看護師が医師を呼びに行く。

 その間も、桃音は渾身の力でもがいた。

 

「こらっ! 傷が開くから。おとなしく……」

 

「お母さん! 助けてっ!」

 

「──っ!」

 

「お父さんっ! お兄ちゃん!! 助けて! 殺されちゃうっ!!」

 

 精一杯の声を張り上げてもがく。

 男が何か言っているその声も、桃音の耳には届かない。

 やがてやってきた医師に、押さえつけられたまま注射をされて、再び意識がぼんやりとする。

 

 そんなことを幾度か繰り返すうち、二週間を経て、ここが本当に病院であること、とりあえずは安全なことが理解できるようになっていった。

 

「まだろくに食べてないって? 看護師さんが困ってた」

 

 日参している刑事──千秋 修(ちあき おさむ)はそう言ってベッドサイドの椅子をひく。

 

 木目調の壁。大きなテレビ。ソファーまで置いてある特別室に移されたのは、先週のことだ。

 千秋は桃音の体調を気遣いながら、あの日起きた出来事を少しずつ確かめてはメモを取っていた。

 同時に、千秋は不思議なことを口にした。

 

 ──ここは伊藤さんが生まれた世界とは、違う世界なんだ、と。

 

 そんなお伽話みたいな話が信じられるはずがない。

 千秋は、それはそうだよね、と苦笑して、桃音にパソコンを貸してくれた。

 

 ネットで調べても、桃音の知る地名はひとつも出てこない。

 有名人も、偉人も、似たような名前や偉業はあっても、少しずつ違う。

 千秋に借りた携帯電話──まだスマートフォンはないらしい──で覚えている限りの電話番号にかけてみても、繋がるのは知らない相手ばかりだった。

 

 自分の頭がおかしくなってしまったんだろうか。

 それとも、これもまた夢で、私は夢から出られなくなっているんだろうか。

 

 現実感はない。でも、痛みは紛れもない体感だった。

 左の二の腕と、右の腿。その二カ所を拳銃で撃たれたらしい。

 命が危なかった、と言われても実感が湧くはずもない。なにしろ現実だと思えないのだから。

 

 ノックの音がして、首を巡らす。

 入ってきたのは、禿げ上がった頭の男だった。

 

「……っ! お疲れ様です!」

 

 だらりとした印象のある千秋が、すかさず椅子から立ち上がり、男に向かってピシリと礼をする。

 普段は気の抜けた大学生くらいにしか見えないのに、こんなお辞儀もできるのかと内心ひっそり驚く。

 

「この子の名前が決まった。書類が整ったから病院の手続きを進めろ」

 

「名前は、まだこれからじゃ……」

 

「セヤ トウコだ。瀬谷はお前の潜入用のあれと同じだ。透明の透に、子どもの子。本来いないはずの人間だからな。ちょうど……」

 

「課長っ!」

 

 千秋が声を上げて遮った。

 

 名前が決まった? 私の?

 

「あのっ、私、名前はあります。伊藤桃音って……」

 

 口を挟むと、課長と呼ばれた恰幅のいい男は目を丸くする。そうしてジロリと千秋を睨むと「まだ説明してないのか」と低く唸るように尋ねた。

 

「お嬢さんの元の名はもう使えん。また危ない目に遭いたくないだろう?」

 

 詳しくはこいつに聞け、と男はさっさと背を向けた。

 

 千秋は再びピシリと腰を折って礼をした。

 けれど、完全に扉が閉ざされた瞬間、ひどく憎々しい声音で「くそジジイが」と呟いたのが、桃音の耳にはっきりと届いた。

 

 

 この日、『伊藤桃音』は消され、『瀬谷透子』としての日々が始まった。

 

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