【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
瞼を押し上げると、黄ばんで薄汚れた天井が映った。
二回ほど瞬きをした桃音は、寝ぼけた頭で考える。
ここはどこなのか。なぜ、こんな場所で眠っていたのか。
頭も体も酷く重い。
合宿の翌朝より、もっと酷い。
うまく回らない頭で、それでも体を起こそうとして、手首が拘束されていることに気づいた。
「……え?」
顔の前に両手を掲げる。手首は手錠で繋がれていた。
刑事の車に乗ったことは覚えている。自宅まで送ってもらう車の中で、今日が卒業式だったことを話したことも。
個包装のラムネを渡されて、やたらと甘ったるいそれを口で溶かして。
──それから?
そこからの記憶がない。
どうにか体を起こして、室内を見渡す。
桃音の自室と同じくらいで、広くはない。ベッドは大きいけれど、他には小さな机が壁際にあるだけの部屋。
手錠をされて、知らない部屋にいる。
それがどんなに危うい状況か、わからないはずがない。
心臓が嫌な音を立てる。
窓はない。時計も、持っていたはずのスマホもなく、時間を確かめることすらできない。
ベッドを降りて、唯一の出入り口であるドアのノブを回してみても、外から鍵が掛けられていた。
逃げなくちゃ──。
桃音は手錠をはずそうと必死で引っ張った。がちゃがちゃと鳴るばかりで、手首がこすれて赤くなっても、銀の輪が壊れる気配はない。
カチャリと金属音が響き、ドアが開いた。
凝視すると、入ってきたのは先ほどまで共にいた刑事だった。
「
桃音は浅い呼吸を繰り返す。
男は、自分を刑事だと言った。
けれど、それがなんの保障にもならないことは、もう理解していた。
「ああ、はずそうとしたの? 赤くなってるよ」
男は近づいてくると、「痛そうだね。可哀想に」と愉しそうに目を細めた。
距離を取りたくて、じりと下がっても、すぐにベッドボードに背中がぶつかる。
「頑張ってもはずれないよ。おもちゃじゃないからね」
「な、なんなんですか? 家に帰らせてください」
「気が強いのか、それとも馬鹿なのかな。桃音ちゃんはもうおうちに帰れないんだよ」
小さな子どもにでも伝えるように、ゆっくりと囁いた男は、「ああ、制服はいいよね」と桃音の胸元のリボンをそっと撫でた。
嫌悪感に震え出すのを、奥歯を噛みしめて必死で堪える。
「女の子はいいよね。男よりいい値がつく」
男の太くざらついた指が頬に触れて、腕で払った。
「桃音ちゃんは処女なの? 最近の子は早くにセックスしちゃうからさ。処女の方が高く売れるんだけど……まあ慣れてなさそうだからいっか」
まさかここでこのまま……?
逃げだそうにも、扉は男の背後だ。ベッドを飛び降りた瞬間に掴まるだろう。
「ああ、いいね。そういう目が見たかったんだよね」
男は口角を引き上げると、蒼いリボンの端を引いて、蝶結びを解いた。
「中身を売るんでもいいんだけどね。それは後からでもできるから」
リボンが引かれて、そのままベッドの上に落とされる。
鍵をかけた音は聞いていない。
ドアノブを回して、押し開けて、そうして走ればいいだろうか。
両手が手錠で繋がれたまま、どれほど走れるだろう。
混乱する頭で、必死に逃げ出す算段をする。
そんな桃音をどう思ったのか、男は「あ、意味わからないかな?」と顔を覗き込んできた。
そのまま耳元に男の生温かい息がかかる。
「内臓を取り出して売るんだよ」
「──っ!」
再び腕を強く動かして、男を振り払う。
「可愛いなぁ。……あとは、そうだな。人が死ぬのを見たいって人の前でさ、死んでもらうんだよ。やっぱり若い女の子の方がウケるんだよねぇ」
ケタケタと笑う男は、「その後も、桃音ちゃんの死は無駄にしないから安心して」と言葉を切ると、ゆったりと告げた。
「どんな生き物もさ、子どもや若い牝のほうがやわらかいんだよ」
腿を撫でられて、桃音の中で何かが弾けた。
ベッドを降りて、飛びつくようにしてドアを開ける。
部屋の外は薄暗く、病院や学校のような廊下が長く続いていた。
走るのは得意だ。けれど、それは両手が自由だった場合であって、手錠をつけたままではとてもトップスピードでなど走れるはずもない。
「おじさん、鬼ごっこするほど若くないんだけどなあ」
すぐに背後から声が迫る。
「でも……いいね。売り物としての価値は下がっても、人間を狩るのも愉しそうだよね」
必死で足を動かす。
「ほら、ちゃんと逃げて逃げて」
見つけた階段を下る。可能な限り飛び降りる。
大した距離を走っていないはずなのに、息はあがり足がもつれる。
ガンッ。
強い音が響いて、すぐ横で火花が散った。
咄嗟に振り返ると、男は拳銃を手にしている。
死ぬ。殺される。
絶望に塗りつぶされながら、桃音は階段を駆け下りた。
明るいフロアに出ると、大きな扉が見える。
その向こうには車が行き交っている。
──あそこまで逃げれば
前のめりに幾度も転びそうになりながら、飛びつくようにしてドアノブに指が触れた。その瞬間。
銃声と共に焼け付く痛みを感じ、そこで桃音の意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
瞼を押し上げると、白い天井が映った。
二回ほど瞬きをした桃音は、寝ぼけた頭で考える。
──ひどい夢を見た
気持ち悪くて、怖くて、最悪の夢。
ピッ、ピッ、規則正しい電子音が響く。
消毒薬の匂いに、ああ病院か、と思った。
──本当に?
なぜ、病院?
わからない。
これもまた夢だろうか。
目が覚めても覚めても、夢から出られない。
体が動かない。ただ、なんだか全身が痛い。
首を巡らすと、若いスーツ姿の男がベッドの近くに腰を下ろしていた。
「大丈夫ですか?」
誰だろうか。
回らない頭で考える。
あの刑事ではない。
……あの、刑事?
酷い記憶が蘇る。
追いかけてくる。拳銃を持って。あの男が。
桃音は飛び起きようとして、すぐに肩を強く押さえられた。
「いやっ、離して! 殺さないでっ!」
男は片手で桃音を押さえつけたまま、ナースコールを鳴らす。
すぐにやってきた看護師が医師を呼びに行く。
その間も、桃音は渾身の力でもがいた。
「こらっ! 傷が開くから。おとなしく……」
「お母さん! 助けてっ!」
「──っ!」
「お父さんっ! お兄ちゃん!! 助けて! 殺されちゃうっ!!」
精一杯の声を張り上げてもがく。
男が何か言っているその声も、桃音の耳には届かない。
やがてやってきた医師に、押さえつけられたまま注射をされて、再び意識がぼんやりとする。
そんなことを幾度か繰り返すうち、二週間を経て、ここが本当に病院であること、とりあえずは安全なことが理解できるようになっていった。
「まだろくに食べてないって? 看護師さんが困ってた」
日参している刑事──
木目調の壁。大きなテレビ。ソファーまで置いてある特別室に移されたのは、先週のことだ。
千秋は桃音の体調を気遣いながら、あの日起きた出来事を少しずつ確かめてはメモを取っていた。
同時に、千秋は不思議なことを口にした。
──ここは伊藤さんが生まれた世界とは、違う世界なんだ、と。
そんなお伽話みたいな話が信じられるはずがない。
千秋は、それはそうだよね、と苦笑して、桃音にパソコンを貸してくれた。
ネットで調べても、桃音の知る地名はひとつも出てこない。
有名人も、偉人も、似たような名前や偉業はあっても、少しずつ違う。
千秋に借りた携帯電話──まだスマートフォンはないらしい──で覚えている限りの電話番号にかけてみても、繋がるのは知らない相手ばかりだった。
自分の頭がおかしくなってしまったんだろうか。
それとも、これもまた夢で、私は夢から出られなくなっているんだろうか。
現実感はない。でも、痛みは紛れもない体感だった。
左の二の腕と、右の腿。その二カ所を拳銃で撃たれたらしい。
命が危なかった、と言われても実感が湧くはずもない。なにしろ現実だと思えないのだから。
ノックの音がして、首を巡らす。
入ってきたのは、禿げ上がった頭の男だった。
「……っ! お疲れ様です!」
だらりとした印象のある千秋が、すかさず椅子から立ち上がり、男に向かってピシリと礼をする。
普段は気の抜けた大学生くらいにしか見えないのに、こんなお辞儀もできるのかと内心ひっそり驚く。
「この子の名前が決まった。書類が整ったから病院の手続きを進めろ」
「名前は、まだこれからじゃ……」
「セヤ トウコだ。瀬谷はお前の潜入用のあれと同じだ。透明の透に、子どもの子。本来いないはずの人間だからな。ちょうど……」
「課長っ!」
千秋が声を上げて遮った。
名前が決まった? 私の?
「あのっ、私、名前はあります。伊藤桃音って……」
口を挟むと、課長と呼ばれた恰幅のいい男は目を丸くする。そうしてジロリと千秋を睨むと「まだ説明してないのか」と低く唸るように尋ねた。
「お嬢さんの元の名はもう使えん。また危ない目に遭いたくないだろう?」
詳しくはこいつに聞け、と男はさっさと背を向けた。
千秋は再びピシリと腰を折って礼をした。
けれど、完全に扉が閉ざされた瞬間、ひどく憎々しい声音で「くそジジイが」と呟いたのが、桃音の耳にはっきりと届いた。
この日、『伊藤桃音』は消され、『瀬谷透子』としての日々が始まった。