【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
音楽が、流れてる。
ゆるりと意識が浮上していく。
ああ、ハナが大好きって言ってた曲だ。アイドルグループの……。
──え?
ぱちりと目を開ける。
蛍光灯に照らされた室内は明るい。
音はドアの外から聞こえていた。
のろのろと体を起こすと、手首の火傷がじんわりと痛んだ。
木目調のナチュラルテイストでまとめられた部屋だ。
ベッドが部屋の三分の一を占め、勉強机や小さなドレッサーが置かれている。
「……どこ?」
淡いミントグリーンのカーテンの向こうは真っ暗だ。
駆け布団からコロリと落ちたものに目をやれば、うさぎのぬいぐるみだ。
大きな垂れ耳が可愛い薄茶のうさぎ。豚柄のリボンが特徴的なキャラクター。小学生の頃に流行ったものだ。
ひと抱えもある大きなそれは、兄がプレゼントしてくれたものによく似ていたけれど、あれはもう汚れてくたびれていたはず。
トクントクンと心臓が耳元で鳴っている気がした。
この世界にはないはずのキャラクター。
この世界では聴けないはずのメロディー。
でも、帰ってきたわけではない。知らない部屋だ。
──ここは、どこ?
首を巡らすとベッドボードにスマホが置かれていた。透子のものだ。
時刻は20時17分。そして──圏外。
心臓の音が早くなる。
あの日も、そうだった。知らない景色の中で、スマホは圏外を顕していた。
アリスは基本帰れないはずだ。アリスが消えた例がないからだと。そう、聞いていた
けれど千彰はこうも言っていた。「厳密に言えば、確かめようがない」と。
それはそうだろう。なにしろ世界が違うのだ。見失ったアリスが違う世界に行ったかなんて、確かめようがない。
ふいにがちゃりとドアが開いた。
途端に、聞こえていた音楽の音が大きくなる。やはり間違いなく、あのアイドルグループの曲だ。
「あ、起きてる。おはよー、モネちゃん。っていってももう夜だけどね」
同じ年か、少し年上くらいの男が、かつての名前を気安く呼ぶ。
明るい茶色の髪。青い長袖シャツにスウェットを履いた男は、少しも害意を感じさせずに微笑んだ。
そういえば、あの子。伊藤桃音先輩、そう呼んできた女の子はどうしたんだろう。
そうだ、あの子に手を引かれて、待ってと足を止めた途端背後から腕が回ってきた。
何かを嗅がされて──。
「……あの子は? 制服の、あの子」
記憶が確かなら、目の前の男は透子を攫った相手だろう。そう考えて、慎重に口を開いた。
「アハ、最初がそれ? 自分のこと心配したら?」
男は鼻白んだように言うと、こちらにやって来てぽすんとベッドの端に腰掛けた。
少しだけ身構えて様子を窺う。
腕も足も縛られてはいない。それでも、いつかのように駆け出して、相手が拳銃でも持っていたら目も当てられない。
「ま、ここにいる限りキミは安全だけどさ」
男はベッドの下に転がったぬいぐるみを拾い上げると、顔の前に掲げるようにこちらに向けてくる。
「だいたいここはさぁ、あなたはだあれ、って訊くところじゃない?」
あなたは誰、どころか訊きたいことなら山ほどある。
どうして自分がここにいるのか。
どうしてこの世界にないはずの音楽が流れ、あのうさぎのぬいぐるみがあるのか。
そして──どうして桃音の名を知っているのか。
透子は自分を落ち着かせるように小さく息を吐いて、まずは相手があげた問いを口にした。
「……あなたは、誰?」
「それって、ボクの名前をきいてるのかな。それともボクが何者か知りたい?」
訊かせておいて、混ぜっ返すような物言いにイラっとする。その反応すらも面白がるように、男は笑みを深めた。
「桃音ちゃんにわかりやすく言うならぁ……三月ウサギ」
「──っ!」
「アハハ、桃音ちゃんわかりやすっ! 顔に出すぎ」
ケタケタと笑った男は、手にしたぬいぐるみを透子に押しつけるように手渡した。
手首が痛む。本当なら夕飯後の鎮痛剤を飲み終えているはずの時間だ。
けれど、今はそれどころではなかった。
「あなたが、ここに連れてきたの? さっきの子は? どういうつもり?」
「落ち付きなよ。ここに連れてきたのはボクといえばボクだけど……まあ、ボクの人形? 制服のあの子もね」
いちいち煙に巻くような答え方は、まるで何かを隠しているように感じてしまう。
ただわかったのは、制服の彼女もどうやらグルだったらしい、ということだ。
心配して、損した。けれど、感じるのは怒りではなく落胆だ。
アリスなんていないほうがいい。誰も、知らない世界なんて行かないで済む方がいいに決まっている。
そう思うのに、あの少女がアリスでないことに、透子はがっかりしていた。
「ねえねえ、そんなことよりさ。こないだの電車ごっこ、いつから予備電源使うつもりだったの? 最初からそういう作戦だったの?」
でんしゃ……ごっこ?
「ボクとしてはさ、もっとこう、がーってお互いにやりあってさ、ビーチフラッグ? ほら、砂浜で走って旗を取り合うやつ。あんな感じで、ガッと走って取り合うようなのをしたかったんだよね」
男はゲームを語るように、さも愉しそうに話す。だから、何の話なのかすぐには理解が追いつかなかった。
「どうせならさ、レールから飛び出して、空へと走り出すのを見たかったんだよ。ぶつけるより面白そうじゃん? まあ飛んではいけないから地面に落ちただろうけど」
「そ、れは……モノレールのことを、言っているの?」
「他に何かあった? あ、もちろんあれはあれで面白かったよ? でも、そうだな……桃音ちゃんとならもっといろいろして遊びたいな」
「あそび……?」
あれを遊びだという男が、欠片も理解できない。
透子は布団の端を握りしめた。
人が、死んだのに。生まれてくるはずだった赤ん坊の命が奪われたのに。
しかも、アリスがこの世界に来たせいで。
「今日はさ、信号消してみたんだよね。でもちょーっと地味でつまらなかったからさ。どうせなら……」
「ふざけないでっ!」
アリスがいなければ。この世界に来なければ。この世界に干渉しなければ。
生きられたはずの命だ。
もうずっと考えていたことだ。
アリスが居ることで、狂い出す運命がある。
出会うはずの人が出会えなくなる。結ばれるはずの人が結ばれなくなる。
命を──亡くすはめになる。
絶対に避けなければいけないことだ。そう思いながら、ずっと息を潜めるように過ごしてきた。
それなのに。
「あれのせいで人が死んだんだよっ!?」
「え? なんで泣いてるの?」
言われて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
悔しさや怒りや悲しさや、いろんな感情が溢れてくる。
ぽかんと口を開けた三月ウサギは、不思議そうに小首を傾げた。
「桃音ちゃん、泣き顔も可愛いね」
のんきに笑う男に何か言ってやりたい。
それなのに、唇が震えるばかりで言葉が出てこない。
肩で息をする透子を前に、三月ウサギは「あ、桃音ちゃんは知らないのか」と呟いた。
「だーいじょぶ。泣かなくていいんだよ。だってさ、ここは現実じゃない。この世界で現実なのはボクたちだけなんだから」
男は透子の頭を撫でると、頬の涙を指先で拭っていく。
こんな男に泣き顔を見られるのが悔しかった。そしてなにより、その掌がひどく優しくて温かいことが、どうしようもなく悔しかった。