【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
「さて。何から話そうかしら」
会議室の扉を開けると、室内の続き間となっている奥から「こっちよ」と声が掛かった。
通常は施錠され、外部からなど特別な者が捜査会議に参加する時くらいしか使用されない応接スペース。その利用を許されているということひとつとっても、瀬谷千彰──千秋修が警察内部の人間であるという点は信じざるを得なかった。
テーブルの向かいでソファーにゆったりと腰掛けた男は、組んだ足を解いて軽く身を乗り出す。
「『不思議の国のアリス』、知ってるでしょう?」
あまりに場にそぐわない単語に、一瞬理解が遅れる。
「つまりは──あれなのよね」
「……どういう意味ですか?」
「時々ね、迷い込むのよ。……こちらの世界に」
何かの謎かけなのか。それともからかわれているのか。
真意を探してじっと見つめると、千秋は口角を引き上げた。
「これを信じてもらわなきゃ、始まらないの」
ま、信じられない気持ちは分かるわ、私もそうだったから、と湯飲みに口をつけた。
「……彼女が、そうだとでも?」
瀬谷透子は普通の女だ。普通の──人間だ。謎は多いが、けして特殊な存在ではない。
けれど、仮にも公安の肩書きを持つ男がこんな場面でくだらない冗談を言うとも思えない。
真意を探るように向けた視線の先で「ええ、そうよ」と千秋はあっさりと頷いた。
「日本だけじゃないの。『
「……出入り口でもあるんですか?」
「あればよかったんだけどね。それなら穴を塞げばいいだけだもの。でも、共通性すらないわ。透子はエレベーターに乗って降りたら、こちらの世界だったそうよ」
「エレベーター……」
「観覧車に乗ったとか、ベッドから落ちた、トンネルを潜った、……目が覚めたらこちらに居た、なんて例もあったわね。とにかく日常の先が、突然異世界に繋がるの」
すんなり信じられるはずはない。
それでも、もしも本当にそんな存在がいるのだとしたら──公安が動くのも当然だ。
国どころか世界が違えば、常識そのものが違う。危険極まりない。監視下に置き、害なす行いをしないよう制御しつづける必要がある。
「瀬谷透子の自宅を監視していたのも……それを彼女が受け入れていたのも、あなただったからですね」
透子の自宅は多くの盗聴器やカメラが設置されていた。
けれど、犯罪者が一番望むような場所、風呂やトイレ、ベッドなどが映るようには設置されていなかった。しかも、彼女がそれを知った上で受け入れていたのではと思える節があるところに疑問を感じていた。
「……理解が早いわね」
「もうひとつ。先日のモノレールテロを止めた
あの日、彼女が目の前の男と行動を共にしていたことは間違いない。
そのうえで、狗塚の目を欺き、行動を偽装する必要があったのは──。
手首の火傷。
モノレールテロでの命の消失による消沈。
断片が、ひとつに収束していく。
「正解。あれはあの子」
満足げな笑みを浮かべた男は、「ちなみに、あの子が脱兎。
意外な事実に、狗塚は軽く混乱した。
ホワイトハッカーだと思われていた脱兎が、犯罪に手を染めだしてからは三月ウサギと名乗りだした。少なくとも、捜査はその前提で進めていた。
彼女が内部の人間だというのなら、自分たちがしていた捜査そのものが全て的外れだったということになる。
そのうえ、その『的外れ』は今日まで是正されなかった。
普通なら、明確に捜査対象からはずしていい人間を追い続けるような無駄を、上層部がさせるはずもない。
「……脱兎は、三月ウサギなのでは? 彼女も潜入捜査を?」
「まさか。あの子は組織の人間じゃないわ」
千秋は、狗塚の混乱を見透かすように目を細めると「本当は、そこ、脱兎と三月ウサギが別物だって見極めるのが合否ラインだったのよね」と言って、湯飲みの茶を飲み干した。
「合否ライン? ──試して、いたんですか?」
「そ。──うちに無能はいらないから」
千秋の纏う空気が変わる。
軽薄を脱ぎ捨てた気配に、狗塚はつい佇まいを正した。
「でも、あの日の偽装を切り崩し、卒業アルバムに目を付け、高村に逮捕状請求をちらつかせて揺さぶりまでかけた。……充分すぎるわ」
「……それで、辞令、ですか」
「ええ。念のため言っておくけど、あの子に近寄ったからじゃないわよ? 『
狗塚は思わず息を詰めた。
『
宗教などと呼ぶのもおぞましい数々の行いに、証拠を集め、
あの潜入捜査での出来事は、今でも時折夢に見る。
悪夢としかいいようのない場所だった。
冷たい汗の滲むのを感じながら、狗塚は掌を握りしめた。
「
「──っ」
「それと、モノレールテロ、あれもアリスの仕業というのが透子の見立てよ」
透子は、狗塚を試していた男の側にいた。ならば──。
「……透子さんは、どこまで知っているんですか?」
「あの子が知っていることは少ないわよ。自分の身の上と……あとは、『糸井陽一』のことを少しだけ」
『糸井陽一』。それは『
「なぜ、その名を? まさか彼女もあの団体に……」
「あの子は、あそこに行ったこともなければ、何をしていた場所なのかも知らないの。……あとで透子に訊いてみるといいわ。ついでに自己紹介でもしてあげてちょうだい」
『狗塚』であることを明かせと暗に告げた男は、そこから先は好きにすればいいわ、とどこか面白がるように目を細めた。
「とりあえず、辞令を受けるなら、あの子のお守りだけしてればいいわけじゃないってことは伝わったかしら。どうする? 今なら全部なかったことにできるわよ」
あの宗教団体を運営していたような輩を、野放しにできるはずがない。
「──もちろん、お受けします」
ふいに、胸ポケットのスマートフォンが震えた。
同時に千秋のスマートフォンからも、浮かれたメロディーが流れ出す。
互いに目を合わせてから、通話ボタンを押す。
「瀬谷透子が何者かに拉致されました。都内の信号網も落ちて追跡が振り切られましたっ」
電話の向こうから、東の動揺した声が響いた。